持たざる者は、世界に抗い、神を討つ

シベリアン太郎

文字の大きさ
127 / 180

第127話 〈夜哭きのイーリス〉

しおりを挟む
 “影の使徒”〈夜哭きのイーリス〉──彼女は何度目かの報告書を手にした瞬間、鋭い音を立ててそれを引き裂いた。

「また、“所在不明”か……くだらない」

 イーリスの声は完全に冷え切っていた。だがその中には、抑えきれない苛立ちが渦を巻いていた。

 標的──レオン。
 名前はどうでもいい。ただの“殺すべき対象”に過ぎないのだから。
 それがまだ生きている。まだ息をして、この世界に立っている。
 その事実が、彼女の精神を鋭利に蝕んでいた。

「どうして、まだ生きているの……?」

 彼女にとって、生きるということは「殺す」ことと同義だった。命を奪うことでしか、自らの存在を実感できない。
 生まれ落ちた時から、“影”として育てられ、感情を捨て、殺すためだけに訓練された。そんな彼女にとって、“標的を殺せない”状況など、とてもではないが耐えられない。

「〈冥主〉の命令など、もはやどうでもいいわ……」

 吐き捨てるように呟いた。
 待つのは終わりだ。報告を受けるのも、命令を仰ぐのも、もううんざりだった。

「私が行く。必ず見つけ出して、喉を裂いて……静かに、死を与える」

 黒き外套を翻し、彼女は音もなくその場を後にした。影が溶け、空間が歪む。



 イーリスがその街に足を踏み入れたのは、夕暮れの時間帯だった。
 街はいつも通りの賑わいを見せ、商人たちが声を張り上げ、旅人や盗賊たちが混ざり合う雑多な空気が充満している。だが、彼女の目に映るのは、ただ一点、標的のみ。

(感じる……何か、微かに残滓がある)

 彼女は通りを歩く男や女、荷車の車輪の軋む音、遠くの鐘の響きすらも意識の外に追いやり、目に見えぬ“気配”を探し始めた。暗殺者にしか感知できぬ殺気、そして“影のゆらぎ”。殺しに魅入られた者だけが持つ、獣にも似た嗅覚。

「隠れても無駄よ。どれだけ巧妙に姿を隠しても……殺す者は、見つけ出す」

 月が昇り、夜の帳がラドニアを覆い、灯りがともり始める頃、イーリスは既に動き出していた。
 市場、酒場、神殿、裏通り、情報屋のアジト、宿──すべてを、気配で探る。
 どこかに、必ずいる。その首を、この手で落とすまでは──彼女の夜は終わらない。
 ラドニアの夜は賑わいと混沌に満ちていた。だが、イーリスの足音は決してその雑音の中に溶けなかった。なぜなら、彼女の歩みは音そのものを拒絶する“術”であり、存在そのものを拒む“殺意”だったからだ。

 イーリスはまず、〈裏市〉に向かった。金と情報が交錯する地下市場。ここには、目に見えぬ者たちの痕跡が濃く残る。とくに“身元不明”の者が現れれば、そこには必ず「記録なき取引」がある。

(この街に、いる)

 確信が走る。だが、獲物は地下に潜っている。表の足取りは見えない。そこでイーリスは街の〈灯〉ではなく、〈影〉の中に目を向け始める。
 ラドニアの神殿跡地。かつて聖教国の布教施設であった廃墟に、イーリスは夜中独りで足を踏み入れる。風の通り抜ける音、煤けた壁、崩れた祭壇。そのすべてが、ただの瓦礫に見える。

 だが──

(……足跡)

 埃の中に、わずかに崩された部分がある。最近、人が立ち入った痕跡。
 しかも、重さが偏っていない。武人か、それとも鍛えられた女の動きか。
 イーリスは一瞬、目を閉じて呼吸を整える。
 空気の流れ、魔力の残滓、そして感覚に残る“違和感”を一つ一つ拾い上げていく。

 その夜、彼女は七つの宿と六つの地下通路を調べ上げた。
 無人の空間、人気のない小部屋、物音一つしない空き家──
 その夜から、イーリスは街の空気そのものを変え始める。
 気配を読める者なら、肌を撫でる“殺意”の風を感じるはずだった。

