【完結】モデラシオンな僕ときゃべつ姫

志戸呂 玲萌音

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第36話  それぞれの思い

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 日菜は、慎一から受け取ったレースのつけ襟を折りたたむと、その上にカメオのブローチを乗せた。

「今日の記念ね」

 名残惜しそうに眺めた後、それを小箱に入れ蓋を閉め、ベッドに腰かけた。

「日菜ちゃん。今日は疲れたでしょ。早くやすみなさい」

 母に声をかけられる。

「お兄ちゃんは?」

「帰った途端、ベッドへ直行よ。ご飯はとってあるから、一人で食べるでしょ」

「うん。お兄ちゃん大変だったから」

 少しの沈黙のあと、母は日菜の隣に座り、日菜の肩をそっと抱いた。

「ねぇ。日菜ちゃん。誰か好きな人いるの?」

「え!? えぇ!?」

 日菜が慌てると、母親は、ふふっと笑った。

「やっぱりいるのね。高橋クン?」

 日菜が首を小さく左右に振る。

「違うのね。その人には打ち明けたの?」

 もう一度首を振る。

 母は日菜を抱き寄せると、

「そっかー。まだなのね。でもね、日菜ちゃん。あなたはまだ十二歳だから、焦らない方がいいかもしれないわね」

「うん。でも、どうしてわかったの?」

「だって、日菜ちゃんきれいになったもの。はじめは制服が変わったせいかと思ったわ。でも違うのね。あんなに小さかった日菜ちゃんが……」

 母が、幼い日の面影を探すように娘を見つめている。

「日菜ちゃんが好きな人は、きっと日菜ちゃんと同じ年ぐらいの人よね?」

 日菜が小さく首を縦に振る。

「それなら、お互いの気持ちをゆっくり近づけていった方がいいわ」

「はい」

「焦っちゃだめ。ゆっくりと。ね?」

「はい」

「でもね。その時が来たら、絶対に遠慮しちゃだめなの。手を放しちゃだめ。必ず自分の思いを伝えるのよ」

「はい」

「そうだわ! またお洋服を買いに行きましょうね。いつもお洒落していないと。日菜ちゃんの好きな人は、どこで日菜ちゃんのことを見ているかわからないでしょ?」

「……」

「どうしたの? 日菜ちゃん?」

 母は、日菜の顔色を曇らせたことに気づいた。その表情は、次第に思いつめたものに変わっていく。

「でも……私にそんな資格があるのかしら?」

「えっ?」

 驚いた母が娘をじっと見つめる。
 
「わ、わたし……生まれてきてよかったの? わたしは、何かいけないことで……」

 日菜が言いかけ、涙で声を詰まらせた。

「日菜ちゃん……」

「ごめんなさい。ママ。……なんとなくわかっていたの。気を付けてくれていても、耳に入ってくることってあるし、ママとパパが凄く気にかけてくれていて、お兄ちゃんも……。ああ、なんかあるんだなって。それで……」

 瞳からは涙がこぼれ落ち、嗚咽交じりに言葉を続ける。

「日菜ちゃん……」

 母親は、そっと日菜を抱きしめた。
 腕の中の娘は、泣きながら、小鳥のように震えている。
 だが、彼女には伝えるべきことがあった。

「つらかったのね。もっと、早くに話しておけばよかったわ。日菜ちゃん。あなたのパパはね。パリでとても大切な研究をしていたの。立派な人だったわ。でも、あなたが生まれる前に亡くなったの。あなたのママはね。それに耐えられなかった。体が衰弱してしまって。それ以上に心が……」

 母親は当時のことを思い出し、目を潤ませた。

「ママ……」

「何年も病院で過ごしたけど、今は元気になって、あなたのパパの研究を広めるお仕事をしているの。二人ともとても立派な方。正式な結婚はしていなかったけど、とても愛し合っていたの」

 日菜は悲しかった。やはり目の前の人は自分の実の母親ではなかったのだ。
 だが、何よりも自分を苦しめていたこと。自分の両親はどんな人間だったのか? なぜ自分を手放したのか?
 自分は望まれずに生まれてきたのではないか?

