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終章 誓いの三矢
53 謀将二人
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長井新九郎を乗せた舟が、滑るように瀬戸内の海を走っていくのを見送ったあと、多治比元就はふと、後ろに振り向いた。
そこには、ひとりの老人が立っていた。
「……久しいの」
「……おられたのですか」
老人の名は尼子経久。
今回の有田中井手の戦いの仕掛け人と言ってもよい謀将である。
「こたびの戦、見事であった」
「それはどうも……」
あまりそう思って無さそうだな、と元就は感じたが、別段、言うことでもないので、それについては黙っていた。
「ついては、毛利家は尼子家に合力してくれると聞いてのう」
もうそんなことを言ってくるか。
というか、吉川元経に頼んだのは昨日。
つまり。
「そうなることを予見して……あと、私たちが厳島に来ることまで読んで、ここにいた、と」
「……何にせよ、わしと話がしたかろうと思っての」
経久は悪びれる様子もなく、むしろ元就に対して親切にしているように見えた。
「遠くの主より、近くの敵と話した方が、存外、活路が開けるものじゃて」
暗に、京にいて、結局、今回の有田中井手の戦いに何ら助力をすることのなかった大内義興を皮肉っている。
だが元就とて、一連の戦いは、大内義興の不在がそもそもの原因とみている。京を目指すのはいい。天下を取るのもいい。だが領国の治安を見過ごすのはいただけない。
だから元就は、大内家のみに頼る態勢を改めようとしている。そのために、尼子経久との提携を目論み、尼子との伝手を持つ吉川家の吉川元経に仲介を頼んでいた。
しかしその先手を打って、尼子経久はこの厳島にいた。
それは。
「そうか。佐東銀山城に……」
「察しの良い奴。だが、口にするのは考えものぞ」
「…………」
安芸武田家の本拠・佐東銀山城は厳島に近い。
経久は、まずそこを目指した。
「項羽」武田元繁亡きあと、その未亡人である経久の姪に会うと言う名目で。だがその実は、新たな武田家当主となった武田光和や、宿老である伴繁清に、二度と尼子家の意向に背かぬよう圧力をかけたのに相違ない。
尼子家の安芸への野心、未だ衰えず。
すなわち、尼子経久の野望は、未だ已まぬということだ。
「じゃが、毛利は、多治比どのは尼子につくのであろう。喜ぶべきではないのかな?」
気がつくと、経久は能面のような無表情であった。
――尼子の安芸への侵略、立ち向かおうとするな。
無表情ながらも、いや、だからこそ、そう読み取れた。
なるほど、これが佐東銀山城行きを言い当ててしまった報いか。
元就も、やはり無表情になって経久を見つめる。
「……いや」
元就は恭しく頭を下げた。
「稀代の謀将・尼子経久どのに逆らうなど、とてもとても」
五倍もの兵力を擁する勇将・武田元繁に屈せず、逆にそれを打ち破った男、多治比元就。
その男が、こうもあっさりと頭を下げるか。
かえって経久は、元就に対して警戒心を強めた。
「そうかのう……」
元就とて、自分の一礼が逆効果であることを知っていた。
しかし。
どうせ警戒されるのなら、より効果的に。
尼子経久の胸中に、「油断ならざる男・多治比元就」という虚像を作ってやれ。
自分は今はまだ弱いが、その弱さを守る殻となってくれよう。
その殻は、まさしく卵の殻のように、果敢無いものだが、それでも守りたいものが、自分にはあるのだ。
「……ふむ」
尼子経久は、値踏みするように元就を見つめたあと、ふと遠くの社を眺め、そして微笑んだ。
「よかろう。姪を娶ること、認めようではないか」
「……故・武田元繁どのの奥方ですか?」
「たわけ。冗談でも雪に聞かれたら、どうするのだ」
経久は、われら二人とも射殺されるぞとおどけた。
