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01 テーバイの神聖隊
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「かの人をわれに語れ、ムーサよ」
――ホメロス『オデュッセイア』より
紀元前三八五年。
ギリシアは覇権戦争の最中にあった。
都市国家のひとつ、スパルタはその精強なることから、ペロポネソス同盟という都市国家同士の同盟を牛耳り、同盟都市国家のひとつ、テーバイに、マンティネイア攻略を要請した。
これに対しテーバイは、いわば虎の子というべき「神聖隊」という部隊を派遣。
神聖隊とは――テーバイの都市国家政府から兵士たちに給金が出て、軍事訓練に専念し、かつ、男性の同性愛者の二人組を百五十組つまり三百人で構成される部隊である。
なぜ、男性の同性愛者同士で構成されているかというと、戦闘中は互いにいいところを見せ合おうと奮戦し、また、輩が傷つかないように、勇敢に戦うだろうという思惑である。
「さあ――誓おう、神の墓の前で。われらの愛を」
ヘラクレスの甥であり、従者であるイオラウス。彼はヘラクレスの寵愛を受けていた。そのイオラウスが祀られた墓所に参じ、愛を誓うことは、テーバイの男性同士の恋人の間では、崇高なならわしとして伝わっていた。
そしてそのならわしこそが――神聖隊の神聖たる所以だと伝えられている。
……いずれにせよ、テーバイはその切り札・神聖隊を切った。
ただ、切り札を切ったとして、一体誰がその神聖隊を率いるのか。
「僕がやろう」
そう言い出したのは、前述の誓句と共にエパイメノンダスと「組」になった男――ペロピダスであった。
ペロピダスはいわゆる富裕層の貴族、権門の出身で、そのいかにもな男ぶりが、神聖隊の隊員たちに人気だった。
対するや――エパイメノンダスはいかにも寒門、つまり貧乏な貴族の出であり、何故自分がペロピダスの「組」の相手に選ばれたのか、不思議なくらいに思っていた。
「君は――人に見えないものが見えている」
初めて出会った時から、それがわかっていたとペロピダスは言う。
なかなかの殺し文句だとエパイメノンダスは思ったが、彼は彼でペロピダスのことを結構気に入っていたので、特に不満は無かった。
ただ、人に見えないものとは何だ、と問うた。
「愛の色を教えて?」
と聞かれたら、答えられる。そういうものが見えていると言った。
「いやそれはおかしいだろう。愛の色なんて」
「そう。普通は色なんて無い。わからない。人はそう答える。だが君はちがう」
自信たっぷりに断言するペロピダス。
しばらくの間。
その間に、エパイメノンダスは「答え」を期待されていることに気がついた。
「……ん~。そうだな……これから私が見せる景色。それが私から君への、愛の色だ」
ペロピダスはにこにこと満足そうに微笑む。
脾腹《ひばら》から血を垂らしながら。
……神聖隊は、スパルタの要請を受けてマンティネイアに攻め入ったはいいものの、敗退。どころか、隊長たるペロピダスが負傷するほど窮地に追い込まれていた。
マンティネイアはペロポネソス半島中部のアルカディアにある都市国家で、山岳地帯の中にあり、そこを攻めるのには――行軍するのには、困難を極めた。
それは、テーバイ最強の神聖隊といえども、至難の業であり、案の定、神聖隊はマンティネイアの兵に要撃されて、今に至る。
「……それにしても、エパメイノンダス、君の退却戦の指揮は見事だった」
「……いや、隊長たる君の、力戦奮闘の賜物さ」
撤退にあたり、ペロピダスはまず自身が最後尾に立ち、神聖隊の隊士たちに撤退をうながした。
エパメイノンダスは、ペロピダスの「組」である以上、必然的に副隊長格ということになっていたが、ペロピダスが殿軍を果たしているため、そのままペロピダスに代わって、神聖隊の撤退の指揮を執った。
「ペロピダス、君が目立って闘ってくれるから、その間に隊士たちを退かせることができた」
エパメイノンダスは、隊士たちの大半が逃げることに成功するのを確認したあと、ひとり闘いつづけるペロピダスの隣に立った。
