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14 重圧からの逃避行
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ダン、ダンと大きな足音が聞こえて、ハナは焦った。けれど、ただそこに立ち尽くすことしかできない。
鷹保はため息を漏らしながら、戸の方へ歩き、執事長の背後にある遊戯室の戸を開けた。
「ここにいたのね!」
声の女性は遠慮もせずに、ズカズカと遊戯室の中に入ってきた。見た目にも高価だと分かる、光沢のある紅色のドレスに身を包み、小さな薔薇のついた帽子を被った貴婦人。
しかし、その顔は真っ赤になっており、すさまじい怒りが眉の辺りを這っているようだった。
(あの方が、鷹保様のお母様……)
彼女はハナには目もくれず、鷹保を部屋の壁際まで追いやる。
「どういうことなの!?」
女性は鷹保に新聞を突きつけた。
「貴方は今までもこういうことは多々あった、けれど全て名のあるご令嬢との噂だったから目をつぶってきました。けれど、今回はどうです? どこの馬の骨とも分からない女と、逢引ですって!?」
「母上、私は……」
「大体、名のある公爵家の長男としての自覚はおありなのかしら!? 『帝都一の色男』だなんてみっともない! ほんっとうに、みっともない!」
鷹保の母は持っていた新聞をわざと落として、それを踏みつけた。つま先を、ぐりぐりと押し付ける。
「青い目の異人だなんて噂もあるじゃない! 私はそんなの、絶対に認めないですからね!」
鷹保は黙って、目の前の彼女が言い切るのを静かに待った。
けれど、ハナは我慢がならなかった。
(鷹保様は何も悪いことをしていないのに、どうしてこんなに一方的に怒られなければならないの……?)
怒りがふつふつと湧いてくる。言ってやろうと思った。あれは、逢引などではない、と。だから、鷹保は何も悪くない、と。例え母親だろうが、あなたの方が失礼である、と。
「昨夜の相手は、この私です!」
ハナが声を上げた。鷹保の母が、急にギロリとこちらを睨んだ。その顔はまるで鬼の面のようだ。
彼女はそのまま、ズカズカと大きな足音を立ててこちらに歩み寄る。
「貴女が、昨夜の相手? その恰好……青い目の女中だなんて! しかも泥だらけじゃない! ああ、汚らしい。汚らしい女! 忌々しい!」
あまりの剣幕に圧倒され、ハナは何も言えなくなってしまった。
「す、すみません……」
小さく呟いたが、彼女の「ああ、忌々しい!」という叫びにかき消されてしまった。
「いいこと!」
彼女は不意に振り返り、鷹保を睨む。
鷹保は、表情のない顔で、何も言わずに自分の母親をじっと見ていた。
「こんな異人は即刻解雇なさい! ただの女中ならと目をつぶってきたけれど、こんなことになってはもう我慢がならないわ! 鷹保邸の忌々しい異人たちは即刻解雇! いいわね!」
婦人はそれを叫ぶように言い切ると、耳をつんざくくらいの大きな音を立てて戸を閉めて、遊技室から出て行った。
執事長が「大奥様をお見送りしてまいります」と部屋を出て行く。
それで、静寂が訪れる。鷹保のため息が、遊戯室に響いた。
「すみません、私、余計なことを……」
ハナは肩を落とした。怯んで、最後まで言うことが出来ずに、変な誤解を産んでしまった。
しかも、このままでは自分だけでなく、リサや他の女中も解雇されてしまう。
(悔しい。どうして、私は……)
泣きそうになって、下唇をぐっと噛んだ。
「はははっ!」
突然鷹保が笑いだし、ハナはぎょっとした。
「お前さんは面白い女だよ、本当に」
「どう、して……?」
ハナは袖口で涙を拭った。鷹保はまだ腹を抱えている。
「私の想像の上をゆく。自己申告とは、かなりの傑作だ」
やはり失敗したのだと、がっくりと肩を落とす。するとこちらに歩み寄った鷹保が、ハナの肩にそっと手を乗せた。
「おひいさんのせいじゃないさ」
「でも、私のせいで、余計な勘違いを――」
言っている間に鷹保が首を横に振った。ハナはそれ以上、何も言えなくなってしまった。
「昨夜の教会で言ったこと、覚えているかい?」
「お兄様が、異人と駆け落ちしたって……」
鷹保を見上げると、彼は窓の外を見ていた。けれど、その目はどこか遠くを見ているようだった。
「ああ。私は妾の子で隠されて育ってきたから、兄の身代わりにちょうど良かった。そう話したろう?」
「妾の子……あ!」
(じゃあ、大奥様は鷹保様の本当のお母様じゃなかったんだ!)
