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第35話 僕のきゃべつ姫
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翌朝、僕が衣装を学校へ届けると、フランが他の共演者よりも、一足早く楽屋で打ち合わせをしていた。
「お兄様! お待ちしていました!」
フランは楽屋へ着替えに行き、間もなく戻ってきた。
「素敵! お兄様ありがとう!」
感極まったフランが、頬を紅潮させながらターンをすると、青いチュールが舞った。
こんなに喜んでくれると、僕も嬉しい。
「あ……の……。本当にありがとうございました」
衣装担当の女教師が丁寧に頭を下げた。
“身だしなみ”のためのメイク。地味のグレーなスーツに度の強い眼鏡。ぴっちりと一つに結んだ髪。
日菜が言う通り、
『そういうことには気が回らなさそう』
確かにそんな感じだ。
……いや。
先生にそんなことを……(いくら本当のことでも)。
そして、
申し訳ありませんでした。妹にはよく言い聞かせます。
僕は心の中で、この真面目そうな人に詫びた。
「じゃあこれで……」
僕が帰ろうとすると、
「お待ちください」
引き留められる。
「交流会を観覧していきませんか?」
「え? でも、父兄は観覧できませんよね?」
交流会は、在校生とわずかな賓客だけが招待される。
「はい。ですが、坂下さんには見ていただきたいんです。いろいろとご尽力いただきましたから」
(困ったな)
まだ家にいる日菜に渡すものがあるから、一刻も早く帰りたいのに。
そこで、一度家に戻り、開場までには戻ると告げた。
「お待ちしております」
見送られながら、速攻で家に戻ったけど、すでに日菜はすれ違いに家を出た後だった。
「一足違いだったな。楽屋で渡そう」
僕は小さな包みをカバンに入れ、早々に学校へとんぼ返りをした。
用意された席に座ると、隣は空席だった。
関係者かな? あとから来るんだろう
合唱、踊り、詩の朗読……。中等部と高等部が交互に出し物を演じる。
そして、もうすぐ『青の王国』の番だ。
15分間の休憩のアナウンスが流ると、僕はそっと席を立ち、楽屋へと向かった。
楽屋では生徒たちが緊張した面持ちで待機していた。
その中に青い衣装を着たフランもいる。
僕は日菜を探し、見つけた。
「日菜!」
呼びかけると、日菜がぎこちなく振り返った。
「お兄ちゃん!」
僕は日菜のそばへ行くと、カバンから白い包みを出し、それを開いた。
「ほら。これ……」
日菜の前に差し出す。
「つけ襟!」
日菜の表情が和らぎ、ぱっと明るくなった。
「素敵だわ! お兄ちゃん、フランちゃんの衣装の後にこれを?」
「うん」
日菜の衣装はメイドとはいえ、あまりにもお粗末だ。
このくらいいいだろう。
つけ襟は白いクロッシェ編みのレースだ。つる薔薇を繋げたモチーフで、等間隔に並んだピコット編みで縁取られている。
「お兄ちゃんつけてくれる?」
「うん」
日菜の正面で屈むと、つけ襟を首元にかけ、先端にあるボタンループにボタンをかけて留めた。
「ありがとう!」
白いレースが日菜の首元を照らす。
「小さな襟飾りにしたよ。今日の主役はフランだからね」
「ううん。すごくうれしいわ。お兄ちゃんが私のために編んでくれるなんて」
日菜の笑顔は、今にも泣き顔に変わりそうだ。
だめだよ。これから舞台なんだから。
「本当に素敵だわ」
背後から声がする。
「部長!」
「お姉さま!」
そこには神宮司部長が立っていた。
「日菜ちゃんとても素敵よ」
「でも、メイドなのにもったいないくらい」
日菜が言うと、
「じゃあ、こうしましょう。メイドは世を忍ぶ仮の姿で、本当は、子どもの頃にさらわれた伯爵令嬢なの」
「まぁ!」
部長の言葉に日菜が笑った。
「それでね。これは伯爵令嬢の身元を明かす唯一の品よ」
そう言って、自分の胸元からカメオのブローチを外すと、日菜の襟元に着けた。
天使の模様のカメオ。
「だめです! そんな高価なもの!」
「そうです。いただけません!」
僕と日菜が声を揃えて辞退する。
「これはお祝いとご褒美よ。フランちゃんのことで二人が頑張ったって、聞いているの。ね。受け取ってちょうだい」
「それでしたら……ありがとうございます」
僕と日菜は、揃って頭を下げた。
「さあ、坂下君。早く席へ行きましょう。もうすぐ休憩時間が終わるわ」
えっ?