そして二人でマンティネイアの兵を斬り伏せ、斬り倒しつつ、ここまで逃れてきたのだが、さしものペロピダスも、負傷を避けられるず、脾腹に傷を受けた。
「ちょっと、待ってろ」
エパメイノンダスがマントの端を咥えて引っ張る。切り裂かれたマントの布を、ペロピダスの腹部に一周させて、包帯の代わりとする。
「すまない」
「何、いいさ」
ここで「愛し合う仲だからな」とか言ったら、言い過ぎだろうかとエパメイノンダスは考えたが、ペロピダスは安心したのか、寝てしまった。
エパメイノンダスは、残った神聖隊の隊士の何人かにある指示を下してから歩哨に向かわせ、自身は眠るペロピダスの前に座り、彼の手を握った。
ここは山林の中。
マンティネイアから大分離れたところにあるとはいえ、追撃の可能性はある。
「も一度くらいは戦えそうだが……それ以上は無理だな」
エパメイノンダスは冷静にそう判断を下した。
「土台、無理な話だったんだ……このような山岳地帯を攻めろなどと」
古代ギリシアにおいて、戦争とは、盾を左手に構え、剣を右手に持つ重装歩兵をならべて戦列とし、その戦列を行進、突進させて激突させることを旨としていた。
それを、このような山林、山間の地において戦えというのが無理に等しい。
「何故、そのようなことをスパルタが言って来たのか……」
スパルタは、自身こそがギリシアの盟主だとして、己が推進する寡頭政を各都市国家に強要した。それにより、スパルタがギリシアを支配するために。
この策謀は図に当たり、スパルタはギリシアの僭主ともういうべき地位に就いた。
だが当然、物事には作用反作用のごとく、反発が来る。
「このアテナイは――民主政である。よって、スパルタの言う寡頭政は、肯んじ得ない」
コリントス戦争の勃発である。
「しかし、そのコリントス戦争にしてからが……」
エパメイノンダスは、気がついたら独言していた。
彼らしくもなく、撤退戦という危機に遭遇して、いささか落ち着きを無くしていたのかもしれない。
「……こほん、コリントス戦争にしてからがスパルタの勝利に終わった。そしてギリシアはスパルタを盟主とする領土国家になった――かに見えた」
あたかもペルシアのような。
そう、かつて――ペルシア戦争という戦争において、ギリシア全土の都市国家が連合を組んで、戦った覇権国家・ペルシア帝国。
その戦いにおいて、スパルタは多大な犠牲を払って勝利に貢献した。だからこそのスパルタのヘゲモニーだが、その結果、皮肉なことに、そのスパルタによる「ギリシアのペルシア化」がなされようとしている。
「それもやむを得ないことかもしれない。けれども――」
けれども――エパメイノンダスは思うのだ。
その流れを担うのはスパルタでいいのか、と。
いくら何でも、やり口が汚すぎないか――と。
「たとえばこの神聖隊をわざとマンティネイアへ派兵させるようなやり口――これは暗に、テーバイを潰すため……」
そこまで独語したところで、歩哨に行っていた隊士が戻ってきた。
友軍のスパルタの部隊が、迎えに来てくれたと言っていた。
「友軍、ね……」
エパメイノンダスは目を細める。
スパルタは、本当に迎えに来てくれたのか。
もしかしたら、マンティネイアのしわざに見せかけて。
「エパメイノンダス」
そこでペロピダスが目を覚ました。
「何かあった?」
「迎えが」
「……ああ、スパルタか」
エパメイノンダスは目を見開いた。
「……何で、わかった?」
「スパルタは僕のことを気にしているみたいでね」
ペロピダスはこともなげといった様子で答えた。
そして肩をすくめた。
「……何でも、僕をテーバイの僭主にしたいみたいなんだ」
「…………」
僭主。
たとえば、表立って「王」などにはならず、実力をもってある国なり都市なりを支配する主のことを指す。
この場合、スパルタがペロピダスを僭主にしたいということは、ペロピダスという「道具」を使って、テーバイを支配したいということだろう。
「……あるいは僕を殺しに来た?」
「いや。それはない」
エパメイノンダスの健闘により、テーバイの神聖隊はかなりの人数が残っている。
これなら、闇に葬ろうとしても、逃げ落ちた何人かが、スパルタの「非道」を知らせ伝えてしまうであろう人数が。