ハナの声に、鷹保は自嘲するように笑った。
「私は妾の子なんだよ。私の母は、父の元で働く女中だった。異国で父が惚れ込んで、日本に連れ込んで女中にしたのさ」
「え……?」
「私の母親も、異人。兄の駆け落ち相手も、異人。それで、あの人は”異人”に対してやたら気が立つのさ」
鷹保はそう言ったけれども、ハナは彼女が憤慨した理由がそれだけではないことにすぐ気がついた。ハナが、女中だったからだ。
「私は親の決めた相手と婚姻する。私は中條家の、長男だからな。そうすると何度も言っているのに、本当あの人には困ったものだよ」
鷹保はまた笑った。今度は、力のない笑いだった。
「鷹保様が、全部背負う必要はないのに……」
思わずそんな言葉が漏れた。
中條家の長男という重荷。異人と駆け落ちした兄の身代わりであるという秘密。自分は妾の子という隠し子だったという秘密。
それを、鷹保は全部一人で背負って生きている。
「仕方がないんだよ、おひいさん」
鷹保はハナの頭に手を置いた。
「過去は変えられない。立場も変えられない。私は『中條鷹保』として生きていくしかないんだよ」
はっとして顔を上げた。優しい瞳が、ハナを見下ろしていた。
「『鷹保』というのは、本当の名ではないのですか?」
「ああ。兄の名だ」
微笑みながら、鷹保はハナの頭を優しく撫でた。
「ごめんなさい、私、昨夜、『鷹保様は鷹保様だ』だなんて……」
なんてひどい言葉だろう。真実を知った今は、それはまるで呪縛のようですらある。
「構わないさ。おひいさんは、知らなかったんだから。それに、私は嬉しかったよ。おひいさんが、私を私でいいと、言ってくれたのだから」
鷹保の目が、よりいっそう細められる。鼓動は高鳴るけれど、同時に苦しさと切なさと申し訳無さが込み上げて、喉の奥が苦しくなった。
「あの……」
「何だい、おひいさん?」
ハナは絞り出すように声を出した。
「聞いてもよろしいですか? 本当の、名を……」
「……私の名は、隼助だよ。ハナ」
「隼助、様……」
ハナ、と自分の名を呼ばれ、ハナも彼の名を呼びたくなった。
ただそれだけなのに、隼助はハナに笑いかける。
「お前さんにそう呼ばれると、余計に特別な気がするよ、ハナ」
そう言われて、ハナも胸がいっぱいになった。不意に目頭が熱くなって、目尻から生暖かいものが流れ出す。
「どうして泣いているんだい?」
頭を撫でていた隼助の手が、そっとハナの頬に触れた。その親指の腹で、涙を拭き取るようにそっと頬をなぞる。
「……分かりません。分からないけれど、とても胸がいっぱいなんです」
「そうかい。……どうしてだろうね、私もだよ」
隼助がそう言う。ハナは隼助を見つめた。
(このお方が抱えているものを、私も一緒に背負えたらいいのに)
そんなことが高望みであることは、ハナは分かっていた。けれど、そう思えずにはいられなかった。
(お側にいたい。このお方を、支えたい)
そう思えば思うほど、胸がキュウっと苦しくなる。叶わないからこそ、そう強く思ってしまうのかもしれない。
「隼助様、私――」
『好きです』と、伝えようとした。
けれども、それより先に、隼助の唇がその言葉を封じ込めた。
唇に感じる、甘く柔らかな感触。優しい接吻に、ハナは一度目を見開く。けれど、なかなか離れないその甘美な心地に、そっと目を閉じた。
どのくらい、そうしていただろう。隼助が唇を離して、ハナはそっと目を開いた。目の前に優しい笑みの隼助がいて、これが夢でないことを確かめた。
ハナは自分の唇に触れた。ここに、隼助のものが触れていたことを、確認するように。
「私も好きだよ、ハナ」
まっすぐに見つめられる。その眼差しに射抜かれ、目を反らすことができない。反らしたくない。ずっと、見つめていたい。
「好きです、隼助様……」
ハナがそう言うと、隼助はそっと、ハナを抱きしめた。
「ハナ……」
隼助は、ハナを抱きしめたまま声をかける。
