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第23話 微睡
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あの日のことを思い出すたびに、僕は苦い気持ちになる。
何故、あんなことをしてしまったのだろうか?
果たして、正しいことだったのか?
だが、迷いはない。
不思議なくらいに。
その土曜日は授業のある日だった。日菜も僕も学校へ行き、授業が終われば、家に帰るだけの土曜日のはずだった。
「ただいま……。あれ? お客様?」
玄関に、見慣れないハイヒールがあった。
母さんが誰かと話している声が聞こえる。
話が込み入っているみたいで、僕の帰宅に気づかない。
そっと、入口を覗く。女の人が目頭にハンカチを当てながら、母さんの言葉にうなずいている。
母さんと同じくらいの年齢かな? 可愛らしい人だ。ベージュのスーツを着ている。くるりと丸い目。肩まで伸びた栗色の髪……。
「!」
背筋がゾクッとする。
「一目会っていけば……。もうすぐ帰るわ」
勧めているのは母さん。
「でも……今さら」
躊躇っているのは訪問者。
会うって。誰に?
誰?
“今さら”って……。
驚くほど素早く、僕の頭に考えが閃いた。
日菜だ!
誰?
彼女は誰?
≪会わせちゃいけない!!≫
頭の中で、警報がガンガンと鳴り響く。
あの人は、あの人は、日菜の出生を知っている人だ。
もしかしたら。もしかしたら。
――日菜のお母さん?
でも、なぜ、突然?
日菜に会いに来たの? それとも……。
母さんが優しく語り掛け、女の人がうなづいている。
一時を過ぎているけど、幸い日菜は帰ってない。
いつまでも隠し通して置けることじゃない。
でも。
でも。
今じゃない方がいい。
じゃあいつ?
わからない。
でも、今じゃない方がいい!
母さんは思慮深い人だ。でも、情にほだされてしまうこともある。目の前で、涙ぐまれて、判断力が鈍ってしまったんだ。
―― 僕は、こっそり二階へ上がると、携帯を手に取った。
「失礼します」
二時間後、女の人は別れの挨拶を母さんにした。
「また来てくださいね」
階下の様子を、僕は踊り場で伺っていた。
『あの人』は、あきらめて帰るようだ。母さんに何度も別れの言葉を告げると、玄関を出て行った。
突如、僕は階段を駆け下り、それを見た母さんが、
「あら! 慎ちゃん。戻っていたの!?」
驚きの声をあげた。
「待って! 慎ちゃん! どこへ行くの!?」
母さんの声を振り切り、『あの人』を追いかける。まだ近くにいるはずだ。
息が切れ、どきどきと心臓が早鐘のように打つ。
全速力で走り、『あの人』のすぐ後ろまで追いつくと、乱れた呼吸のまま、僕はありったけの力を込めて叫んだ。
「また来てください!」
僕の言葉に『あの人』が無言のまま振り返り、ほほ笑んだ。
悲しそうに……。
僕は初めて、彼女を正面から見た。
――似ている。
日菜に。
ふっくらとした可愛らしい顔立ち。
それでいて知的な佇まい。
日菜が大人になったら、こんな女性になるのだろうか?
