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第一部 河東一乱

04 常山の蛇

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 率然者常山之蛇也
 撃其首則尾至、撃其尾則首至、撃其中則首尾倶至

 孫子





「かかれ! 北条を楽に城に入れされるでない!」
 今川義元は、武田晴信のように感心して攻撃を控えることはなく、北条軍への追撃を繰り返し、物心両面ともに消耗を強いた。
 しかし北条新九郎氏康は、巧みに追撃をかわしながら、かろうじて長久保城へ入城することができた。
「いかがいたしましょう、殿。また囲みますか?」
「それには及ばぬ」
 義元は輿の上で扇子を仰ぐ。さすがの彼も、疲労の色が隠せないくらいの激戦であった。
「今は……敢えて、囲まずにおくのが吉。囲まずに、『早馬や使者が来られるように』せよ」
 義元はほくそ笑み、かたわらの近侍に、ふみなど来ていないか、と問うた。
「禅師さまより、早便が」
「ほう」
 義元は早速、書状を取り寄せ、ざっと目を通す。
「師よ……早くも河越を囲むか……それにしても八万とは……ふっふっふ……豪勢じゃのう……師と予の『常山の蛇』は、見事、大蛇となりおおせたわ……はっはっはっは……」
 哄笑は暮れゆく空に『こだま』し、長久保の城まで届くかと思われるくらいだった。





 常山の蛇





 北条新九郎氏康はようやくのことで、長久保城に入城した。
「間一髪だったな」
「ああ」
 清水小太郎吉政は肩で息をする氏康に水を持ってきた。彼は、長久保城主・北条宗哲と共に先に入城し、城方から今川勢への弓射を指揮していたところだった。
 氏康は水を飲み終わると、弁千代にも水をやるように清水小太郎に頼み、自分は城主の間へ向かった。
 河東一乱。
 そう呼ばれることになる、この一連の戦いだが、武田家の登場により、新たな局面に入った。事態の分析と対策を、部将たちと協議する必要があった。



 長久保城、城主の間。
 臨時に、北条家の本陣となったここは、宗哲が城主の御座所を譲り、氏康がそこに座った。
「殿のお成りである」
 弁千代が氏康のうしろに座り、声を上げた。
 並みいる諸将は一礼する。
「大儀」
 氏康が慰労すると、宗哲が司会役を買って出て、軍議が始まった。

「こたびの戦、今川だけでなく、同盟していたはずの武田も加わっているとのことである。わが方としては、今川のみだけでも苦しいところだが、さらなる脅威。いかがいたす?」
 諸将は口々に隣の者と談じるが、誰も全員に対しての意見を言おうとはしない。
 誰にもわからないのだ。どうすればよいか、など。
 場が飽和するのに宗哲は苛々いらいらとし出し、大喝しようとしたとき、氏康が口を開いた。
「今川の勢い、尋常ならず。それはさきの戦で分かっただろう。かつ、武田の存在も不気味。今まで正体を現さず、直に干戈かんかを交えることは無かったところが、特に」
 干戈を交えるって何だ、とつぶやく清水小太郎に、いくさじゃ馬鹿者と宗哲がこづく。
「……したが、今川、武田、双方が相通じて攻めてきているわけではなさそうだ。そこに、付け入る隙が……」
 全員が固唾をのんで、氏康の話のつづきを待っているところに、『それ』は飛び込んできた。
 凶報が。

「申し上げます!」
「何じゃ、この大事な時に。火急の件でなくば、入るでないと申して……」
「か、火急の要件であります!」
「……言うてみよ」
 泡を食った様子の家臣に、氏康は発言をうながした。
「河越にて、綱成様、関東管領山内上杉憲政と、扇谷おうぎがやつ上杉朝定と遭遇。そのまま河越に入城はできたが、両上杉が関東諸侯に号令し……」
「号令して、どうなったんだ、早く言え」
 清水小太郎が気をもんでかす。
「号令し……関東諸侯を糾合して八万の軍勢を整え、河越城を包囲しつつあるとのよし
「八万!?」
 居並ぶ諸将から驚愕の声があがった。
 別室で聞くべきだったな、と氏康は思った。が、この場で言えと言ったのは自分だ。責めるいわれもない。

