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02 高俅(こうきゅう)、開封で暴れること
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深夜の開封。
皇宮の前。
ずしん。
重々しい音が響いた。
石碑が倒れた音である。
その石碑――元祐党石碑は、時の太師(宰相)・蔡京が、己が権勢を誇示するため、「旧法党」として、自分に反対する者の名を刻んだ石碑である。
すなわち、従わざれば石碑に刻み、弾圧する、と。
そして翌朝。
宮中へと出仕した蔡京は仰天する。
「な……何故に私の建てた石碑が倒れておる?」
この期に及んで、蔡京は地震か何かで石碑が倒れたものと認識していた。
そして問題は、何故誰も石碑を建て直さないのか、という自身の威を畏れぬ役人どもの怠慢である、と。
しかしここで赫怒しては、太師としての沽券にかかわるとして、蔡京はおほんと咳払いをしてから、近くの誰かに石碑を何とかしろと命じようとした。
その時。
「ぶべっ」
鞠が飛んで来て、蔡京の顔面に命中した。
「な……何奴!?」
大宋帝国の太師たる自分に、しかも顔面に鞠を当てるなど、許されることではない。
いやそもそも、神聖なる皇宮に鞠などと持ち込むなど、一体誰か。
「おれだ」
蔡京の疑問は、あっさりと氷解した。
いつの間にか、蔡京の後ろに立っていた男が、落ちてきた鞠を足ですくい上げ、そしてそのまま、ぽんぽんと地に落ちぬように蹴り上げていた。
「こ……高俅ッ! 貴様!」
「蔡太師どのには、ご機嫌うるわしゅう」
一廉の人物たる者の姓名をそのまま呼ぶのは不敬であり無礼である。
高俅はその点を突いたのだ。
「……高太尉、此は何事ぞ?」
高俅は禁軍(皇帝の近衛軍)の太尉(司令官)である。
ただし、それは戦略戦術の才からではなく、皇帝である徽宗に蹴鞠の技量を気に入られたからだと言われる。
その証拠に。
「陛下に許しを得たからというて、鞠を皇宮に持ち込むとは何事だッ!」
徽宗から、いつでも蹴鞠の相手ができるように、と皇宮内に鞠を携帯することを認められていた。
鼻息を荒くする蔡京に対し、高俅はにべもなく答えた。
「陛下に許しを得たからだろ」
「小賢しい口を。蹴鞠芸人風情が。太師に逆らってただで済むと思うな」
細身の高俅は、どちらかというと太り肉の蔡京からしたら、片手で捻れそうな印象である。
たかが蹴鞠芸人ごときが、と蔡京は高俅に突進した。
「太師たる私が、自ら逮捕してくれ……ぶべっ」
鞠がまたしても蔡京の顔面を襲った。
顔を赤く腫れ上がらせた蔡京は、怒り心頭、高俅に拳を振るう。
「このっ! だがその忌々しい鞠が無くては……」
次の瞬間、蔡京は浮揚感を感じた。
気がつくと、高俅が蔡京の服の腰帯をつかみ、持ち上げていた。
「おれは蹴鞠だけじゃないぞ、太師どの! 角力も得意だ!」
伝えられるところによると、高俅は蹴鞠だけでなく、角力や棒術も良くした、とされる。
高俅は、蔡京の胴を締めるかたちに手を伸ばす。
「そらよッ」
「が……がはっ」
蔡京の背中で高俅が両の手を結ぶ。そしてそのまま蔡京を持ち上げた。
「ぐっ……くっ、苦しいッ! 貴ッ様、何の故を以て、かような真似をするッ」
そもそもの蔡京の疑念である。
元々、高俅は蔡京らと同じ、皇帝に阿り、そして謀って利権を得る輩、つまり同じ穴の狢と見られていた。
高俅は禁軍の太尉である。同じく、高官である蔡京らとは、友好関係にある。
そう――思われていたのに。
「い、一体、何が不満だ? あの石碑を建てた時は何も言わなかったくせに! 今さら、何を……」
「蔡太師は新法党。旧法党はお嫌いと見える……が、それは生きてる者同士の話と思っていたが」
