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第22話  アンティークレース展

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 日曜日、僕と日菜は渋谷からタウンバスに乗り込んだ。

「どのくらいで着くの?」

 好奇心旺盛な日菜。

「うん。六分くらいかな」

 人混みと喧騒の中をバスは進む。だが、文化村通りを登りつめたころ、景色は一変する。車は閑静な住宅街に入って行ったのだ。

「少し前まであんなに賑やかだったのに」

 日菜が目を丸くして窓外を眺める。
 僕らの住む街も旧家が多いけど、ここの格式の高さはそれとは比べものにならない。高い塀に囲まれた家々の間をバスは走る。

 僕らは『アンティークレース展』へ向かっている。

 新聞社主催の展覧会だ。
 開催される美術館が小規模なため、入館は完全予約制となり、入場券はプラチナチケットとなった。
 手に入れることができずに諦めていたけど、母さんの生徒さんから譲り受けた。指定された日に別の予定が入ったという。

 今日の日菜は美術館賞モード。
 白い襟とフリルの付いた濃緑色のワンピースを着ている。ふわっとしたラインが可愛らしい。肩にショルダーバッグをかけ、レースの付いたソックスに、バレエシューズを履いて、頭には白いベレー帽。
 甘めなシルエットを、靴とバッグの色を服と揃えることで抑えている。
 また買い物に行ったんだな。母さんも日菜もセンスがいいと思うよ。
 妹とはいえ可愛いよ。連れて歩く僕も鼻が高い。

 五分ほど乗った後、アナウンスが目的地の到着を知らせる。

「ほら、着いたよ」
 
 僕らはバスを降りた。
 バス停から三分ほど歩いたところに目的の美術館がある。

 有名建築家が設計したという美術館。
 この辺りには、ほかにも規模の小さな美術館がいくつかある。
 受付を済ませて中に入り、目録を片手に館内を回る。

「素敵な美術館ね。来れてよかったわ。手に入りづらいチケットだから、わたし諦めていたの」

 美術館は小さな隠れ家のようで心が落ち着く。

「全部で160件展示されているよ。じっくり見よう」

 ニードル・ポイントレース、ボビンレースなどのアンティークレースで作られた、衣類、装飾品が並ぶ。額に入れられた植物や幾何学模様、天使や小鳥などを描いたものもある。

 レースは十六世紀初頭に誕生した後、ヨーロッパ各地に広まり、王侯貴族たちにも愛された。イタリア、フランドル地方、スペイン各地で生産されたが、産業革命以後は機械レースが台頭し、手編みレースは姿を消していった。
 アンティークレースは卓越した技法で編まれた芸術品といえるが、現在ではほとんど失われている。
 
 僕らは、襟飾り、袖飾り、洗礼用ボンネット、王侯貴族の結婚式に使われたというヴェールを見た。

 僕らの前を、二人連れの男女が腕を組んで歩いていた。僕よりも少し年上。大学生だろうか。男がプラチナチケットを手に入れたことを自慢し、連れがそれを大げさに褒めそやしている。話しぶりから、どちらもレースにはあまり関心はなさそうだ。
 話し声も騒々しいけど、彼女のハイヒールの音。絨毯が敷かれているにも係わらず、ドスドスいう靴音が館内に響いて耳障りだ。どんな靴底をしているんだろう?

「ふみゅ~~~」

 日菜が怯えたような目で僕を見ている。どうやら相当なしかめっ面をしていたみたいだ。

「ふみゅ~?」

 日菜は小さくため息をつくと、僕を憐れむような眼で見た。

 違う! 違う! 違う!
 僕は嫉妬をしているんじゃない! この至高の芸術品を鑑賞する態度がなっていないことが許せないだけなんだ!
 断じて嫉妬じゃない!

「お兄ちゃん」

 日菜はにっこりと笑うと、僕の手に小さな掌を滑り込ませてきた。

 だから違うよ……。

「ふみゅ~」

 ……温かく小さな手。それが何よりも大切なものに感じられ、僕も握り返す。
 僕らは仲の良い恋人同士のように歩き始めた。

「おにいちゃん! これすごいわ!」

 日菜の指さす中央に、王族の女性が身に着けたという、総レースのドレスが展示されていた。すべてが手編みということが、信じられないほど豪華なものだ。

「ふみゅ~!」

 興奮した日菜の頬が上気している。

「すごいわ! ねぇ。お兄ちゃん!」

「うん。すごい。ほんと」

 いつの間にか、例の二人組が僕らの前方にいた。
 次第に距離が縮まり、
 
 ―― すれ違う瞬間。
 
 男の方が日菜をチラ見した。
 しばらく歩いた後振り返ると、だらしない顔でまだ僕らを見ていた。
 正確には日菜を。
 僕は、男の視線から隠すように、日菜の肩を抱いて引き寄せた。
 僕らがそのまま前に進むと、背後から、彼らが小競り合いをする声が聞こえてきた。
 やがて、般若のような形相の女がどすどすと足音を立て、男を引きずるように展示室を出て行く姿が視界に入った。

 『勝った!』
 
 くうぅぅぅ~~~!!

