持たざる者は、世界に抗い、神を討つ

シベリアン太郎

文字の大きさ
155 / 181

第155話 皇帝の武器

しおりを挟む
 皇帝の瞳に、微かな光が宿った。
 鋼のような静謐を纏いながら、その声は誰の耳にも明確に届く力を持っていた。

「──諜報部に命ずる」

 その一言に、場の空気が一変する。
 ハルベルトが僅かに身を乗り出し、周囲の高官たちも自然と背筋を伸ばした。

「聖教国内の混乱、そして枢機卿の背信を……全力をもって周辺諸国に広めよ。王国、諸侯領、自由都市連盟、辺境の自治領、すべてに伝えよ。枢機卿がいかに無能で、教皇が沈黙を保ち、〈聖女〉だけが動いている事実を“確かな情報”としてばらまけ。真偽を問う必要はない。“事実”として流布せよ」

 言葉の裏にある冷酷な意図を、誰もが悟っていた。
  “情報”こそ、帝国最大の武器。今この瞬間、皇帝はそれを戦に並ぶ手段として解き放ったのだ。

「ハッ!」

 ハルベルトが即座に立ち上がり、答礼する。その瞳には獲物を追う狼のような光が宿っていた。

「既に情報局の下部組織に通達を送っております。三日もあれば、帝国から五つの国境線を越えて、“真実”は各地に根付くでしょう」

 他の高官たちも次々と立ち上がり、命令の意図を理解した上で次の行動に移ろうとしていた。
 皇帝が放ったのは“言葉の刃”である。
 それを手にした者たちが、次々と動き出す。

「内容は明快に──教皇は沈黙し、枢機卿たちは互いに疑い合い、挙句その中から異端が現れた。腐敗と無能が露呈したと。あの聖教国は、神に仕えるどころか、自らの民すら導けぬ無能どもの集まりだと」

 静かに、だがはっきりとした語調で続ける。

「そして同時に、外交部門に通達せよ。先に提示した要求──謝罪と賠償、鉱山跡からの即時完全撤退と不干渉の約定──これを再度提示する。ただし、今回は違う。今度は、直接の場でだ。交渉の舞台は、中立都市ラドニア。聖教国に対応責任者の派遣を命じよ。“直接”だ。逃げ場を与えるな。そこが彼らに残された最後の“聖域”となろう。応じれば不利、拒めば悪評。どちらでも構わぬ」

 皇帝は顎をわずかに上げ、指先で卓を叩く。
 ラドニア──帝国、王国、聖教国のいずれにも属さぬ中立地帯。
 平和と調停の象徴であるその都市に、聖教国を呼び出すということは、形式上の対等を保ちながらも、実質的に“裁きの場”を用意するという意味だった。

「奴らが応じなければ、拒絶そのものが罪となる。応じてもなお、民の疑念は膨れ上がり、いずれ教皇の玉座すら揺らぐことになるだろう」

 誰も口を挟めなかった。
 重厚な静寂が会議室を包み込む。
 だが、皇帝の命令は、まだ終わっていなかった。

「──そして王国にも使者を出せ」

 その言葉に、一瞬、重臣たちが顔を上げた。

「この会談は、戦火を開かぬためのものであると伝えよ。よって、王国には“中立の見届け人”としての出席を依頼する。ラドニアにおいて、第三者の眼があることで、聖教国の逃げ場はさらに狭くなる」

 重臣たちは静かに頷いた。
 王国──決して友好国とは言い難い間柄だが、いまや聖教国に対しては共通の不信を抱える立場。その王国が「見届け人」として会談に臨むことは、帝国にとっても、国際的な正当性を補強する意味を持っていた。
 だが、皇帝の眼には冷徹な光が宿っている。

「“今は”王国を味方に見せかければよい。聖教国を挟み撃ちにする姿勢を取らせるのだ」

 皇帝は、口元に薄く笑みを浮かべた。

「だがいずれ、王国も例外ではない。あの王がどれほど賢明であろうと……帝国の下でしか生きられぬ時が来る。今回の会談で、彼らを“巻き込め”。見届け人でも、証人でも、名目は何でも構わぬ。ただ“席に着かせる”こと。それが重要だ」
「ご意向、しかと承りました」