「な、なんでしょう……?」
彼の声が弱々しくて、ハナは緊張しながら口を開いた。
「もしもこの現実から逃げ出せるなら、……逃げ出してしまおうか」
「え……?」
ハナは鷹保の腕の中で、彼の顔を見上げた。どこか虚空を眺めた彼の目は、キラキラと輝いて見える。
「兄上も逃げ出したんだ。私が逃げ出したって、同じこと」
微笑まれて、何も言えなくなった。
隼助はそんなことする人でないと、どこかで思っている。
けれど「やめてほしい」と言ってしまえば、隼助を重圧の中に押し込めてしまっているような気がする。
「どこか遠くで、二人きりで暮らすんだ。ハナは土いじりが得意だから、私にも教えてくれ。二人で畑をこしらえて、慎ましく暮らせばいい」
夢のような話に、思わずハナは頷いた。
すると隼助は抱きしめていた腕を解く。代わりにハナの頭を軽く撫でて、少し待っていてくれと遊技場を出ていく。
ほんの数分で戻ってきた隼助は、外套とシルクハットをこしらえて、今から出掛けるかのような恰好になっていた。
「隼助、様……?」
隼助がきゅっと、立ちすくむハナの手を握った。
「まさか、本気で……?」
「ああ」
隼助は遊技室の、執務室の反対側の壁に備え付けた本棚をぐっと押した。すると、そこがクルリと回転する。隠し扉だ。
「え……?」
「言ったろう? この部屋は、隠れ処。こうやって、脱出さえも可能なのさ」
薄暗く狭い通路を前に、ハナは立ち止まる。
このまま、この人と本当に逃げてもいいのだろうか? そう思うけれど、隼助は優しくハナの手を引く。
「ほら、行くよ。愛しい私の、おひいさん」
隼助がそう言って、微笑む。ハナはその笑みに頷いて、彼と共に鷹保邸から逃げ出した。
鷹保邸の裏から垣根の中の細い隙間を通り、外へ出た。こんな抜け道があったのかと思いながら、隼助に手を引かれ道を走る。記者にバレないように大通りへ出れば、そこから都電に乗るまではあっという間だった。
乗り込んだ都電が動き出し、ほっと息をつく。けれど、すぐに周りの視線が気になって、ハナは周りを見回した。
けれど、誰も二人を気に留めない。まさか渦中の人物が都電に乗っているとは、誰も思わないらしい。
ふと見上げれば、隼助と目が合って微笑み合う。それだけで、胸に幸せが広がった。
上野駅で都電を降りると、隼助は今度は国鉄の切符を買う。
一体どこまで向かうのだろうと不安になるが、隼助が優しく微笑むので、それだけで満たされてしまう。
乗り込んだ汽車の、二人がけの席に腰掛ける。上野駅で弁当売から買っておいた駅弁を、二人で広げて食べた。
「ハナ」
不意に名前を呼ばれて振り向くと、隼助は顔を綻ばせて言った。
「私は今、生きてきた中で一番幸せかもしれない」
「隼助様……」
見つめ合い、微笑み合う。それだけで、幸せで満たされる。彼となら、どこへ行こうが、幸せに暮らせる。そう、思わずにはいられない。
「私も、同じです」
幸せを噛み締めながら伝えると、隼助は不意にシルクハットを頭から下ろした。それで顔を隠すと、チュッとハナに口づける。
「しゅ、隼助様……っ!」
真赤になりながら小声で抗議すると、隼助はクスクスと笑う。
「すまない、つい我慢ができなかった。だが、可愛過ぎるハナもいけない」
微笑まれ、それがハナにも伝染する。頬がどうしようもなく緩み、幸せでいっぱいになる。
やがて弁当を食べ終えると、二人は手を繋いだ。隼助の手は大きくて、あたたかい。汽車はガタゴトと、ハナたちを遠くへいざなう。心地よい揺れに、ハナのまぶたが重くなっていく。
「眠いなら、寝てしまいなさい」
隼助がそう言って、ハナの頭を撫でる。その温もりも心地よくて、幸せに満たされながら、ハナは浅い眠りへと落ちていった。
鷹保はため息を漏らしながら、戸の方へ歩き、執事長の背後にある遊戯室の戸を開けた。
「ここにいたのね!」
