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第34話  前夜

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 フランが問題の衣装を持ってきたのは木曜日だった。
 形式的とはいえ、許可をとるのに時間がかかったという。

「サイズはピッタリだね」

 衣装を着たフランを見て、僕が言う。
 それ以外言いようがない。

 なんていうか……味気ない。
 生地の青色はなかなかきれいだ。
 でも、飾り一つなくて、袖もぴったりとしていて膨らみがない。七分袖に白い手袋を付けている。
 スカートは、かろうじて膨らみがあるけれど、ボリューム感に欠ける。

「うーん」

 確かにこれではヒロインがかわいそうだ。
 ちなみに日菜はメイドだが、なんの飾りもないただの水色ワンピースに白いエプロンを付けるだけ。いくらメイドとはいえ、これも味気ない。

「そうだなー。スカートにチュールを巻き付けてみようか?」

「え?」

 フランの沈んだ顔に、希望の光が差し込む。

「うん。柔らかめのチュールでいいと思うんだ。それにギャザーを寄せて巻きつける。華やかになると思うよ」

「そんなことできるんですか?」

「うん。僕はミシンも扱えるよ」

「よかったわね! フランちゃん!」

 日菜が言うと、

「ありがとう! 日菜ちゃん!」

 二人は手を取り合って喜んだ。

「それとね。袖と襟に、機械編みレースを縫い付けようと思うんだ」

「まぁ!」

 フランの顔がいっそう嬉しそうに輝いた。

 翌日僕は、学校帰りに蒲田にある生地を専門に扱う手芸店へ行った。

「チュール。チュール……。ドレスの生地が青だから、チュールも青がいいな。柔らかめで扱いが簡単なやつ……」

 僕は布に囲まれた狭い通路を探し回り、チュール売り場にたどり着いた。

「これはどうかな? 色も青だし……だめだな。これじゃハリが強すぎる」

 一つ一つ、実際に手に取ってみる。

 そして……。

「これがいいや。柔らかいから自然なボリューム感が出せるし、扱いも簡単だ」

 これでチュールは決まった。ギャザーに取られる分、生地は長めに用意しなくちゃいけない。僕は必要な長さを店員に告げ、裁断してもらった。

「よーし! チュールはこれでいいぞ! あとはレースだな」

 レース売り場に向かう。

「袖が七分丈だから、手首が隠れる長さが欲しいな。幅広のレースがいい」

 ちょうどいいのが見つかった。

「これがいい! 全体に花の模様が入っている。透け感もきれいだ」

 僕はチュールとレースを買って、家に帰ると早速作業に取り掛かった。

「お兄ちゃん。ごはんよ」

 日菜が呼びに来るが、

「あとで。切りがよくなったら食べるよ」

 時間がないんだ。今日中に仕上げなくちゃいけない。

 しばらくすると、

「お兄ちゃん。入っていい?」

 日菜の声がする。

「うん」

 作業の手を止めずに返事をする。

「いつまでも来ないから……」

 トレーを持って日菜が入ってきた。
 おにぎりと、小さなポットと湯呑が乗っている。

「はい。お夕飯。少しは食べないと体に良くないわ」

 でも……。おむすびかぁ。
 手が汚れる。手を洗う時間も惜しいくらいなのに……。

 僕が迷っていると、

「日菜が食べさせてあげる」

「ええ!? いいよ!」

 僕は辞退した。

 でも、

「はい。あ~ん」

 日菜はおむすびを、僕の口元へ持ってきた。

「……恥ずかしいよ」

「そんなことないってば。放っておいたらいつまでも食べないでしょ?」