「……こういうのをもっけの幸いとでもいうのかな」
ペロピダスは苦笑した。
――ホメロス『オデュッセイア』より
紀元前三八五年。
ギリシアは覇権戦争の最中にあった。
都市国家のひとつ、スパルタはその精強なることから、ペロポネソス同盟という都市国家同士の同盟を牛耳り、同盟都市国家のひとつ、テーバイに、マンティネイア攻略を要請した。
これに対しテーバイは、いわば虎の子というべき「神聖隊」という部隊を派遣。
神聖隊とは――テーバイの都市国家政府から兵士たちに給金が出て、軍事訓練に専念し、かつ、男性の同性愛者の二人組を百五十組つまり三百人で構成される部隊である。
なぜ、男性の同性愛者同士で構成されているかというと、戦闘中は互いにいいところを見せ合おうと奮戦し、また、輩が傷つかないように、勇敢に戦うだろうという思惑である。
「さあ――誓おう、神の墓の前で。われらの愛を」
ヘラクレスの甥であり、従者であるイオラウス。彼はヘラクレスの寵愛を受けていた。そのイオラウスが祀られた墓所に参じ、愛を誓うことは、テーバイの男性同士の恋人の間では、崇高なならわしとして伝わっていた。
そしてそのならわしこそが――神聖隊の神聖たる所以だと伝えられている。
……いずれにせよ、テーバイはその切り札・神聖隊を切った。
ただ、切り札を切ったとして、一体誰がその神聖隊を率いるのか。
「僕がやろう」
そう言い出したのは、前述の誓句と共にエパイメノンダスと「組」になった男――ペロピダスであった。
ペロピダスはいわゆる富裕層の貴族、権門の出身で、そのいかにもな男ぶりが、神聖隊の隊員たちに人気だった。
対するや――エパイメノンダスはいかにも寒門、つまり貧乏な貴族の出であり、何故自分がペロピダスの「組」の相手に選ばれたのか、不思議なくらいに思っていた。
「君は――人に見えないものが見えている」
初めて出会った時から、それがわかっていたとペロピダスは言う。
なかなかの殺し文句だとエパイメノンダスは思ったが、彼は彼でペロピダスのことを結構気に入っていたので、特に不満は無かった。
ただ、人に見えないものとは何だ、と問うた。
「愛の色を教えて?」
と聞かれたら、答えられる。そういうものが見えていると言った。
「いやそれはおかしいだろう。愛の色なんて」
「そう。普通は色なんて無い。わからない。人はそう答える。だが君はちがう」
自信たっぷりに断言するペロピダス。
しばらくの間。
その間に、エパイメノンダスは「答え」を期待されていることに気がついた。
「……ん~。そうだな……これから私が見せる景色。それが私から君への、愛の色だ」
ペロピダスはにこにこと満足そうに微笑む。
脾腹《ひばら》から血を垂らしながら。
……神聖隊は、スパルタの要請を受けてマンティネイアに攻め入ったはいいものの、敗退。どころか、隊長たるペロピダスが負傷するほど窮地に追い込まれていた。
マンティネイアはペロポネソス半島中部のアルカディアにある都市国家で、山岳地帯の中にあり、そこを攻めるのには――行軍するのには、困難を極めた。
それは、テーバイ最強の神聖隊といえども、至難の業であり、案の定、神聖隊はマンティネイアの兵に要撃されて、今に至る。
「……それにしても、エパメイノンダス、君の退却戦の指揮は見事だった」
「……いや、隊長たる君の、力戦奮闘の賜物さ」
撤退にあたり、ペロピダスはまず自身が最後尾に立ち、神聖隊の隊士たちに撤退をうながした。
エパメイノンダスは、ペロピダスの「組」である以上、必然的に副隊長格ということになっていたが、ペロピダスが殿軍を果たしているため、そのままペロピダスに代わって、神聖隊の撤退の指揮を執った。
「ペロピダス、君が目立って闘ってくれるから、その間に隊士たちを退かせることができた」
エパメイノンダスは、隊士たちの大半が逃げることに成功するのを確認したあと、ひとり闘いつづけるペロピダスの隣に立った。
そして二人でマンティネイアの兵を斬り伏せ、斬り倒しつつ、ここまで逃れてきたのだが、さしものペロピダスも、負傷を避けられるず、脾腹に傷を受けた。
「ちょっと、待ってろ」
