夕月の欠片

daru

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第2部

29.

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 睨まれる覚悟はしていた。もしかしたら、身を切り裂かれるほどの痛みを伴う言葉を浴びせられるかもしれない、とも。

 だが、そうはならなかった。

 私が部屋に入ってもシノアは大きな反応を見せず、ただ静かに、力無い瞳を向けられた。

 右腕の切断部が痛むのだろう。左肩を下に横向きに寝て、左手は右肩を押さえていた。

 班長代理は丸テーブルに手紙のセットを置き、退室した。

「薬はちゃんと飲んでいる?」

 返事はない。
 シノアは私の入室時の1度以外、視線を合わせようとしなかった。

 沈黙が息苦しく、窓を開けた。
 警戒の為に何日も開けていなかったのだろう。少しだけ埃が舞い、出ていった。

 胸いっぱいに空気を吸い込み、ゆっくりと吐いた。
 すると、不意にノック音が鳴り、使用人がワインを運んできて、手紙セットの横に置いた。

 使用人が静かに退室してからベッド横の椅子へと向かい、腰を下ろし、ワインに手を伸ばした。

「今日はナイジェルの…ローディリウス王子の葬儀が行われたよ。」

 シノアの瞼が僅かに動いたのが見えた。
 どれだけ私を嫌悪していようと気になるだろう。そう思って、わざとこの話題を振ったのだ。

 銀杯にワインを注ぎ、シノアに目を配る。

「体、起こせる?」

 そう呼びかけると、声こそまだ聞かせてくれないものの、ようやく反応を見せてくれた。
 左腕でベッドを押し、体を浮かせたので、私はその隙間に腕を差し込み、彼女の上体を支え起こした。

「すみません。」

 シノアの口から、小さくこぼれたのが聞こえた。それだけで、じんと胸が温まる。

 先ほど注いだワインをシノアに手渡し、自分の分も注いだ。
 そして、軽く杯を掲げる。

「王子に。」

 私が口に出して良いものか躊躇ったが、待てどもシノアは言わないだろうと、先に言わせてもらった。
 名前は敢えて呼ばなかった。どちらの名で偲ぶのかは、彼女に任せようと思った為だ。

 シノアは1度、ちらりと私を窺い、また逸らしてから、左手に持った杯を極僅かに持ち上げた。そして小さくぽつり。

「ナイジェルに…。」

 互いに杯の中身を飲み干す。

 ワインはまだ十分にある。
 少しでも酔わせて切断面の痛みを軽減させたかったが、シノアはその1杯ですぐに銀杯を置いてしまった。

「…蜂蜜を持ってこさせようか?」

「いえ…。」

 何も要求してくれない事が、着実に私の心を締め上げていく。

 仕方なく私も杯を置く。

「手紙を書きたいって?」

「…はい。」

「誰に書くの?」

 シノアは流れで答えそうになった口を閉め、1度俯いてから、また顔を上げた。

「…セスの他に、もう仲間はいません。」

 急に何の話かと思い、目を瞬く。

「悪いことを書こうとしているわけでは…。」

 そこまで言われてようやく分かった。シノアは、私に厳しく取り締まられると思っているのだ。
 いくら丁重に扱おうとも、彼女は捕らわれた犯罪者だ。彼女自身、その自覚があるのだろう。
 
「分かっているよ、シノア。君を信じている。」

 私に向けられた碧い瞳が揺れた。今なら届くかもしれないと、もう1度「信じているよ。」と念を押した。
 するとシノアは悲しそうに眉を潜め、また俯いた。

「孤児院に、今、院を取り仕切ってるはずのマニャに…送りたいんです。」

「現況を?」

「赤子の頃から世話をしていたと…聞いたことが…。」

 弱々しく語られた言葉に、息を呑んだ。

「…王子の?」

「はい…。マニャの接し方は、まるで本物の母親のようで…。」

「…なるほど、そうか。」

 それは確かに伝えるべきだ。王子の身に何が起きて、どこに葬られたのか。もしかしたら手紙を届けるよりも先に、今日の葬儀の噂が風に乗って届く可能性もあるが。

 しかし世話役もいたというのなら、あんな場所、とセスが蔑んだ理由がなおさら分からない。

 今のシノアなら答えてくれるだろうか。
 碧い瞳は光を無くし、相変わらず私を見ようとはしてくれないが、これまでに語ってくれたことに嘘偽りは感じない。

「シノア、1つ、訊いてもいいかな?」

 返事は無かったが、構わず続けた。

「前に、セスに王子の遺体をどこへ葬るか相談をした時、一応、孤児院の近くも提案したんだ。君たちと一緒に過ごした場所だって、彼にとっては大切だっただろうから。けれどセスは、それを強く拒否したんだ。」

 俯いたまま静かに耳を傾けるシノアに、「なぜ?」と問いかける。
 シノアは表情を変えることなくゆっくりと瞬きをし、遠い記憶を眺めるかのような眼差しで口を開いた。

「罪が…埋まってるんです。…あそこには。」

「罪?」

 シノアが語ってくれた内容は、想像していたよりもずっと凄絶だった。

 終戦時のことと考えると、シノアはまだ12歳の子供だっただろう。セスだって2歳しか違わない。ナイジェルはさらにその2つ上。
 わずか16歳のナイジェルが、病気になった仲間の為に手を血で汚し、それに気がついた少年少女が隠ぺいを手伝ったのだ。

