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15 星降る夜に

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「おひいさん、着いたよ」

 肩を揺すられ、ハナは目を開いた。自分の左側には隼助がぴったりとくっついている。寄りかかって寝てしまっていたのだと気付いて、慌てて身体を起こした。
 隼助はクスリと笑って、ハナに手を差し出す。

「別に構わないさ。さあ、降りるよ」

 何も持たずに出てきた。手荷物も何もないまま、ハナは隼助の手を取り汽車を後にした。

 隼助に手を引かれ、駅舎に降り立った。外はもう日が沈み、辺りは暗くなっている。
 見覚えのあるその場所に、ハナは目を見開く。

「ここ……」

「ハナはこの辺りで育ったのだろう?」

 隼助の笑顔は駅の灯りに照らされて、優しくきらめいている。ハナがこくりとうなずくと、隼助はハナの手を引き、駅舎を後にした。

 汽車の行ってしまった駅前は人も少なく、開いている商店もない。月明かりを頼りに、暗がりを二人で歩いた。

「ハナの育った村は、どの辺りだい?」

 互いの手を握り合い、のんびりと歩いた。

「あっちに見える山です」

 指を差した方は雲掛かっていて、ただ暗がりが広がるだけだ。

「……本当は見えるんですよ? 帝都に行く時にも一度見たので、忘れるわけがありません」

 躍起になって言うと、隼助はケラケラと笑った。その顔には、もう憂いや寂しさはないように見える。ハナは嬉しくなって、彼の腕にそっと身体を擦り寄せた。

「お前さんは可愛いことをするんだねえ」

 隼助がハナの頭を撫でた。

「好きだなあと、思っただけです」

 心のままに伝えると、隼助の唇がハナのおでこに触れた。

「私も、お前さんが愛しいよ」

 その言葉だけで、信じられないほど満たされる。

「ではあの山へ向かおうか。ハナの育ったところを、私も見てみたい」

 ハナは大きく頷いた。村の皆は優しい。きっと、隼助も受け入れてくれるはずだ。

「ですが、少しばかり遠いですよ?」

 帝都の人にとって、山登りは酷ではないかと心配した。シワの寄った眉間を、隼助が優しく小突いた。

「疲れたら、都度休めばいいさ。ハナが隣にいてくれれば、私はそれだけでいいんだよ」

 その言葉に安心し、ハナは繋いでいた手をきゅっと握る。月明かりを頼りに、二人は田舎の道をゆっくりと歩いた。


 どのくらい歩いただろう。頭の上にあった月は随分と西に傾いている。道の幅も狭まってきた頃、「そろそろ休もうか」と隼助が言った。

 二人は道の途中にあった、大きな木の下に腰掛けた。隼助が胸元からハンカチを取り出し、敷いてくれた。
 周りを見回した。ちょうど田植えが始まったところらしい。田に張られた水が、傾いてきた月明りを反射して、キラキラと輝く。
 ゲコゲコ、けろけろと蛙や虫の鳴き声がする。その懐かしい音に、ハナは耳を澄ました。

「田舎の夜は静かだと思っていたが、けっこう賑やかなんだ」

 寄り添うように座った隼助がそう言って、ハナは「はい」と答えた。

「帝都の夜は静かですよね」

「あれは屋敷の周りだけだ。銀座も浅草も夜も眠らない、うるさい街だよ」

 その声に隼助を見上げると、目を細めて遠くを眺めていた。

(隼助様とここまで来てしまったけれど、本当にこれで良かったのかしら……)

 ハナと隼助は立場が違う。地位も名誉も、何もかもを捨てて共にここまで来てくれたこの人は、とても愛しいと思う。
 けれど、胸の内ではどう思っているのだろう。本音を隠すのがとても上手な人だから、きっとハナには話してくれない。

 ハナは隼助の想いを想像して、胸が張り裂けそうになる。
 けれど、ここで泣いてはダメだ。隼助の覚悟を、無下にしてしまう気がする。
 代わりに、ハナは隼助の手をキュッと握った。

