最悪で、最愛〜失恋から始まる本当の恋〜

一宮梨華

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第4話

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「よかったじゃん! 連絡先聞けて」 
「うん、まあね……」

その日の仕事終わり。駅前の喧騒から少し離れた路地裏にある、いつもの居酒屋の暖簾をくぐった。

店内はすでに程よく賑わい、醤油の焦げる香ばしい匂いと、隣の席から漏れる朗らかな笑い声が心地よく耳に届く。

菜穂と一ノ瀬と三人で囲むテーブルには、薄暗い照明が温かく落ちていた。菜穂はもちろんビールで、一ノ瀬は相変わらずのコーラ。互いのグラスが軽快な音を立ててぶつかり合ったのは、つい一時間前のことだ。

どこか地に足がつかないような、ふわふわと浮ついた私を見かねた菜穂が、にやにやと口元を緩めながら「ちょっと飲み行こうよ」と誘ってくれたのだ。

「つまり、王子は凛のこと好きだったってこと? 凛、やるじゃん!」  

そう言って、菜穂が肘で小突きながらからかってくる。その度に、私の心臓は不規則なリズムで跳ねた。でもその期待に満ちた言葉を打ち消すように、私は慌てて両手を横に振った。 

「いやいや、そんなことないってば。気になってたとは言われたけど、好きとまでは言われてないし……」

胸の奥で確かに灯り始めていた小さな炎が、不安の影に覆われ、瞬く間に揺らぎ始める。

それに連絡先を交換したからって、本当に彼から連絡がくるという確証もない。もしかしたら、誰にでも気安く連絡先を教えるような人なのかもしれない。

病院関係者の女性に、次々と手を出している、なんて最悪の可能性までが頭をよぎり、さっきまで膨らんでいた淡い期待の泡が、音もなく弾けて消えていくような気がした。

「何、浮かない顔してるのよ。凛の笑顔に惚れたってことでしょ。自信持ちなよ。パーティーの時だって、飛んできてくれたじゃん!」  

菜穂のまっすぐな言葉に、凍りつきそうだった胸の奥が少しだけ温かくなる。 

「それは確かにそうなんだけど……」

あの時、私だからハンカチを貸してくれた? 外科外来の件だって、わざとだって言ってたし。

「結婚式には呼んでよ。余興は任せて!」 
「ちょっと、気が早いって!」

思わず突っ込みつつも、菜穂の陽気な言葉に、心のどこかで浮き足立っている自分がいた。

「ねぇ、一ノ瀬はどう思う?」

私の隣に座る一ノ瀬に、菜穂が身を乗り出すようにして尋ねる。しかし、彼は普段以上に険しい表情をしていて、口を開こうとしない。

その沈黙が、じんわりと居酒屋の賑やかさを吸い取っていくように感じられた。  

あれ、どうしちゃったんだろう? 

私が怪訝に思っていると、一ノ瀬が喉の奥から絞り出すように重いため息と同時に発した。

「水を差すようで悪いけど、あの人が女性といるところを見た」

その一言に「え?」と、箸を伸ばしかけていた私の手が、宙でぴたりと止まる。

菜穂もスプーンを咥えたまま、信じられないといった顔でポカンとしている。テーブルの上の湯気が、一瞬にして冷気を帯びたように感じられた。

「それって、彼女がいるってこと?」
「それとも、奥さんとか?」  

遠い宙を見つめる一ノ瀬に、菜穂と二人で矢継ぎ早に質問を浴びせる。心臓がドクリと不穏な音を立て、胸の奥がざわつき始めた。

「さぁ、そこまでは。ただ先月、銀座を二人で腕を組んで歩いてるのを見かけた。いつ言おうかと思ってたけど、お前が本気になりそうだったから一応忠告まで」

一ノ瀬の忠告に、私の背中をサーっと冷たい汗が伝い落ちる。胃のあたりがキュッと締め付けられるような感覚に襲われた。

もしかしてこの前のパーティーの時、一ノ瀬がじっと木崎さんのことを見ていたのはそのせいだったの?

彼が向けたあの意味ありげな視線の理由が、今ストンと腑に落ちた。

「……そうなんだ。教えてくれてありがとう」 

グラスの縁に視線を落としたまま、私はか細い声で礼を言った。その声はまるで砂に擦れるように細かく、二人に届いているかどうか怪しいくらいに小さかった。

そんな私に、菜穂は心底同情するような目を向けていて、一ノ瀬はどこかばつが悪そうに、視線を逸らしている。嫌な役回りをさせてしまった彼に、なんだか申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