「いいから」

「ふみゅ~」

 日菜はなかなかしつこい。

「ふみゅ~~」

 顔を背け、食事を拒否する僕をじっと見つめる。

「ふみゅ~~~」

 じっと……。

「わかったよ! 食べるよ!」

「やったー!」

 根負けだ。

 ぱくり。
 
 おむすびを口にする。

「うまいな!」

「でしょ? お腹空いているからよ」

 日菜がおかしそうに笑った。

「これは? おかかのおむすびだね」

「うん。あと、こっちは梅干し。おむすびの具になりそうなのが、これくらいだったの」

 と言いながら、ポットの中身を湯呑に注いだ。ほうじ茶の香りが香ばしい。

「はい。ほうじ茶よ。これも飲ませてあげる。はい。あ~ん」

「……」

 僕は日菜のされるがままになって、お茶を飲む。

「これもおいしいな。おむすびにぴったりだ」

「そうでしょ?」

 日菜が笑う。

「あ、お兄ちゃん」

「なに?」

「米粒が……」

 そう言って、僕の顔のそばに小さな手を近づけてきた。

「いいよ」

 そう言って顔を逸らすけど、日菜はそれを許さなかった。

「はい。とったわよ。これどうしようかしら? わたしが食べちゃうわ!」

「だめだよ! 汚い!」

「じゃあ、お兄ちゃんが食べる?」

 そう言って指を僕に近づけてきた。

「うん」

 日菜が食べるよりはましと思い、首を伸ばして米粒を口に入れた。
 
 唇に日菜の指が触れる。
 
 自分がひどく恥ずかしいことをしているような気がしてきた。

 だが、日菜は気にする様子もなく、

「あまり無理をしないでね」

 僕を案じる。

「うん。でも、今日中に仕上げなくちゃいけないんだ」

「そうね……今、何をしているの?」

「うん。今、レースを袖に縫い付けているところなんだ」

「チュールは?」

「これからだよ」

「じゃあお兄ちゃんが袖や襟にレースを縫い付けている間に、日菜がギャザーを寄せて、しつけ糸で縫っておくわ」

「それは助かるけど。できる?」

「うん。ギャザースカートは学校で作ったことがあるの」

「じゃあ。ここにマチ針としつけ糸があるから、やっておいて。均等になるようにね。できたらミシンで縫い付けるから」

「わかったわ」

 梅干しのおむすびを食べ、ほうじ茶をもう一杯飲むと作業を開始した。
 日菜は、食事を片付けると、手を洗って戻ってきた。

 日菜がチュールにギャザーを寄せ、待ち針で止めている。
 丁寧で根気強い仕事ぶり。日菜の得意分野だ。

「このチュールはね。切りっぱなしで使えるんだ。端の始末をしなくてもいいんだよ」

「それは便利ね。それに柔らかそうでボリュームもあっていいわ」

 日菜はしつけ糸でチュールを縫い始めた。

「フランちゃんにきっと似合うわ」

 僕らは、手を止めずに話をする。

「青の女王はね。たくさんの求婚者が現れるのだけど、それを断り続けて、本当に愛している人と結ばれるの。フランちゃんにはたくさんセリフがあるの」

 たくさんのセリフ。それは求婚者を断るものだろうか? 中学生がそんな芝居するなんて、考えものじゃないだろうか?

「日菜。お前にはセリフはあるの?」

 そこが気になる。

「あるわ」

「どんな?」

 【ゴメス男爵がお見えになりました】

「あとは?」

「それだけよ」

「それだけ?」

 僕はがっくりと力が抜けるのを感じた。

「ふみゅ~?」

 日菜がぽかんと僕を見ている。

 日菜よ。それでいいのか? 僕は心配だよ。自分がセリフもろくにない端役なのに、主演の同級生のためにこんなに力を入れるなんて、人が良すぎないか?