声の女性は遠慮もせずに、ズカズカと遊戯室の中に入ってきた。見た目にも高価だと分かる、光沢のある紅色のドレスに身を包み、小さな薔薇のついた帽子を被った貴婦人。
しかし、その顔は真っ赤になっており、すさまじい怒りが眉の辺りを這っているようだった。
(あの方が、鷹保様のお母様……)
彼女はハナには目もくれず、鷹保を部屋の壁際まで追いやる。
「どういうことなの!?」
女性は鷹保に新聞を突きつけた。
「貴方は今までもこういうことは多々あった、けれど全て名のあるご令嬢との噂だったから目をつぶってきました。けれど、今回はどうです? どこの馬の骨とも分からない女と、逢引ですって!?」
「母上、私は……」
「大体、名のある公爵家の長男としての自覚はおありなのかしら!? 『帝都一の色男』だなんてみっともない! ほんっとうに、みっともない!」
鷹保の母は持っていた新聞をわざと落として、それを踏みつけた。つま先を、ぐりぐりと押し付ける。
「青い目の異人だなんて噂もあるじゃない! 私はそんなの、絶対に認めないですからね!」
鷹保は黙って、目の前の彼女が言い切るのを静かに待った。
けれど、ハナは我慢がならなかった。
(鷹保様は何も悪いことをしていないのに、どうしてこんなに一方的に怒られなければならないの……?)
怒りがふつふつと湧いてくる。言ってやろうと思った。あれは、逢引などではない、と。だから、鷹保は何も悪くない、と。例え母親だろうが、あなたの方が失礼である、と。
「昨夜の相手は、この私です!」
ハナが声を上げた。鷹保の母が、急にギロリとこちらを睨んだ。その顔はまるで鬼の面のようだ。
彼女はそのまま、ズカズカと大きな足音を立ててこちらに歩み寄る。
「貴女が、昨夜の相手? その恰好……青い目の女中だなんて! しかも泥だらけじゃない! ああ、汚らしい。汚らしい女! 忌々しい!」
あまりの剣幕に圧倒され、ハナは何も言えなくなってしまった。
「す、すみません……」
小さく呟いたが、彼女の「ああ、忌々しい!」という叫びにかき消されてしまった。
「いいこと!」
彼女は不意に振り返り、鷹保を睨む。
鷹保は、表情のない顔で、何も言わずに自分の母親をじっと見ていた。
「こんな異人は即刻解雇なさい! ただの女中ならと目をつぶってきたけれど、こんなことになってはもう我慢がならないわ! 鷹保邸の忌々しい異人たちは即刻解雇! いいわね!」
婦人はそれを叫ぶように言い切ると、耳をつんざくくらいの大きな音を立てて戸を閉めて、遊技室から出て行った。
執事長が「大奥様をお見送りしてまいります」と部屋を出て行く。
それで、静寂が訪れる。鷹保のため息が、遊戯室に響いた。
「すみません、私、余計なことを……」
ハナは肩を落とした。怯んで、最後まで言うことが出来ずに、変な誤解を産んでしまった。
しかも、このままでは自分だけでなく、リサや他の女中も解雇されてしまう。
(悔しい。どうして、私は……)
泣きそうになって、下唇をぐっと噛んだ。
「はははっ!」
突然鷹保が笑いだし、ハナはぎょっとした。
「お前さんは面白い女だよ、本当に」
「どう、して……?」
ハナは袖口で涙を拭った。鷹保はまだ腹を抱えている。
「私の想像の上をゆく。自己申告とは、かなりの傑作だ」
やはり失敗したのだと、がっくりと肩を落とす。するとこちらに歩み寄った鷹保が、ハナの肩にそっと手を乗せた。
「おひいさんのせいじゃないさ」
「でも、私のせいで、余計な勘違いを――」
言っている間に鷹保が首を横に振った。ハナはそれ以上、何も言えなくなってしまった。
「昨夜の教会で言ったこと、覚えているかい?」
「お兄様が、異人と駆け落ちしたって……」
鷹保を見上げると、彼は窓の外を見ていた。けれど、その目はどこか遠くを見ているようだった。
「ああ。私は妾の子で隠されて育ってきたから、兄の身代わりにちょうど良かった。そう話したろう?」
「妾の子……あ!」
(じゃあ、大奥様は鷹保様の本当のお母様じゃなかったんだ!)
