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恋人たちの部屋
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「それ」は、その部屋ができたときからそこにいた。正確には、その部屋ができる前からそこにいたのかもしれないし、地球ができる前からそこにいたのかもしれないし、宇宙ができる前からそこにいたのかもしれない。何はともあれ、「それ」はそこにいた。存在はしていなかったが、確かにそこにずっといたのだ。
ある日、その部屋に一組の若いカップルが引っ越してきた。女性は一般的には美人と言われるような容姿で、男性はそうでもない容姿だったけれど、「それ」には人間が引いた認識のラインはわからなかった。
カップルは付き合いたてで、初々しく、仲睦まじかった。どちらも初めての相手で、引っ越してきたその日に行われたキスもセックスも手際が悪く、不器用だった。しかしお互いにとても興奮していた。一晩中、何度も何度も二人は獣のような嬌声と咆哮を上げながら、至り、オーガズムに溺れた。部屋の中は、男女の汗と愛液の匂いで満ちていた。ベッドの上で激しく交じり合う二人は、なんとも艶めかしかった。けれど「それ」は、生物ではないのでその本能的な行為を理解せず、またそれを不快とも快感とも思わなかった。ただただ「それ」は、二人の激しい動作を見、二人の叫ぶような声を聞き、二人が放つ匂いを嗅いでいた。目も耳も鼻もなく、視覚も聴覚も嗅覚もなかったけれど、「それ」は確かにそれができた。「それ」にもわからなかったけれど、「それ」にはできた。「それ」はそのすべてにどうとも思わず、そのすべてが当然のことであるかのように、やはりただそこにいた。
カップルは日常を生きた。朝、目覚ましに起こされる日常を。朝食を食べる日常を。どちらかが仕事に出かける日常を。どちらかが家事をする日常を。二人揃ってテレビを観て笑い合う日常を。くだらない一日の話を冗談で飾りながら、夕食とともに一緒に飲み込む日常を。夜、ベッドの上で重なり合って、愛を確かめ、囁き合う日常を。多種多様のように見えて、基本的にはローテーションで、レパートリーの少ない日常を。誰かが飽きて、捨ててしまった日常を――。
二人はそんな愚にもつかない日常を、何の不満もなく、幸せそうに生きていた。それは昼間の陽だまりのように部屋の中を明るく暖めたけれど、「それ」にはその温度を感じることはできなかった。その暖かさは部屋中の埃を色鮮やかな花びらに変え、くすんだ壁紙を虹色に塗り直し、三角コーナーのゴミもゴミ箱のゴミも美しいガラス玉へと変えたけれど、「それ」はそれらに何の感動も退屈も覚えることはなかった。
二人のその暖かさに満ちた生活は、延々と続いていくかのような神秘性があった。現に二人も、そのような振る舞いをし、そのような幻想を見ていた。しかし「それ」は、二人のその幻想を見ようとはしなかった。「それ」は、ただ狭い部屋の中で楽しげに踊り続ける滑稽な二人の姿を見ていた。
最期は、突然でも呆気なくでもなく、じわりじわりナメクジが這うように、日常を湿らせ、幻想を徐々に溶かすところから始まった。
一方の仕事が忙しくなり、一方がそれに不満を感じ、二人は些細なことで言い争うようになっていった。言い争えば言い争うほど、二人は互いに、引っ越し当初に持っていた感情たちを失っていった。
それと一緒に、部屋に満ちる暖かさはだんだんとその温度を下げていった。色鮮やかな花びらは灰色の埃に戻り、虹色の壁紙も元のくすんだものに戻り、美しいガラス玉たちは醜悪なゴミたちへと戻った。それでもまだ常温だった。暖かさは残っていた。二人が完全に最期を迎えたわけではなかった。しかし今更温度を上げることはできない。それをなぜか二人は知っていて、二人をずっと見続ける「それ」は知ってはいたけれど理解はしていなかった。
そしてついに最期を迎えた。二人のうちの一方が別の異性を部屋に連れ込んで、二人が愛し合っていたベッドの上で、複雑に混ざり合った。まるであの晩の二人の動きや声や匂い、そのすべてを掻き消そうとするように、あるいは上塗りしようとするように、難病に苦しむかのように、ぶつかって、ふざけて、弾け合って混ざり合った。
あの晩のすべてが消え去った頃、仕事に出かけていたもう一方が帰ってきた。彼あるいは彼女は、玄関のドアを開けた瞬間、自分が消された部屋を目にした。自分が残していたはずのすべてを消された部屋を。
彼あるいは彼女は暴れた。自分の欠片がどこかにまだ落ちていないか探すように、取り戻そうとするかのように、ただ情動に任せて暴れた。その姿を見た一方は、自分の痕跡も思い出も捨て置いて、一目散に逃げだし、それっきり部屋には戻ってこなかった。
残された彼あるいは彼女は、しばらく廃人のようにそこにいた。「それ」は彼あるいは彼女の隣にいて、その茫然とした横顔をじっと観察していた。何を観察していたというわけでもない。ただ漠然と、「それ」は彼あるいは彼女を無関心に見続けた。
彼あるいは彼女は、そのうち荷物をまとめ、出ていった。その荷物の中には恋人だった一方の痕跡も思い出も何も含まれておらず、ただ空っぽだけが入っていた。彼あるいは彼女が去った後には、誰も何もない、元の部屋がそこにあった。