そういえば、僕は部長がなぜここにいるかを聞いていなかった。
「どうして私がここにいるか不思議に思っているのね? 招待されたのよ。中等部の卒業生として」
部長の姿を見る。ベージュのおとなしめのワンピース。今日は観覧席で静かに過ごすつもりなのだろう。ひとまずは安心してもよさそうだ。
僕の隣の空席は部長のために用意されたもので、部長は、まるで日菜の父兄のように僕の隣に座った。
「日菜ちゃんのつけ襟素敵ね。貴方が誰かのために編むなんて久しぶりよね」
「今日は僕のレースを見ても気分が悪くならないんですか?」
「あら? そんなこと言ったかしら? 貴方って根に持つ人なのね。せっかくの日菜ちゃんの晴れの舞台なのに、そんな話をするなんて」
部長が、形のよい眉をひそめた。
はい。はい。どうせ僕は根に持つ人間ですよ。
諦めて舞台を見ることにしよう。
“次は中等部による『青の王国』です”
場内アナウンスが流れ、幕が開くとフランが現れた。
そこへ各国の王子たちが求婚に訪れる。
青の王女に各国の王子たちが求婚するが、どれもまがい物で王女は失意に打ちひしがれる。そして、それを打破するのが隣国の王子だ。青の王女は彼により真実の愛を知る。
フランは舞台の中央で光り輝いていた。はちみつ色の髪に、勿忘草の瞳、瞳の色に合わせたかのような青いドレス。フランス人形そのものだ。
だが、僕はじりじりと待ち続けた。
日菜の出番を。
うまくいくだろうか?
緊張のあまり、へまをしないだろうか?
「貴方がそんなに緊張しても始まらないでしょ?」
部長が僕を見て笑った。確かにその通りだ。
僕は気になっていることを質問する。
「部長は今回の件を知っていらっしゃったんですね?」
「ええ。日菜ちゃんから聞いたのよ。私たち時々会っているの」
どんな話をしているのか?
そして、これからどんな話をしようというのか?
今まで気にならなかったことが、突如、気になり始めた。
≪どうして“きゃべつ”って呼んでくれないの?≫
日菜の言葉が蘇る。
“お姉さま” 日菜は部長をそう呼んでいた。
日菜がどんな気持ちで、その呼び名を口にしているのかを考えた。
もしかしたら、僕に、いや、誰にもできない話をしているのだろうか?
でも……なにを?
誰にもできない話って何なんだ?
そんな僕の思惑を横目に、
「日菜ちゃんの出番よ」
部長が舞台を指さす。
この劇は伝統的に上演されている。部長もあらすじを知っているんだ。もしかしたら『青の王女』を演じたことがあるのかもしれない。
男を振り続ける美貌の王女。
彼女ほど適役な生徒がいるだろうか。
舞台袖から現れた日菜を、スポットライトが照らす。短い出番。そして、たった一つのセリフを口にする。
【ゴメス男爵がお見えになりました】
そう言って、舞台の中央まで行くことなく退場していくのだ。
僕はそれを祈るような気持ちで見つめた。
日菜。
日菜。
友だちのために、力を惜しまない日菜。
友だちが主役になったことを、心から喜べる日菜。
僕はそんな日菜が可愛い。好きだ。
でも。
でも……。
もし、日菜に大切なときが来たら、
もし、大切な人が前に現れたら、
遠慮をしてはいけない。
自分が主人公にならなくていけないんだよ。
お前がお姫様になるんだ。
僕はどんな手助けだってする。
僕はどんなときも日菜の味方だ。
日菜。
≪どうして“きゃべつ”って呼んでくれないの?≫
日菜は言ったね。
そうなんだ。
思い出したよ。
僕は、日菜をきゃべつと呼べなくなってしまった。
あの日。
ドイリーを見た日。
目の揃ったドイリーを見た日。
日菜が新しい制服を着て階段を下りて来たとき。
あのとき。
あの姿を見たとき。
【きゃべつ】は女の子になってしまったんだ。
妹だったきゃべつは、僕の大切な女の子になってしまった。
僕は、日菜を悲しませたくなかった。笑顔でいて欲しかった。だから守ってきたと思っていた。
でも違うんだ。