そんなことを考えた。
母さんと日菜は似ている。
でも、それよりも、もっと。もっと強い繋がりを感じる。
―― 血
二人の間に流れるもの。
僕らの絆など、何の意味もないかのように。
「……また……来てください……」
俯きながら言う。
こんな声じゃ、誰にも聞こえやしない。
『あの人』は頭を下げ、静かにその場を立ち去った。
息が苦しい。胃がむかむかして、吐き気がする。
体中から噴き出た汗が、鉛の鎖のように冷たく重く僕に纏わりついた。
苦い思いを抱いて部屋に戻ると、僕は再び携帯を手に取った。
「ただいまぁ~」
しばらくして、ご機嫌な日菜が帰ってきた。
「まぁ! 日菜ちゃん。どうしたの!? 遅かったじゃない!」
母さんの咎めるような口調に、日菜が驚き、
「ふみゅー?」
不安そうに母さんの顔を覗き込む。
「あ……ら。心配しちゃっただけよ」
とっさに母さんが笑顔を作った。
「ううん。ごめんなさい。お姉さまに誘われたの。お車で迎えに来ていただいたわ。アフタヌーンティーをしましょうって。フランちゃんも一緒に」
日菜は天国から帰ってきたような気分だったのだろうが、母さんの心配そうな顔を見て、意気消沈してしまった。
「ま、まぁ……。それはよかったわね」
母さんが必死に取り繕う。日菜は訝りながらも、豪勢三段トレーの菓子の話を始めた。
「こ~んな。大きなトレーにね、かわいいお菓子やサンドイッチが乗っているの。お茶も飲み放題なのよ。ストロベリーティーが美味しかったわ。今度ママとも行きたいな!」
日菜が母さんの顔色をうかがいながら言うと、
「まぁ。よかったわね。でもね。寄り道するときは、ママに連絡ちょうだいね」
と、母さんがぎこちなく言い、わかったわ。と、日菜が笑顔で返事をする。
食事の後、僕は部屋に戻ると再び携帯を手にした。
「今日はありがとうございました」
相手は、さっき電話をしたばかりの人だ。こんなことを、この人に頼むなんて。 でも、他に思いつかなかったんだ。
電話の向うから、ふふっと笑う声がする。
「私、役に立てたのかしら?」
聞き慣れた声。
神宮司部長だ。
「はい」
「突然電話がかかってきてびっくりしたわ。“日菜を引き留めてください”って」
そうなんだ。
僕は部長に日菜の引き留めを頼んだんだ。
学校から離れたところでならば、飲食店に入っても見咎められることはない。
だから、車で都心に連れ出してもらったんだ。
「私も心苦しいわ。だって、かわいい後輩に校則違反を唆したのだもの」
「申し訳ありませんでした」
「理由を聞いてもいいかしら?」
「……それは……日菜のためです。今はそれしか言えません」
「わかったわ。私たちの秘密ね。じゃぁ、また」
そう言って、僕らは電話を終わらせた。
会わせるくらいよかったのかもしれない。
あの人が、誰かさえわかっていないのに。本当に日菜の母親なのかさえ。
もし、母親だったとしても、日菜を取り返しに来たわけじゃないだろう。
そんな強引なことをする人には見えなかった。
≪また来てください≫
何を言っているんだろう?
あんなひどいことをしておいて。
かわいらしい人だった。
そんな人が何故、生まれたばかりの日菜を手放したのか?
―― 望まれない子。
バカな!
……十分にありうる。世間ではありふれた事にすぎない。
身勝手な理由で子供を手放す親たちが世の中にどれほどいるのだろうか?
でも……日菜が。
日菜がそれを知ったら、どれほど傷つくだろうか?
僕は日菜を傷つけたくなかった。
あの笑顔を守りたかったんだ。
暗い海の底に沈んでいくような不安に心が覆われ、重い塊を飲み込んだような不快さが心に込み上げる。
僕はブランケットを頭からかぶると、胎児のように身を縮ませて横になった。
遠のいていく意識の中で、日菜の笑顔が現れては消えた。
くるりとした丸い瞳に、指の間で零れ落ちる栗色の髪。
それを思い浮かべたとき、僕の苦痛がほんの少し和らぐような気がした。
「ごちそうさま」
食事が終わると、日菜は自室へ戻っていった。
―― ぱふん。
ベッドに腰を掛ける。
「今日は、なんだか変だったわ。ママは無理して笑っていたし、お兄ちゃんはだんまりだし。それにお姉さまが突然迎えに来たのも……」
日菜は、毛布をそっと抱きしめた。
自分には、何か大事なことが伝えられていないような気がする。
それが日菜の心に影を落とし、家族の気遣いが不安を呼び起こすのだ。
もしかしたら……。
―― 心に芽生える小さな疑念。
「ううん。きっとわたしに聞かせる必要のないことなのだわ。きっと、いつか話してくれる」
日菜はブランケットをかぶり、目を閉じた。
兄の優しい笑顔、いつも自信がなさそうな控えめな態度。それがオムライスを口に突き付けられた時の困った顔に変わったとき、唇から小さなほほ笑みがこぼれた。
―― そして、手。
ホビーフェスティバルで、手を引いて走り回った手の力強さ。
毎朝、駅へ向かう道で握る手の温もり。
その温もりは日菜の心を安らぎで満たし、微睡へと誘っていった。
何故、あんなことをしてしまったのだろうか?