温度はもうなかった。少しだけ冷え冷えとしていた。
「それ」はカップルがいたときもいなくなったときも、変わらずそこにいたし、これからも変わることはなかった。ただ「それ」は、いつまでもこの部屋を見続けるだけなのだった。
窓から差し込む日の光が、殺風景な室内を無機質に照らした。
ある日、その部屋に一組の若いカップルが引っ越してきた。女性は一般的には美人と言われるような容姿で、男性はそうでもない容姿だったけれど、「それ」には人間が引いた認識のラインはわからなかった。
カップルは付き合いたてで、初々しく、仲睦まじかった。どちらも初めての相手で、引っ越してきたその日に行われたキスもセックスも手際が悪く、不器用だった。しかしお互いにとても興奮していた。一晩中、何度も何度も二人は獣のような嬌声と咆哮を上げながら、至り、オーガズムに溺れた。部屋の中は、男女の汗と愛液の匂いで満ちていた。ベッドの上で激しく交じり合う二人は、なんとも艶めかしかった。けれど「それ」は、生物ではないのでその本能的な行為を理解せず、またそれを不快とも快感とも思わなかった。ただただ「それ」は、二人の激しい動作を見、二人の叫ぶような声を聞き、二人が放つ匂いを嗅いでいた。目も耳も鼻もなく、視覚も聴覚も嗅覚もなかったけれど、「それ」は確かにそれができた。「それ」にもわからなかったけれど、「それ」にはできた。「それ」はそのすべてにどうとも思わず、そのすべてが当然のことであるかのように、やはりただそこにいた。
カップルは日常を生きた。朝、目覚ましに起こされる日常を。朝食を食べる日常を。どちらかが仕事に出かける日常を。どちらかが家事をする日常を。二人揃ってテレビを観て笑い合う日常を。くだらない一日の話を冗談で飾りながら、夕食とともに一緒に飲み込む日常を。夜、ベッドの上で重なり合って、愛を確かめ、囁き合う日常を。多種多様のように見えて、基本的にはローテーションで、レパートリーの少ない日常を。誰かが飽きて、捨ててしまった日常を――。
二人はそんな愚にもつかない日常を、何の不満もなく、幸せそうに生きていた。それは昼間の陽だまりのように部屋の中を明るく暖めたけれど、「それ」にはその温度を感じることはできなかった。その暖かさは部屋中の埃を色鮮やかな花びらに変え、くすんだ壁紙を虹色に塗り直し、三角コーナーのゴミもゴミ箱のゴミも美しいガラス玉へと変えたけれど、「それ」はそれらに何の感動も退屈も覚えることはなかった。
二人のその暖かさに満ちた生活は、延々と続いていくかのような神秘性があった。現に二人も、そのような振る舞いをし、そのような幻想を見ていた。しかし「それ」は、二人のその幻想を見ようとはしなかった。「それ」は、ただ狭い部屋の中で楽しげに踊り続ける滑稽な二人の姿を見ていた。
最期は、突然でも呆気なくでもなく、じわりじわりナメクジが這うように、日常を湿らせ、幻想を徐々に溶かすところから始まった。
一方の仕事が忙しくなり、一方がそれに不満を感じ、二人は些細なことで言い争うようになっていった。言い争えば言い争うほど、二人は互いに、引っ越し当初に持っていた感情たちを失っていった。
それと一緒に、部屋に満ちる暖かさはだんだんとその温度を下げていった。色鮮やかな花びらは灰色の埃に戻り、虹色の壁紙も元のくすんだものに戻り、美しいガラス玉たちは醜悪なゴミたちへと戻った。それでもまだ常温だった。暖かさは残っていた。二人が完全に最期を迎えたわけではなかった。しかし今更温度を上げることはできない。それをなぜか二人は知っていて、二人をずっと見続ける「それ」は知ってはいたけれど理解はしていなかった。
そしてついに最期を迎えた。二人のうちの一方が別の異性を部屋に連れ込んで、二人が愛し合っていたベッドの上で、複雑に混ざり合った。まるであの晩の二人の動きや声や匂い、そのすべてを掻き消そうとするように、あるいは上塗りしようとするように、難病に苦しむかのように、ぶつかって、ふざけて、弾け合って混ざり合った。
あの晩のすべてが消え去った頃、仕事に出かけていたもう一方が帰ってきた。彼あるいは彼女は、玄関のドアを開けた瞬間、自分が消された部屋を目にした。自分が残していたはずのすべてを消された部屋を。
彼あるいは彼女は暴れた。自分の欠片がどこかにまだ落ちていないか探すように、取り戻そうとするかのように、ただ情動に任せて暴れた。その姿を見た一方は、自分の痕跡も思い出も捨て置いて、一目散に逃げだし、それっきり部屋には戻ってこなかった。
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彼あるいは彼女は、そのうち荷物をまとめ、出ていった。その荷物の中には恋人だった一方の痕跡も思い出も何も含まれておらず、ただ空っぽだけが入っていた。彼あるいは彼女が去った後には、誰も何もない、元の部屋がそこにあった。
温度はもうなかった。少しだけ冷え冷えとしていた。
「それ」はカップルがいたときもいなくなったときも、変わらずそこにいたし、これからも変わることはなかった。ただ「それ」は、いつまでもこの部屋を見続けるだけなのだった。
窓から差し込む日の光が、殺風景な室内を無機質に照らした。
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