あのくるりとした目で見つめられたとき、小さな頬を膨らませた姿を見たとき、僕の灰色の時間が輝くんだ。僕には日菜の笑顔が必要なんだ。
でも、この気持ちは言葉にしない方がいい。
日菜は妹のままでいた方がいい。
しなくてもいい苦労はしない方がいいんだ。
父さんと母さんの子どもで僕の妹。
その方が幸せなままでいられるんだ。
『親族を見限って、自分の道をみつける』部長はそう言っていた。
その通りだ。でも、それは自分が思っているよりも険しい道かもしれない。
でも。もし。
―― 僕の隣に日菜がいてくれたら。
あの、くるりと丸い目を僕に向けてくれたら。
……くれたなら……。
――どれほど僕は勇気づけられるだろう。
わっと 歓声が上がる。
青の王女は、隣国の王子により真実の愛を知り、受け入れる。
≪私は愛し愛いされる喜びを知りました。今、私を止めるものは、何もありません。私は貴方の愛を受け入れます≫
フランが朗々と喜びの言葉を唱える。
愛の成就を祝う音楽が流れ、幕は閉じられた。
そして再び幕が上がると、生徒たちが揃って観客に向かって挨拶をした。
僕は日菜を探した。
日菜が笑い、白い襟がそれを照らしている。
僕はその姿を眺めた。
――ふと、頭が重く、体に力が入らなくなった。
あれ……? どうしたんだ僕? 目が回る。
「坂下君。帰りましょう。車を用意してあるわ。貴方、昨日ほとんど寝ていないわよね?」
「そんなことまで?」
日菜が教えたのだろうか?
でも、いつの間に? 日菜も忙しいはずだ。
「いいえ。少し考えればわかることよ。一日であれだけのことをすれば、寝ている時間はないわよね?」
本当に察しのいい人だ。
「では、お言葉に甘えます」
もう、遠慮をしているゆとりはなかった。
会場が歓声で沸きあがる中、僕らは体育館を離れて車へ乗り込んだ。
そして走り出す早々、強い眠気が襲ってきて、僕は抗うことなくそれに身をゆだねた。
車は、緩やかに僕の家へ向かって走りだした。
「お兄様! お待ちしていました!」
フランは楽屋へ着替えに行き、間もなく戻ってきた。
「素敵! お兄様ありがとう!」
感極まったフランが、頬を紅潮させながらターンをすると、青いチュールが舞った。
こんなに喜んでくれると、僕も嬉しい。
「あ……の……。本当にありがとうございました」
衣装担当の女教師が丁寧に頭を下げた。
“身だしなみ”のためのメイク。地味のグレーなスーツに度の強い眼鏡。ぴっちりと一つに結んだ髪。
日菜が言う通り、
『そういうことには気が回らなさそう』
確かにそんな感じだ。
……いや。
先生にそんなことを……(いくら本当のことでも)。
そして、
申し訳ありませんでした。妹にはよく言い聞かせます。
僕は心の中で、この真面目そうな人に詫びた。
「じゃあこれで……」
僕が帰ろうとすると、
「お待ちください」
引き留められる。
「交流会を観覧していきませんか?」
「え? でも、父兄は観覧できませんよね?」
交流会は、在校生とわずかな賓客だけが招待される。
「はい。ですが、坂下さんには見ていただきたいんです。いろいろとご尽力いただきましたから」
(困ったな)
まだ家にいる日菜に渡すものがあるから、一刻も早く帰りたいのに。
そこで、一度家に戻り、開場までには戻ると告げた。
「お待ちしております」
見送られながら、速攻で家に戻ったけど、すでに日菜はすれ違いに家を出た後だった。
「一足違いだったな。楽屋で渡そう」
僕は小さな包みをカバンに入れ、早々に学校へとんぼ返りをした。
用意された席に座ると、隣は空席だった。
関係者かな? あとから来るんだろう
合唱、踊り、詩の朗読……。中等部と高等部が交互に出し物を演じる。
そして、もうすぐ『青の王国』の番だ。
15分間の休憩のアナウンスが流ると、僕はそっと席を立ち、楽屋へと向かった。
楽屋では生徒たちが緊張した面持ちで待機していた。
その中に青い衣装を着たフランもいる。
僕は日菜を探し、見つけた。
