絶砂の恋椿

ヤネコ

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就褥の夢

12―5

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「やあ、私のお姫様たち。元気にしていたかな?」
 別邸に住まう娘たちを訪ったイリャスは、端正な口元に笑みを浮かべている。イリャスの二人の娘――マンダネとジャミーレは、お姫様と呼ばれたことに照れくさそうな顔をしてイリャスを歓迎した。お互いにいがみ合っているイリャスの息子たちとは異なり、姉妹は腹違いでありながらもお互いを親しみ、慈しんでいる。イリャスが自身の後継者を息子のみと定め、彼女たちをカームビズ商会長としては透明な存在と扱っていることが、皮肉にも姉妹の年齢相応な情緒を育んでいるようだ。
「お父さん、聞きたいことがあります」
 しかし、普段は終始和やかな父娘の語らいの時間は、姉妹にとっては勇気を要する時間となった。改まった声でイリャスに訊ねるマンダネに、妹のジャミーレは心配そうな眼差しを送る。
「うん。言ってごらん?」
「他所の島から来た子は……どうして、本邸に呼ばれたんですか?」
 茶会の席が設けられた中庭には温かな日差しが降り注ぎ、花々の蜜を求める蜂の羽音が微かに聞こえる程だ。そんな穏やかな空間に居るはずなのに、マンダネの耳には自身の心音がやけに大きく聞こえる。しかし、突然降って湧いたように現れた男児が、自身やジャミーレを差し置いて後継者候補に選ばれたという事実は、マンダネには受け入れ難かった。
「それを聞く理由はなにかな?」
「私たちの……弟になる子だから、気になります」
 先達て、ホスローから受けた暴力をイリャスへ訴えた際には、マンダネも被害者という立場からホスローを弾劾することができた。しかし今は、週に一度の父娘で過ごす茶会の時間だ。マンダネの母親たちは先に起きた騒動以来、イリャスと関わるのを嫌って部屋に引っ込んでいる。言葉選びを間違えたところで、庇ってくれる大人は居ない。冷たくなった指先を紅茶の熱で温めるように、マンダネは茶器を両手でぎゅっと握りしめた。
「それはもちろん。君たちの弟――トゥルース君が、男の子だからさ」
「女の子だったら、こちらに来ていたんですか?」
 目元に肯定の笑みを浮かべるイリャスに、マンダネは言いしれない悲しさを感じた。マンダネは本邸に住まう兄弟が嫌いだ。理由は、彼等の性格がいけ好かないからというばかりではない。先にイリャスが述べたそのにただ合致するというそれだけで、目指すべき道を示されているのが悔しいからだ。
「私はシャマクより上手に作文ができるし、ジャミーレはホスローより算術が得意です。トゥルース君が男の子だからってだけで――特別扱いは、納得できません」
「それは違うよ、マンダネちゃん」
 イリャスはマンダネの頭を撫でながら、困ったような笑みを浮かべる。どう違うのかと聞き返す代わりに、マンダネは下唇をきゅっと噛んだ。
「マンダネちゃんとジャミーレちゃんには、お父さんみたいな嫌われ者にはなってほしくないんだ」
「ッ……! 私は、お父さんのこと好きです!」
「わ、わたしも……!」
 思いも寄らない父の自虐に、姉妹は慌てて反論の代わりに好意の言葉を述べる。イリャスはありがとうと嬉しそうな声色で返しながらも、言葉を継いだ。
「マンダネちゃんとジャミーレちゃんに好いてもらうためにも、お父さんは海都で一番の嫌われ者でないといけないんだ。どうしてかわかるかな?」
「……商会のため、ですか?」
 恐る恐る答えるジャミーレに、イリャスは頷いてみせる。口の中に乾きを感じたマンダネは、少し温くなった甘い紅茶を啜った。
「そう。お父さんたちの商会が元気でいるには、他の商会の元気を奪わなきゃいけない。でもそうすると、他の商会の人たちは困るし、うちの商会で一番偉いお父さんのことを大嫌いになるよね」
「他の商会の人も、一緒なのに……」