 心の中でガッツポーズをとる。
 この爽快感! スカッとする!
   美術館の中でいちゃいちゃしやがって!
 ざまあみろ!
 
 ……われに帰る。

 あれ? 僕は何をしていたんだ?

 そうだ! 態度がなっていないやつに、イラっとしただけなんだ!
 不純な理由じゃない!
 断じて違う!!

「やったね。お兄ちゃん!」

 日菜が僕にだけに聴こえる声で囁いた。
 
 いや。だから……。
 
 でも、やっぱり気分がいい。
 小さな共犯者が天使のように微笑みかけ、僕も笑顔になる。

「さあ、まだまだあるからね。じっくり見よう」

 僕らは再び、館内を回り始める。

「お兄ちゃん! これ絵みたいだわ。王様に貴族、槍や剣を持っているのは兵士かしら? あと、聖職者? それから馬も……」

「うん。これは大作だね。何かの出来事を記念したものかもしれないね」

 まるで絵巻物のようなものもある。

「お兄ちゃんは、ボビンレースはやらないの?」

「そうだね。ボビンレースは手がかかり過ぎるし、仮にやったとしても、ここまでのものは、今はもう作れないよ」

 レース編み機のない時代に、職人たちはこれだけのものを作ったのだ。
 僕らは圧倒されっぱなしだった。

 白髪の上品そうな女性が、僕らのやり取りを見てほほ笑んだ。
 一瞬、彼女がレースを編む姿が目に浮かび、心が温かくなる。
 日菜が彼女に微笑みかけ、僕は軽く会釈をした。

 怒涛の如き感動と嘆息のうちに、僕らは美術館を後にした。
 帰りは歩いて帰ることになり、やってきた道に沿って渋谷駅へ向かう。

「さっきまでの光景が嘘みたいね」

 日菜はいまだ夢の中だ。ふわふわとした足取りで、家々の間を歩く。

「ぼーっとするんじゃないよ」

 と、僕が声をかけた時だ。

 ―― ざわっ……
 突然風が吹いた。

「キャー!」

 悲鳴をあげる日菜を僕は抱き寄せた。

「どうした!?」

「ううん。帽子が飛びそうだったの」

 日菜がベレー帽を押さえている。帽子を取ると、突風と手で帽子を無理に抑えたせいで、髪が乱れていてぐしゃぐしゃになっていた。

「まったく! 何事かと思ったよ! そんな帽子くらいで!」

 ほっとすると同時に、拍子抜けしてしまった。

「そんな! 買ったばかりなのよ! ママと一生懸命に選んだのよ!」

 僕の言葉に日菜が抗議をする。

「あら!」

 そして、自分が僕に抱きかかえられたままなことに、ようやく気付いた。

「ああ、ごめん」

 僕が手を離そうとすると、

「ふみゅ~~」

 日菜がふざけてそれを阻んだ。

「こ、こら!」

 怒ると、日菜はいっそう面白がって、

「ねぇ。髪の毛くしゃくしゃ?」

 僕に寄り添って、言った。

「ブラシで梳かせば? バックの中にあるだろ?」

 僕がそっけなく言うと、

「お兄ちゃんの手でいて」
 
 と、僕の首に手を回し、顔を近づけた。

 か、かわいい!!
 子犬がじゃれついてるみたいだ。栗色のトイプードルか!?
 これは可愛い。無条件に頭をなでなでしたくなる。

 気が付くと、通りすがりの人がチラ見している。
 ここは、人通りが少ないけど、全くないってわけじゃない
 しかも、今日の日菜は飛び切り可愛い。
 僕は真性イタイ星人だ。真っ昼間から人前で女の子といちゃいちゃする陽性イタイ病患者だ。

「ブラシの方が早いのに」

 無愛想を装い、日菜を抱えたまま触れると、栗色の髪が指の間をすり抜けていく。昔のままだ。
 
 子供の頃日菜の髪に触ると、“せっかくかしたばかりなのに!” と、母さんに叱られた。でも、僕はさらさらとした日菜の髪の感触が好きだった。

 でも、何かが違うんだ。何かが変わってしまった。何が変わったというのだろう?

「綺麗になった?」

 日菜は僕から離れると、ちょこんと正面に立ち、笑顔を向けた。

 風をはらみ、光を弾く栗色の髪。くるりとした丸い瞳、さくらんぼのような唇から零れる息づかい。上気した薔薇色の頬。

 ―― 色褪せていく。
 風に吹かれ、遠のいていく。

 至高の芸術的手芸品の数々が、奇跡のような職人たちの超絶技巧が、豪華絢爛たる王侯貴族の世界が、貴重な人類の文化的遺産が……。
 日菜の笑顔の前で、その価値が崩れて落ちていく。

「お兄ちゃん帽子。ちょうだい」

 日菜の声に僕は我に返る。
 僕は、僕は……例の二人連れを侮蔑できるご身分か?
 今日何をしに来たっていうんだ? イタイ病の陽性検査か?
 隔離病棟に入れられても、文句は言えない。