 でも、日菜が楽しそうに作業する姿を見ているうちに、そんなことがどうでもよいと思えるようになってくる。

 やがて、そんな会話もなくなり、僕らは作業に集中していった。

「お兄ちゃん! できたわ!」

 日菜が嬉しそうに言う。

「こっちもだ。袖と襟のレースが付け終わったよ!」

 あとは、日菜の作ったチュールを、スカートに縫い付けると出来上がりだ。

「お兄ちゃん。素敵だわ! さっきまでと全然違う!」

 日菜が感激している。

「すごく豪華な感じになったわ!」

「そうだね。日菜が手伝ってくれたから早く終わったよ」

「素敵よね!」

 日菜がドレスを体に当てながら言う。

「日菜。ちょっと着てみてくれないかな? 日菜とフランは背格好が同じだから確認したいんだ」

「えっ……」

 日菜は少しためらった後、

「わかったわ」

 そう言って衣装をもって部屋を出ていった。

「お兄ちゃん。着てきたわ」

 ドアの外から声がし、そろそろと日菜が入ってきた。

「どう?」

 恥ずかしそうに言う。

「うん。似合うよ。出来栄えもよさそうだ」

「柔らかいチュールにしてよかった」

 青いチュールは膨らんでふわふわと雲のようにスカートに纏わっている。表に出した縫いしろは前にしなって、花びらのように広がっていた。袖と胸元のレースの襞が豪華な印象を醸し出している。

「鏡で見てごらん」

 二人で作った傑作だ。日菜にも喜びを分かち合ってもらいたい。

「まぁ! きれい!」

 感激で興奮した日菜が、僕に抱き着いてきた。

「本当にきれいだわ。わたし、お姫様になったみたい」

「お、……おい……」

 鼓動が高まる。
 柔らかい腕が僕の首に巻き付き、日菜の体温が体に伝わる。

 僕は身動きもできずに、じっとしていた。

「きゃべつ……」

 消え入りそうな声で日菜が言う。

「えっ?」

「きゃべつ……」

 日菜がもう一度言った。

「どうしたんだい?」

「……」

 僕は日菜の様子を伺った。

 日菜はしばらく黙っていたけど、

「……きゃべつ……お兄ちゃん。わたしのことそう呼んでくれたわよね」

「それは……。その呼び方は母さんが嫌がるから……」

 日菜が顔を上げ、僕を見つめた。

「そう。だからお兄ちゃんは二人きりのときだけ、わたしを“きゃべつ”って呼んだんだわ。わたし、二人だけの秘密みたいで嬉しかったの」

 ―― 秘密の呼び名。
 【二人だけの秘密】
 フランとも部長とも交わした二人だけの秘密。
 日菜の方が、ずっとずっと前からのものなんだ。
 言葉もなく約束された【二人だけの秘密】。

 いつから日菜を“きゃべつ”と呼ばなくなったのかを思い出そうとする。

 何か……記憶が……。
 記憶。それはどこか遠い遠所にあって、取り出すことができなかった。
 それでも何か言わなきゃいけない。

「それはね。日菜はもう中学生だから、“きゃべつ”なんて呼ぶのはおかしいと思ったんだ」

「そうなの?わたしは大人なの?」

「そうだよ。日菜はもう大人なんだ」

「そうなのね。日菜はもう大人なのね? お兄ちゃんはそう思っているのね?」
 
 念を押すかのように繰り返す日菜。
 “大人” 自分の言葉にドキリとする。
 日菜が僕を見つめている。いつになく真剣なまなざし。

「そうだよ。あ、日菜。衣装がしわになるよ」

 僕が言うと、

「まぁ! いけないフランちゃんの衣装なのに」

 日菜が慌てて離れた。

「日菜。日菜はもうお休み。(端役だけど)お前にも役割があるんだ。明日に備えなくちゃいけないよ。衣装はしわにならないように、僕が保管しておく」

「はい。お兄ちゃんは?」

「僕はもう少しやらなきゃいけないことがあるんだ」

「そうなの? でも、あまり無理しないでね」

「ああ。おやすみ」

「おやすみなさい」

 去り際にいつもの笑顔を僕に向け、日菜は部屋を出ていった。
 僕をほっとさせる笑顔。

 でも、今の僕にはすべきことがある。
 日菜のために。

「さあ! あとひと踏ん張りだ!」

 僕は白い糸と、編み針を手にした。
 作業に取り掛からなくてはならない。時計は十二時を指していて、もう時間がないのだから。


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