 外交担当の老官が頭を垂れる。

「王国には誠意を見せる形で招待し、形式的には『中立の監視役』として迎え入れましょう。だがその実、責任の一端を担わせ、“逃げられぬ立場”に据える」
「それでよい」

 皇帝は一度だけ深く息を吐いた。

「この一手が、聖教国を揺るがす“楔”となる」

 そして──

「その楔が、いずれ王国にも喰い込むことになるだろう。愚かではない王ならば……遅かれ早かれ、それに気付くはずだ」

 皇帝の戦は、既に始まっていた。剣を抜かず、血を流さず、それでいて相手を崩壊へと導く──帝国の“帝王”の本領が、今まさに発揮されようとしていた。

「……さあ、踊れ。聖なる者たちよ。自らの不信と疑念の渦の中でな」

 その声に、帝国の重臣たちは一斉に頭を垂れた。
 命令は下された。
 帝国は剣を抜かず、情報と外交で敵を崩しにかかった。
 そして同時に、王国にも静かなる“絞首の輪”がかけられようとしていた。



 帝都アインガルド。諜報局の地下通信室──。
 無数の転写魔法陣が同時に発光し、十数名の諜報士官が一斉に指示を飛ばしていた。

「西方連絡網、ルシエナ侯領に通達完了」
「南大陸、自由都市連盟へ情報流布開始」
「王国貴族の親帝派ルートから、枢機卿の裏切り情報を“確度高”で伝達」

 帝国諜報部は既に動いていた。
 先に手配していた“協力者”、各地の商人ギルド、新聞組合、教団から距離を置いた神学者たちに向け、次々と情報がばらまかれていく。
 最も注目を集めたのは、この一文だった。

「聖教国の枢機卿の一人、ラザフォードが〈黒翼〉の構成員であった疑惑。〈聖女〉セラフィーナの捜査によって発覚し、逃亡。内部からの異端摘発──教皇と枢機卿会議は沈黙を続け、統率力を喪失」

 これにより、“神の国”の内側で、信仰が腐りかけているという印象が各国に広まりはじめる。
 さらには、帝国外交部も迅速に動いた。
 中立都市ラドニアへ向かう使節団は、すでに二日後の出立が予定されていた。
 帝国側からの交渉責任者には、老練なる元法務大臣のセドリックが選ばれた。

「各国の使節をも巻き込み、聖教国の対応を公開の場に引きずり出す。教皇が応じねば、“逃げた”と見なされる構図を──用意しろ」

 皇帝のその命により、“裁きの場”は静かに、だが確実に形を整えていく。



 一方、聖教国。聖都アルシア。
 枢機卿会議は混乱していた。
 〈黒翼〉構成員として名を挙げられたラザフォードの件は、隠し通せるはずもなく、今や各地の教会にまで情報が届き始めていた。

「……これは帝国の陰謀だ!  我らの神政を貶める偽情報にすぎん!」
「だが実際に逃げたではないか。神聖な枢機卿の中に異端がいたのは事実!」
「そもそも、なぜそのような男を任命したのか。我らの責任か?」
「〈聖女〉が独断で動かなければ、混乱は起きなかった!」

 怒号が飛び交い、議場は機能不全に近かった。
 ある枢機卿は机を叩きながら吠える。

「帝国は意図的に情報を仕込んでいる!  信徒の心を疑念で満たし、我らを貶めようとしているのだ!  ラザフォードの件も、その一環にすぎん!」

 別の老枢機卿は肩を震わせながら返す。

「ならば、なぜ奴は逃げた?  帝国が動くよりも前に、〈聖女〉の捜査で異端が発覚したのだろう?  帝国より先に、我らの中に裏切り者がいたのだ!」
「それを見つけ出したというのならば、そもそも“なぜ任命したのか”という話になる。任命の手続きは、貴様の会派からだったはずだぞ!」
「それを言うなら、貴様も承認に名を連ねていたではないか!」

 責任のなすり合いが始まる。

「……それにしても、余計なことをしてくれたものだ」

 一人が呟くように言い、全員の視線が一点に集まった。
 〈聖女〉──セラフィーナ。異端摘発を主導し、今なお枢機卿会議とは一線を画して動いている“神に選ばれし者”。
 彼女の行動は、正義であると同時に、枢機卿たちの既得権を脅かす刃でもあった。

「彼女が勝手に動き、我々に何の相談もなかったことが、すべての混乱の始まりだ」
「本来なら、教皇陛下の指示を仰ぐべきだった。だが今の彼女は、まるで自らを“教皇の代理”とでも思っているかのようだ」
「神託を受けた女などと持て囃され……その実、独善と妄信で我らを掻き回すだけの存在よ」

 だが、誰一人として彼女に明確に異を唱えることができない。
 なぜなら、セラフィーナの“異端摘発”は成功してしまったのだ。
 結果としてラザフォードの逃亡という、否定しがたい事実が残った。
 だが、彼らの怒りとは裏腹に、外部の教会、神殿、そして民衆は静かに動揺し始めていた。
 “神の代理人”が異端だったという事実。そして教皇も枢機卿会議も今なお声明を出さないという沈黙──
 そこに追い打ちをかけるように、帝国からの“第二の通達”が届く。