 河東に今川、武田連合軍。
 河越に山内上杉、扇谷上杉および関東諸侯の同盟軍。しかも八万。
 北条家は、始祖・伊勢宗瑞の草創以来、最大の危機を迎えようとしていた。



 軍議は宗哲が現状維持で待機、と無理矢理に結論をつけ、解散となった。
 その後、改めて、宗哲と清水小太郎が氏康の寝所に来て、対応を協議した。
「……先ほどの使者は、書状を持ってきていた」
「河越の城将、大道寺盛昌どののか?」
「北条孫九郎綱成、と添え書きもあるぞ」
 小姓の弁千代が灯火を点け、書状が広げられる。
「ふうむ……関東管領の陣中に、今川の黒衣の宰相の影あり、か……」
「……そういえばさきほどの義弟どのの用兵は、いささか性急だったな。禅師は不在なのかもしれん」
「義弟って……ああそうか、新九郎のかみさんの弟だったな、今川義元は」
「かみさんではない、奥方と云え」
 宗哲の小言に、うるさいなと清水小太郎は返す。

「……こうなると八万という軍勢が、ただの八万ではなくなる。ことと次第によっては、百万にも匹敵する」
「……それほどのお方なのですか?」
「弁千代、聞いてないのか? お前たち兄弟が落ち延びる羽目になった武田と今川の戦、そして福島が矢面に立たされた『あれ』な、そそのかしたのはあの禅師よ」
「え……」
「よせ小太郎。孫九郎は敢えて弁千代には言わずにいたのだ」
「あ、そうか、すまん」
 清水小太郎は自分の頭を拳で叩いて謝った。
 宗哲が弁千代の方を向く。
「まったく遺恨など持たなければ済むのなら、持たなくても良い。それは孫九郎が果たす。お前はお前のやりたいことをやれ……にしても、だ」

 宗哲は強引に話題を変える。
「その禅師、本当に太原雪斎かのう……『偽』雪斎ということもありうるぞ」
 氏康は少し考え、言った。
「叔父上は禅師と面識がありましたな」
「おお。花倉の乱の際、うたことがある」
 花倉の乱とは、今川義元が兄の玄広恵探と家督を争った内乱のことであり、北条家はその内乱において義元を支持していた。
「ならば、禅師に一筆、したためてもらえませんか。返書が必要な書状を。たとえば、内々に和睦の打ち合わせをしたい、とか」
「ほう」
 宗哲は膝を手で打つ。
「たしかにそれなら、返事がないなら、あの禅師は今、駿河にいないことになる。返書があれば、それは河越の方が偽禅師、ということか」
「偽の返書にごまかされるなよ、じいさん」
「やかましいわ小太郎。伊勢流故実をまじえ、彼奴きゃつ自身ではないと返書できないくらいのふみを書いてやるわい」
 伊勢流故実とは、北条に改姓する前の伊勢家の本家、幕府奉公衆筆頭・伊勢貞宗がまとめ上げた、有職故実、礼儀作法の集大成のことを云う。伊勢貞宗と、北条家の祖・伊勢宗瑞とは従兄弟の関係にあたり、宗瑞もその故実を会得し、宗哲に伝えたのだ。

 氏康は宗哲に手を合わせた。
「頼みます。叔父上……で、河越の禅師が本物の太原雪斎として、これをどうするか」
「むむ……」
 巨漢の清水小太郎が腕組みして眉間にしわを寄せるのは微笑ましく、実際、弁千代は思わず微笑んでしまう。
「弁千代、お前も考えんか! 笑ってる場合じゃないぞ」
「失礼しました小太郎さま」
 宗哲は雪斎への文書の下案を考えているのか沈黙していたが、ぽつりと、言った。
率然そつぜん、じゃな」
「ああ、たしかにそうですね、叔父上」
「なんじゃそりゃ?」
 この清水小太郎の発言に、宗哲はかんかんになって怒った。
「馬鹿者! ちゃんと教えたはずじゃぞ! 孫子の九地篇!」
「え、ええ?」
 戸惑う清水小太郎に、氏康が助け舟を出した。
「常山の蛇、だ。唐土もろこしの常山の地に棲むという、双頭の蛇……一方の頭を攻撃すれば、もう一方の頭が反撃してくる。胴体を攻撃したら、当然、双頭が両方……そういう伝説の蛇よ」
「ええと、ああそうか……かように一方が攻められたら他方から攻め、さながら常山の蛇、率然のようにあるべし、だったかな?」