果たして、正しいことだったのか?
だが、迷いはない。
不思議なくらいに。
その土曜日は授業のある日だった。日菜も僕も学校へ行き、授業が終われば、家に帰るだけの土曜日のはずだった。
「ただいま……。あれ? お客様?」
玄関に、見慣れないハイヒールがあった。
母さんが誰かと話している声が聞こえる。
話が込み入っているみたいで、僕の帰宅に気づかない。
そっと、入口を覗く。女の人が目頭にハンカチを当てながら、母さんの言葉にうなずいている。
母さんと同じくらいの年齢かな? 可愛らしい人だ。ベージュのスーツを着ている。くるりと丸い目。肩まで伸びた栗色の髪……。
「!」
背筋がゾクッとする。
「一目会っていけば……。もうすぐ帰るわ」
勧めているのは母さん。
「でも……今さら」
躊躇っているのは訪問者。
会うって。誰に?
誰?
“今さら”って……。
驚くほど素早く、僕の頭に考えが閃いた。
日菜だ!
誰?
彼女は誰?
≪会わせちゃいけない!!≫
頭の中で、警報がガンガンと鳴り響く。
あの人は、あの人は、日菜の出生を知っている人だ。
もしかしたら。もしかしたら。
――日菜のお母さん?
でも、なぜ、突然?
日菜に会いに来たの? それとも……。
母さんが優しく語り掛け、女の人がうなづいている。
一時を過ぎているけど、幸い日菜は帰ってない。
いつまでも隠し通して置けることじゃない。
でも。
でも。
今じゃない方がいい。
じゃあいつ?
わからない。
でも、今じゃない方がいい!
母さんは思慮深い人だ。でも、情にほだされてしまうこともある。目の前で、涙ぐまれて、判断力が鈍ってしまったんだ。
―― 僕は、こっそり二階へ上がると、携帯を手に取った。
「失礼します」
二時間後、女の人は別れの挨拶を母さんにした。
「また来てくださいね」
階下の様子を、僕は踊り場で伺っていた。
『あの人』は、あきらめて帰るようだ。母さんに何度も別れの言葉を告げると、玄関を出て行った。
突如、僕は階段を駆け下り、それを見た母さんが、
「あら! 慎ちゃん。戻っていたの!?」
驚きの声をあげた。
「待って! 慎ちゃん! どこへ行くの!?」
母さんの声を振り切り、『あの人』を追いかける。まだ近くにいるはずだ。
息が切れ、どきどきと心臓が早鐘のように打つ。
全速力で走り、『あの人』のすぐ後ろまで追いつくと、乱れた呼吸のまま、僕はありったけの力を込めて叫んだ。
「また来てください!」
僕の言葉に『あの人』が無言のまま振り返り、ほほ笑んだ。
悲しそうに……。
僕は初めて、彼女を正面から見た。
――似ている。
日菜に。
ふっくらとした可愛らしい顔立ち。
それでいて知的な佇まい。
日菜が大人になったら、こんな女性になるのだろうか?
