競艇に溺れたポテトの末路

ポテト男爵

文字の大きさ
2 / 6

第2章:ポテナッチ、覚醒する

しおりを挟む
「あ? 今なんて言った?」

その声に、ポテトの耳がピクリと動いた。どこかで聞いたような、苛立ち混じりの挑発。ポテスピの煙を口に含んだまま、彼はゆっくりと顔を上げた。

スタンドの数列向こう、ポロシャツにキャップを被った男が立っている。その男の顔を見た瞬間、ポテトは目を細めた。

「……お前、なんでここいんの?」

「お前がいるなら、俺がいても別に良くね?」

そこに立っていたのは、りょうだった。ポテトが一番下に見ている男。いつもキチガイじみた言動でポテトを煽るのが大好きな、あのりょう。

「は? お前、舟券買えるほどの知識ないじゃん。つーか、俺の指数知らないって時点で“敗北者”じゃね?」

りょうはニヤニヤと笑いながら、わざとらしく耳に手を当てた。

「ポテナッチ? なにそれ。ポテトがやってる妄想表か? 俺それ見て逆張りしたわ」

「は?」

「今のレース、6-1-4。ポテナッチは“切り”って言ってたよな? 6号艇。俺、それ軸にしたんだけど。1万入れたら、ほら――」

りょうはスマホの画面をポテトに突きつけた。舟券払い戻しの確認画面。画面いっぱいに「+207,600円」の表示。

その数字がポテトの視界に突き刺さる。心拍が跳ね上がり、言葉が出てこない。

「マジで、ありがとうな、ポテナッチ。お前の“逆”行ったら勝てたわ。あーね、天才だろ? 俺って」

その瞬間、ポテトの中で何かが爆発した。

彼は無言でポテスピの箱を開け、1本、2本、3本……連続で火を点けていく。4本目を口に加えたとき、かもめが呆れながら言った。

「……お前、何本吸う気?」

「黙ってろ!!」

5本目のポテスピに火が灯った瞬間、スタンドの空気が一変した。煙が辺りを包み、周囲の観客が明らかに顔をしかめ始める。特有の、ポテスピにしかない“焦げた紙と濁った化学臭”が一帯に漂う。

「くっさ!!」

「ちょっと、吸いすぎじゃないですか!?」

係員が駆け寄ってくる。「すみません、喫煙は指定エリアでお願いします!」と叫ぶように言うが、ポテトは聞こえないふりをして煙を吐いた。

「これが俺の集中法。ガチで」

「今すぐ消してください、周りが迷惑してます!」

「しらね。ここ、空いてたし。あと俺、勝つから。てか勝つべき人間だから。お前らとは“生まれ”が違うの」

その時、りょうがまたスマホを見せてきた。

「なーなー、これ焼肉いける金額だよな? お前、俺に出させるつもり?」

「お前、俺の半径から出てけや。マジで今“降りて”きてんだよ」

ポテトの声は震えていた。怒りと、嫉妬と、負け犬の叫びが混ざったような、誰にも響かない独り言だった。

りゅうもかもめも、もう何も言わなかった。ただ一歩だけ、それぞれの席をポテトから離した。

煙だけが、空しく漂っていた。

「……おい、もう一回だけ言わせろ。俺は“外れた”んじゃない。これは“試練”なんだよ。わかる? “成長痛”ってやつ」

ポテトはベンチに座りながら、空になったポテスピの箱を振り続けていた。指は黄ばみ、息は臭く、顔には脂が滲んでいる。数分前まで5本を同時に吸っていたせいで、喉も焼け焦げたようにガラガラだった。