元就が神社の方を見ると、そこには鬼吉川の妙弓と称えられる少女が佇んでいた。
「……ふん、わしが多治比どのをどうにかしようとでも考えたか」
「……いや、おそらく私が遅いので、迎えに来たのでしょう」
元就は、長井新九郎と雪と共に厳島に来た。雪は一足お先にと、新九郎の堺行きの舟の手配に向かい、その間、元就と新九郎は歩きながら最後の会話を交わした。
そして二人は参拝してから船着場に向かい、雪は二人に気を遣って、お待ちしておりますと言って、神社に残っていた。
「なるほど。婚儀を催すつもりであったか」
「そこまで格式張ったものではありません。初めて会ったこの島で、二人きりで参拝しようかと」
そういうのを婚儀というのだ、と経久は笑った。
「だがそれならなおさら、認めて良かったというもの。尼子としては異存は無い。少なくとも、今は、毛利は、多治比は尼子にも味方であると、認めようではないか」
「……かたじけのうございます」
経久は知っている。
元就が、宿老・志道広良を京へ差し向け、大内義興に戦勝の報告と、元就と雪の婚姻を認めさせよう、相談させていることを。
その際、元就と雪の婚姻は、尼子との伝手を作り、尼子からの情報を得るためでもあると説得していることを。
多治比元就が、大内と尼子を両天秤にかけていることを、知っているのだ。
知った上で、それを認めようと言っているのだ。
「この乱世。そうでもなくては生きていけぬ。そうではなくては、わが姪を託すことなどできぬ」
後世、謀聖とまでいわれる尼子経久だが、姪である雪に対する気持ちは、まごうことなき愛情そのものである。
「今は寿ごう……だが次は分からぬぞ」
「承知いたしました」
脅し文句ではあるが、それすらも、姪の夫に対する気遣いでもあると、やはり後世に謀神と謳われる多治比元就には理解できた。
ではの、と尼子経久は辞した。ふたりきりの参拝を邪魔するつもりはないらしい。
「おさらばです……」
――こうして、謀聖と謀神は別れた。
そして、経久の予言どおり、元就と経久の再会は、安芸、そして毛利を動乱に叩き込むことになるが、それはまた別の話である。
そこには、ひとりの老人が立っていた。
「……久しいの」
「……おられたのですか」
老人の名は尼子経久。
今回の有田中井手の戦いの仕掛け人と言ってもよい謀将である。
「こたびの戦、見事であった」
「それはどうも……」
あまりそう思って無さそうだな、と元就は感じたが、別段、言うことでもないので、それについては黙っていた。
「ついては、毛利家は尼子家に合力してくれると聞いてのう」
もうそんなことを言ってくるか。
というか、吉川元経に頼んだのは昨日。
つまり。
「そうなることを予見して……あと、私たちが厳島に来ることまで読んで、ここにいた、と」
「……何にせよ、わしと話がしたかろうと思っての」
経久は悪びれる様子もなく、むしろ元就に対して親切にしているように見えた。
「遠くの主より、近くの敵と話した方が、存外、活路が開けるものじゃて」
暗に、京にいて、結局、今回の有田中井手の戦いに何ら助力をすることのなかった大内義興を皮肉っている。
だが元就とて、一連の戦いは、大内義興の不在がそもそもの原因とみている。京を目指すのはいい。天下を取るのもいい。だが領国の治安を見過ごすのはいただけない。
だから元就は、大内家のみに頼る態勢を改めようとしている。そのために、尼子経久との提携を目論み、尼子との伝手を持つ吉川家の吉川元経に仲介を頼んでいた。
しかしその先手を打って、尼子経久はこの厳島にいた。
それは。
「そうか。佐東銀山城に……」
「察しの良い奴。だが、口にするのは考えものぞ」
「…………」
安芸武田家の本拠・佐東銀山城は厳島に近い。
経久は、まずそこを目指した。
「項羽」武田元繁亡きあと、その未亡人である経久の姪に会うと言う名目で。だがその実は、新たな武田家当主となった武田光和や、宿老である伴繁清に、二度と尼子家の意向に背かぬよう圧力をかけたのに相違ない。
