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第二部 ジェノサイド

第54話 三つ巴の戦いの果て その1

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 残り時間――41分  

 残りデストラップ――2個

 残り生存者――6名     
  
 死亡者――11名   

 重体によるゲーム参加不能者――2名

 ――――――――――――――――


 スオウを含めた6人を乗せた電気バスは、快調に園内の道を走り続けた。もっともバスの状態は良いが、乗客の方の状態は芳しくなかった。6人中2人は重体で動けない。さらには、約1名ほど正体不明と言わざるをえな乗客が紛れ込んでいる。

 スオウはそれとなく正体不明の乗客に目を向けて監視していた。ついさっき春元がわざわざバスを停車させて乗せた女性である。はじめは誰を乗せたのか分からなかったが、漆黒の闇を思わせる喪服を見た瞬間、正体に気が付いた。スオウの知る限り、楽しい遊園地に喪服など着て現われる酔狂な人間はひとりしかいない。

 毒嶋櫻子である――。

 今のところ櫻子の態度に不審な様子は見られない。スマホをいじりながら、時折車外に目を向けるぐらいだ。


 頼むからトラブルなんか起こさないでくれよな。


 心の底からそう願わずにはいられなかった。櫻子が本物の看護学生なのかどうかも、今もって分からない。

 櫻子の存在以外にも懸念事項はまだある。今のチームの内情だ。重体の2人はもちろんのこと、スオウ自身も満身創痍に近い有様である。これでは激しい行動は難しかった。


 いざとなったらおれがイツカを抱えて、春元さんがヴァニラを抱えて、美佳さんには悪いけどひとりで行動してもらって……。それしか方法はないよな……。


 さっそく頭の中で非常事態の際の行動をシュミレートしてみる。案外悪くないように思われたが、あくまでもシュミレーションにすぎない。実際にそのときになってみないと、上手くいくかどうかは不明である。

 スオウが心配している懸念事項はもうひとつあった。それはゲーム終了まで残り45分を切っているにも関わらず、まだデストラップが2つ残っているという点である。

 この場合、2つ『しか』残っていないと捉えるか、あるいは2つ『も』残っていると捉えるか──。

 現在ゲーム生存者が6名残っていることと合わせて考えると、最後の2つのデストラップは大きな仕掛けなのではないかと想像出来る。残り2つのデストラップで残り6名の生存者を殺すとなると、小さな仕掛けでは追いつかないからである。

 しかし、大きな仕掛けを施したデストラップとなると、果たしてどんなものが想像できるかというと、皆目検討もつかなかった。


 まさか突然大きな地震が起きて、園内の土地がいきなり陥没するとかないよな……?


 6人のゲーム参加者を巻き込むには、それくらい大きな規模のデストラップでないと効果がない。


 でも、大きな地震はつい最近起きたばかりだからな……。あのときは病院が崩れたんだよな……。


 大きな地震によって工事中の病院が崩落したとのニュースがあったのは、つい五ヶ月ほど前のことである。多数の死傷者を出した大きな災害だった。


 一番良いのはこのまま何事もなくゲームが終わってくれればいいんだけど、それは絶対にありえないよな……。


 無理だとは分かっているが、そう願わずにはいられない心境だった。

 そのとき、順調に快走していたバスが急に停まった。

「スオウ君、前に来てくれ!」

 運転席に座る春元に呼ばれた。声の調子が硬い。すぐに何かあったと察した。

「春元さん、どうしたんですか? まさかトラブルですか?」

 運転席まで小走りで向かうと、座席の背もたれに手を預けて運転席の脇に立った。

「あの男に見覚えがあるかい?」

「あの男……?」

 春元の視線はまっすぐ前に向けられている。前方には下りの坂道が見える。迷子センターに向かったときに上ってきた坂道だ。この坂道を下っていけば、園内の入り口はすぐそこである。

「あっ、あいつ……阿久野! なんであいつがここにいるんだ?」

 坂道の下の方に人影があった。忘れたくとも忘れられない、憎むべき男の姿である。自分を騙して、イツカの父親を騙して、さらにはあろうことかイツカを銃で撃った男。

「やっぱり君が言っていた悪徳刑事っていうのは、オレがよく知る刑事と同じだったみたいだな」

 傍目にも明らかに深い因縁があると分かるほど、春元の言葉には重い響きが伴っていた。

「春元さん、どうするんですか? あいつは刑事で拳銃を持っているんですよ? イツカはあいつに撃たれたんです!」

 スオウは拳銃の怖さを身を持って知っている。今も手のひらには、イツカの体から流れ出た血の感触が生々しく残っている。

「銃の脅威は確かにあるが、ここで逃げたとしても、あいつはオレたちのことをどこまでも追ってくるぜ。あいつはそういう執念深い男なんだよ」

 春元の言っていることもよく分かった。裏の顔を知られた阿久野はスオウたちのことを口封じしなければ、今度は逆に自分の身が危うくなるのだ。どんな手を使っても殺そうとしてくるのは間違いない。