「こんなに賑やかな夜ですが、眠れそうですか?」

 ハナが問うと、隼助はその手をキュッと握り返す。

「ああ。ハナが隣にいるならば、私はどこだって眠れるさ。でも、今は――」

 隼助はそこにハナがいることを確認するように、ハナを見下ろした。ふわりと優しく微笑まれて、ハナも嬉しくなる。

「――まだ、眠りたくない。ハナが隣にいるということを、実感させておくれ」

「……はい」

 隼助の手が動いた。ハナがピクリと肩を揺らすと、隼助の指がハナの指に絡む。そのまま全ての指を絡めるように繋ぎ直すと、隼助はぎゅうっとハナの手を握る。

 ハナは心臓は鷲掴みにされたような心地だった。苦しい。けれど、愛しい。嬉しい。離してほしくない。

「星が降るようだな」

 不意に隼助が言って、ハナは空を見上げた。
 帝都でも、夜空を見上げた。あの時は田舎を思い出したが、隼助と共に田舎の星空を見上げる日が来るとは、夢にも思わなかった。

「綺麗だな」

 空を見上げたまま、隼助が言う。

「はい……」

 二人は東の空が白み始めるまで、寄り添ったまま星を見上げていた。


 パカパカと、静かな馬の足音が遠くから聞こえた。外はすっかり日が昇り、一面に広がる水田が朝日を反射する。
 カラカラと車輪の音がして、こんな時間に荷馬車なんて、とハナは目を凝らした。
 一本道の向こうに、馬車が見えた。けれどどうやらそれは、荷馬車ではないらしい。見覚えのあるその形に、ハナの胸はどくどくと嫌な音を立て始めた。

「あれは……? いや、見間違いかもしれないわ」

 ハナの独り言のような声に、隼助はそっと目を開けた。どうやら、浅い眠りについていたらしい。

「どうしたんだい、ハナ?」

 隼助はハナにふわりと微笑み、優しい口付けを落とした。それだけで思考が蕩けそうになる。けれど、遠くに見えたものを伝えなければならない。気を確かに持たなくては。

「隼助様、あの……」

 ハナは唇がそっと離れたタイミングで、口を開いた。

「あちらに、馬車が……」

 ハナが道の向こうを指差す。すると隼助はため息をこぼした。

「……もう来てしまったのか」

 仕方がない、と隼助は立ち上がる。つられてハナも立ち上がる。
 服に付いた砂を軽く払っていると、ハナたちのいる大きな木の少し手前で、馬車は停まった。

(やっぱりこの馬車、隼助様のものだわ!)

 逃避行は、バレてしまったらしい。隼助を追いかけてきたらしいその馬車から、執事長が降りてくる。

 馬車の戸を開いたまま、うやうやしく胸に手を当てお辞儀をする執事長。
 隼助はシルクハットを軽く被り直し、馬車を見て微笑む。
 それから、馬車の方へ歩み寄ると、後に続くハナを振り返った。

「村に帰りなさい、ハナ」

「え……?」

 隼助は、微笑んでいた。馬車に向かって微笑んだ同じ顔を、ハナに向けたのだ。
 それは、今までハナに向けられていたのものとは異なっていた。ハナの胸が騒いだ。

「嫌です! 村へ帰るなら、隼助様も一緒に――」

「私は帝都の公爵家、中條の子息で名は『鷹保』」

 隼助はニカッと口角を上げ、そう言った。

「違います!」

 思わず否定した。

「違わないんだよ、おひいさん」

 それは子供をあやす親のような声だった。
 否定の言葉をあっさりと打ち消し告げられた『おひいさん』の言葉に、ハナはハッと立ち止まった。
 何を考えているのか分からない、作り物の笑みを顔に貼り付けた彼。
 そこにいる隼助は、『鷹保』をまとっている。