「聖教国に対する帝国の要求を、正式に再提示する。今度は、中立都市ラドニアにて、直接の話し合いを求める。聖教国より正当なる責任者の派遣を求める」

 この通達は、否応なく枢機卿たちを動かさざるを得なかった。
 無視すれば、外交拒否。
 応じれば、帝国に場を握られる。
 しかも今の枢機卿会議には、帝国に対抗できるだけの正当性が残されていない──
 この状況で教皇は、なおも沈黙を守っていた。
 〈聖女〉の行動に不満を持ちつつも、結果として事態を打開し得る唯一の存在となってしまったことに、枢機卿たちはようやく気付き始めていた。

「……結局のところ、また彼女に頼らねばならんのか?」
「そんなことは……許されるのか?」
「だが、他に道はない。教皇陛下が口を閉ざす限り、あの女しか“顔”を出せる者がいない」

 枢機卿たちは苛立ちと屈辱を押し殺しながら、誰がラドニアに出向くのか、そもそも誰を“責任者”として立てるのか、答えの出ない議論を続けていた。

 そしてその間にも、帝国は着実に“舞台”を整えつつあった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

30年待たされた異世界転移

明之 想
ファンタジー
 気づけば異世界にいた10歳のぼく。 「こちらの手違いかぁ。申し訳ないけど、さっさと帰ってもらわないといけないね」  こうして、ぼくの最初の異世界転移はあっけなく終わってしまった。  右も左も分からず、何かを成し遂げるわけでもなく……。  でも、2度目があると確信していたぼくは、日本でひたすら努力を続けた。  あの日見た夢の続きを信じて。  ただ、ただ、異世界での冒険を夢見て!!  くじけそうになっても努力を続け。  そうして、30年が経過。  ついに2度目の異世界冒険の機会がやってきた。  しかも、20歳も若返った姿で。  異世界と日本の2つの世界で、  20年前に戻った俺の新たな冒険が始まる。

(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」

音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。 本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。 しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。 *6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。

現代錬金術のすゝめ 〜ソロキャンプに行ったら賢者の石を拾った〜

涼月 風
ファンタジー
御門賢一郎は過去にトラウマを抱える高校一年生。 ゴールデンウィークにソロキャンプに行き、そこで綺麗な石を拾った。 しかし、その直後雷に打たれて意識を失う。 奇跡的に助かった彼は以前の彼とは違っていた。 そんな彼が成長する為に異世界に行ったり又、現代で錬金術をしながら生活する物語。

【魔女ローゼマリー伝説】~5歳で存在を忘れられた元王女の私だけど、自称美少女天才魔女として世界を救うために冒険したいと思います!~

ハムえっぐ
ファンタジー
かつて魔族が降臨し、7人の英雄によって平和がもたらされた大陸。その一国、ベルガー王国で物語は始まる。 王国の第一王女ローゼマリーは、5歳の誕生日の夜、幸せな時間のさなかに王宮を襲撃され、目の前で両親である国王夫妻を「漆黒の剣を持つ謎の黒髪の女」に殺害される。母が最後の力で放った転移魔法と「魔女ディルを頼れ」という遺言によりローゼマリーは辛くも死地を脱した。 15歳になったローゼは師ディルと別れ、両親の仇である黒髪の女を探し出すため、そして悪政により荒廃しつつある祖国の現状を確かめるため旅立つ。 国境の街ビオレールで冒険者として活動を始めたローゼは、運命的な出会いを果たす。因縁の仇と同じ黒髪と漆黒の剣を持つ少年傭兵リョウ。自由奔放で可愛いが、何か秘密を抱えていそうなエルフの美少女ベレニス。クセの強い仲間たちと共にローゼの新たな人生が動き出す。 これは王女の身分を失った最強天才魔女ローゼが、復讐の誓いを胸に仲間たちとの絆を育みながら、王国の闇や自らの運命に立ち向かう物語。友情、復讐、恋愛、魔法、剣戟、謀略が織りなす、ダークファンタジー英雄譚が、今、幕を開ける。  

