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6 悲しきアーモンドの花

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 本邸の使用人室で、昼げの握り飯を急いで平らげたハナは、そのまま小屋に戻った。
 先程うたた寝をしてしまった分を取り返そうと、必死だった。

 ハナは竹箒とちりとりを手に、ピンク色の花が咲く木の元へ向かう。門から使用人棟と別邸に沿うように植えられた6本の木。ハナはその下を箒で掃きながら、まだ枝に残る小さな花弁を見上げた。

(梅にしては色が濃いし、これは桜かしら。きっと帝都は、山よりも咲く季節が早いのね)

 3月といえど、まだ肌をなぞる風は冷たい。それでも、ハナの住んでいた山の村よりは幾分温かい。
 青空に舞うピンク色の花弁に、ハナは故郷に咲く大きな桜の木を思い出す。

(色々なことがあって、気付かなかった。帝都にだって、村と同じところはあるわ)

 景色や人の多さは変わっても、そこで生きているものに変わりはない。心細さと恐怖を感じていたハナにとって、それは一筋の希望になる。

(頑張らなきゃ。父母のために、村の皆のために)

 花弁を掃き集め、ちりとりにたまったところでハナは一息ついた。これを、本邸の裏の焼却炉まで運ばなくてはならない。焼却炉の前の麻袋に、まとめて入れておくようにと執事長から指示があったのだ。

 ハナは鷹保邸の庭を見回しながら、本邸の裏へ向かった。庭を横切るのは、初めてだ。正確には二度目なのだが、初日は鷹保に手を引かれついていくのに精一杯で、庭を見る余裕などなかった。

 本邸の前の庭は、別邸と使用人棟の間に広がっている。使用人棟の前は細い通路のように芝が敷かれているだけだが、別邸の前には本邸と同じように石畳が敷かれている。本道から別邸に続く角のところには、小さな鉄製の東屋あずまやがあり、そこにはツル科の植物が伸びていた。

(なんだか、西洋のおとぎ話のような世界。小鳥や蝶がいそうだわ)

 ハナはくすっと笑いながら東屋の前を通り過ぎようとした。
 通り過ぎようとして、二、三歩戻った。
 東屋の下の金属でできたベンチの上に、焦茶のズボンを三角に折り曲げた膝と、磨かれて光る茶色い革靴が目に入ったのだ。

(鷹保様……?)

 ハナはおそるおそる近づいた。

(やっぱり、鷹保様だ……)

 右手でいつも被っているシルクハットを胸に抱き、それが静かに上下する。左手の甲は額に置かれているが、その下で閉じられたまぶたから伸びる、長い睫毛まつげがかすかに揺れる。

 その美しい寝顔に、ハナは思わず右手を伸ばした。けれど鷹保のまぶたがピクリと揺れ、すぐにその手を引っ込めた。

「なんだ、おひいさんか」

 その声に驚き、左手に持っていたちりとりをひっくり返してしまった。ピンクの花弁が、東屋の中に舞う。

(何をしているんだろう、私ったら……)

 所在がなくなった手を宙に泳がせながら、ハナはがっくりと肩を落とした。鷹保は身体を起こし、クスクス笑いながらシルクハットを被る。

「灰被りの次は、花弁被りかな。おひいさん」

 ハナは慌てて自分の頭を触った。「頭についているわけではないよ」と鷹保が笑う。

「ちょうど良かった。おひいさん、少し話し相手をしてくれるかい?」

 鷹保の急な申し出に、ハナは狼狽えた。

「でも、私はこの花弁を片付けないと……」

「当主が話し相手になって欲しいと言っているのに、おひいさんは花弁を優先するのかい?」

 鷹保の言葉に「はい」と言えなくなる。鷹保は自分の隣を手で指し示す。

「失礼致します」

 ハナは仕方なく、鷹保の隣に腰掛けた。

「おひいさんは、庭仕事が得意なのかい?」

 鷹保は世間話をするようにハナに問う。

「庭仕事というか、畑仕事は得意です。山の奥の小さな村で育ったので。でも、ここに咲いているような木や花の手入れは初めてです……」

 そうかい、と鷹保は静かにうなずく。

「――でも、田舎にも同じ花はあるんですよ! ほら、このピンクの花弁……桜ですよね。私の住んでいたところにも、大きな桜の木があって――」

「これはアーモンドだよ」

 鷹保はハナの言葉を遮る。先程ハナが舞い上げてしまったアーモンドの花弁をつまみ上げて眺めながら。

「アーモンド?」

 聞いたことのない植物の名前に、ハナは首をかしげた。鷹保はフッと笑うように息を漏らす。

「西洋かぶれの兄が植えたのさ。兄は、欲しいものは何でも手に入れる男だった……」

(お兄様がいらっしゃるのね)

 ハナは鷹保の話を聴きながら、ふと違和感を感じた。

「鷹保様、今『だった』とおっしゃいましたよね?」

「ああ。おひいさんもあの手紙を読んだだろう。兄はもうここにはいない。だから、私が兄の身代わりだ。……この屋敷も、もとは兄のものだったのさ」

(お兄様はお亡くなりになったのかしら? 失礼な事を聞いてしまったわ)

 ハナは視線を落とした。自分も身内を喪っているが、物心ついたときにはもういなかったので、それを悲しいと思ったことはない。
 けれど、大切な人を失う痛みは知っている。

「私は幼い頃、父の邸宅で育ったんだ。時々辛いことがあるときは、兄の屋敷に逃げ込んではこの場所で昼寝していた。そのクセが今も抜けないんだ」

 鷹保は笑みを浮かべた。その目は、昔を懐かしむように細められる。しかしそれは一瞬で、すぐに歪んでしまった。

「あの頃とこの場所は変わらない。けれど、人は変わってしまう。過去は過去として、変えることはできない、どうしようもないと割り切らなくては仕方ない。おひいさんも、そう思わないかい?」

