有涯おわすれもの市

竹原 穂

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たべわすれ 〜かずのこ〜

2-2

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***



 誠二さんは、奥さんと二十代の頃に結婚して二人の娘さんと一人息子に恵まれた。
 時代は昭和の高度成長期。
 三人の子供たちを養うため、誠二さんは新卒で入った会社でガムシャラに働いた。
 その間、奥さんの千絵さんは専業主婦として家の中のことを丁寧に管理していた。
 朝早くから夜遅くまで、くたくたになるまで働いて、たまの休日は家族と出かける。
 誠二さんの生活は、結婚してから仕事と家と家族との時間の繰り返しになった。
 その時代は、それが当たり前で、最大の幸福だったし、誠二さん自身もその生活に疑問を抱いたことなんてなかった。
 やがて子供たちが三人とも成人し、会社に勤め、やがて新たな家庭を持った。
 その間も、誠二さんは働き続ける。
 持ち前の真面目さをかわれて、徐々に出世をしてお給料も上がる。
 やりがいを感じながら、家に帰れば千絵さんの笑顔。
 これこそ、自分の幸せだと思っていた。
 満足で、満ち足りた一生。
 そう、定年になり、会社を退職するまでは。
 仕事一筋で過ごしていた誠二さんは、退職後に暇を持て余すようになった。
 孫たちの相手をしようにも、娘さん二人は遠方で簡単には会いに行けないし、息子さんは近くに住んでいるもののまだ結婚したばかりで子供がいない。
 千絵さんは、誠二さんが定年したあとも、いつもと変わらずニコニコと家の中のことを丁寧に管理していた。
 そう、その、いつもと変わらなさが、いつしか誠二さんにとって疎ましくなっていたらしい。
 朝起きて、ご飯を食べて、暇を持て余して散歩をする。
 そして帰ってきて、新聞を広げる。
 その間、妻の千絵さんは植木に水をやったり床を拭いたりと忙しく動き回る。
 そうして必ず、育てている花の成長ぐあいを報告した。
 花は季節によって変わるけれど、
「コスモスが咲きましたよ」
「ひまわりの種がとれますね」
「キンモクセイが落ちそうですね」 
 など、報告せずとも見れば分かるような変化ばかり。
 仕事一筋で生きていた誠二さんは、特に趣味もなく無為にすぎている毎日に退屈していた。
 加えて、毎日問いかけられる、誠二さんにとってはどうでもいい内容の言葉。
 最初のうちは「あぁ」や「そうだな」と返したものの、次第にそんな返事も億劫になってきた。
 そして、夫婦の会話は限りなく減っていく。
 そんな状況でも、奥さんの千絵さんは相変わらずニコニコと変わらない。
 誠二さんは延々と続く刺激のない日々の中で、唯一子供たちの訪問を心の支えにしていた。
 遠くにお嫁にいってしまったから滅多にかえってこれない子供たちも、お正月となれば話は別だった。
 その年も、いつものように子供たちの帰省を心待ちにしていた。
 しかし、長女からは「仕事が忙しい」次女からは「子供の体調が悪い」と、帰省を断られてしまう。
 そして、近くに住む息子さんからは元旦に電話口で……

「親父、今年は帰省するのやめておくよ」
「な……どうしてだ? もう元旦だぞ。交通費がないなら出すし、体調が悪いなら私がおまえの家に行っても……」
「やめてくれよ。そんなこと」
「なんだ?」
「あー言い辛いんだけど、親父、俺の嫁さんに会ったら毎回間違いなく『子供は?』って聞くだろ? なんていうか、嫁さん、いま、その話題にデリケートっていうかさ。なんか、デリカシーないんだよ、親父は。だから、今年の正月は行くのやめるわ。また嫁さんが落ち着いたら行くからさ」
「な……な、なんだそれは……」
「俺らだってさ、子供が欲しくないわけじゃないんだよ。ほしいのに、できない気持ちが親父にわかるか? 親父、俺らの年齢さえあやふやだろ。昔と今とじゃ時代が違うんだから、あんまり自分の価値観を押しつけるなよ。毎年、親父に会った後は嫁さんに泣かれて大変なんだって」

 誠二さんにとって、それは衝撃的だった。
 今まで、子供たちのためにわき目もふらず、その名の通り不誠実なことにも目を向けずにがんばってきたのだから、子供のことに口を出すのは当然の権利であり、それが愛情だと思っていたから。
 息子のお嫁さんに子供がなかなかできないのは知っていたけれど、それは仕事にかまけて子供をほしがらないせいで、はやく仕事をやめて子育てに専念しなさいと毎年諭していたことを思い出す。
 それは、自分自身の経験からだった。
 子供を育てるのは、時間とお金と体力が必要で、若いうちの方が体力が間違いなく備わっているから。
 確かに、自分の常識にとらわれていたのかもしれない。
 しかし、もう70年近く生きてきて、いまさら自分の価値観をひっくり返すなんて、とうてい無理だった。
 電話を切った後、受話器から耳を離せない誠二さんは呆然と虚空を見つめていた。

「はい、どうぞ」

 その時、目の前に出されたお皿にはお正月のおせちに欠かせない数の子。
 誠二さんは数の子が好きで、他の家族には一本ずつのところ特別に三本食べるのがいつもの恒例だった。

「今年は、お父さんと二人だけになりそうですね」

 いつもと変わらず、ニコニコ笑顔の千絵さん。
 息子さんと娘さんたちのぶんが余ったのか、数の子は六本も乗っている。
 誠二さんは、自分の妻の顔がどうしようもなく脳天気で考えなしに思えてしまった。
 だいたい、お前の育て方が悪いから息子は親に対してこんな無礼なことを……と、言いそうになるのをグッと堪える。
 さすがにそれは、いいがかりだと気がついているから。
 子育ては、夫婦二人でするものだということは知っている。
 だけど、誠二さんは圧倒的に外で働いていた時間が長い。
 だからどうしても、千絵さんに批判の目が向くことになった。

「こんなに、食えるか」

 吐き捨てるように呟いて、誠二さんは席を立つ。

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