「日菜!」
呼びかけると、日菜がぎこちなく振り返った。
「お兄ちゃん!」
僕は日菜のそばへ行くと、カバンから白い包みを出し、それを開いた。
「ほら。これ……」
日菜の前に差し出す。
「つけ襟!」
日菜の表情が和らぎ、ぱっと明るくなった。
「素敵だわ! お兄ちゃん、フランちゃんの衣装の後にこれを?」
「うん」
日菜の衣装はメイドとはいえ、あまりにもお粗末だ。
このくらいいいだろう。
つけ襟は白いクロッシェ編みのレースだ。つる薔薇を繋げたモチーフで、等間隔に並んだピコット編みで縁取られている。
「お兄ちゃんつけてくれる?」
「うん」
日菜の正面で屈むと、つけ襟を首元にかけ、先端にあるボタンループにボタンをかけて留めた。
「ありがとう!」
白いレースが日菜の首元を照らす。
「小さな襟飾りにしたよ。今日の主役はフランだからね」
「ううん。すごくうれしいわ。お兄ちゃんが私のために編んでくれるなんて」
日菜の笑顔は、今にも泣き顔に変わりそうだ。
だめだよ。これから舞台なんだから。
「本当に素敵だわ」
背後から声がする。
「部長!」
「お姉さま!」
そこには神宮司部長が立っていた。
「日菜ちゃんとても素敵よ」
「でも、メイドなのにもったいないくらい」
日菜が言うと、
「じゃあ、こうしましょう。メイドは世を忍ぶ仮の姿で、本当は、子どもの頃にさらわれた伯爵令嬢なの」
「まぁ!」
部長の言葉に日菜が笑った。
「それでね。これは伯爵令嬢の身元を明かす唯一の品よ」
そう言って、自分の胸元からカメオのブローチを外すと、日菜の襟元に着けた。
天使の模様のカメオ。
「だめです! そんな高価なもの!」
「そうです。いただけません!」
僕と日菜が声を揃えて辞退する。
「これはお祝いとご褒美よ。フランちゃんのことで二人が頑張ったって、聞いているの。ね。受け取ってちょうだい」
「それでしたら……ありがとうございます」
僕と日菜は、揃って頭を下げた。
「さあ、坂下君。早く席へ行きましょう。もうすぐ休憩時間が終わるわ」
えっ?
そういえば、僕は部長がなぜここにいるかを聞いていなかった。
「どうして私がここにいるか不思議に思っているのね? 招待されたのよ。中等部の卒業生として」
部長の姿を見る。ベージュのおとなしめのワンピース。今日は観覧席で静かに過ごすつもりなのだろう。ひとまずは安心してもよさそうだ。
僕の隣の空席は部長のために用意されたもので、部長は、まるで日菜の父兄のように僕の隣に座った。
「日菜ちゃんのつけ襟素敵ね。貴方が誰かのために編むなんて久しぶりよね」
「今日は僕のレースを見ても気分が悪くならないんですか?」
「あら? そんなこと言ったかしら? 貴方って根に持つ人なのね。せっかくの日菜ちゃんの晴れの舞台なのに、そんな話をするなんて」
部長が、形のよい眉をひそめた。
はい。はい。どうせ僕は根に持つ人間ですよ。
諦めて舞台を見ることにしよう。
“次は中等部による『青の王国』です”
場内アナウンスが流れ、幕が開くとフランが現れた。
そこへ各国の王子たちが求婚に訪れる。
青の王女に各国の王子たちが求婚するが、どれもまがい物で王女は失意に打ちひしがれる。そして、それを打破するのが隣国の王子だ。青の王女は彼により真実の愛を知る。
フランは舞台の中央で光り輝いていた。はちみつ色の髪に、勿忘草の瞳、瞳の色に合わせたかのような青いドレス。フランス人形そのものだ。
だが、僕はじりじりと待ち続けた。
日菜の出番を。
うまくいくだろうか?
緊張のあまり、へまをしないだろうか?
「貴方がそんなに緊張しても始まらないでしょ?」
部長が僕を見て笑った。確かにその通りだ。
僕は気になっていることを質問する。
「部長は今回の件を知っていらっしゃったんですね?」
「ええ。日菜ちゃんから聞いたのよ。私たち時々会っているの」
どんな話をしているのか?
そして、これからどんな話をしようというのか?