「二人とも、気にしないで。ほら、私まだ無傷だしさ」

作り笑いを浮かべ、わざと明るい声を出して暗い空気を一掃しようとする。唇の端を無理に引き上げ、心の奥でチクリと痛むのを押し殺した。

何が本当かはわからないけれど、とりあえず浮かれたり、都合のいい解釈をするのはやめよう。これ以上、二人を心配させたくない。

「それもそうだね。まさか王子が不倫ヤローだとは。ほんと、最低」

まだそうと決まったわけじゃないのに、菜穂の顔には既に怒りと、獲物を狙う獣のような殺気が宿っている。その表情に、ほんの少しだけ気持ちが軽くなった。

「一ノ瀬、なんかごめんね。もしかして好き勝手盛り上がってる私たちを見て、笑ってたり……?」  

私が遠慮がちに尋ねると、彼はふっと息を吐いてから、まっすぐな瞳で私を見た。 

「笑うわけないだろ。傷つけられたら嫌だと思ってただけ」 

その不器用な優しさに、じわりと目頭が熱くなった。

いつも何を考えているのか分かりづらいし、口も悪いけれど、こういう時、彼は決して茶化したり、馬鹿にしたりしない。ただ、静かに寄り添ってくれる。

「とりあえず、今日は飲んで、食べて忘れよう!」
「そうだね、明日休みだし。凛、うち泊まりくる? 一ノ瀬もこの際いいよ!」

いやいや、一ノ瀬はダメでしょと笑いながら、再びグラスを掲げて乾杯する。菜穂のこういうあっけらかんとしたところに、いつも救われる。うじうじと悩み続ける私とは真逆で、見習いたいとさえ思う。

「次、次! 次の恋だよ、凛!」 

そんな騒がしい声が居酒屋の喧騒に溶けていく。私たちは閉店間際まで居座り、グラスを傾け続けた。


翌朝、重い瞼をこじ開け、ふらつく足取りでリビングへ向かう。昨夜、菜穂の家で飲みすぎたせいで、頭の芯がずきずきと痛んだ。

スマホを充電器から外し、何気なく画面を覗き込むと、通知のアイコンが目に飛び込んできて心臓が跳ね上がった。木崎さんからメッセージだ。

しかも昨夜きていたようで、飲んでいたせいか全然気づいていなかった。

「今日はありがとうございました。今度ゆっくりお話がしたいです。近いうちにお食事でもいかがですか?」

指先が震え、何度もメッセージを読み返した。文面は至って丁寧で、彼らしい几帳面さが滲み出ている。

だが銀座で女性といたという一ノ瀬の言葉が脳裏をよぎり、思い出したように胸の奥がチクリと痛んだ。

どうしよう。やっぱり断るべき?

でも昨日の話はどれも憶測に過ぎない。人づてに聞いた噂話のようなものを信じるのも違う気がする。ここは正直に聞いてみよう。そう思い、返信の文字をタップする。

「お誘いいただきありがとうございます。特定の大切な人がいらっしゃらなければ、ご一緒したいと思っています」

意を決し、送信ボタンを押す。すると一分もしないうちに返事が返って来た。

「返信ありがとうございます。恋人や特定の人はいませんのでご安心ください。では、明日はいかがでしょう?」

その文章を読んだ瞬間、安堵が全身を駆け巡った。

「恋人いない! やった!」

喜びの叫び声が、部屋中に響き渡る。心臓がまるで早鐘を打つかのように、激しく鳴り始めた。

あの銀座の件も、きっとただの友人だったのだろう。疑ってしまったことに、少しだけ申し訳なく思った。それなら、この誘いを断る理由はどこにもない。

指が勝手に動き、吸い寄せられるように返信の文字を打ち込む。震える指先がメッセージの文字を踊らせる。

「ぜひ、ご一緒させてください!」

感嘆符をつけ、精一杯の喜びを表現した。送信ボタンを押すと、じんわりと手のひらに汗が滲む。

期待と不安が複雑に入り混じり、ジェットコースターのように感情が揺さぶられる。それでも今は純粋な「楽しみ」が優っていた。

「何着て行こうかな。あー、緊張する!」

身体中に喜びのエネルギーが満ち、その場で手足をバタバタさせる。部屋の隅にある姿見に駆け寄り、手持ちの服を想像で合わせてみた。

どんな服がいいだろう? 彼に「素敵だね」って思われたい。

頭の中は早くも明日のデートのことでいっぱいだった。まるで夢の中にいるような、ふわふわとした幸福感に包まれていた。

◇◇◇

翌日、木崎さんから改めて、待ち合わせ場所や時間の連絡があった。

約束の店は、都心にありながら隠れ家のような雰囲気を持つ、おしゃれなイタリアンレストランだった。彼が選んでくれたということに、胸が高鳴る。

デート当日。朝から何を着ていくか、クローゼットの前で悩んでばかりいた。新しい服を買う時間もなかったけれど、せめて手持ちの服で最高のコーディネートを見つけたい。鏡の前で何度も着替え、結局選んだのは、オフホワイトの柔らかなニットに、裾がふわりと広がるネイビーのフレアスカート。