 一方、レオンとレティシアもまた、それに気付いている。
 無言の圧力。見えない誰かが、自分たちの後ろに常にいるような感覚。
 イーリスの刃はまだ抜かれていない。
 だが、彼女の狩りは既に始まっていた。
 ──“次に動いた瞬間、斬る”。
 そう語るように、イーリスは標的の呼吸を、歩幅を、動きの癖さえも“読み込んで”いく。

「逃がさない。私が、貴方を殺す」

 それは命令ではなく、呪いのような誓いだった。
 やがて、影はレオンの背中に手をかけようとしていた。



 静かな夜だった。
 だがその静けさは、嵐の前のそれだった。
 ラドニアの外れ、廃屋となった旧防衛塔にて、レオンは窓越しに街を見下ろしていた。遠くに灯る街灯。だがそれらの輝きとは裏腹に、見えない「何か」が迫ってきているのを、彼は確かに感じていた。

「……来ているな」

 低く呟いたその言葉に、背後からレティシアの声が応える。

「うん。昨日あたりから、風の流れが変わったね。無意識に人が通らなくなっている区域がある」
「俺も……寝ている時、誰かに覗かれているような感覚があった。動きはないが、気配だけが確実に近づいてきてる」

 認識阻害の魔道具があるとはいえ、それはあくまで“人の目”を欺くもの。気配までは完全には覆えない。
 そしてその殺意は、冷たい霧のように、確かに空気を染めていた。

「恐らく、〈黒翼〉の……暗殺者だな。普通の刺客じゃない。これは、まるで“獣”だ」

 レオンの言葉に、レティシアがわずかに眉を寄せる。

「どうする? 逃げるなら、今のうちだよ? まだ相手の気配の位置は遠いから、別の街に潜れば追跡は振り切れる可能性もあるけど?」
「いや──ここで仕留める。むしろ好機だ」

 レオンの声には、覚悟があった。

「向こうはまだ、こちらの動きを完全には読み切っていない。気配の探知に徹しているなら、逆にその“感覚”を利用できる。誘導してやろう。狩る側が、狩られる側になるってやつだ」

 そうして二人は、罠を張るための舞台を整え始めた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」

音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。 本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。 しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。 *6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。

30年待たされた異世界転移

明之 想
ファンタジー
 気づけば異世界にいた10歳のぼく。 「こちらの手違いかぁ。申し訳ないけど、さっさと帰ってもらわないといけないね」  こうして、ぼくの最初の異世界転移はあっけなく終わってしまった。  右も左も分からず、何かを成し遂げるわけでもなく……。  でも、2度目があると確信していたぼくは、日本でひたすら努力を続けた。  あの日見た夢の続きを信じて。  ただ、ただ、異世界での冒険を夢見て!!  くじけそうになっても努力を続け。  そうして、30年が経過。  ついに2度目の異世界冒険の機会がやってきた。  しかも、20歳も若返った姿で。  異世界と日本の2つの世界で、  20年前に戻った俺の新たな冒険が始まる。

裏切られ続けた負け犬。25年前に戻ったので人生をやり直す。当然、裏切られた礼はするけどね

竹井ゴールド
ファンタジー
冒険者ギルドの雑用として働く隻腕義足の中年、カーターは裏切られ続ける人生を送っていた。 元々は食堂の息子という人並みの平民だったが、 王族の継承争いに巻き込まれてアドの街の毒茸流布騒動でコックの父親が毒茸の味見で死に。 代わって雇った料理人が裏切って金を持ち逃げ。 父親の親友が融資を持ち掛けるも平然と裏切って借金の返済の為に母親と妹を娼館へと売り。 カーターが冒険者として金を稼ぐも、後輩がカーターの幼馴染に横恋慕してスタンピードの最中に裏切ってカーターは片腕と片足を損失。カーターを持ち上げていたギルマスも裏切り、幼馴染も去って後輩とくっつく。 その後は負け犬人生で冒険者ギルドの雑用として細々と暮らしていたのだが。 ある日、人ならざる存在が話しかけてきた。 「この世界は滅びに進んでいる。是正しなければならない。手を貸すように」 そして気付けは25年前の15歳にカーターは戻っており、二回目の人生をやり直すのだった。 もちろん、裏切ってくれた連中への返礼と共に。 