【もうダメだ!】貧乏大学生、絶望から一気に成り上がる〜もし、無属性でFランクの俺が異文明の魔道兵器を担いでダンジョンに潜ったら〜

KEINO
ファンタジー
貧乏大学生の探索者はダンジョンに潜り、全てを覆す。 ~あらすじ~ 世界に突如出現した異次元空間「ダンジョン」。 そこから産出される魔石は人類に無限のエネルギーをもたらし、アーティファクトは魔法の力を授けた。 しかし、その恩恵は平等ではなかった。 富と力はダンジョン利権を牛耳る企業と、「属性適性」という特別な才能を持つ「選ばれし者」たちに独占され、世界は新たな格差社会へと変貌していた。 そんな歪んだ現代日本で、及川翔は「無属性」という最底辺の烙印を押された青年だった。 彼には魔法の才能も、富も、未来への希望もない。 あるのは、両親を失った二年前のダンジョン氾濫で、原因不明の昏睡状態に陥った最愛の妹、美咲を救うという、ただ一つの願いだけだった。 妹を治すため、彼は最先端の「魔力生体学」を学ぶが、学費と治療費という冷酷な現実が彼の行く手を阻む。 希望と絶望の狭間で、翔に残された道はただ一つ――危険なダンジョンに潜り、泥臭く魔石を稼ぐこと。 英雄とも呼べるようなSランク探索者が脚光を浴びる華やかな世界とは裏腹に、翔は今日も一人、薄暗いダンジョンの奥へと足を踏み入れる。 これは、神に選ばれなかった「持たざる者」が、絶望的な現実にもがきながら、たった一つの希望を掴むために抗い、やがて世界の真実と向き合う、戦いの物語。 彼の「無属性」の力が、世界を揺るがす光となることを、彼はまだ知らない。 テンプレのダンジョン物を書いてみたくなり、手を出しました。 SF味が増してくるのは結構先の予定です。 スローペースですが、しっかりと世界観を楽しんでもらえる作品になってると思います。 良かったら読んでください!

独身貴族の異世界転生~ゲームの能力を引き継いで俺TUEEEチート生活

髙龍
ファンタジー
MMORPGで念願のアイテムを入手した次の瞬間大量の水に押し流され無念の中生涯を終えてしまう。 しかし神は彼を見捨てていなかった。 そんなにゲームが好きならと手にしたステータスとアイテムを持ったままゲームに似た世界に転生させてやろうと。 これは俺TUEEEしながら異世界に新しい風を巻き起こす一人の男の物語。

裏切られ続けた負け犬。25年前に戻ったので人生をやり直す。当然、裏切られた礼はするけどね

竹井ゴールド
ファンタジー
冒険者ギルドの雑用として働く隻腕義足の中年、カーターは裏切られ続ける人生を送っていた。 元々は食堂の息子という人並みの平民だったが、 王族の継承争いに巻き込まれてアドの街の毒茸流布騒動でコックの父親が毒茸の味見で死に。 代わって雇った料理人が裏切って金を持ち逃げ。 父親の親友が融資を持ち掛けるも平然と裏切って借金の返済の為に母親と妹を娼館へと売り。 カーターが冒険者として金を稼ぐも、後輩がカーターの幼馴染に横恋慕してスタンピードの最中に裏切ってカーターは片腕と片足を損失。カーターを持ち上げていたギルマスも裏切り、幼馴染も去って後輩とくっつく。 その後は負け犬人生で冒険者ギルドの雑用として細々と暮らしていたのだが。 ある日、人ならざる存在が話しかけてきた。 「この世界は滅びに進んでいる。是正しなければならない。手を貸すように」 そして気付けは25年前の15歳にカーターは戻っており、二回目の人生をやり直すのだった。 もちろん、裏切ってくれた連中への返礼と共に。 

最強の職業は付与魔術師かもしれない

カタナヅキ
ファンタジー
現実世界から異世界に召喚された5人の勇者。彼等は同じ高校のクラスメイト同士であり、彼等を召喚したのはバルトロス帝国の3代目の国王だった。彼の話によると現在こちらの世界では魔王軍と呼ばれる組織が世界各地に出現し、数多くの人々に被害を与えている事を伝える。そんな魔王軍に対抗するために帝国に代々伝わる召喚魔法によって異世界から勇者になれる素質を持つ人間を呼びだしたらしいが、たった一人だけ巻き込まれて召喚された人間がいた。 召喚された勇者の中でも小柄であり、他の4人には存在するはずの「女神の加護」と呼ばれる恩恵が存在しなかった。他の勇者に巻き込まれて召喚された「一般人」と判断された彼は魔王軍に対抗できないと見下され、召喚を実行したはずの帝国の人間から追い出される。彼は普通の魔術師ではなく、攻撃魔法は覚えられない「付与魔術師」の職業だったため、この職業の人間は他者を支援するような魔法しか覚えられず、強力な魔法を扱えないため、最初から戦力外と判断されてしまった。 しかし、彼は付与魔術師の本当の力を見抜き、付与魔法を極めて独自の戦闘方法を見出す。後に「聖天魔導士」と名付けられる「霧崎レナ」の物語が始まる―― ※今月は毎日10時に投稿します。

処理中です...