ハナの声に、鷹保は自嘲するように笑った。
「私は妾の子なんだよ。私の母は、父の元で働く女中だった。異国で父が惚れ込んで、日本に連れ込んで女中にしたのさ」
「え……?」
「私の母親も、異人。兄の駆け落ち相手も、異人。それで、あの人は”異人”に対してやたら気が立つのさ」
鷹保はそう言ったけれども、ハナは彼女が憤慨した理由がそれだけではないことにすぐ気がついた。ハナが、女中だったからだ。
「私は親の決めた相手と婚姻する。私は中條家の、長男だからな。そうすると何度も言っているのに、本当あの人には困ったものだよ」
鷹保はまた笑った。今度は、力のない笑いだった。
「鷹保様が、全部背負う必要はないのに……」
思わずそんな言葉が漏れた。
中條家の長男という重荷。異人と駆け落ちした兄の身代わりであるという秘密。自分は妾の子という隠し子だったという秘密。
それを、鷹保は全部一人で背負って生きている。
「仕方がないんだよ、おひいさん」
鷹保はハナの頭に手を置いた。
「過去は変えられない。立場も変えられない。私は『中條鷹保』として生きていくしかないんだよ」
はっとして顔を上げた。優しい瞳が、ハナを見下ろしていた。
「『鷹保』というのは、本当の名ではないのですか?」
「ああ。兄の名だ」
微笑みながら、鷹保はハナの頭を優しく撫でた。
「ごめんなさい、私、昨夜、『鷹保様は鷹保様だ』だなんて……」
なんてひどい言葉だろう。真実を知った今は、それはまるで呪縛のようですらある。
「構わないさ。おひいさんは、知らなかったんだから。それに、私は嬉しかったよ。おひいさんが、私を私でいいと、言ってくれたのだから」
鷹保の目が、よりいっそう細められる。鼓動は高鳴るけれど、同時に苦しさと切なさと申し訳無さが込み上げて、喉の奥が苦しくなった。
「あの……」
「何だい、おひいさん?」
ハナは絞り出すように声を出した。
「聞いてもよろしいですか? 本当の、名を……」
「……私の名は、隼助だよ。ハナ」
「隼助、様……」
ハナ、と自分の名を呼ばれ、ハナも彼の名を呼びたくなった。
ただそれだけなのに、隼助はハナに笑いかける。
「お前さんにそう呼ばれると、余計に特別な気がするよ、ハナ」
そう言われて、ハナも胸がいっぱいになった。不意に目頭が熱くなって、目尻から生暖かいものが流れ出す。
「どうして泣いているんだい?」
頭を撫でていた隼助の手が、そっとハナの頬に触れた。その親指の腹で、涙を拭き取るようにそっと頬をなぞる。
「……分かりません。分からないけれど、とても胸がいっぱいなんです」
「そうかい。……どうしてだろうね、私もだよ」
隼助がそう言う。ハナは隼助を見つめた。
(このお方が抱えているものを、私も一緒に背負えたらいいのに)
そんなことが高望みであることは、ハナは分かっていた。けれど、そう思えずにはいられなかった。
(お側にいたい。このお方を、支えたい)
そう思えば思うほど、胸がキュウっと苦しくなる。叶わないからこそ、そう強く思ってしまうのかもしれない。
「隼助様、私――」
『好きです』と、伝えようとした。
けれども、それより先に、隼助の唇がその言葉を封じ込めた。
唇に感じる、甘く柔らかな感触。優しい接吻に、ハナは一度目を見開く。けれど、なかなか離れないその甘美な心地に、そっと目を閉じた。
どのくらい、そうしていただろう。隼助が唇を離して、ハナはそっと目を開いた。目の前に優しい笑みの隼助がいて、これが夢でないことを確かめた。
ハナは自分の唇に触れた。ここに、隼助のものが触れていたことを、確認するように。
「私も好きだよ、ハナ」
まっすぐに見つめられる。その眼差しに射抜かれ、目を反らすことができない。反らしたくない。ずっと、見つめていたい。
「好きです、隼助様……」
ハナがそう言うと、隼助はそっと、ハナを抱きしめた。
「ハナ……」
隼助は、ハナを抱きしめたまま声をかける。
「な、なんでしょう……?」
彼の声が弱々しくて、ハナは緊張しながら口を開いた。