「つまり……今川義元が一方の頭で、太原雪斎がもう一方の頭である……と」
「そうだ。聡いぞ、弁千代」
 清水小太郎が、弁千代の頭をがしがしと撫でる。
 弁千代は痛かったが、気持ちは嬉しかったので文句は言わなかった。が、不思議に思うことがあり、それは口にした。
「で、あれば……胴体は何なのでしょう?」
「胴体のう……まあ双頭の蛇というのはしょせん『たとえ』じゃから、この場合、雪斎と義元が連絡つなぎを取っているのが胴体という……」
 宗哲がそこまで言った時点で、氏康は弁千代の言わんとしていることが理解できた。
「そうか。双頭の蛇の頭と頭をつなぐ胴体……連絡つなぎを断てば、双頭ではなく二匹の蛇になる、というわけか」
「どういうことだ新九郎?」
「うむ……義弟どのと雪斎禅師の連携を断ってしまえば、双方同時に動いたり、片方が動いてこちらの兵力と注意を集中させた隙にもう片方がく、という動きを牽制けんせいできる」
「つまり……二人の間の連絡つなぎを邪魔して『いやがらせ』ができる、ということでいいんだな?」
「そうだ、ついでに言えば、今度はこちらが双頭の蛇となって、義弟どのと雪斎禅師に対抗しよう」
「やったな弁千代、お手柄だな」
 また清水小太郎は、弁千代の頭をがしがしと撫でた。

「雪斎禅師の『実家』は海運をしている。まずは海の道からだ。小田原に頼もう」
 氏康は、北条家の本城・小田原城の留守居を頼んだ弟・北条氏尭うじたかに、北条水軍を動かし、江戸湾を警戒するよう依頼することにした。
「それと小太郎」
「おう」
「武蔵・小澤原の中島隼人正はやとのしょう連絡つなぎを。陸路はおそらく、甲斐の武田領を介して、それから武蔵野を通っていくはずだ」
 中島隼人正は、小澤原の地侍で、氏康と小太郎の初陣の際、寄騎となって一緒に戦ってくれた仲間である。
「隼人正に警戒させるわけだな。あいつなら、きっちり抑え込んでくれるだろう」
「そう、陸の道もこれである程度、封鎖できるだろう……さて、叔父上」
「何じゃ、禅師宛の文なら考えとるぞ」
 ここでな、と宗哲は自分の頭をつつく。

「そうではなく……これから、義弟どのに書状を書くので、後で見てもらえますか」
「ほう……」
 宗哲が感心したようにうなずく。弁千代が不得要領な顔をしているので、清水小太郎が助け舟を出した。
「その義弟って誰だ。孫九郎か?」
「……足利晴氏。古河公方」
 室町幕府の関東支配の要、関東公方。その系譜を今に次ぐのが古河公方であり、幕府の組織構成上、関東管領の上に立つ。関東管領たる上杉家の台頭と戦乱の中、次第に没落していったが、それでも形式上は関東の公方であるため、関東諸侯は拝跪してその言葉を聞くべき存在である。
 氏康の父、北条氏綱は武蔵野に覇を唱え、やがて関東において随一の戦国大名と成り、娘を、つまり氏康の妹を古河公方に輿入れさせることに成功する。
 このことにより、北条家は足利家の「御一家」となり、氏綱は、古河公方から関東管領に補任されている。しかし、関東管領は上杉家の家職であるため、室町幕府から正式に認められないまま終わった。

「いかに古河公方が関東管領に自重を求めたとて……断られるのが『落ち』じゃぞ」
「それでも書く。関東管領である以上、古河公方からの書状なり、使いなりが来たのなら、返答をすることは免れない。その間くらいは、河越への攻撃を止める。その時間が欲しい」
「ほんのわずかだろうが……それでも、孫九郎にとっては値千金の時間だろうな」
 河越城の兵は三千人。それで八万の軍勢の相手をしなければならないのだ。
 たとえほんの少しでも、余裕はあるだけあれば良い。

