孤独な強面天才外科医は不自由な彼女を溺愛したい

朝永ゆうり

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『離別』のエチュード ③

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「ごちそうさまでした。帰りますね」

 小口で食べたから、時間がかかってしまった。長居をするつもりはなかったのに、と、杏依は箸を置き立ち上がる。

「ピアノは、いいのか?」

「結構です」

 弾けないものは、弾けない。自分にはピアノを引く資格はない。この三年間、そうやって心を押し殺して生きてきた。

「ピアノなんか、見たくもなかったです」

 あの日の後悔を思い出し、胸を憎しみに支配されるくらいなら、ピアノなんか視界に入れたくはない。

「……俺が聞きたいって言ったら?」

「は?」

 座ったままの白哉に見上げられ、思わず素の声が出た。

「聞いたことないから、お前のピアノ。音大卒の元ピアノ講師なんだろ?」

 何、それ。ムカつく。

「弾かないって言いましたよね?」

「……本当は、弾きたいんじゃないのか?」

 強面な彼の瞳は、私の心の中を全て見透かしてくるよう。
 思わず息を飲み、慌てて叫んだ。

「弾きたくなんかありません! ピアノはもう、辞めたんです」

 それでも、白哉はこちらを見続ける。杏依はますます居心地が悪くなった。
 だから思わず、声を張り上げてしまった。

「誰のせいでピアノが弾けなくなったと思ってるんですか!?」

 杏依の声が、静かなお屋敷内に響いた。
 こだまが消えて、杏依ははっとした。

 目の前の彼は、相変わらずこちらを見上げていた。
 けれど、先程まで杏依の心を読もうとしていた瞳は、まるでガラス玉になってしまったようにしゅんと下げられる。

「すみません」

 腕を切ることを選択したのは、自分だ。あの日、同意書にサインしたのは、他ならぬ杏依なのだ。

「そうだったな。悪い」

 そう言う白哉の声は、切なく苦しげで。俯いた彼の頭頂部は、頼りなく見えた。
 そんな彼は、杏依の頭の中にいる、威圧感のある強面のお医者様とは程遠い。

「じゃあ、俺が弾く」

「え……?」

 白哉はそう言うと、突然立ち上がった。

「聞いてくれるか? 先生」

 ダイニングを出ていく背中は振り返って、杏依に優しく微笑んだ。

 白哉はピアノの蓋を開け、一人で弾き始めた。

「嘘……」

 彼が弾き始めたのは、ショパンの『別れの曲』。有名なエチュードである。

 その音色は『離別』を象徴するように、もの悲しく、聞いているだけで嫌になる。
 その音色が幾重にも重なり繊細に聞こえるのは、打鍵が丁寧だから。なのに、感情がかき乱されて、杏依は思わず耳をふさいだ。

 なんなのよ、これ。

 嫌で仕方ないのに、耳をふさいでも何かを訴えるように頭の中に響く。まるで、自分の心を抉るようなピアノの音色。
 ムカつくくらいに上手い。それを奏でているのが〝人殺し〟であることが、余計に腹立つ。

 腹が立つのに、溢れたのは涙だった。苦しくて、恨めしくてたまらない。

 なんで、こんなに胸を打つ音色を奏でることができるの?

 やがて演奏が終わる頃には、杏依の顔はグシャグシャになっていた。ただ彼の背中を見つめて、立ち尽くしていた。
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