「それでもさ。お父さんは嫌われることはへっちゃらだけど、二人は会ったこともない沢山の人から嫌われるのは、嫌だろう?」
 それぞれの瞳を覗き込まれて、姉妹はこくりと頷いた。姉妹を取り巻く世界は狭く美しく、概ね優しい。しかし、自身に向けられるざらつくような悪意の痛みを知らないわけではない。
「本邸に住む子にはお父さんと同じくらいに、人から嫌われることをへっちゃらになってもらわないといけないんだ。トゥルース君も、例外じゃないよ」
「そんなぁ……」
 ジャミーレがすん、と鼻を鳴らしたのを、マンダネも潤んだ瞳で見遣る。イリャスの話を聞くまではずるく感じていたはずの他所から来た弟を、慮る気持ちが膨らんでいるようだ。
「トゥルース君も、嫌われるのは嫌ですよね……?」
「男の子だもん。耐えなくっちゃ」
 イリャスが当然のように言い放った言葉に、マンダネはそれをおかしいとは言い返せなかった。好きではない兄弟が自分たち姉妹より特別扱いされることには不満を感じているのに、好きではない兄弟より自分たち姉妹が特別扱いされていることを不公平だと断じる強さは、年相応に稚いマンダネは持ち得なかった。マンダネが一番可愛いのはジャミーレで、次に可愛いのは自分自身だ。
「……私たちは、トゥルース君に会うことはできますか?」
「マンダネちゃんが会いたいなら連れてこよう。何時が良い?」
 顔も知らない弟を気の毒に感じたのに見捨ててしまう罪悪感を、マンダネはそのままにはできなかった。何も知らずに独りぼっちでやって来た子供が辛い思いをするのなら、せめて味方になってやろうという、後ろめたい同情心であった。
 その後、トゥルースはイリャスに伴われて別邸を訪れる度に、マンダネとジャミーレからを教え込まれた。せめてトゥルースだけは女の子から嫌われないようにという姉たちからの善意の行いも加わり、少年期のトゥルースは安らぎの無い日々を余儀なくされたのであった。
「ずっとうなされてる……」
 眠りながらも眉間をきつく顰めてうなされるトゥルースに、カメリオも心配そうに眉を寄せる。熱のせいで悪夢でも見ているのだろうか、トゥルースの表情は寝入ってからずっと辛そうだ。カメリオはしゅんと瞬きをして、トゥルースの額を冷やす手拭いを取り替えた。
「……せめて怖い夢からくらいは、俺が守ってあげられたらいいのに」
 額の冷たさにやや表情が和らいだトゥルースに、カメリオはぽつりと呟く。誰にも聞こえていないからと呟いた言葉は、カメリオ自身を悲しくさせた。仕事のし過ぎで熱を出して寝込んでいるトゥルースに対して、看病くらいしかできない自分をカメリオはひどく無力に感じている。
 他に何か自分ができる事は無いかと思考を巡らせたカメリオは、はっと思い至った。
(そうだ……俺が子供の頃に母さんが飲ませてくれた、熱を冷ます香草!)
 幼い頃に発熱した際に、母が煎じて飲ませてくれた香草をカメリオは思い出した。薬効がある香草は、市場で売っているはずだ。
 しかしトゥルースを放っておくわけにもいかない、とカメリオが駆け出すのを躊躇しているところで、渡りに船とも言える人物が現れた。
「タルズさん! 薬買ってきてすぐ戻って来るから、番頭さんをみていてもらえますか?」
「お、おお……構わねえでやすが」
「ありがとう!!」
 元々カメリオに休憩を提案に来たタルズは、カメリオの勢いに少し圧倒されながら旋風のように駆けていく後ろ姿を見守る。すばしっこいものだとタルズが感心しているところで、トゥルースがぽつりと口を利いた。
「……君なのか?」
「わしでやす」
「そうか……」
 発熱しながらの寝覚めとは言え、落胆を隠さないトゥルースに笑いが籠もった溜め息を漏らしたタルズは、見舞い代わりにトゥルースが喜ぶ話を聞かせてやった。
「坊主なら、今までずっと旦さん看病してて今しがた薬買いに行くって駆けていきやしたぜ」
「…………そうか」
 あからさまに嬉しそうな声色に変わったトゥルースに、タルズは声を出して笑った。
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