尼子家の安芸への野心、未だ衰えず。
すなわち、尼子経久の野望は、未だ已まぬということだ。
「じゃが、毛利は、多治比どのは尼子につくのであろう。喜ぶべきではないのかな?」
気がつくと、経久は能面のような無表情であった。
――尼子の安芸への侵略、立ち向かおうとするな。
無表情ながらも、いや、だからこそ、そう読み取れた。
なるほど、これが佐東銀山城行きを言い当ててしまった報いか。
元就も、やはり無表情になって経久を見つめる。
「……いや」
元就は恭しく頭を下げた。
「稀代の謀将・尼子経久どのに逆らうなど、とてもとても」
五倍もの兵力を擁する勇将・武田元繁に屈せず、逆にそれを打ち破った男、多治比元就。
その男が、こうもあっさりと頭を下げるか。
かえって経久は、元就に対して警戒心を強めた。
「そうかのう……」
元就とて、自分の一礼が逆効果であることを知っていた。
しかし。
どうせ警戒されるのなら、より効果的に。
尼子経久の胸中に、「油断ならざる男・多治比元就」という虚像を作ってやれ。
自分は今はまだ弱いが、その弱さを守る殻となってくれよう。
その殻は、まさしく卵の殻のように、果敢無いものだが、それでも守りたいものが、自分にはあるのだ。
「……ふむ」
尼子経久は、値踏みするように元就を見つめたあと、ふと遠くの社を眺め、そして微笑んだ。
「よかろう。姪を娶ること、認めようではないか」
「……故・武田元繁どのの奥方ですか?」
「たわけ。冗談でも雪に聞かれたら、どうするのだ」
経久は、われら二人とも射殺されるぞとおどけた。
元就が神社の方を見ると、そこには鬼吉川の妙弓と称えられる少女が佇んでいた。
「……ふん、わしが多治比どのをどうにかしようとでも考えたか」
「……いや、おそらく私が遅いので、迎えに来たのでしょう」
元就は、長井新九郎と雪と共に厳島に来た。雪は一足お先にと、新九郎の堺行きの舟の手配に向かい、その間、元就と新九郎は歩きながら最後の会話を交わした。
そして二人は参拝してから船着場に向かい、雪は二人に気を遣って、お待ちしておりますと言って、神社に残っていた。
「なるほど。婚儀を催すつもりであったか」
「そこまで格式張ったものではありません。初めて会ったこの島で、二人きりで参拝しようかと」
そういうのを婚儀というのだ、と経久は笑った。
「だがそれならなおさら、認めて良かったというもの。尼子としては異存は無い。少なくとも、今は、毛利は、多治比は尼子にも味方であると、認めようではないか」
「……かたじけのうございます」
経久は知っている。
元就が、宿老・志道広良を京へ差し向け、大内義興に戦勝の報告と、元就と雪の婚姻を認めさせよう、相談させていることを。
その際、元就と雪の婚姻は、尼子との伝手を作り、尼子からの情報を得るためでもあると説得していることを。
多治比元就が、大内と尼子を両天秤にかけていることを、知っているのだ。
知った上で、それを認めようと言っているのだ。
「この乱世。そうでもなくては生きていけぬ。そうではなくては、わが姪を託すことなどできぬ」
後世、謀聖とまでいわれる尼子経久だが、姪である雪に対する気持ちは、まごうことなき愛情そのものである。
「今は寿ごう……だが次は分からぬぞ」
「承知いたしました」
脅し文句ではあるが、それすらも、姪の夫に対する気遣いでもあると、やはり後世に謀神と謳われる多治比元就には理解できた。
ではの、と尼子経久は辞した。ふたりきりの参拝を邪魔するつもりはないらしい。
「おさらばです……」
――こうして、謀聖と謀神は別れた。
そして、経久の予言どおり、元就と経久の再会は、安芸、そして毛利を動乱に叩き込むことになるが、それはまた別の話である。
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