水の流れるところ

文字の大きさ
37 / 73

一号

しおりを挟む
 何分ぐらいそうしていたのだろう。

 ふと、千晃が動いた気配がして、腕が伸びてきた。ん? と思った時には、千晃の左手が誉の右手を缶コーヒーから引きがして、ぐっと握り締めていた。

「九条さん……?」
「……まともに話したのは今日が初めてだし。俺に何がわかるんだって思うだろうけど」
「…………」
「お前には、愛情を受ける権利も、資格もあると思う」
「…………」
「怖いだろうなとも思う。また裏切られたり、捨てられたりするんじゃないかって。だけど………笑っていて欲しい」
「……え?」

 千晃がゆっくりとこちらに顔を向けた。色素の薄い瞳から放たれる、強くて優しい視線。それが、誉を容赦なく貫いた。

「鏡の時みたいに。楽しそうに笑っていて欲しいと思う」
「…………」
「俺、何が言いたいんだろうな。自分でもよくわからん」

 微かに照れたような、困ったような表情をして千晃が目を逸らした。手はつながられたまま。

 思わず笑顔になる。鏡の中で千晃と初めて会った時。あんな非現実的な中、初対面にもかかわらず、なぜか千晃を自然に受け入れられた。自然と笑顔になれた。千晃のことをどこか懐かしくさえ感じた。

 それはきっと。彼が、あの瞬間に、本当の誉を見抜いて、理解してくれたからかもしれない。もしかしたら、千晃も誉と似たような経験をしているのではないだろうか。だからこそ、誉のうそっぽい笑顔も、びるような言動も、簡単に見破ってしまったのでは。そう思った。そして、そんな理解者に思わぬところで出会えたことが、とてもうれしかった。

「九条さんってあだ名ある?」
「は?」

 突然に話題を変えた誉に、千晃が怪訝けげんな顔を向けた。

「あだ名。「九条さん」ってなんか他人行儀だから。あだ名かなんかあるかなって」
「ああ……あだ名はない。「九条」だけだな」
「そうか……。じゃあ、これから「千晃」って呼ぶ」
「…………」

せっかく綺麗きれいな名前があるのに、呼ばないのは勿体(もったい)ない。

「俺が、「千晃」って呼ぶ人第一号ね」
「はあ……」
「あっ、でも、もしかして俺より年上かな? そういや歳、聞いてなかったよな。今、何歳?」
「29だけど……」
「あ、じゃあ、俺より上だ。そしたら、「千晃さん」ってさん付けの方がいいよね?」
「……いや、「千晃」でいい。2歳差なんて大したことじゃない」

 最初は誉の勝手な提案に戸惑ったような顔をしていたが、どうやら受け入れてくれたらしい。今度は千晃が聞き返してきた。

「お前は?」
「俺?」
「なんて呼べばいい?」
「俺は……「藍沢」でいいよ」
「「誉」は?」
「……俺、その名前、好きじゃないから」
「なんで?」
「なんか、名前負けしてるから」
「…………」

 いつからか。「誉」という自分の名前が嫌いになった。自分にはあまりにも立派な名前に思えた。誇れるような人生を送っていない自分には、ふさわしくない。だから、人から呼ばれることも拒んできた。呼ばれる度に卑屈になる自分が嫌だったからだ。だから、「誉」と呼ぶ人間は今、だれもいない。あの、何度言っても改めない、ホストの男以外は。

「あいつは呼んでたよな。この前、ここで会ったやつ」
「……あれは認めてない」

 千晃が口角上げて笑った。

「じゃあ、俺も「誉」で」
「……いやいや、聞いてた? 名前、嫌いなんだって」
「俺は、いい名前だと思う」
「…………」
「お前に似合ってる」
「……それはない」
「俺が、そう思うから」

 そんなはっきりと言われると。返す言葉がなくなる。これは褒め言葉と思っていいのだろうか。この名前を好きになれるかどうかは、わからない。でも、「いい名前」と言ってくれた千晃の言葉を、素直に受け取ることにした。

「……ありがとう」

 そう心を込めて伝える。

「なら、俺が公認一号ってことで」

 さっきの誉の言葉を真似て、千晃が冗談まじりにそう言った。

 千晃と目を合わせる。

 どちらからともなく笑い合った。

しおりを挟む
感想 8

あなたにおすすめの小説

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ

BL
鍛えられた肉体、高潔な魂―― それは選ばれし“供物”の条件。 山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。 見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。 誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。 心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。

身代わりにされた少年は、冷徹騎士に溺愛される

秋津むぎ
BL
第13回BL大賞奨励賞頂きました! 最終17位でした!応援ありがとうございます! あらすじ 魔力がなく、義母達に疎まれながらも必死に生きる少年アシェ。 ある日、義兄が騎士団長ヴァルドの徽章を盗んだ罪をアシェに押し付け、身代わりにされてしまう。 死を覚悟した彼の姿を見て、冷徹な騎士ヴァルドは――? 傷ついた少年と騎士の、温かい溺愛物語。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

冤罪で堕とされた最強騎士、狂信的な男たちに包囲される

マンスーン
BL
​王国最強の聖騎士団長から一転、冤罪で生存率0%の懲罰部隊へと叩き落とされたレオン。 泥にまみれてもなお気高く、圧倒的な強さを振るう彼に、狂った執着を抱く男たちが集結する。

鎖に繋がれた騎士は、敵国で皇帝の愛に囚われる

結衣可
BL
戦場で捕らえられた若き騎士エリアスは、牢に繋がれながらも誇りを折らず、帝国の皇帝オルフェンの瞳を惹きつける。 冷酷と畏怖で人を遠ざけてきた皇帝は、彼を望み、夜ごと逢瀬を重ねていく。 憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。 誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。 鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

【完結】恋人になりたかった

ivy
BL
初めてのキスは、 すべてが始まった合図だと思っていた。 優しい大地と過ごす時間は、 律にとって特別で、 手放したくないものになっていく。 けれど……

処理中です...