高俅の締めが圧力を増す。
蔡京はたまらず、口から泡を吹き始めた。
「……思っていたが、何としたことだ? このたび、蔡太師は、旧法党の、逝っちまった者まで、しかもその孫子の代まで『罪』が及ぶと言いなさる」
「そ……それの何がおかしいッ!? 罪が九族に及ぶは、当たり前であろうッ!」
「当たり前、ね……」
高俅は突如として締めを外し、蔡京を下ろした。
だが、蔡京に対して寛恕を示したわけではない。
新たなる対手が現れたからだ。
「これはこれは高太尉。禁軍はよほど暇と見ゆる……」
どさりと落ちた蔡京の影から姿を見せたのは、童貫。
童貫は宦官の身でありながら、兵法を極め、武に邁進し、国軍の太尉(司令官)にまで登りつめた、剛の者である。
そして妻帯もしていた。
「国軍の太尉サマも、こんな朝っぱらから蔡太師にご機嫌伺いか? そっちこそ、よっぽど暇だな」
高俅の不敵な物言いに、童貫は「抜かせ」とうそぶく。
「ど……童太尉ッ! 高太尉が錯乱じゃッ! わしの建てた石碑を倒したばかりか、あろうことか、このわしにかような乱暴狼藉……」
「黙られよ」
童貫のその一言で、蔡京どころか、周囲の官人たちも、水を打ったように静かになる。
「吾もまた、高太尉の言を側聞しておった。して、高太尉。陛下の任ぜしめた太師を痛めつけてまで、その狙いは奈辺にありや?」
「知れたこと」
高俅は倒れた石碑に向かって指を差す。その指先の指し示す先にある名前があったが、童貫はそれを措いた。
「……石碑に名を刻まれた一人に――故人だが――生きて論を交わしてその結果追放なり冷遇なりされるのは構わないが、子や孫に及ぶのは御免蒙りたいと言ってたオッサンがいてな」
今やおれがオッサンだが――と高俅は自嘲したが、それでも童貫に胸を張った。
「若え頃、渡世の末に出会ったそのオッサンが、おれに値千金の――回生の一杯を呉れた。今、その恩に報いる時!」
皇宮の前。
ずしん。
重々しい音が響いた。
石碑が倒れた音である。
その石碑――元祐党石碑は、時の太師(宰相)・蔡京が、己が権勢を誇示するため、「旧法党」として、自分に反対する者の名を刻んだ石碑である。
すなわち、従わざれば石碑に刻み、弾圧する、と。
そして翌朝。
宮中へと出仕した蔡京は仰天する。
「な……何故に私の建てた石碑が倒れておる?」
この期に及んで、蔡京は地震か何かで石碑が倒れたものと認識していた。
そして問題は、何故誰も石碑を建て直さないのか、という自身の威を畏れぬ役人どもの怠慢である、と。
しかしここで赫怒しては、太師としての沽券にかかわるとして、蔡京はおほんと咳払いをしてから、近くの誰かに石碑を何とかしろと命じようとした。
その時。
「ぶべっ」
鞠が飛んで来て、蔡京の顔面に命中した。
「な……何奴!?」
大宋帝国の太師たる自分に、しかも顔面に鞠を当てるなど、許されることではない。
いやそもそも、神聖なる皇宮に鞠などと持ち込むなど、一体誰か。
「おれだ」
蔡京の疑問は、あっさりと氷解した。
いつの間にか、蔡京の後ろに立っていた男が、落ちてきた鞠を足ですくい上げ、そしてそのまま、ぽんぽんと地に落ちぬように蹴り上げていた。
「こ……高俅ッ! 貴様!」
「蔡太師どのには、ご機嫌うるわしゅう」
一廉の人物たる者の姓名をそのまま呼ぶのは不敬であり無礼である。
高俅はその点を突いたのだ。
「……高太尉、此は何事ぞ?」
高俅は禁軍(皇帝の近衛軍)の太尉(司令官)である。
ただし、それは戦略戦術の才からではなく、皇帝である徽宗に蹴鞠の技量を気に入られたからだと言われる。
その証拠に。
「陛下に許しを得たからというて、鞠を皇宮に持ち込むとは何事だッ!」