 それでもハナは怯まない。

「でしたら、私も一緒に! 隼助様のお側にいたいのです! お力になりたいのです!」

 好きで、大好きで、恋しくて、愛しくて、そばを離れたくはない。例え女中と主という関係に戻ったとしても、彼の傍にいたかった。

 それなのに、隼助は『鷹保』をまとったまま、馬車へと乗り込もうとする。ハナも共に乗り込もうとして、隼助に手で制された。

「隼助、様……」

 ハナの目から、熱いものが流れた。すると隼助はかがむようにして、馬車の下にいたハナに顔を寄せた。

「お側にいたいのです。……たとえ、主と女中になろうとも」

 ハナは隼助の顔をじっと見つめた。すると、『鷹保』の笑顔は崩れていく。代わりに眉をハの字に曲げ、「困った」とでも言うように微笑まれた。
 隼助の手がためらいがちにハナに伸ばされた。けれど、それは触れることはなく、元の位置へと戻ってゆく。

「ハナをこれ以上苦しめたくないのだよ。ハナには笑顔でいてほしいのだよ。底抜けに前向きなハナの心を、これ以上汚したくないのだよ」

 そっと耳元で囁かれる言葉に、ハナはポロポロと涙をこぼした。

「迎えに来るまで、待っていておくれ」

「隼助、様……」

 声にならないような声で彼の名を呼べば、その大きな手が頭に置かれた。

「愛しているよ、ハナ」

 隼助はそう言うと、そっと馬車の戸を閉めた。馬が歩み始める。カラカラと、車輪が回る音がする。どんどんと、馬車が小さくなってゆく。
 やがてその姿が見えなくなって、ハナはその場に崩れるようにしゃがんだ。

(私も、愛しています……)

 涙が溢れて、止まらない。大粒の涙が足元の土を濡らして、そこだけ大雨が降ったように泥が跳ねる。
 それでも、涙は止まらなかった。


 よろよろしながら、育った村までの道を歩いた。道がどんどん細くなり、砂利も増えてくる。
 朝は晴れていた空が、いまはどんよりと曇っている。

 ハナは隼助が行ってしまった後、しばらくその場で泣いていた。近くの田の主がやって来て、ハナはそっと立ち上がった。

 ハナには村に戻る他無かった。帝都からは何も持ってきていないし、ましてや帝都に戻る汽車の運賃など持ち合わせてはいない。帝都に向かう荷馬車は稀であるし、帝都のように四輪車や二輪車などは通らないのだ。

 勾配が急になり、ハナはつまずいた。歩いている間に止まっていたはずの涙が、またじわりと溢れ出した。

(隼助様と、いられると思ってた……)

 けれど、胸のどこかでは安心していた。

 『好きだ』と告げられ、帝都を飛び出して来てしまった。それは、彼の兄がしたことと同じこと。隼助は兄のしたことを「仕方がない」と割り切りながらも、どこか寂しそうだった。

 激昂した母親に、押し寄せる新聞記者。それらの対応を全部投げ捨てて、中條家を裏切るということは、彼の屋敷の使用人の人生も露頭に迷わせるということだ。

 隼助はそんなことは絶対にしない。もし中條家を裏切るなら、先にリサやその他の女中の再雇用先を見つけてくるはずだ。

(用意が周到でないと、隼助様らしくないものね)

 ハナは涙を拭って、立ち上がった。

(そうよ、きっとそうだわ。隼助様は、全てを解決したら戻ってきてくださる。その準備を、私が村でしておくのよ)

『迎えに来るまで、待っていておくれ』

 隼助が去り際に言った言葉を、ハナは頭の中で繰り返した。
 ケロケロと、田の中の蛙たちが鳴いている。ハナはそれが、自分への応援のように聞こえた。

(村まで、あと少し。頑張ろう。隼助様のためにも)

 ハナは空を見上げた。どんよりと曇った空だったが、隼助も同じ空の下にいると思ったら、心がふっと軽くなった。
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