「でも、ここで勝負をしたとして、こちらに勝算はあるんですか?」

 スオウたちはバスに乗っているとはいえ、屋根の付いていないオープンタイプの車体である。体を晒しているのも同然だった。これでは銃のかっこうの的になってしまう。さらには万が一にもバスが転倒したら、乗員は簡単に車外に放り出されてしまう恐れがある。明らかにスオウたちには分が悪い戦いになりそうだった。

「勝算は3割といったところだが、このままやつに向かって突っ込む以外他に手はないからな」

 春元はすでに覚悟を決めているらしい。前方に見える阿久野を緊張した面持ちでじっと見つめている。

「とにかく、スオウ君たちは座席の下にしっかりと体を隠して、銃弾から身を守る姿勢を取ってくれ。刑事の持っている銃の火力程度ならば、このバスの車体を撃ち抜くことは出来ないだろうし、加えて厚みのある座席ならば、ちょっとした防御壁代わりにもなるから、体に銃弾が届くことはないと思う。あとはオレのドライブテクニックを信じてもらうしかないけどな」

 最後はいつもの春元らしく軽い冗談で締めくくった。口角をくいっと上げてスオウに笑みを見せたが、どこかぎこちない笑みだった。春元自身も緊張している証しである。

「――分かりました。春元さんを信じますよ。でも、無茶だけは絶対にやめてくださいよ」

「ああ、分かっている。もしも危なくなったら、すぐに進行方向を変えて逃走に移るまでのことさ」

 スオウは一旦運転席から離れると、イツカの元に戻った。座席にもたれ掛かるようにして座っているイツカを床に静かに降ろし、座席の下に隠れるような位置に移動させる。イツカの次に、ヴァニラにも同様の処置をする。

「美佳さん、それから櫻子さんも聞いてくれ。これからこの坂道を駆け下りていく。でも、坂道の先には銃でこちらを狙っている男がいる。だから、銃の弾道から体を隠せる位置に移動して欲しい。座席の下が一番安全だと思う」

 スオウが説明をすると、美佳がさっそく移動を始める。

「櫻子さん、君は──」

「私はこの目で事の全てを見たいので、この座席に座ったままでいます」

「でも、それじゃ──」

「どうか私のことはお構いなく」

 そこまで言われると、こっちとしてはこれ以上は言いようがないので、あとは櫻子の自己判断に任せることにした。

「分かりました。何が起こるか分からないので、それだけは胸に留めておいて下さい」

 スオウは最後にもう一度櫻子に声を掛けると、再び春元の隣に戻った。

「スオウ君、君も座席の下に隠れた方が──」

「いえ、おれは春元さんの隣にいます」

「いいのか? 銃を持った男が目の前にいるんだぞ?」

「だからですよ。もしも春元さんに何かあって、バスの運転が出来なくなって、車体がコントロ-ルを失ったら、誰が運転を変わるんですか?」

 スオウはゴーカートのサーキットコース上で繰り広げられたカーチェイスを思い出していた。あのとき、追ってくる男のチェーンを体に受けた春元は一瞬、ゴーカートの運転が出来なくなり、咄嗟に慧登がハンドルを握って、難を逃れたのである。慧登がいない今、春元のサポートを出来る人間は自分しかいなかった。

「――本当にそれでいいのか?」

 春元が最終確認をしてくる。
 
「ええ、任せてください。ハンドルをコントロールするぐらいならば出来ると思います。もっとも、車の運転はゲームの中でしかしたことがありませんけどね」

 最後に、春元のお株を奪うように冗談っぽく付け加えた。

「――分かった。それじゃ、もうひとつだけ、やってもらいたいことがあるんだけどいいかな?」

「おれに出来ることであればなんでもやりますよ」

「たぶん、運転席の下に『アレ』があると思うんだけど……。ちょっと探して欲しいんだ。それで少しでもあいつの目をごまかせればいいんだけどな」

「目をごまかす物なんてあるんですか?」

 スオウはその場で這いつくばると、春元が腰掛ける運転席の下辺りに目を走らせた。春元が言っていた『アレ』はすぐに見付かった。長さは30センチほどで、筒状の形状をしている。使用方法は表面にしっかりと印刷されているので、使うには問題なさそうだ。