エパメイノンダスがマントの端を咥えて引っ張る。切り裂かれたマントの布を、ペロピダスの腹部に一周させて、包帯の代わりとする。
「すまない」
「何、いいさ」
ここで「愛し合う仲だからな」とか言ったら、言い過ぎだろうかとエパメイノンダスは考えたが、ペロピダスは安心したのか、寝てしまった。
エパメイノンダスは、残った神聖隊の隊士の何人かにある指示を下してから歩哨に向かわせ、自身は眠るペロピダスの前に座り、彼の手を握った。
ここは山林の中。
マンティネイアから大分離れたところにあるとはいえ、追撃の可能性はある。
「も一度くらいは戦えそうだが……それ以上は無理だな」
エパメイノンダスは冷静にそう判断を下した。
「土台、無理な話だったんだ……このような山岳地帯を攻めろなどと」
古代ギリシアにおいて、戦争とは、盾を左手に構え、剣を右手に持つ重装歩兵をならべて戦列とし、その戦列を行進、突進させて激突させることを旨としていた。
それを、このような山林、山間の地において戦えというのが無理に等しい。
「何故、そのようなことをスパルタが言って来たのか……」
スパルタは、自身こそがギリシアの盟主だとして、己が推進する寡頭政を各都市国家に強要した。それにより、スパルタがギリシアを支配するために。
この策謀は図に当たり、スパルタはギリシアの僭主ともういうべき地位に就いた。
だが当然、物事には作用反作用のごとく、反発が来る。
「このアテナイは――民主政である。よって、スパルタの言う寡頭政は、肯んじ得ない」
コリントス戦争の勃発である。
「しかし、そのコリントス戦争にしてからが……」
エパメイノンダスは、気がついたら独言していた。
彼らしくもなく、撤退戦という危機に遭遇して、いささか落ち着きを無くしていたのかもしれない。
「……こほん、コリントス戦争にしてからがスパルタの勝利に終わった。そしてギリシアはスパルタを盟主とする領土国家になった――かに見えた」
あたかもペルシアのような。
そう、かつて――ペルシア戦争という戦争において、ギリシア全土の都市国家が連合を組んで、戦った覇権国家・ペルシア帝国。
その戦いにおいて、スパルタは多大な犠牲を払って勝利に貢献した。だからこそのスパルタのヘゲモニーだが、その結果、皮肉なことに、そのスパルタによる「ギリシアのペルシア化」がなされようとしている。
「それもやむを得ないことかもしれない。けれども――」
けれども――エパメイノンダスは思うのだ。
その流れを担うのはスパルタでいいのか、と。
いくら何でも、やり口が汚すぎないか――と。
「たとえばこの神聖隊をわざとマンティネイアへ派兵させるようなやり口――これは暗に、テーバイを潰すため……」
そこまで独語したところで、歩哨に行っていた隊士が戻ってきた。
友軍のスパルタの部隊が、迎えに来てくれたと言っていた。
「友軍、ね……」
エパメイノンダスは目を細める。
スパルタは、本当に迎えに来てくれたのか。
もしかしたら、マンティネイアのしわざに見せかけて。
「エパメイノンダス」
そこでペロピダスが目を覚ました。
「何かあった?」
「迎えが」
「……ああ、スパルタか」
エパメイノンダスは目を見開いた。
「……何で、わかった?」
「スパルタは僕のことを気にしているみたいでね」
ペロピダスはこともなげといった様子で答えた。
そして肩をすくめた。
「……何でも、僕をテーバイの僭主にしたいみたいなんだ」
「…………」
僭主。
たとえば、表立って「王」などにはならず、実力をもってある国なり都市なりを支配する主のことを指す。
この場合、スパルタがペロピダスを僭主にしたいということは、ペロピダスという「道具」を使って、テーバイを支配したいということだろう。
「……あるいは僕を殺しに来た?」
「いや。それはない」
エパメイノンダスの健闘により、テーバイの神聖隊はかなりの人数が残っている。
これなら、闇に葬ろうとしても、逃げ落ちた何人かが、スパルタの「非道」を知らせ伝えてしまうであろう人数が。
「……こういうのをもっけの幸いとでもいうのかな」
ペロピダスは苦笑した。
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