 その煩いから解放されたのだ。これからは恥じることなく、誇りを持って生きていくことができる。
 
「ママ……」

 この人は、やはり自分の母親なのだ。
 日菜の瞳が涙で濡れる。だが、それは次第に喜びのものへと変わっていく。

 母親は涙を拭くと、笑顔を見せた。

「お母さんはね。日菜ちゃんの味方よ。どんなことがあっても応援するわ。助けてあげる。だからね。今は、素敵な大人になれるように努力をしましょうね」

「はい」

 母は自分の気持ちに気づいている。
 不確かな予感のようなもの。だが、今、それが何より確かな気がする。

「素敵な大人……そうだわ。わたし、お姉さまのようになりたい。きれいで賢くて、お淑やかなお姉さま。もっとお近づきになっていろいろ教えてもらうのよ。そして、わたしを生んでくれた人がパパのお手伝いをしているように、わたしも、好きな人を助けてあげたい」

 日菜は密かに決意した。





「うふふ。このドレスやっぱり素敵!」

 フランはドレスを体にあると、鏡台に映った自分をうっとりと眺めた。

「でも……明日にはこれをクリーニングに出して、学校へ返さなくてはいけないんだわ」

 溜息をつきながら、衣装をたたんで袋へ入れようとした。

「お兄様は、やっぱりフランの王子さまだったんだわ!」

 顔をあげて目を輝かせた。

「フランにはわかっていたの。あの時から。あの初めて会った時から! フランを不審者から助けてくれた時から! 今度も助けてくださったわ!」

 そして再び衣装を体にあてると、舞踏会でワルツを踊る貴婦人のように体を揺らした。

「そうなのよ! そうなのよ! お兄様はフランの王子様だったのよ! フランにはわかっていたの!」

 ≪私は愛し愛いされる喜びを知りました。今、私を止めるものはもう何もありません。私は貴方の愛を受け入れます≫

 『青の王国』の一節をフランは夢見るように唱える。

 ……が……

「でも、……フランは愛されてはいないんだわ……」

 ぽつりとつぶやく。

「フランは、日菜ちゃんのお友だちでしかないんだわ。だからお兄様はフランを気にかけてくださるの。それだけなのだわ……。このドレスを用意してくださったのもそのせいなの」

 日菜が身に着けていたレースの付け襟。
 自分では編まないと言っていた慎一が日菜のために編んだのだ。
 どれほどきらびやかな宝石であろうと、あの白いレースの前では色あせ、輝きを失うだろう。

(お兄様……)

 フランは瞳を閉じると、力なくうなだれた。

 ―― だが……とても、とてもよい考えが閃き、目を輝かせながら顔を上げた。

「そうだわ! 愛されていないのならば、愛される努力をすればいいのだわ! お兄様は日菜ちゃんがお気に入りだから、日菜ちゃんと、もっと仲良くなろう! 日菜ちゃんから、お兄様が好きなこと、大切にしていることを教えてもうのよ! お兄様のことをもっともっと知りたいの!」

 そして、ある疑問が、決して去ることのない疑問が、小さな頭に浮かんだ。

「お兄様はあんなに優しくて賢いのに、なぜ自信が持てずにいるのかしら? 何か心配事があるのかしら?」
 
 慎一の控え目な態度を思い出す。それが好ましくあるのだが、不自然にも思えていた。
 だが、それが心を悩ませるのに時間をとることはなかった。

「そうだわ! フランが助けて差し上げればいいのよ! お兄様の力になって差し上げるんだわ!」

 そして、もう一つの心配事。

「もしかしたら……お姉さまもお兄様がお好きなのかしら?」

 だが、

「お姉さまはきれいな方だけど、お兄様は日菜ちゃんみたいなかわいらしい女の子がお好きだから、それも問題ないわ!」

 残った問題もあっという間に解決してしまった。
 フランは夜更けまで、ステップを踏むように部屋の中を歩いて過ごした。




 ―― 神宮司家のリビング。

「藍音や。もうすぐ春摘みの季節が終わってしまうね」

 父が金色の水色を名残惜しそうに眺めている。

「ええ。お父様。でも、すぐに夏摘みが出回りますわ。今年の夏摘みは素晴らしい出来だそうですよ」

「それは楽しみだね」

「ええ」

 父が浮かない顔をしている。どうしたのだろうか?

