有涯おわすれもの市

竹原 穂

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たべわすれ 〜かずのこ〜

2-3

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 ただの散歩に出かけたつもりだったのに、二度と帰ることはできなかった。
 身体だけ帰宅しても、悲しむ家族になにもしてあげられない。
 定年で仕事を辞めた後、時々、身体の不調を感じることはあっても、病院に行ってまで検査しようとは夢にも思わなかった。
 これまで、病気知らずで元気に働いていたのが徒となったのかもしれない。
 棺の中で、自分の遺体に取りすがって泣く娘たちや、静かに俯く息子やその配偶者たち。
 あんなに手をかけて目をかけて心を砕いて育てて、接してきたつもりだったのに、険悪な雰囲気のままの別れはあまりにも悲しすぎた。
 しかし、親を拒絶して、疎ましく思うことは親離れできていたということかもしれない。
 いつまでも親の顔色をうかがって、自分のことを後回しにしてほしいわけではない。
 もちろん、子供たちには子供たちの人生がある。
 自分の手を離れてしまうのは悲しいけれど、おそらくそれが、健全な親子関係なのだと思ったのは、自身の葬儀の後、自分で選んだ配偶者や共に慈しむ子供たちとしっかり手をつないで、それぞれの家に帰る背中を見たときだった。
 長女の結婚は遅かった。
 誠二さんは自分がすっかり三人の子供をもうけた年齢になっても恋人の存在すらにおわせない長女にずいぶんヤキモキした。
 子供は体力があるうちに育てた方が良いに決まっているのに、いつまでも自分の仕事や趣味に邁進する長女が理解できなかった。
 自分がうるさく言うから、次第に長女が実家に帰ってこなくなったことも知っている。でもそれは、なにも長女のことが嫌いで言っているわけではない。心配なのだ。自分が考える『女の幸せ』を歩まない長女が、この先幸せに過ごせるのかどうか。
 長女が帰った後や、電話をした後は決まって千絵さんに自分の想いを伝えた。千絵さんはただニコニコと微笑んで聞いているだけだと思っていたけれど、実は、千絵さんはこっそり後日長女にフォローしていたと、誠二さんは死後、葬儀の場で知ることになる。

「お父さんさ、うっとおしいときもあったけど……でも、私のこと、本気で心配してくれたんだよね」

 涙で腫れた目元を拭いながら、お線香を立てた長女が言う。

「そうね。自分の子供の不幸を願う親なんていないわよ」
「独身の時、お父さんにお説教されると、すごく腹が立ったけどね。自分の価値観で私の幸せを決めないで、って」
「価値観は時代によって変わるけれど、なかなか柔軟に対応できる人は少ないのよ。あなただって、平成生まれだけど、昭和の時代や戦争の前後の価値観なんて理解できないでしょ」
「うん……。女ってだけで学校にも行けなかったり、成人前に結婚して子供を産んで家事して旦那の実家の世話をするのが当たり前なんて、全然わかんないや」
「そう、わからなくていいの。あなたにはあなたの、価値観があるんだから。お父さんもね、あなたが仕事をがんばっているの、本当にいつも尊敬してたのよ」
「尊敬? お父さんが? まさか」
「この場所で嘘なんてつくわけないでしょ。墓まで持って行け、なんて言われてたけど……もう、良いわよね」

 おい、ちょっとまて。
 それは言わない約束だぞ、と叫んでも千絵さんには届かない。

「あなた、実はお父さんよりも稼いでいたのよ」
「うそぉ。そんなことないって」
「自分の親の正確な経済事情なんて分からないわよね。お父さんはとても真面目で仕事一筋だったけど、そんな人が全員報われる分けじゃないってことは、あなたも、もう分かっているでしょ」
「それは、まぁ……。要領良い人の方が出世するもんね」
「女のくせに……って、くせにって言葉はどうかと思うけど……、女のくせにあいつは俺より稼ぐなんて凄い。女ってだけで不利なのに、めげずに自分のアイデアでヒットを飛ばして、本当、なんで男に生まれなかったんだろうな、そうしたら、今よりもっと大成したのに、社長でも大臣でもなったアイツの姿を見たかったな……って。酔うといつもよ。おほほ」
「え、ええ~……何、それ。ところどころムカつく表現もあるんだけど」
「お父さんの価値観だと、それが精一杯なのよ」
「そうね、頭カタいもん。まあ、昔ほど、女ってだけで排除されるわけじゃないのにね。いろんな会社があるし。お父さん、世の中の会社は全部家族経営のズブズブ縁故採用だと思っているんじゃない?」

 千絵さんの笑いにつられて、長女も笑った。
 ああ、やっぱり子供の泣いている顔を見るのは、死んだ後であっても辛い。
 ずっと笑っていて欲しいから、顔を合わすたびに自分の価値観を押しつけて説教をしてしまった。
 そのフォローを、妻の千絵さんは自分の知らないところでずっと担っていたのだと、ようやく知った誠二さんは生前の無知を悔いた。

「まあ、お父さんのお説教はいつも心のどこかにあったよ。そんなもん知らん、と思っても、どうしても、親の言葉だもん。だから、今の旦那さんに出会って、もうお互い良い歳だし結婚なんていいかって思ってたんだけど、この子ができたからね、思い切れたの」

 長女の膝元には、慣れない葬儀の場に緊張気味で母親の元を離れない3歳の女の子の姿があった。
 まだ生も死も理解していない孫は、不思議そうキョロキョロと視線をさまよわせている。
 出産後、産休明けで忙しく仕事に打ち込んでいるとは、誠二さんも聞いていた。
 そうだ。
 だから、仕事が忙しいからお正月に帰ってこれないという理由は、至極真っ当なことだったのだ。
 父親である自分が腹を立てることなんて、なにもなかったのだ。
 むしろ、諸手を上げて応援してやるべきことだったのに。



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