「有りました。これでいいんですか?」

 スオウは手に持った『筒』を春元に見せた。春元はなぜかきょとんした表情を浮かべている。それからしばし『筒』を注意深く見たのち、合点がいったように大きく頷いた。

「そうか。たぶん、このバスを整備していたスタッフが、間違って『この筒』を用意したんだろうな。なにせ『同じ発音』だからな」

 春元は最後に謎の言葉を付け加えた。

「えっ? それじゃ、『この筒』は使えないっていうことですか?」

「いや、逆だよ。むしろ『この筒』の方が効果は抜群だ。視界を奪うにはうってつけだよ。スオウ君、君はタイミングを見計らって、『この筒』をあいつに投げ付けてくれ」

「普通に投げればいいんですか?」

 スオウは手にした『筒』を掴んだまま、実際に投げるモーションをとってみた。

「ああ、それで構わない。あいつに命中させる必要はない。あいつの周囲に投げれば、それだけで十分効果はあるはずだから」

「分かりました」

 この先の展開はスオウの一投に掛かることになった。


 ――――――――――――――――


 望み通りのブツはすぐに見付かった。クレーン車に突っ込んでグチャグチャになった車内から引っ張り出すのにひと苦労したが、アタッシュケースの中に入っていたので、傷もついていなかった。

 鬼窪が準備していた予備の拳銃の弾である。これで十数発の銃弾を確保出来た。骨折した肋骨の痛みに耐えてまでして、わざわざ探しに来た甲斐があったというものだ。


 あとはあいつら全員を仕留めれば、長かった今夜の残業も終わりだ。


 そんな風に思っていると、坂の上の方から眩しい光が降ってきた。明るさからして、車のヘッドライトのようだった。

 走行音がまったくといっていいほど聞こえなかったので、気付くのに遅れたが、距離はまだある。そして、こちらには弾がたっぷりと詰まった拳銃がある。


 ちょうどいい。準備も済んだところだしな。射撃練習の的になってもらうとするか。


 阿久野は拳銃をしっかり握り締めると、両足を肩幅ほどに開いて、腰を若干落とした。拳銃を撃つのに最適の構えをとる。


 さあ、かかってきやがれ! 刑事を敵に回したことを後悔されてやるからなっ!


 ヘッドライトの明かりに負けないくらいの気迫の篭った眼差しを坂の上に向けた。


 ――――――――――――――――


「よし、スタートするぞ! 全員、しっかり掴まっていろよっ!」

 春元の掛け声を合図にして、電気バスが急発車する。もっとも電動なのでエンジン音が勇ましい唸りをあげることもなく、いささか迫力に欠けるものであったが、乗員たちの意気込みは十分だった。

「春元さん、投げるタイミングの合図だけはお願いします!」

 スオウは運転席の隣──床から一段下がった乗降口のところに立っていた。

「ああ、任せておけ!」

 春元はこの先の展開を予想してか、緊張交じりの顔でハンドルを握っている。 

「春元さん、あいつ、銃を構えていますよっ!」

「分かってる! スオウくん、絶対に頭を上に出すなよ! 良い的になっちまうぞっ!」

「分かりましたっ!」

 スオウは指示通りに少し背を屈めた。春元はハンドルを握っているので屈むことは出来ないが、それでも出来るだけ体を隠すような体勢をとっている。

 坂道を下る電気バスのスピードが徐々に加速していく。

「スオウ君、そろそろ準備の方に入ってくれ!」

「はい、了解です!」

 スオウはすぐに準備に入る。手にした『筒』のキャップ部分を取り外す。あとはキャップと『筒』とを擦り合せれば着火するはずだ。

「準備出来ました!」

「分かった! もう少ししたら──」

 春元の声に、弾けるような乾いた音が重なって聞こえてきた。

 さらに、車体に何か硬い物がめり込む音が何度も聞こえてきた。

「クソっ! あの野郎、本当に撃ってきやがった! 警察が市民に発砲するなんて世も末だぜっ!」

 春元が慌ててさらに頭を低くする。その言葉には少なからず驚きが含まれていた。スオウと違って、春元は阿久野が実際に銃を発砲するところをその目で見ていない。悪徳刑事とはいえ、心のどこかで撃ってはこないと踏んでいたのかもしれない。