りょうはその横で、わざとらしく財布の札束をばらつかせながら言う。

「なー、これさ、どうやって使おっかな。ポテクロで新しいシャツ買う? あー、でもポテキ行って高級ポテ弁当食うのもアリだよな~?」

ポテトの手が震える。

「お前、マジで性格悪いな。ガチで言うけど、今のお前、結構ヤバいぞ? 人としてどうかしてる。金で人間性試されてんの、気づいてる?」

「お前が言う?」

横からりゅうが呟いたが、ポテトは聞こえなかったふりをした。自分の中では「完全に冷静な理論派」でいるつもりだった。

「……見てろって。ここから“巻き返し”すっから。まだ今日イチの指数、出てねぇから」

そう言って、ポテトは再びスマホを開いた。画面には例の謎のスプレッドシートがあり、ひとつのセルだけが点滅している。

「来た……っ!」

彼は突然立ち上がり、まるで天啓を受けたかのような顔で叫んだ。

「今だ! 今が“来てる”。ポテナッチ、来てるっ!!」

周囲の視線が一斉に集まる。

「このレース、1-6-2で決まり! 異論は認めん! 全ツッパ!!」

場内に響き渡るポテトの絶叫。それを聞いた他の観客がざわつき始める。

「うるせぇな……」

「またあのデブだよ……」

誰かが「さっき5本吸ってたヤツだろ」と呟く。完全に顔を覚えられている。ポテトの存在そのものが、すでに競艇場の“ノイズ”と化していた。

それでも、彼は勝利を信じていた。いや、勝たないと、もう何も残らなかった。

りょうが肩をすくめて、にやりと笑う。

「また逆張りするか~。ポテナッチ、逆が正解だもんな」

ポテトは睨みつけた。目に涙が浮かんでいるのか、単なる煙のせいか、本人にもわからない。

「正直言っていい? お前ら、ホント何も分かってない。俺の才能、これから“バズる”から。震えて眠れよ。あと、あと……うるせぇな!!!」

また叫んだ。意味もなく、怒りに任せて。

スタンドの係員がこちらを見て、無線で何かを喋っている。

ポテトの時間は、もう、残されていなかった。

「勝つ。これは“俺のレース”だ」

ポテトはそう言いながら、すでに3万円分の舟券を手に握っていた。もちろん、その金は自分のものではない。今朝、りゅうから借りた1万円に、かもめが「あんたもうこれ以上やんなって」と言って差し出したポテチ代のお釣り、そして競艇場内のATMで限度ギリギリまで引き出したクレカキャッシング。

「全部ぶち込んだ。これで“終わらせる”。いや、始まる」

ポテトの口は止まらない。脳が何かに取り憑かれたように、ぶつぶつと呟き続けている。

「ここで勝てば、すべてが証明される。ポテナッチ指数は真実。お前らはただ、追いついてないだけ。俺が未来を見てるだけ。あーね、見えてる奴と見えてない奴の違い? お前ら、盲目。俺、預言者」

「……終わってるな」

りょうのその言葉に、ポテトはふと目を向けた。だがその目は焦点が合っていない。まるで遠くの何かを見つめているような虚無の光。

そして、レースが始まった。

風速2m。小雨がぱらつき始めたニューポテ競技場の水面を、6艇のボートが飛び出していく。

「来い……来いっ!! 1! 6!! 2!!!」

ポテトの絶叫。身体をのけぞらせ、両手を広げ、まるで水面の神に祈るように叫ぶ。だが、序盤から明らかにレースはおかしい。

5号艇が飛び出し、続いて3号艇、そして4号艇が猛烈なターンを決めた。

「いや、待て。これは“罠”だ。捲り差しからの旋回誤差、ここから巻き返す……!」

ポテトは何かにすがるように声を上げるが、レースの展開は非情だった。

最終周回――結果は、「5-3-4」

静寂が訪れた。

舟券を握っていたポテトの手が、ゆっくりと下がっていく。目の前に広がるのは、信じていた神に見放された預言者の背中。敗北の音は、音もなく降ってきた小雨とともに、彼の脂っぽい頭皮を濡らした。

沈黙を破ったのは、りょうだった。

「お前、ほんとすげーな。逆行きすぎて、もうなんか芸術だわ。新しいジャンル、逆ポテ投資」

ポテトは何も言わなかった。ポテスピを口にくわえるが、ライターの火がつかない。手が震えていた。

かもめがポテスピを取り上げた。

「やめろって、マジで。もう限界だよ」

「返せ」

「もう、いいだろ。負けたんだよ」

「返せって言ってんだろ!! これは“勝利の煙”なんだよ、俺にとっては!!」

周囲の客たちがまたポテトを見た。係員が近づいてくる。今度は本格的に、注意では済まされない空気だった。

「ここ、退場になっても文句言えないですよ」

「は? しらね。俺の自由だし。何がいけねぇんだよ。ここ、俺のステージなんだが?」

声は震えていた。もう誰も、彼に声をかけようとしなかった。

雨は強くなっていた。ポテトのTシャツは濡れ、肌に貼り付き、輪郭が醜く浮き出ていた。

かもめがそっと言った。

「……なぁ、もう帰ろうや」

ポテトは答えなかった。ただ、舟券の破れた紙を見つめながら、唇を噛んだ。

風に乗って、かすかに煙の匂いが漂っていた。消えかけたポテスピの、最後の抵抗のようだった。

「なぁ……お前らのせいだよな、ぶっちゃけ」

雨に濡れながら、ポテトは唇を動かした。声は低く、しかし確かに、怒気を含んでいた。

かもめが一瞬止まり、りゅうは明らかにうんざりした顔をした。

「……何が?」

「いや、だから。今日俺が負けたのってさ、そもそも“空気”が悪かったわけ。お前らがそばにいると、俺のリズム狂うっていうか、“数字”がズレんの。ポテナッチは、周囲の“雑音”にも反応しちゃうから」