「もしもこの現実から逃げ出せるなら、……逃げ出してしまおうか」
「え……?」
ハナは鷹保の腕の中で、彼の顔を見上げた。どこか虚空を眺めた彼の目は、キラキラと輝いて見える。
「兄上も逃げ出したんだ。私が逃げ出したって、同じこと」
微笑まれて、何も言えなくなった。
隼助はそんなことする人でないと、どこかで思っている。
けれど「やめてほしい」と言ってしまえば、隼助を重圧の中に押し込めてしまっているような気がする。
「どこか遠くで、二人きりで暮らすんだ。ハナは土いじりが得意だから、私にも教えてくれ。二人で畑をこしらえて、慎ましく暮らせばいい」
夢のような話に、思わずハナは頷いた。
すると隼助は抱きしめていた腕を解く。代わりにハナの頭を軽く撫でて、少し待っていてくれと遊技場を出ていく。
ほんの数分で戻ってきた隼助は、外套とシルクハットをこしらえて、今から出掛けるかのような恰好になっていた。
「隼助、様……?」
隼助がきゅっと、立ちすくむハナの手を握った。
「まさか、本気で……?」
「ああ」
隼助は遊技室の、執務室の反対側の壁に備え付けた本棚をぐっと押した。すると、そこがクルリと回転する。隠し扉だ。
「え……?」
「言ったろう? この部屋は、隠れ処。こうやって、脱出さえも可能なのさ」
薄暗く狭い通路を前に、ハナは立ち止まる。
このまま、この人と本当に逃げてもいいのだろうか? そう思うけれど、隼助は優しくハナの手を引く。
「ほら、行くよ。愛しい私の、おひいさん」
隼助がそう言って、微笑む。ハナはその笑みに頷いて、彼と共に鷹保邸から逃げ出した。
鷹保邸の裏から垣根の中の細い隙間を通り、外へ出た。こんな抜け道があったのかと思いながら、隼助に手を引かれ道を走る。記者にバレないように大通りへ出れば、そこから都電に乗るまではあっという間だった。
乗り込んだ都電が動き出し、ほっと息をつく。けれど、すぐに周りの視線が気になって、ハナは周りを見回した。
けれど、誰も二人を気に留めない。まさか渦中の人物が都電に乗っているとは、誰も思わないらしい。
ふと見上げれば、隼助と目が合って微笑み合う。それだけで、胸に幸せが広がった。
上野駅で都電を降りると、隼助は今度は国鉄の切符を買う。
一体どこまで向かうのだろうと不安になるが、隼助が優しく微笑むので、それだけで満たされてしまう。
乗り込んだ汽車の、二人がけの席に腰掛ける。上野駅で弁当売から買っておいた駅弁を、二人で広げて食べた。
「ハナ」
不意に名前を呼ばれて振り向くと、隼助は顔を綻ばせて言った。
「私は今、生きてきた中で一番幸せかもしれない」
「隼助様……」
見つめ合い、微笑み合う。それだけで、幸せで満たされる。彼となら、どこへ行こうが、幸せに暮らせる。そう、思わずにはいられない。
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幸せを噛み締めながら伝えると、隼助は不意にシルクハットを頭から下ろした。それで顔を隠すと、チュッとハナに口づける。
「しゅ、隼助様……っ!」
真赤になりながら小声で抗議すると、隼助はクスクスと笑う。
「すまない、つい我慢ができなかった。だが、可愛過ぎるハナもいけない」
微笑まれ、それがハナにも伝染する。頬がどうしようもなく緩み、幸せでいっぱいになる。
やがて弁当を食べ終えると、二人は手を繋いだ。隼助の手は大きくて、あたたかい。汽車はガタゴトと、ハナたちを遠くへいざなう。心地よい揺れに、ハナのまぶたが重くなっていく。
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レイーアが目覚めたら横にクーン男爵家の令息でもある騎士のマットが寝ていた。曰く、クーン男爵家では「初めて契った相手と結婚しなくてはいけない」らしい。
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