「どうかしました? お父様?」

 藍音が父の様子を伺う。

「いや。その。私はお前のことが心配でならんのだよ」

「私のことですか?」

「ああ。お前は、私の力になろうと心がけてくれている。それが心配なんだよ」

「そうですの?」

「お前は、私の力になろうとしている。だがね、私は、お前が幸せになってくれさえすればいいんだ。誰か好きな男ができたら、その男と幸せになって欲しい」

 藍音は父を見つめた。
 【好きな男】
 父には、誰か思い当たる人物がいるのだろうか?
 それはないはずだ。自分はそのような振る舞いをした覚えはない。

 藍音は幼いころより美しいと言われて育ち、それがお世辞ではないことを知っている。
 それを強く自覚したのは、共学の高校に進学してからだった。
 男たちの羨望の眼差しは、自尊心をくすぐり、心地よくさえある。だが、心揺らいだことはない。

 唇に指をあてると、あの日の感触がよみがえる。
 『一年後』その言葉を耳にしたとき、これまでにないほどの胸の高まりを覚え、衝動的な行動に出てしまった。
 この理解できない感情。これが恋なのかもしれない。

 穏やかで慎ましやかな眼差し。だが、その奥に矜持が垣間見られる。
 ……『ほどほどの』。
 藍音は小さく笑った。
 『ほどほど』その言葉を聞けば、彼はどれほど嫌な顔をするだろうか?

 それこそが彼の最大の美点だというのに。

 彼は自分に気がないわけではない。自分を見る目は、他の男子学生と同様に、ある種の熱を帯びたものであることを感じる。
 それに自分は彼の役に立てる。そのことは慎一も感じているはずだ。
 それに父の側にいれば、彼は自分の資質を生かすことができ、人生は必ず意義深いものになるだろう。
 慎一にとっても、自分にとっても、これ以上望ましい関係はないはずだ。
 これが【幸福】というものではないのか?
 
 だが……。

 何かが、彼を止まらせている。心の中に何か強い求心力があるかのように……。
 誰か思い人がいるのだろうか?

 フラン?
 自分を挑発するかのように振る舞う子猫。

(いいえ!)

 彼女は問題外だ。彼はフランを子供としか扱っていない。だが……いつどうなるかはわからないのだ。数年たてば、彼女も、自分に劣らぬ美貌の女性に成長するだろう。頭も悪くない。決して侮れない相手だ。

 でも、今は違う。
 では、誰が? 誰が彼の心の中に住むのか?

 ――ふと、一人の少女の笑顔が浮かんだ。
 ホビーフェスティバルで繋がれた二人の手。
 レースの襟のまぶしい白さ。あれには慎一の心が込められていた。

(いいえ。まさか。だって、あの子は……)

 だが、少女の笑顔が、それを見つめる慎一の瞳が頭を離れない。

「どうしたね? 藍音」

 父が気遣っている。

「そうですわね。お父様。でも、もしも。……もしもですよ。その方が他の女性を好きだったら……」
 
 藍音がしおらしく目を伏せると、

「もしも……か」

 父は、少しの間考え込んだ。

「それは気がかりだね。だがね、若い時の恋ってのは、どう転ぶかなんてわからないんだ。時間をかけて距離を詰めればいい」

「そうですの?」

「ああ、まずは彼の身近な人物と親密になるのはどうかな? 周りからじわじわと行くんだよ」

 【じわじわ】
 恋への助言として相応しいのか? 藍音は考えたが、父の言葉を信じてみようと思う。

「ええ。お父様。お言葉に従いますわ。私、時間をかけて距離を縮めます」

「そう。ゆっくりだよ」

 父娘は互いに微笑み合った。




 こうして、一人の少年が得難い三人の援護者を天から賜ったわけだが、本人がそれを知る由もない。


 ―― 静かに。
 夜が静かに更けていった。
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