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02 酒井抱一の来客
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会いに来た藩士は、河合寸翁と名乗った。
「号でござる」
寸翁というのは号で、本名は道臣だと言った。
「では寸翁さんで」
「かたじけない」
茶人としての号であれば、そこまで堅苦しくする必要はない。
話し易くしてやろうという抱一の気遣いである。
それを慮って、寸翁はかたじけないと述べた。
「却説」
抱一は其一が持って来た茶菓を勧めつつ、寸翁の来た理由を問おうとした。
でも待てよ、と抱一は思う。
この河合道臣、いや、寸翁。
どこかで、いや、姫路藩だということは分かっているが、聞いたことがあるような。
一方で寸翁は見事な所作で出された茶を喫していた。
「…………」
その所作を見て思い出した。
確か、兄に利発さを見出されて、十一歳から出仕した少年がいた。
その少年は二十一歳で家老となった。
当時の名乗りは。
「隼之介」
「はは、懐かしゅうござる、その名」
かつての隼之介、今の寸翁は頭を掻いた。
河合寸翁。
二十一歳で家老となり、七十三万両もの債務を負う藩財政の債権に取り組んでいたが、抱一の兄・忠以の死により失脚したと思われていたが。
「このたび、江戸表に呼び出され、諸方勝手向の任を命じられまして」
「そうか」
抱一の兄の子、つまり抱一の甥の忠道は、債務の返済に耐えきれず、病になった。おかげで、忠道の弟・忠実が養子となり、藩主代理を務める有り様であった。
「玉助が」
忠実は抱一に懐き、抱一から玉助と呼ばれていた。忠実の正室の隆姫も抱一に親しくしており、抱一から濤花という俳号を貰うほどである。
「で、お世継ぎさま曰く、抱一さまに挨拶せよ。さすれば、道が開くと」
「は?」
賢い者ほど、話を端折ることがある。己が考えたことは他人も判るはずだと過程を飛ばす。
今の寸翁がそれかと思ったが、どうやらちがうようだ。
「さればでござる」
こうなると、もう聞かざるを得ない。
どうやら、寸翁に釣られてしまったようだ。
「抱一さま、風神雷神図屏風という画をご存知か」
「何」
釣られたどころではない。
すでに、俎上にいるようだ。
*
河合寸翁は、二十一歳から家老を務め、姫路藩の財政再建を担当していたが、次第に、限界を感じてるようになっていた。
「倹約するのはいい。だがそれだけでは駄目だ」
倹約に務めるのは常道だが、それはただ、出費を減らすことであって、収入を増やすわけではない。
「抜本的に収入を増やさなくては」
そう思って模索する日々を過ごす内、主君が死んだ。
その折りに、周囲から嫉視を買っていたこともあり、失脚した。
だがその失脚して暇となった日々こそ、のちの寸翁にとって、肥やしとなった。
「姫路は、加古川周辺から産する木綿がいい。評判だ」
他にも、名産となるべきものはあるが、まずは木綿だ。
姫路木綿は薄く、やわらかく、その上白い。
姫玉あるいは玉川晒という美称まである。
寸翁は、これに目を付け、特産品として売り出すことを目論んだ。
そしてその目論見を云々するのに熱中するうちに、江戸の酒井忠実から呼び出されたという次第である。
「イヤ一寸待て」
抱一としては、お説御尤もといったところであるが、その寸翁の目論見に難を示した。
「姫路木綿の良さは承知している。だが今さら、売り出したところで……」
「それは……おっとその前に、失敬」
寸翁は、其一の出した菓子に手を付けた。
もしゃもしゃと賞味し、微笑む。
「美味しゅうございますな、こちら」
「ああ。最中かい」
「む。これがあの……最中」
寸翁は目を剥いたが、次の瞬間には口中の最中を呑み込んで、一首、歌を吟じた。
――池の面に照る月なみを数ふれば今宵ぞ秋のもなかなりける
拾遺和歌集にある源順の歌である。最中とは、この歌にちなんで作られた菓子といわれている。
「よく知っているね」
「拙者、菓子に目が無いのでござる」
実際、寸翁は、姫路を代表する和菓子「玉椿」の名付け親であり、また、長崎に人を派遣してかりんとうの作り方を学ばせた、という逸話の持ち主である。
「ま、そんなことはいい。それより、つづきは?」
「これは失礼を」
寸翁は一礼してから、姫路木綿の売上を増大する方策を告げた。
今度は抱一が目を剥いた。
