電車で眠っただけなのに

加藤 羊大

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第24話 多重債務を返したい

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 シャヌと別れ、柔らかな赤で染まった空を見上げながらぼんやり歩く。
冷蔵庫の中が少なくなっていたと思い出し、途中で野菜と肉を購入した。
サージェへの多重債務を早めに返そう。
きっと恩がある上に色々と買って貰ったりしたから彼の事を考えるのだ。
動悸がするのも顔が火照るのも、彼の顔が無駄に良いのが悪いのだ。その一言に尽きる。
日本ではあんなに優しくて穏やかで、ちょっと茶目っ気のある男性とは会った事もないせいだ。
長いまつげだとか、優しい眼差しだとか…。
「いやいやいやいや、違う違う」
思わず日本語が飛び出てしまった。どうしたものか、シャヌのせいで9割頭を占めるのはサージェの事だ。
まずい、非常にまずい状況だ。顔を合わせづらい。
ぐるぐると慣れない事で頭を悩ませているうちに家の近くまで来ていた。
扉を開けようと手を伸ばすのと同時に、扉が開きアラムが手に手紙を持って出てきた。
差出人の名前が読めてしまった。"サージェ・アル=イルハーム様"の文字に心臓が大きく脈打つ。
何てタイミングだ。動揺が顔に出ないよう取り繕う。
「ただいま、アラム。お手紙出すの?」
「おかえり、リツ。ちょっと友達にね」
アラムは手紙を背中に隠しながらにこりと笑った。内緒のお手紙なのだろうか。
年が随分離れた友人だが彼なら気にしなさそうである。
それよりも彼、既にアラムという友人がいるではないか。可哀そうに思って絆されてしまったあのくだりは何だったのであろう。
アラムが宙に手紙を投げる。ふわりと飛んで行った手紙は夕日の向こうに消えて行った。
「母さん友達と会ってくるから、少し遅くなるみたい」
「ん、分かった。何作ろうかな」
 食料を冷蔵庫へ入れ、夕食の準備を始めた。最近は私が夕食を作る日がたまにある。
任せてもらえることに嬉しさを感じている。アラムも豆を剥くのを手伝ってくれる。
無心で葉野菜を刻みながら、茶葉を何処で手に入れるかを考える。
紅茶は出回る事は少なく、モルン茶の方が入手は簡単だ。彼の幸せそうに紅茶を飲む姿が思い浮かび頭を振る。家でもフルーツティーが手軽に飲めたら素敵だと思う。
「リツ!野菜が大変な事になってる!」
アラムの声に慌てて手元を見ると、葉野菜が無残な姿になっていた。
「わぁ!ごめん、考え事してた」
「何かあった?」
心配げなアラムに心の内を打ち明けられず曖昧に微笑む。
「何でもないよ。これ、卵と和えちゃおうか」
「そうだね、これなら味も合いそうだし」
アラムと一緒に料理をごまかし、顔を見合わせ頷く。
気が散らないように料理に集中しながら進めていると、パルマが帰って来た。
「おかえり、母さん」
「おかえりなさい」
三人で食事を囲み談笑していると、手紙が窓の隙間から入って来た。
アラムの上に落ち、彼はそれを回収し脇へ避けた。
「あら、誰から?」
パルマがおっとりと首を傾げるのに対し、アラムは内緒とにっと笑った。
内緒にしたいお年頃なんだろうか。
もしかしたら彼女ができたのかもしれない。
しまった脳が恋愛脳になってしまっている。ピンク色のお花畑を無理やり頭から追い出す。
それよりも紅茶の入手方法を考えねば。アブダッドに明日聞いてみるのも良いかもしれない。