「お前……マジで言ってんの?」

「ガチレスな」

ポテトの目は真っ直ぐだった。信じているのだ、本当に。自分の中にある法則と、それが世界の真理だと。

「俺さ、マジで勝てる人間なの。そこに邪魔が入るから狂うわけ。わかる? 今日だって、俺一人だったら、絶対当ててた」

「お前が騒ぎすぎて、周りのやつ何人か帰ってったぞ?」

「それも“試練”。俺、そういうの全部、経験に変えられる人間だから。むしろ今、お前らを見て“学んでる”」

「……ふざけんな」

りゅうがついに声を荒らげた。珍しく、はっきりとした怒気がその声に乗っていた。

「お前さ、人のせいにしてばっかで、何一つ背負わないよな。借金も、ギャンブルも、全部他人のせい。お前、自分の人生どこにあんの?」

ポテトはポテスピをくわえ、火をつけようとして手が止まった。濡れているせいで、タバコがふにゃふにゃになっていた。イライラとした手つきで、別のポテスピを取り出す。

「お前、なんでそんな言い方しかできねぇの?」

「お前が人の金でギャンブルして、人のせいにして、それで文句まで言うからだよ」

「つーか、そもそもお前が俺を競艇に連れてきたのが悪いだろ。始まりそこじゃん?」

「……は?」

「な? そうやって、人に責任押し付けて逃げるのお前の癖じゃん。お前ってマジで“逃げグセ”あるよな。俺は、ちゃんと勝負してるわけ。ポテナッチっていう“武器”で。お前は?」

りゅうは何も言わなかった。ただ、かもめがぽつりと呟いた。

「お前、自分で言ってておかしいって思わないの?」

ポテトはにやりと笑った。

「思わない。むしろ今、お前らの言葉を“データ化”してる。“否定される環境”って、逆に成功の前兆だから。“ポテナッチ環境パラドックス”って概念、今ここで生まれた」

かもめとりゅうは、言葉を失っていた。

ポテトは、そのまま場内の端の方へと歩き出した。足取りは重く、だが、どこか偉そうに。あの独特の“ポテトの歩き方”だった。

背後に、かもめが絞り出すように呟いた。

「……やっぱ、アイツもうダメだな」

りゅうは頷かず、ただ空を見上げた。

雨はまだ、降り続いていた。

翌朝、ポテトはニューポテ競技場の前に立っていた。昨日の雨で靴はまだ湿っており、Tシャツは相変わらず同じくたびれたまま。髪は寝ぐせで爆発し、口元には何かの食べかすがくっついたまま。

「戻ってきたぞ……“聖地”に」

誰に聞かせるでもなく、ポテトは低く呟いた。目の下にはクマ。手にはコンビニの袋。中にはポテスピ2箱と、エナジー系ポテドリンク、そしてなぜかスケッチブックが入っていた。

「今日から、記録をつける。“ポテナッチ完全体”の構築だ。俺の未来は、ここから始まる」

ポテトはその場にあぐらをかいて座り込み、スケッチブックを開いた。一枚目には太字で書かれていた。

『ポテナッチver1.7.1 - 暴風編 -』

「風速、湿度、雲の形、売店の匂い、スタッフの歩く速度、客層の髪型割合――全部関係ある。舟券っていうのは、そういう“場”で動くもんだから」

そして彼は、周囲の人間をこっそり観察し、誰かが電話をしていれば「この時間帯は電磁波干渉が多い」と記録し、ゴミが飛んでくれば「風圧変化係数に影響」と書き込み、遠くで係員がくしゃみをすれば「不吉サイン」と書いた。

完全に、狂っていた。

そして迎えた第1レース。

ポテトは1-2-6を全財産で買った。昨日の夜、ポテチを売り飛ばし、スマホのケースも外してポテカリに出し、数千円をかき集めて、そこにすべてを投じた。

「俺が当てたら、お前ら全員黙るからな……」

りゅうもかもめも、今日はいない。誰も彼を止める人間はいなかった。

レースが始まる。

1号艇が出遅れ、2号艇がフライング。最終的に決着は3-5-4。

ポテトの舟券は、もちろん紙屑になった。

しかし彼は笑った。

「……見えた。これは“前兆”だ。次が本命。これは“試金石”。これを越えた先に、完全体が現れる」

そのままスケッチブックの新しいページに、こう書いた。

『ポテナッチver1.7.2 - フライング調整版 -』

隣で見ていた見知らぬ老人が、「兄ちゃん……もう帰んな」と小さく呟いた。

だがポテトは立ち上がり、また舟券売り場へと歩き出した。偉そうな歩き方で、すべてを理解したかのような顔で。

誰ももう、彼を笑わなかった。

哀れみが、すでに勝っていたから。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

まなの秘密日記

到冠
大衆娯楽
胸の大きな〇学生の一日を描いた物語です。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

女帝の遺志(第二部)-篠崎沙也加と女子プロレスラーたちの物語

kazu106
大衆娯楽
勢いを増す、ブレバリーズ女子部と、直美。 率いる沙也加は、自信の夢であった帝プロマット参戦を直美に託し、本格的に動き出す。 一方、不振にあえぐ男子部にあって唯一、気を吐こうとする修平。 己を見つめ直すために、女子部への入部を決意する。 が、そこでは現実を知らされ、苦難の道を歩むことになる。 志桜里らの励ましを受けつつ、ひたすら練習をつづける。 遂に直美の帝プロ参戦が、現実なものとなる。 その壮行試合、沙也加はなんと、直美の相手に修平を選んだのであった。 しかし同時に、ブレバリーズには暗い影もまた、歩み寄って来ていた。

盗み聞き

凛子
恋愛
あ、そういうこと。

処理中です...