 日菜は帽子をかぶり直したが、満足がいかないようで、何度もウィンドーに写してはチェックを繰り返した。

「もうその辺にしとけよ。それより何か食べよう」

 ようやく平静を取り戻した僕は、宮益坂にある洋食屋へ日菜と向かう。
 文化村ストリートを歩き、渋谷駅を通り抜け、宮益坂を上る。
 しゃべりながら歩くと、二十分ほどで着いた。

 ウエイトレスが注文を取りに来て、僕はパスタとコーヒー、日菜はオムライスとアイスティーを注文した

「本当にすごかったわね」

 日菜の熱はまだ冷めないようだ。僕がすっかり関心を失ってしまったというのに……。それでも、至高の芸術作品は、僕の卑しい心にも何かしらを残してくれていた。

「そうだね。昔の人はすごかったと思うよ」

「あのね。やっぱり総レースのドレスがすごかったわ!」

「そうだね。あれはすごかった」

「ヴェルサイユを思い出しちゃった。マリーアントワネットはあんなドレスを着ていたのかしら?」

「それはどうだろうね」

「ねぇ。フランちゃんが着たら似合いそうね」

「そうだね」

 僕らは子どもの頃パリに住んでいた。
 イルドフランスにあるヴェルサイユへは一時間ほどで行ける。
 僕は二度、日菜は一度訪れている。

「すごかったわね。鏡の間」

 ヴェルサイユ宮殿の中で、最も観光客に人気のある場所だ。
 床から天井まである窓から差し込む光が、向かいの壁にずらりと並べられた鏡と反射しあい、天井ではクリスタルのシャンデリアが煌めく。
 その光景は眩いほどだ。

「また行きたいなぁ。パリ。ヴェルサイユ」

「行けるさ」

「フランちゃんは、まだパリへ行ったことがないんですって」

「らしいね。でも、行く機会はあるさ。お母さんがフランス人なんだし」

 ―― フラン。

 その名を聞くと、胸につかえていたことを思い出す。
 それを口に出すべきか?
 僕は迷った。
 でも……。

「ねぇ。日菜。フランのことだけど」

「フランちゃん?」

「そう。フランのこと。ずいぶん意地悪されたみたいだけど許してあげただろ?」

「うん。あの頃、逆にフランちゃんが皆から避けられて可哀そうだったの」
 
 そう。それで一緒に下校してくれる友だちがいなくなって、不審者に絡まれたんだ。

「僕はあのとき、日菜はつらかったんじゃないかと思ったんだ。でもね。日菜にはフランを許して欲しかった。無理なことを願ったと思ったよ。でも、日菜が可愛いからこそ、ネガティブな感情にとらわれて欲しくなかったんだ」

「そうなの?」

「うん。日菜はすごく偉かったんだ。意地悪を仕返ししたら、フランはもっと日菜が嫌いになる。そして日菜も……。その連鎖を日菜は自分のところで止めたんだ。すごく大変なことだと思うし、立派なことだよ」

「そ……か……」

「そうだよ」

 日菜は、しばらく俯いて考え込んだ後、

「わたし、あのとき迷ったけど、フランちゃんと仲良くなってよかったって思っているの。フランちゃんはとってもいい子なの。お兄ちゃんもそう思うでしょ?」

 顔を上げて笑顔を見せた。僕をほっとさせる優しい笑顔。
 
「そっかー。日菜が前向きに考えてくれているとわかって嬉しいよ」

 気がかりだった懸念が晴れ、気持ちが軽くなっていくのがわかる。

 ウエイトレスが料理をテーブルに並べ、立ち去っていった。

 日菜は目の前のオムライスを見ると、

「わあ! おいしそう! 卵でくるんだオムライスね。ケチャップがかかっているわ。でも……お兄ちゃんのパスタもおいしそうね」

 そう言って、僕のパスタをちらりと見た。

「はは。少しあげるから安心しな」

 パスタをくるくると巻き取ると、日菜の皿へ移した。

「はい! お子様ランチみたいだな。日菜にピッタリだ!」

 僕がからかうと、

「ふみゅー!」

 日菜がぷっと膨れた。

 そして、オムライスをさっくりとスプーンですくうと、

「あーん」

 僕の口元に運んだ。

「やだよ。日菜。恥ずかしいじゃないか」

 なんのプレーだよ!? 赤ちゃんプレーか?

「わたしを子ども扱いした罰よ! はい慎ちゃ~ん。ママが食べさせてあげまちゅよ~」

「はいはい」

 日菜は機嫌を損ねてしまったようだ。
 僕は諦めて、日菜のスプーンからオムライスを食べた。

「美味しいね」

 渋々言うと、

「でしょぉ~。ママが食べさせたせいよ。よかったわねぇ~。慎ちゃ~ん。

「はいはい」

 日菜が親鳥のように、僕の口にスプーンを運び続ける。
 何が楽しいのか、やたらと嬉しそうだ。
 店中の視線が僕らに集まっているような気がする。かわいい女の子と、人前でいちゃいちゃしているようにしか、見えないんだろうなぁ。
 美術館でのことといい、レストランでのことといい、今日の僕はあまりにもイタ過ぎる。
 まぁ、いいさ。いい子の日菜へのご褒美だ。
 僕は日菜がするがままになっていた。

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