足元は歩きやすくて上品に見えるローヒールのパンプスを選んだ。派手すぎず、でも地味すぎないように。彼の隣に立っても、違和感なく溶け込めるような、そんな自分でありたかった。

メイクもいつもより時間をかけた。少しだけ目元を華やかにリップは肌なじみの良いコーラルピンクを選んで、血色感をプラスする。鏡に映る自分を見て「うん、悪くない」と小さくうなずいた。
 
待ち合わせの時刻より少し早く店に着くと、既に木崎さんは店の前で待っていた。ネイビーのジャケットをスマートに着こなし、いつもの姿とはまた違った、柔らかな雰囲気をまとっている。

「すみません、お待たせしました」
「いえ、僕も今着いたところです」

彼と目が合った瞬間、胸の奥で小さな蕾が一斉に花開くようなまばゆい幸福感がじんわりと広がるのを感じた。

緊張するけど、今日は思いっきり楽しもう。もう二度とこんなチャンスないかもしれないのだから。

「入りましょうか」
「はい」

木崎さんが差し出してくれた手に軽く促されるように、二人でお店のドアをくぐった。

テーブルに並べられたのは、色彩豊かな前菜の盛り合わせだった。契約農家直送という色鮮やかな野菜スティックに、ふんわりと泡立てられたパテ、そして薄切りにされた生ハム。どれも繊細な盛り付けで、目にも楽しい。 

「素敵なお店ですね! お料理もすごく美味しそうです」

私が感嘆の声を上げると、木崎さんは少しはにかんだように笑った。

「そう言っていただけると嬉しいです。冴島さんは、イタリアンはお好きですか?」 
「はい、大好きです」

他愛ない会話から二人の食事は始まった。

木崎さんは医療業界の専門的な話からプライベートな趣味まで、幅広い話題に精通していて、彼の話術にあっという間に引き込まれた。

「冴島さんは普段、休日は何をされているんですか?」

彼はフォークで色鮮やかなカポナータを取り分けながら、穏やかな声で尋ねる。ナスとパプリカがトマトソースと絡み合い、口の中で溶ける。爽やかな酸味と野菜の甘みが絶妙なバランスだった。

「そうですね……家でゆっくり過ごすことが多いかもしれません。たまに友達とカフェ巡りに行ったり、映画を見たりとか。木崎さんは、お休みの日は何されているんですか?」

尋ねると、彼は少し考え込むように天井を見上げた後、ふわりと笑った。

「最近は、休日にランニングを始めました。週に二回ですが、朝早く起きて皇居の周りを走るのが日課になっています。あとは、少し前に友人に誘われてゴルフを始めたんですが、なかなか奥が深くて」

話しているうちに、彼の目が少し輝いたように見えた。ランニングにゴルフ。どちらも、いかにも大人な男性の趣味といった感じだ。健康的で、活動的。そして少しのストイックさも感じられる。

「皇居ランだなんて、すごいですね。朝早く起きるのも大変そう……ゴルフも、なかなか難しそうですよね」
「最初は筋肉痛で大変でしたよ。でも、体力がつくと、仕事にも集中できるようになるものです。冴島さんも、何か体を動かしたりはされますか?」

彼の質問に、私はうーんと少し困ったように首を傾げる。

「体を動かすのは好きなんですけど、なかなか続かなくて……昔は学生時代に少しだけバスケをやってたんですけど」
「バスケですか。それは意外ですね。もしよろしければ、今度一緒にランニングでもいかがですか?」

木崎さんの誘いに、私の胸がキュッと締め付けられた。まさかそんなお誘いがあるなんて。顔が熱くなるのを感じる。

「はい、ぜひ」
「よかった。なんだか冴島さんの笑顔を見ていると、こちらも元気になります」
「いえ……そんな」

そんなストレートな言葉に思いっきり照れてしまい、恥ずかしくて膝に置いたハンカチを握りしめたまま俯く。
 
「たまにですが美術館巡りに行ったりもします。先日も銀座のギャラリーをいくつか見て回ったばかりで」 

さらりと口にされた「銀座」という言葉に、私の心臓が小さく跳ねた。

本当は誰と行ったのか聞いてみたい。でもさすがに初めての食事で、そこまで踏み込む勇気はない。

「美術館巡りですか。素敵ですね」
「そういえば、昨日『特別な人がいなければ』って言いましたけど、冴島さんはどうなんですか??」
「えっ……?」

今までのスマートな会話の流れから一転、核心を突くような問いに、体温が急上昇するのを感じた。顔に熱が集まるのがわかる。

「え、あ、いえ、私は……特に、いません……」

しどろもどろになりながら答える。恥ずかしさと、同時に彼がこんな質問をしてくれたことへの密かな喜びが、胸の奥で交錯した。

彼の瞳は、私の反応を探るように、じっとこちらを見つめている。

「そうですか。それは、良かったです」

木崎さんは、ふわりと微笑む。その笑顔には、安堵の色が浮かんでいるように見えた。
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