 翌日の開店前にアブダッドへ声をかける。
「店長、紅茶はどのように、入手していますか?」
「俺の独自のルートだから教えられんぞ?」
困ったように頬をかく彼にルートを知りたいわけではないと説明する。
「少し店長から購入するのは、可能でしょうか?人に贈り物をしたくて」
「ほほう男だな、男だろう?」
突然にやけだしたアブダッドに慌てる。ジーンがすっ飛んできた。
「リツ何、恋人できちゃったの?!」
違う、何で皆頭の中がピンク色なんだ!
「違います、恩人にお礼したくて」
「何だてっきり俺は常連になった、あの色男の事かと思ったぞ」
そう言われ顔が一気に熱くなっていくのが分かる。
アブダッドの笑みが深まり、ジーンの湿った視線が突き刺さる。違う、違うのに顔の熱は収まらない。
ここは少し話をずらそう。
「細かく切って、乾燥させた果物を紅茶と混ぜたら、家でも美味しいフルーツティー、が飲めるかと思いまして」
あわあわと視線を合わせずに口にしたとたん、アブダッドに強く肩を掴まれた。
驚きに顔を上げると、にんまりとした顔が目の前に迫っていた。目が心なしかギラギラしている。
「よし、茶葉をやろう。その代わりにそれを手土産用として商品化する!」
しまった変なスイッチを押してしまったようだ。
ジーンがやれやれと苦笑した。
結局ノリノリのアブダッドとジャマールにより、新商品として採用されてしまった。
果物を切って乾燥させるだけなので、正直誰かに真似されてしまうのではと心配する。
既にフルーツティーを模倣したものが出回っているらしい。
アイスクリームのおかげで客足は安定しているが、それでも流れて行った客はいるにはいる。
「安心しろ、首都商人連合会にうちの商品だと登録してあるからな、それ以外の物は偽物扱いだ」
さすが店長抜かりはない。それならば安心だろうか。
ジャマールと一緒に果物をカットし、網に乗せ天日干しする。
今回ジーンは参加しないらしい。
「何で他の男に贈るもの…」
ぶつぶつ呟きながら去っていく。よく聞き取れず、その後ろ姿に首を傾げる。
「残念だったな、当て馬!」
アブダッドがゲラゲラ笑いながらジーンの背中をバシバシ叩いている。
「店長だって意中の人に何も言えていないくせに!」
何やら小さな争いが起きている様子だが放置して良いだろうか。
ジャマールと一緒に首を傾げ作業に戻る。
「リツ、これはどのくらい乾燥させるんだい?」
ジャマールは目を輝かせ、果物の乗った網を見つめる。その瞳は恋する乙女の様。
この国には乾燥させるという発想自体が無かったらしい。網と網の間に果物を入れた為虫からはきっと守られるに違いない。二日程度で乾燥するだろう。
「パリパリになるまでです。幸いアグダンは乾燥した、気候なので早くできそうです」
「リツは色々知ってて凄いねぇ」
褒められても微妙な気持ちになる。全て日本で見たものばかりなのだ。
へらりと笑いとりあえずお礼を言っておく。
成功して、商品化する前にサージェに渡したいなと密かに思っている。
 開店と同時にベルが鳴り、客が入って来たようだ。
すらりとしたシルエットが見え、動揺する。サージェだ。
アブダッドがにやけながら私の背中を押す。その横を凄い勢いでジーンが進み、サージェの目の前に立った。似たような身長の二人が並ぶ。ジーンの笑顔が普段よりも強張っているように見えるが大丈夫だろうか。
「お客様は一名様ですね、こちらへどうぞ」
ここから一番遠い窓際の席へと案内するジーン。隣で声もなくアブダッドが笑っている。
「店長、あまり笑うと腹筋割れますよ」
きっとバキバキになるであろう腹筋に生暖かい視線を向けておく。
「フルーツティーとインクーリオの焼き菓子の盛り合わせ!」
何故かご機嫌斜めのジーンがジャマールに伝える。私と目が合うとふいと逸らされてしまった。
何か気に障る事でもしてしまっただろうか。
続々と客が入ってきて対応に追われて気にするどころではなくなった。
遠くからちらりとサージェを窺う。彼もこちらを見ており、目が合ったとたん心臓が大きく脈打った。
まずい、これはまずい。変に意識してしまう。
隣に立つジーンからも視線を感じ見上げる。
また逸らされた。何なのだろうか。
「ジーンさん、私何か気に障る事、しちゃいましたか?」
「違う…ごめん気にしないで」
珍しく歯切れ悪く答え、力なく笑うジーンに心配になる。
やはり自分は何かやらかしてしまったのではなかろうか。
女性客がジーンを呼び、彼は行ってしまった。
もやもやとしながら店内を見ていると再びサージェと目が合った。
小さく手を挙げたので心臓の音を無視して向かう。これは仕事だ、変な考えは捨てろ。念じながら近づく。
「ご注文ですか?」
「アイスクリームを一つ。あと、次の休みの日にリツと一緒にお茶を飲みたい」
さらりと言われた言葉に顔に熱が集まる。サージェはそんな私を嬉しそうに見つめながら返事を待っている。まさか注文を取っている最中にお茶の誘いを受けるとは思わなかった。
「アイスクリームですね。あと私はメニューには、ございません」
苦笑しながら答える。私はいつもの表情を作れているだろうか。
「駄目か?」
首を傾げる美形に私は完敗した。いや、イケメンに勝てる女性がいるのならば紹介して頂きたい。
「う…分かりましたから、そんな目で見ないで下さい」
寂しそうな瞳をやめて欲しい。甘え上手なイケメンめ、そうやって世の中の女性が絆されると思うなよ!絆されたけれど。
私の返事を聞いて満足したのか、サージェが柔らかい表情に戻る。
次の休みまでに紅茶とドライフルーツを手に入れなければ。
早くフルーツが乾燥する事を祈った。
いつも通りにイデアがサージェを回収しに来て、二人は去って行った。
もはやこの光景はカフワの名物と言っても過言ではない。


 閉店準備を済ませ、今日の給金を受け取る。
その際にアブダッドに手土産用の紅茶が商品化する前に一つ譲って欲しいと交渉した。
「まだ値段を決めていないんだが、ひとまず従業員価格として一袋1ペイってところだな」
手のひらサイズの袋を見つめる。見たところ100gは入るだろうか。
「わかりました、完成したらそれで、一袋頂きます」
アブダッドが笑いながら私の頭をぐしゃぐしゃと撫でる。
ぐしゃぐしゃになった髪を手で整えながら、待っていてくれたジーンと共に歩き始めた。
何故か気まずい雰囲気で、いたたまれない。
黙ったままのジーンの様子を窺う。彼は私を見つめていた。その瞳がいつもよりも暗く光って見え背中に冷たいものが走る。やはり何かやらかしたのか。
しかしそれは一瞬の事で、すぐに彼は微笑みを浮かべた。
「明日、果物乾いてるといいね~」
「そう、ですね」
気のせいだったのだろうか。
いつも通りに見えるジーンにほっと胸を撫でおろす。
それからは他愛のない会話をしながら家に帰った。
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