徽宗から、いつでも蹴鞠の相手ができるように、と皇宮内に鞠を携帯することを認められていた。
鼻息を荒くする蔡京に対し、高俅はにべもなく答えた。
「陛下に許しを得たからだろ」
「小賢しい口を。蹴鞠芸人風情が。太師に逆らってただで済むと思うな」
細身の高俅は、どちらかというと太り肉の蔡京からしたら、片手で捻れそうな印象である。
たかが蹴鞠芸人ごときが、と蔡京は高俅に突進した。
「太師たる私が、自ら逮捕してくれ……ぶべっ」
鞠がまたしても蔡京の顔面を襲った。
顔を赤く腫れ上がらせた蔡京は、怒り心頭、高俅に拳を振るう。
「このっ! だがその忌々しい鞠が無くては……」
次の瞬間、蔡京は浮揚感を感じた。
気がつくと、高俅が蔡京の服の腰帯をつかみ、持ち上げていた。
「おれは蹴鞠だけじゃないぞ、太師どの! 角力も得意だ!」
伝えられるところによると、高俅は蹴鞠だけでなく、角力や棒術も良くした、とされる。
高俅は、蔡京の胴を締めるかたちに手を伸ばす。
「そらよッ」
「が……がはっ」
蔡京の背中で高俅が両の手を結ぶ。そしてそのまま蔡京を持ち上げた。
「ぐっ……くっ、苦しいッ! 貴ッ様、何の故を以て、かような真似をするッ」
そもそもの蔡京の疑念である。
元々、高俅は蔡京らと同じ、皇帝に阿り、そして謀って利権を得る輩、つまり同じ穴の狢と見られていた。
高俅は禁軍の太尉である。同じく、高官である蔡京らとは、友好関係にある。
そう――思われていたのに。
「い、一体、何が不満だ? あの石碑を建てた時は何も言わなかったくせに! 今さら、何を……」
「蔡太師は新法党。旧法党はお嫌いと見える……が、それは生きてる者同士の話と思っていたが」
高俅の締めが圧力を増す。
蔡京はたまらず、口から泡を吹き始めた。
「……思っていたが、何としたことだ? このたび、蔡太師は、旧法党の、逝っちまった者まで、しかもその孫子の代まで『罪』が及ぶと言いなさる」
「そ……それの何がおかしいッ!? 罪が九族に及ぶは、当たり前であろうッ!」
「当たり前、ね……」
高俅は突如として締めを外し、蔡京を下ろした。
だが、蔡京に対して寛恕を示したわけではない。
新たなる対手が現れたからだ。
「これはこれは高太尉。禁軍はよほど暇と見ゆる……」
どさりと落ちた蔡京の影から姿を見せたのは、童貫。
童貫は宦官の身でありながら、兵法を極め、武に邁進し、国軍の太尉(司令官)にまで登りつめた、剛の者である。
そして妻帯もしていた。
「国軍の太尉サマも、こんな朝っぱらから蔡太師にご機嫌伺いか? そっちこそ、よっぽど暇だな」
高俅の不敵な物言いに、童貫は「抜かせ」とうそぶく。
「ど……童太尉ッ! 高太尉が錯乱じゃッ! わしの建てた石碑を倒したばかりか、あろうことか、このわしにかような乱暴狼藉……」
「黙られよ」
童貫のその一言で、蔡京どころか、周囲の官人たちも、水を打ったように静かになる。
「吾もまた、高太尉の言を側聞しておった。して、高太尉。陛下の任ぜしめた太師を痛めつけてまで、その狙いは奈辺にありや?」
「知れたこと」
高俅は倒れた石碑に向かって指を差す。その指先の指し示す先にある名前があったが、童貫はそれを措いた。
「……石碑に名を刻まれた一人に――故人だが――生きて論を交わしてその結果追放なり冷遇なりされるのは構わないが、子や孫に及ぶのは御免蒙りたいと言ってたオッサンがいてな」
今やおれがオッサンだが――と高俅は自嘲したが、それでも童貫に胸を張った。
「若え頃、渡世の末に出会ったそのオッサンが、おれに値千金の――回生の一杯を呉れた。今、その恩に報いる時!」
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