今まで気にならなかったことが、突如、気になり始めた。
≪どうして“きゃべつ”って呼んでくれないの?≫
日菜の言葉が蘇る。
“お姉さま” 日菜は部長をそう呼んでいた。
日菜がどんな気持ちで、その呼び名を口にしているのかを考えた。
もしかしたら、僕に、いや、誰にもできない話をしているのだろうか?
でも……なにを?
誰にもできない話って何なんだ?
そんな僕の思惑を横目に、
「日菜ちゃんの出番よ」
部長が舞台を指さす。
この劇は伝統的に上演されている。部長もあらすじを知っているんだ。もしかしたら『青の王女』を演じたことがあるのかもしれない。
男を振り続ける美貌の王女。
彼女ほど適役な生徒がいるだろうか。
舞台袖から現れた日菜を、スポットライトが照らす。短い出番。そして、たった一つのセリフを口にする。
【ゴメス男爵がお見えになりました】
そう言って、舞台の中央まで行くことなく退場していくのだ。
僕はそれを祈るような気持ちで見つめた。
日菜。
日菜。
友だちのために、力を惜しまない日菜。
友だちが主役になったことを、心から喜べる日菜。
僕はそんな日菜が可愛い。好きだ。
でも。
でも……。
もし、日菜に大切なときが来たら、
もし、大切な人が前に現れたら、
遠慮をしてはいけない。
自分が主人公にならなくていけないんだよ。
お前がお姫様になるんだ。
僕はどんな手助けだってする。
僕はどんなときも日菜の味方だ。
日菜。
≪どうして“きゃべつ”って呼んでくれないの?≫
日菜は言ったね。
そうなんだ。
思い出したよ。
僕は、日菜をきゃべつと呼べなくなってしまった。
あの日。
ドイリーを見た日。
目の揃ったドイリーを見た日。
日菜が新しい制服を着て階段を下りて来たとき。
あのとき。
あの姿を見たとき。
【きゃべつ】は女の子になってしまったんだ。
妹だったきゃべつは、僕の大切な女の子になってしまった。
僕は、日菜を悲しませたくなかった。笑顔でいて欲しかった。だから守ってきたと思っていた。
でも違うんだ。
あのくるりとした目で見つめられたとき、小さな頬を膨らませた姿を見たとき、僕の灰色の時間が輝くんだ。僕には日菜の笑顔が必要なんだ。
でも、この気持ちは言葉にしない方がいい。
日菜は妹のままでいた方がいい。
しなくてもいい苦労はしない方がいいんだ。
父さんと母さんの子どもで僕の妹。
その方が幸せなままでいられるんだ。
『親族を見限って、自分の道をみつける』部長はそう言っていた。
その通りだ。でも、それは自分が思っているよりも険しい道かもしれない。
でも。もし。
―― 僕の隣に日菜がいてくれたら。
あの、くるりと丸い目を僕に向けてくれたら。
……くれたなら……。
――どれほど僕は勇気づけられるだろう。
わっと 歓声が上がる。
青の王女は、隣国の王子により真実の愛を知り、受け入れる。
≪私は愛し愛いされる喜びを知りました。今、私を止めるものは、何もありません。私は貴方の愛を受け入れます≫
フランが朗々と喜びの言葉を唱える。
愛の成就を祝う音楽が流れ、幕は閉じられた。
そして再び幕が上がると、生徒たちが揃って観客に向かって挨拶をした。
僕は日菜を探した。
日菜が笑い、白い襟がそれを照らしている。
僕はその姿を眺めた。
――ふと、頭が重く、体に力が入らなくなった。
あれ……? どうしたんだ僕? 目が回る。
「坂下君。帰りましょう。車を用意してあるわ。貴方、昨日ほとんど寝ていないわよね?」
「そんなことまで?」
日菜が教えたのだろうか?
でも、いつの間に? 日菜も忙しいはずだ。
「いいえ。少し考えればわかることよ。一日であれだけのことをすれば、寝ている時間はないわよね?」
本当に察しのいい人だ。
「では、お言葉に甘えます」
もう、遠慮をしているゆとりはなかった。
会場が歓声で沸きあがる中、僕らは体育館を離れて車へ乗り込んだ。
そして走り出す早々、強い眠気が襲ってきて、僕は抗うことなくそれに身をゆだねた。
車は、緩やかに僕の家へ向かって走りだした。
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