 鷹保がハナの方を向いた。急に目が合って、ハナは思わず視線をそらしてしまった。鷹保はそんなハナを見たからか、ケラケラと笑い出す。
 それで、ハナは余計にうつむいた。

「おひいさんは山の村の出身と言っていたね。きっと自然の豊かな、のどかなところなんだろうねえ」

 鷹保が急に話題を変えて、ハナははっと顔を上げた。
 鷹保に頼まれたのは、『主の話し相手になること』だと、思い出した。

「はい、帝都と違って全然人がいません。でも、皆優しくて温かい場所でした」

「帝都へは、家が貧しくて?」

「いえ、一人で生きていけるようにです。私には父も母もいなくて、村の人に育てられました。村にはたくさんの恩があるので、帝都でしっかり勤め上げて、少しでも返せるようにと……」

 ハナは言葉に詰まった。そう誓いを立てて来たはずの帝都で、遊女という仕事だったからとお得意様を叩いたうえ、助けてくれた鷹保様からは逃げ出す始末だ。
 ハナがそのまま黙り込むと、鷹保はふっと笑った。ハナは俯いてしまったことに気づいて、またはっと顔を上げる。

「でも、今はちゃんと鷹保様のもとで懸命に働いて、勤め上げようと思っていますので!」

 早口にそう言うと、鷹保が声を上げて笑った。

「お前も苦労人だねえ、おひいさん」

「鷹保様も、亡くなったお兄さんの代わりに次期当主をお務めで、大変ですね」

 鷹保は首をかしげた。ハナは息を飲んだ。『大変ですね』だなんて、失礼だったか。

「兄は生きている。でなければ、あの手紙も書けないだろう?」

(ああ、そうか。あの手紙は、鷹保様のお兄様からのものだったんだわ!)

 ハナは合点がいったが、新たな疑問が頭に浮かぶ。

「……じゃあ、どうして鷹保様がお兄様の身代わりを?」

 ハナが覗いた鷹保の瞳は、一瞬見開かれたような気がした。しかし、まばたきをするうちに、いつもの感情の読めない微笑みに戻っていた。

「それは、おひいさんは知らなくていいことだ。私に兄がいることも、私とおひいさんの秘密だよ」

 鷹保は人差し指を立て、そっと口元に当てる。それからすぐに立ち上がり、「少し待っててくれ」と別邸の方へ向かった。ハナがついていくと、入り口の前で待つように言われた。

 しばらくして、別邸の戸が開く。鷹保は、手に小さな本を抱えていた。

「これを、おひいさんに」

「これは……?」

「ハムレットだよ。ウィリアム・シェークスピアの描いた悲劇の名作さ。おひいさんは荷物を何ももっていいないだろう? 朝晩の時間潰しになると思う」

 けれど、ハナは受け取るのをためらった。

「あの……」

 鷹保は首をかしげる。

「私、文字が読めないんです。だから――」

 ハナは言いながら恥ずかしくなる。帝都の人はみな、文字が読める前提で話が進む。喫茶店の時もそうだった。

 鷹保は「それは失礼」と本を下げる。その顔に浮かぶ笑みは、ハナを嘲笑っているようにも感じられた。

「鷹保様、私は先程の花弁を片付けなければならないので、失礼します!」

 ハナはそう言うと、足早にその場を去った。

 ◇◇◇
 
 別邸の中、リビングのソファに腰掛け、鷹保は先程渡せなかったハムレットの本をペラペラとめくっていた。しかし、考えているのは別のことだ。

 鷹保は安心して気の抜けた笑みを浮かべてしまったことを悔いていた。
 ハナという女中は、字を読むことができないらしい。つまり、あの手紙も読んでいなかったということだ。

 同時に、自分はとんだ愚行をしたことにも気付き悔いた。
 事情を何も知らない一女中を、脅すような真似をしたせいで逃げ出され、連れ戻しては安堵した。そればかりか、自分から彼女に秘密をペラペラと喋ってしまった。

 幸い、あの手紙が兄からのものであることしかバレてはいないが、それでも“鷹保に兄がいる”という事実が世間に知られれば、中條家が隠してきた事実が明らかになってしまうかもしれない。
 それだけはどうしても避けたい。

 鷹保はこうなった元凶の兄を思い、奥歯を噛んだ。右腕に、アーモンドの花弁が乗っていることに気づいた。

「アーモンド……。『軽率』『無分別』『愚か』」

 鷹保はその花言葉を呟いて、自嘲するような笑みを浮かべる。

「兄そのものではないか。……馬鹿馬鹿しい」

 最後は独り言のように呟いて、忌々しいアーモンドの花弁をつまみ上げ、くずかごに放った。

 手にはまだ、ハムレットの本が握られている。

 ――彼のように私も復讐でもできたなら、私も楽だったろうに。

 けれど、突然鷹保の胸を虚しさが襲う。
 握りしめていた『ハムレット』の最期を思い出したのだ。

 ――ハムレットのように復讐に駆り立てられても、最後は虚しさが残るだけ、だな。

 だったら自分の心の闇もひた隠し、生きていければそれでいい。もしも世間に秘密が露呈してしまったら、浮世に流され生きていくだけだ。

 鷹保は本を見つめ、ため息を零した。

 ――人は常に同じじゃない。だから私は、ハムレットのようには強い意志を持っては生きられない。

 鷹保は本を戻そうと腰を上げる。先程くずかごに放ったはずのアーモンドの花弁が、足元に舞う。鷹保は舌打ちをして、またため息を零した。
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