 その時に助けてあげられなかった悔しさが込み上げると同時に、3人の絆の太さを理解した。
 人を殺した恐怖と罪悪感を、3人で一緒に背負ったのだ。

「…ごめんね、シノア。」

 シノアが首を傾げる。

「なぜ謝るんですか?」

「もっと早く、君を見つけたかった。」

 気のせいだろうか。シノアがすぐに顔を背けてしまったから定かではないが、一瞬、微かに瞳が潤んでいたように見えた。

「無理ですよ。その頃は、トレシュ様だって怪我で大変だったはずです。」

 しな垂れる首、下がった肩、上腕の半分までしかない右腕。力無く口角を上げるシノアに、返す言葉が見つからない。

 窓から吹く風がパルピス紙を揺らし、ペンを転がし、テーブルから落とした。
 それを私が拾い、シノアへ持ち手部分を向けた。

「私が書こうか?」

 そう申し出たが、シノアは静かに首を横に振り、「自分で書きたいので。」と、左手でペンを受け取った。

 シノアがベッドから足を出して横向きになろうとするのに合わせて立ち上がり、紙が用意された丸テーブルをシノアの前に動かして、その紙を抑える。

 シノアは葦のペン先をインク壺に浸け、紙の上に持ってくると、深呼吸をした。そうしてからゆっくりとペン先を紙に下ろし、黒いインクを伸ばしていった。

 右利きのシノアでは、左手で文字を書くのはやはり拙い。1文字目を書き終えたが、線はあちこち折れ曲がりバランスも悪かった。
 苦い顔をしつつも続けようとする彼女を黙って見ていることができず、気がつくと、ペンを持つ彼女の手に自分の手を重ねていた。

「やっぱり手伝うよ。」

 彼女の右隣に座り、彼女の背後から回した左手で紙を抑え、右手は重ねたままにして彼女の左手を支えた。
 後ろからシノアを包み込むような体勢になり、心臓が少し高鳴る。

 微かに頬を紅潮させ、碧い瞳を揺らすシノアは、まだ腕を無くす前の、あの幸せに満ちた一夜の彼女を彷彿とさせた。

「なんて書く?」

 ぽつりぽつりと答えてくれた言葉を、2人で文字にしていく。
 利き手で書くほど上手いとは言えないが、それでも1文字目に比べると遥に安定していた。

 重ねた手と、密着した体から熱が伝わってくる。心地よい静けさに鼓動まで聞こえてくるようだった。

 彼女が発する声を、ゆっくりと書き記す。
 紙の端まで行けば、また下に手を移動させ、彼女の吐息も聞こえるほどの距離で、ただひたすらに。

 離れがたい。その想いも虚しく、最後の行、最後の文字を書き終えた。

「…終わりました。」

「…うん。」

 俯いたまま動かないシノアからそっと手と体を離し、名残惜しくも立ち上がった。
 インクが乾いている事を確認し、それを筒状に丸めた。

「体が回復したら、どうするつもりなの?」

 私がそう訊くと、シノアは下を向いたまま答えた。

「どうなっても…抵抗なんてしませんよ。」

 思わず顔をしかめた。

「どういう意味?」

「トレシュ様の決定に従います。」

「どうして…。」

 言い表しようのない苛立ちを覚えた。
 もう一度ベッドに腰を下ろし、彼女の顎を鷲掴むようにして無理矢理こちらを向かせた。

 碧い瞳にはちゃんと感情の揺らぎが見える。もう再会したばかりの頃とは違い、無表情ではない。彼女は壊れてなどいないのだ。

「考える事を止めちゃいけないと、君にそう言ったはずだろう。君の大切な人はナイジェルだけだったのか?他に君を大切に想う人間はいないのか?」

 唇を震わせ、瞳を潤ませるシノアの顎を離し、その手を自分の膝の上に落とした。

 涙を流す彼女から視線を下げ、「君は私の命の恩人なんだよ。」と続けた。私と一緒にいる事を望んではくれないだろうが、「孤児院に戻りたいとか、どこかへ逃げたいとか、私に頼めばいいだろう。」と言いながら、私まで泣きそうになった。

「私を利用したらいいだろう。それだけの借りが、君にはあるんだよ。」

 シノアは1つしかない手で懸命に涙を拭い、声の代わりに吐息を漏らした。その頬に触れ、親指の腹で涙を拭う。

「どうして、優しくするんですか?」

「私が君に、酷くできると思っているの?」

 そう言うと、シノアは頬に触れていた私の手を掴み、ベッドに下ろした。

「やめてください。」

 胸が抉られるようだった。

「もう…来ないでください。…もう…会いたく、ありません。」

 ガラガラと、心の中で何かが崩れた音がした。何かは分からない。彼女への想いか、それともこの期に及んでまだ何かを期待していたのか。もしかしたら彼女との縁そのものかもしれない。

 私は首を力無く折り、シノアの要求をどうにか呑み込もうと、何度か小さく頷いた。

「…そう…分かった。」

 静かに立ち上がり、杖を拾って、手紙を片手に、心許ない足取りで戸へと向かった。

 1度立ち止まり、「治療はちゃんと受けて。必要な物があったら世話係に言うんだよ。」と背を向けたまま伝え、返事も貰わずに部屋を出た。

 それから2か月、彼女と会うことはなかった。
 

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