「春元さん、大丈夫ですか?」

「ああ、あの野郎、銃の腕はないみたいだからな──」

 春元の声にまた銃声が重なった。同時に、運転席のシートの一部が千切れて弾け飛んだ。

「クソっ! 前言撤回だ! 野郎、スナイパーかよ! これじゃ狙い撃ちされちまうぞ!」

 春元がさらにもっと頭を低くする。運転席のシートには、またたく間に四発の銃痕が出来上がっている。春元が頭を低くしていなかったら、今頃、春元は蜂の巣になっていただろう。驚くべき精度の射撃技術だった。

「これってヤバくないですか?」

 スオウもさすがに不安になってきた。阿久野の銃の腕がここまでのものとは思いもしなかったのだ。

「ヤバイのは百も承知さ! でも、ここまできたら後戻りするほうが危険だからな!」

「分かりました! こうなったらどこまでも春元さんに付いていきますよっ!」

 春元の言う通りかもしれない。このまま突き進むしかないのだ。

 春元は器用にハンドルを握りつつ、頭を小刻みに上下に動かして、前方に注意深い視線を向ける。おそらく投てきのタイミングを計っているのだ。

「スオウ君、そろそろいくぞ。──3、2、1、今だっ!」

 春元の合図と同時に、スオウはキャップと『筒』を擦り合わせた。瞬間的に『筒』から物凄い勢いで白煙が吹き出る。運転席付近は一瞬で白い闇と化す。

「頼んだぞっ!」

 スオウは叫びながら、白煙を噴き出している『筒』を電気バスの前方に放り投げた。

「よしっ! ナイスコントロールだ! これであいつの視界は効かなくなるぞ!」

 春元の喜ぶ声を聞いて、作戦が上手くいったと分かった。

 電気バスのスピードが一段と増した。

 白煙の中、続けざまに銃声の音だけが響き渡っていく。視界を煙で覆われた阿久野が、やたらめたらに発砲しているのだ。

 阿久野の射撃の腕が勝つか。それとも、春元のドライビングテクニックが勝つか――。

 スオウは体を丸めて、衝撃から身を守る姿勢をとった。ここまできたら、あとは春元の腕を信じるしかない。

 次の瞬間――。

 バスのフロント部分から異音が上がった。形有るものが、鉄の塊に激しくぶつかったときにあげる衝突音である。

「よしっ! やったぞっ!」

 春元が歓喜の雄たけびをあげた。上手い具合に電気バスで阿久野を突き飛ばしたらしい。

 しかし、歓喜の声はすぐに切迫感を伴った声に切り変わった。

「やばいぞ! ハンドルが利かないっ!」

 ハンドルを握る春元の顔に焦りの表情が浮かぶ。両手は必死にハンドルを切ろうとしているが、ハンドルはぴくりとも動かない。阿久野の撃った銃弾が車体のどこかに傷を付けたのだろう。

「おれも手伝います!」

 横目で春元の姿を見ていたスオウは、すぐに助けに入った。阿久野からの銃撃の脅威は去ったので、バス内を動くのに危険はない。

「ハンドルを右に切ってくれ! このままじゃ、ぶつかるぞ!」

 春元の隣に立ちハンドルに手を置いたスオウは、すぐさま前方に視線を振り向けた。

 見上げるほどの高さを誇る観覧車。その土台部分には潰れたクレーン車と、同じく潰れたセダンタイプの車。クレーン車には見覚えがあった。数時間前、スオウはこの坂道を暴走してきたクレーン車から、命辛々に逃げ延びたのだ。


 このまままっすぐ進んでいったら、間違いなくクレーン車の二の舞になるぞ……。


 スオウは瞬時にそれだけの状況を読み取ると、力を込めてハンドルを動かそうとした。だが、いっかなハンドルは動かない。

「春元さん、ブレーキを! 阿久野はもういないんだから、停まっても大丈夫なはずです! ブレーキを踏んでください!」

 スオウの叫びに対して、春元は絶望的な返事をよこした。

「さっきからずっとブレーキペダルを踏んでいるんだよっ! ベタ踏みだ! でも、まったく停まらねえんだっ!」

「えっ、そんな……。ハンドルだけじゃなく、ブレーキまでもさっきの銃で……」

 背筋にゾワリと氷の寒気が走った。ハンドルも利かない。ブレーキも利かない。ということは、電気バスはまさにあのときのクレーン車のように、坂道を暴走しているということだ。