そんなことを考えた。
母さんと日菜は似ている。
でも、それよりも、もっと。もっと強い繋がりを感じる。
―― 血
二人の間に流れるもの。
僕らの絆など、何の意味もないかのように。
「……また……来てください……」
俯きながら言う。
こんな声じゃ、誰にも聞こえやしない。
『あの人』は頭を下げ、静かにその場を立ち去った。
息が苦しい。胃がむかむかして、吐き気がする。
体中から噴き出た汗が、鉛の鎖のように冷たく重く僕に纏わりついた。
苦い思いを抱いて部屋に戻ると、僕は再び携帯を手に取った。
「ただいまぁ~」
しばらくして、ご機嫌な日菜が帰ってきた。
「まぁ! 日菜ちゃん。どうしたの!? 遅かったじゃない!」
母さんの咎めるような口調に、日菜が驚き、
「ふみゅー?」
不安そうに母さんの顔を覗き込む。
「あ……ら。心配しちゃっただけよ」
とっさに母さんが笑顔を作った。
「ううん。ごめんなさい。お姉さまに誘われたの。お車で迎えに来ていただいたわ。アフタヌーンティーをしましょうって。フランちゃんも一緒に」
日菜は天国から帰ってきたような気分だったのだろうが、母さんの心配そうな顔を見て、意気消沈してしまった。
「ま、まぁ……。それはよかったわね」
母さんが必死に取り繕う。日菜は訝りながらも、豪勢三段トレーの菓子の話を始めた。
「こ~んな。大きなトレーにね、かわいいお菓子やサンドイッチが乗っているの。お茶も飲み放題なのよ。ストロベリーティーが美味しかったわ。今度ママとも行きたいな!」
日菜が母さんの顔色をうかがいながら言うと、
「まぁ。よかったわね。でもね。寄り道するときは、ママに連絡ちょうだいね」
と、母さんがぎこちなく言い、わかったわ。と、日菜が笑顔で返事をする。
食事の後、僕は部屋に戻ると再び携帯を手にした。
「今日はありがとうございました」
相手は、さっき電話をしたばかりの人だ。こんなことを、この人に頼むなんて。 でも、他に思いつかなかったんだ。
電話の向うから、ふふっと笑う声がする。
「私、役に立てたのかしら?」
聞き慣れた声。
神宮司部長だ。
「はい」
「突然電話がかかってきてびっくりしたわ。“日菜を引き留めてください”って」
そうなんだ。
僕は部長に日菜の引き留めを頼んだんだ。
学校から離れたところでならば、飲食店に入っても見咎められることはない。
だから、車で都心に連れ出してもらったんだ。
「私も心苦しいわ。だって、かわいい後輩に校則違反を唆したのだもの」
「申し訳ありませんでした」
「理由を聞いてもいいかしら?」
「……それは……日菜のためです。今はそれしか言えません」
「わかったわ。私たちの秘密ね。じゃぁ、また」
そう言って、僕らは電話を終わらせた。
会わせるくらいよかったのかもしれない。
あの人が、誰かさえわかっていないのに。本当に日菜の母親なのかさえ。
もし、母親だったとしても、日菜を取り返しに来たわけじゃないだろう。
そんな強引なことをする人には見えなかった。
≪また来てください≫
何を言っているんだろう?
あんなひどいことをしておいて。
かわいらしい人だった。
そんな人が何故、生まれたばかりの日菜を手放したのか?
―― 望まれない子。
バカな!
……十分にありうる。世間ではありふれた事にすぎない。
身勝手な理由で子供を手放す親たちが世の中にどれほどいるのだろうか?
でも……日菜が。
日菜がそれを知ったら、どれほど傷つくだろうか?
僕は日菜を傷つけたくなかった。
あの笑顔を守りたかったんだ。
暗い海の底に沈んでいくような不安に心が覆われ、重い塊を飲み込んだような不快さが心に込み上げる。
僕はブランケットを頭からかぶると、胎児のように身を縮ませて横になった。
遠のいていく意識の中で、日菜の笑顔が現れては消えた。
くるりとした丸い瞳に、指の間で零れ落ちる栗色の髪。
それを思い浮かべたとき、僕の苦痛がほんの少し和らぐような気がした。
「ごちそうさま」
食事が終わると、日菜は自室へ戻っていった。
―― ぱふん。
ベッドに腰を掛ける。
「今日は、なんだか変だったわ。ママは無理して笑っていたし、お兄ちゃんはだんまりだし。それにお姉さまが突然迎えに来たのも……」
日菜は、毛布をそっと抱きしめた。
自分には、何か大事なことが伝えられていないような気がする。
それが日菜の心に影を落とし、家族の気遣いが不安を呼び起こすのだ。
もしかしたら……。
―― 心に芽生える小さな疑念。
「ううん。きっとわたしに聞かせる必要のないことなのだわ。きっと、いつか話してくれる」
日菜はブランケットをかぶり、目を閉じた。
兄の優しい笑顔、いつも自信がなさそうな控えめな態度。それがオムライスを口に突き付けられた時の困った顔に変わったとき、唇から小さなほほ笑みがこぼれた。
―― そして、手。
ホビーフェスティバルで、手を引いて走り回った手の力強さ。
毎朝、駅へ向かう道で握る手の温もり。
その温もりは日菜の心を安らぎで満たし、微睡へと誘っていった。
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