「兄上……」
 弁千代がはるか遠くにいる北条孫九郎綱成のことに思いをはせ、心を痛める。
 兄は、落ち延びるとき、まだ赤子だった自分を胸に抱いて、必死に走ったという。
 その兄のために、自分が何かできることは無いだろうかと悩む。
「弁千代」
 悩める少年に、氏康は声をかけた。
「筆と硯を持ってきてくれんか……おれも河越が心配だ。だから今、できることをしよう。そしてまた何か思いついたら、話し合ってみるさ」
「は……はい!」
 弁千代は立ち上がり、それを機に、宗哲と清水小太郎も立ち上がって、それぞれの仕事に向かった。



「お屋形様、いずこへ?」
「勘助か。ゆえあって、甲斐に戻ることにした」
「そのようなことをなされて、大丈夫なのですか?」
 武田晴信は、陣中見舞いと称して、今川義元が夜営の陣を築いて兵を休めるのを確認した。
 そして義元から、雪斎への返書を託されて、自らの陣営に帰ってきたところだった。
「ちょうどいい口実を託されたからな、もし今川の方で何か言ってきたら、こう返してやれ……義元公から禅師への大事な大事なふみゆえ、晴信自ら持参して行った、とな」
「口実はそれでいいかもしれません。しかし、将兵たちはどうなさいます。たとえば、拙者が命令しても、武田譜代の者たちが、聞くかどうか」
 山本勘助は牢人の身であったが、晴信に見出されて武田の軍師となった経緯がある。その才知は万人が認めるところであるが、さりとて、武田譜代の臣の気持ちとして、従ってくれるかどうか不安が残る。
 晴信は返書をもてあそびながら、勘助の不安にこたえた。
「皆には、待機を命じておく。何かあったら逃げろ、とも付しておく。それならよかろう。どうせ戦うつもりなど、最初はなから無い。勘助は、その待機と退却を目付する、というかたちにしておく」
 晴信は小姓たちに甲冑を外すよう命じた。ものも言わずに小姓たちは、するすると、晴信の甲冑を脱がしていく。

「……それで今回のご帰国の狙いは?」
「あててみよ」
 ふふ、と晴信は微笑する。晴信は、たまにこういう問答を楽しむところがあった。それは勘助相手だけでなく、譜代の臣や、果てはこうして身の回りの世話をする小姓たちにも及んだ。
「そうですな……こたびの戦いへの合力ごうりきを婉曲に止めるおつもりで?」
「それもある。半分、正解だ」
「残り半分は……かないませんな、降参です」
「勘助でも読めぬとは、予の智恵もまだまだ捨てたものではないな」
「おたわむれを……」
 すっかり甲冑を脱いで、さっぱりとなった晴信は、今度は旅装の用意を命じた。小姓たちが駆けていく。晴信はその後ろ姿を微笑ましそうに見送る。

「……予はな、勘助。こたびの戦、それ自体を止めさせるつもりだ」
「なんと」
「相模の獅子もなかなかの用兵巧者いくさじょうず。しかし、あのままでは詰まれて負けよ」
「左様ですか」
「いや……負けは言いすぎだな。しかし、追い込まれるのは必定。今川としては、勝った勢いで武田を従わせる……と、なられては困る」
「…………」
 勘助の才知は軍略でこそ最も発揮されるが、政略の面となると、やはり晴信の方が上手であった。
「ふむ。すまぬな、許せ。実は予も、『戦を止める』は今思いついたところよ」
 晴信は勘助に対して頭を下げた。晴信は甲州法度という分国法を制定したとき、晴信自身が守ってなければ遠慮なく言うと良い、と言い放ったことがある。それだけ、礼や理というものに素直だった。
 勘助は恐縮して、やはり頭を下げる。
「恐れ多いことでございます、殿。どうか頭を上げてくだされ」
「ふむ」
 頭を上げた晴信は立ち上がり、用意された旅装をさっと身につけた。
「では、後を頼むぞ」
「委細承知」

 晴信は愛馬にまたがり、単身、甲斐へ去って行った。
 翌朝、今川の使者が武田の陣を訪ねてこのことを知り、義元は激怒することになるのだろうが、晴信にとって、それはあまり大したことではなかった。
 それよりも、常山の蛇を気取って有頂天の義元をどう料理してくれようか、それを考えると、冷静沈着な彼らしくもなく、腹の底から笑いがこみ上げるのだった。

「義元どの、義元どの……蛇の胴体と思うておる武田が……実は三つ目の頭であり、それが勝手なことをし出したら……どうする?」





常山の蛇 了
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