「スオウ君、覚悟を決めろ! 衝撃に備えるんだ!」

 春元が前方を睨みつけたまま叫んだ。

「分かりました! みんな、ぶつかるぞ! 体勢を整えるんだ!」

 スオウは急いで座席の方に振り返って大声で叫んだ。そして、すぐにその場で体を丸めて衝撃に備える。

「うおおおおおおおおおおおおおおおーーーーーーーーーーーーっ!」

 春元の口から魂の絶叫が溢れ出た。

 全速力で坂道を下っていった電気バスは、潰れて大破しているセダンタイプの車にぶつかる寸前のところで、突然、氷上を滑るスケート選手のようにくるっと大きくスピンした。春元の頑張りが実ったのか、電気バスのフロント部分が90度近く回転する。横向けになったバスはその体勢のまま、激しくセダンに突っ込んでいった。

 悲鳴のようなガラスの砕け散る音。猛獣の遠吠えのごとき鉄の軋む音。その他、様々な音が入り乱れて響く。

 スオウは衝突の瞬間、重力から解き放たれたかのように宙に投げ出されていた。そして、次に勢い良く床の上に落ちた。

 体中に衝撃が走り、頭の中がぼーっとした白いもやで覆われる。平衡感覚が失われて立ち上がることはおろか、現状をしっかりと把握することすら出来ない。

 十数秒後──。

 混乱を極めていた思考回路が、ようやく正常に判断出来る状態まで戻った。

「は、は、春元さん……だ、だ、大丈夫……ですか……?」

 座席に手を突いて、ゆっくりとした動作で立ち上がる。頭と足元はまだ少しフラフラしていたが、意識はしっかりしている。

「ス、ス、スオウ君か……? 俺は……だ、だ、大丈夫、だ……」

 ハンドルの下から春元の小さな声が聞こえてきた。どうやら、咄嗟にハンドルの下のスペースに体を潜り込ませたらしい。もしも運転席に座ったままだったら、確実に車外に勢い良く放り出されていたはずだ。

「俺のこと、よりも……ヴァニラを……ヴァニラを……頼む……」

 こんなときだというのに、ヴァニラのことを一番に気にかける春元だった。

「分かりました……」

 スオウもイツカの様子が気になっていた。イツカもヴァニラも安全な体勢をとらせていたが、この衝突は予期していない。2人とも大事がなければいいが、確認してみないことには始まらない。

 座席を手すり代わりにして、バスの奥へと歩いていく。バスの車体はセダンタイプの車と衝突した箇所を中心にして、くの字型に捻じ曲がって変形していた。幸い、イツカとヴァニラがいる場所は衝突箇所から少し離れていたので、直撃は避けられているはずだった。

「イツカ、ヴァニラさん、大丈夫か!」

 背を屈めて、座席の下を覗き込む。

 シートと床の間にすっぽりと収まるような形で2人の姿はあった。一見したところ、出血はなく、怪我もしていないように見える。

「イツカ、ちょっと体を引っ張り出すからな。少しだけ我慢してくれよ」

 イツカの脇の下に両手を差し入れて、バスの廊下の方へと体を引っ張り出していく。同じ要領で、ヴァニラの体も移動させる。

「――良かった。2人とも大丈夫みたいだな」

 頭を擦りながら、春元が近寄ってきた。

「ええ、怪我はしていないみたいです」

「事前の計画とは少しばかり違ったが、まあ結果オーライということにしておくか。これもスオウ君が投げてくれたあの『筒』のお陰だよ」

「おれもあそこまで煙が出るとは思いませんでしたよ」

「今回は本当にバスの整備スタッフの勘違いに救われたよな」

 春元は口元に苦笑を浮かべている。

「えっ、勘違いってどういうことですか?」

「本来、車に備え付けられているのは『発炎筒』なんだ。でも、この電気バスの整備スタッフは、おそらく間違えて『発煙筒』の方を用意していたんだろうな。発音は同じ『はつえんとう』だからな」

「えっ、そういうことだったんですか? さっき言っていた春元さんの言葉の意味が、ようやく今理解出来ましたよ」

 発炎筒と発煙筒。その漢字が示すように、発炎筒は炎を発生させる道具で、発煙筒は煙を発生させる道具である。どちらも周囲に自分の居場所を知らせる為の道具であるが、阿久野の視界を奪うには、発煙筒の方が効果がてき面だったのは言うまでもない。