レイブン領の面倒姫

庭にハニワ
ファンタジー
兄の学院卒業にかこつけて、初めて王都に行きました。 初対面の人に、いきなり婚約破棄されました。 私はまだ婚約などしていないのですが、ね。 あなた方、いったい何なんですか? 初投稿です。 ヨロシクお願い致します~。

【魔女ローゼマリー伝説】~5歳で存在を忘れられた元王女の私だけど、自称美少女天才魔女として世界を救うために冒険したいと思います!~

ハムえっぐ
ファンタジー
かつて魔族が降臨し、7人の英雄によって平和がもたらされた大陸。その一国、ベルガー王国で物語は始まる。 王国の第一王女ローゼマリーは、5歳の誕生日の夜、幸せな時間のさなかに王宮を襲撃され、目の前で両親である国王夫妻を「漆黒の剣を持つ謎の黒髪の女」に殺害される。母が最後の力で放った転移魔法と「魔女ディルを頼れ」という遺言によりローゼマリーは辛くも死地を脱した。 15歳になったローゼは師ディルと別れ、両親の仇である黒髪の女を探し出すため、そして悪政により荒廃しつつある祖国の現状を確かめるため旅立つ。 国境の街ビオレールで冒険者として活動を始めたローゼは、運命的な出会いを果たす。因縁の仇と同じ黒髪と漆黒の剣を持つ少年傭兵リョウ。自由奔放で可愛いが、何か秘密を抱えていそうなエルフの美少女ベレニス。クセの強い仲間たちと共にローゼの新たな人生が動き出す。 これは王女の身分を失った最強天才魔女ローゼが、復讐の誓いを胸に仲間たちとの絆を育みながら、王国の闇や自らの運命に立ち向かう物語。友情、復讐、恋愛、魔法、剣戟、謀略が織りなす、ダークファンタジー英雄譚が、今、幕を開ける。  

独身貴族の異世界転生~ゲームの能力を引き継いで俺TUEEEチート生活

髙龍
ファンタジー
MMORPGで念願のアイテムを入手した次の瞬間大量の水に押し流され無念の中生涯を終えてしまう。 しかし神は彼を見捨てていなかった。 そんなにゲームが好きならと手にしたステータスとアイテムを持ったままゲームに似た世界に転生させてやろうと。 これは俺TUEEEしながら異世界に新しい風を巻き起こす一人の男の物語。

妹が聖女の再来と呼ばれているようです

田尾風香
ファンタジー
ダンジョンのある辺境の地で回復術士として働いていたけど、父に呼び戻されてモンテリーノ学校に入学した。そこには、私の婚約者であるファルター殿下と、腹違いの妹であるピーアがいたんだけど。 「マレン・メクレンブルク! 貴様とは婚約破棄する!」  どうやらファルター殿下は、"低能"と呼ばれている私じゃなく、"聖女の再来"とまで呼ばれるくらいに成績の良い妹と婚約したいらしい。 それは別に構わない。国王陛下の裁定で無事に婚約破棄が成った直後、私に婚約を申し込んできたのは、辺境の地で一緒だったハインリヒ様だった。 戸惑う日々を送る私を余所に、事件が起こる。――学校に、ダンジョンが出現したのだった。 更新は不定期です。

エリクサーは不老不死の薬ではありません。~完成したエリクサーのせいで追放されましたが、隣国で色々助けてたら聖人に……ただの草使いですよ~

シロ鼬
ファンタジー
エリクサー……それは生命あるものすべてを癒し、治す薬――そう、それだけだ。 主人公、リッツはスキル『草』と持ち前の知識でついにエリクサーを完成させるが、なぜか王様に偽物と判断されてしまう。 追放され行く当てもなくなったリッツは、とりあえず大好きな草を集めていると怪我をした神獣の子に出会う。 さらには倒れた少女と出会い、疫病が発生したという隣国へ向かった。 疫病? これ飲めば治りますよ? これは自前の薬とエリクサーを使い、聖人と呼ばれてしまった男の物語。

処理中です...