「とりあえず一難去ったわけだから、まずは2人をバスから降ろそう。このバスはもう使い物にならないからな。別の移動手段を見付けないと」

 春元はさっそくヴァニラの体を抱き上げている。そこで何かに気が付いたように顔をしかめた。

「あっ、忘れていた。スオウ君、悪いんだけど、運転席に充電したままの俺のスマホがあるはずだから、それを取ってきてくれるかい? 俺は今この通り両手が塞がっちまっているんでな」

「ええ、構いませんよ」

 イツカの体を抱えあげようとしていたスオウは一旦その作業を中断させて、運転席まで戻った。

「それじゃ、俺は先にヴァニラを運び出すから。どこか近くにあるベンチの上にでも寝かせたら、またすぐにバスに戻ってくる。ついでに、これと同じようなバスがその辺に停まっていないかも調べてくる」

「分かりました。お願いします」

 ヴァニラを抱えた春元は体を器用に斜めに捩るようにして、歪な形に変形した乗降口から電気バスを降りていった。

「さてと、おれはスマホを探すとするか」

 スオウは運転席の周囲を見回した。充電ケーブルはすぐに見付かったが、その先にスマホの本体はなかった。さきほどの衝突の衝撃で、スマホ本体はどこかに飛ばされたのだろう。

「ていうことは、床の上に転がっているかな?」

 今度は四つんばいになって、床の上に目を凝らした。ガラスの破片に気をつけながらゴソゴソ体を動かしていると、アクセルペダルの奥の方に四角い物体があるのが目に入った。

「やっぱりここまで飛ばされていたみたいだな」

 手を伸ばしてスマホを取ろうとした瞬間、手のひらに灼熱の温感が走った。

「熱っ!」

 条件反射のごとく、慌てて手を引っ込める。

「なんだ? 充電のし過ぎで熱を持ったのか?」

 スオウは手にハンカチを巻き付けてから、再度スマホに手を伸ばして取り上げた。ハンカチの布を通して、スマホからの熱がじんわりと感じられる。春元に手渡すときには気を付けないとならない。

「おい、グッドニュースだ!」

 ちょうどそのとき、春元が電気バスに舞い戻ってきた。

「どうしたんですか?」

「このバスと同じ、園内を周回する電気バスをすぐ近くで見付けた。ヴァニラもそっちに乗せてきた。俺たちも急いで乗り移ろう」

「確かにグッドニュースですね! おれもすぐにイツカを運び出しますよ」

 スオウはイツカの元に駆け寄り、その体を抱え上げようとした。

「そういえば俺のスマホは見付かったかい?」

「ええ、運転席の下の方まで飛ばされていましたよ」

「おお、それは良かった。あのスマホには『エリムス』の動画やら写真やらのデータが、山ほど入っているからな。命の次に大事なんだよ」

「春元さんの『エリムス』の話、なんだか久しぶりに聞いた気がします」

 次の道が示されたことで2人がリラックスして会話していると、その会話に横入りしてくるものがあった。

 続けざまに響き渡る乾いた音。今夜、嫌と言うほど聞いたあの音である。

「クソっ! まさかあの野郎、生きているのか?」

 乗降口に立っていた春元が身を竦めるようにしてバスの奥に逃げ込んでくる。スオウはイツカと一緒にバスの廊下から座席側へと急いで避難した。

「でも春元さん、阿久野はバスに衝突したはずなんじゃ……。本当にあいつなんでしょうか?」

「ああ、たぶんな。それ以外考えられないからな……」

 スオウと春元が早口でやり取りをしていると、電気バスの外から地面を擦るような音が聞こえてきた。その音はゆっくりと、しかし確実に電気バスの方に近付いてくる。

 そして、2人の視線の先に姿を現わしたのは──。

 怪我をしたのか右足を引き摺るようにして乗降口を上ってくる。身につけている服は所々が擦り切れている。髪はぼさぼさで砂とホコリによってひどく汚れている。唇の端からは今も血が垂れ落ちている。

 だが、その瞳はギラギラと輝いていた。獲物を追う肉食獣のごとき血走った眼差しである。

「――よう! こんなところで、まさかの再会だよな!」

 右手に持った拳銃を当たり前のように2人に向けてきたのは、電気バスに撥ね飛ばされたはずの阿久野に他ならなかった。
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