「す、すりゃあ大ごとだ。た、確かにそうすりゃあ、売上は上がる。で、でも、一体全体……」
「だからこそ、風神雷神図屏風、でござる」
まるで禅問答だ。判じ物だ。
抱一は寸翁のやり口にすっかり閉口した。
寸翁の策は凄い。
だが、その策に至る道筋が見えない。
大体、何で風神雷神図屏風なんだ。
「今の大樹さまは……どなたでしたかな」
寸翁のわざとらしい問いに、抱一は敢えて乗った。
狂言の「このあたりのものでござる」と同じだ。
乗らないと先が無い。
「徳川家斉さまだ。それが何か」
「その家斉さま。どこの家の者で」
「そらあ、一橋家さ。それも、知っておろう?」
「一橋家に屏風があります」
抱一は絶句した。
何ということだ。
画を見た記憶はある。
だがそれが何処にあるのかという記憶はなかった。
思えば、幕府の名門中の名門、酒井家に生まれて、その伝手で、名画を観るとしたら、それ以上の家しかない。
たとえば、御三卿の家のような。
「拙者、忠以さまに見出されて藩に出仕したとき、聞いたことがございます。抱一さまと共に一橋家を訪うた時、抱一さまの目が尋常ではなかった、と」
「…………」
兄はちゃんと記憶していたのか。
抱一の反応も含めて。
何だかんだ言って、兄弟というものは、よく見ているものだな、と思った。
「つけくわえて申し上げますが」
寸翁は、その策のために――大樹・家斉に近づくために、その出身である一橋家に接近した。
まさに、将を射んと欲すれば先ず馬を射よ、という次第である。
実際、一橋家の当主は馬が好きということなので、名馬を献じた。
その献上の際に。
「拙者、ご当主さまの御席のうしろに屏風を見ました」
その当主、徳川斉礼は、寸翁の視線に気づいて、ああこれかとこともなげに言った。
「昔の絵師の作とか。ま、厄除け魔除けにはなるじゃろうと思うて、こうして置いておる」
「さようでござるか」
寸翁としては、これほどの名画を除災のお守りにしている、というところに度肝を抜いた。
抜いたが、それは別に豪胆というわけでもなく、ただ単に「その程度のものだろう」という、斉礼の認識の「軽さ」によるものである、ということにも気づいた。
「厄除け、魔除け」
抱一はうめいた。
画を愛でるでもなく、鑑賞するでもなく、あるいは高価な代物として珍重するでもなく、只のお守り扱い。
これでは、あの世の尾形光琳が泣く。
いや、実際泣きはしないが、あきれはするだろう。
それよりも――。
「なら――いっそのこと……この抱一が買い求める……」
「お止め下され」
そんな金銭が、何処にあるのか。
寸翁の視線がそう言っていた。
「……………」
抱一が拗ねたように沈黙すると、寸翁は茶碗に残った茶を啜ってから、口を開いた。
「却説そこで提案でござる」
「提案?」
そういえば、そもそも寸翁は何の用件があって来たのか。
策のことはいい。
この酒井抱一に、何をさせたくて、来たのか。
「抱一さま」
「何だい」
「そのご当主さまの眼鏡にかなう、画を描いてみませんか?」
「号でござる」
寸翁というのは号で、本名は道臣だと言った。
「では寸翁さんで」
「かたじけない」
茶人としての号であれば、そこまで堅苦しくする必要はない。
話し易くしてやろうという抱一の気遣いである。
それを慮って、寸翁はかたじけないと述べた。
「却説」
抱一は其一が持って来た茶菓を勧めつつ、寸翁の来た理由を問おうとした。
でも待てよ、と抱一は思う。
この河合道臣、いや、寸翁。
どこかで、いや、姫路藩だということは分かっているが、聞いたことがあるような。
一方で寸翁は見事な所作で出された茶を喫していた。
「…………」
その所作を見て思い出した。
確か、兄に利発さを見出されて、十一歳から出仕した少年がいた。
その少年は二十一歳で家老となった。
当時の名乗りは。
「隼之介」
「はは、懐かしゅうござる、その名」
かつての隼之介、今の寸翁は頭を掻いた。
河合寸翁。
二十一歳で家老となり、七十三万両もの債務を負う藩財政の債権に取り組んでいたが、抱一の兄・忠以の死により失脚したと思われていたが。
「このたび、江戸表に呼び出され、諸方勝手向の任を命じられまして」
「そうか」
抱一の兄の子、つまり抱一の甥の忠道は、債務の返済に耐えきれず、病になった。おかげで、忠道の弟・忠実が養子となり、藩主代理を務める有り様であった。
「玉助が」
忠実は抱一に懐き、抱一から玉助と呼ばれていた。忠実の正室の隆姫も抱一に親しくしており、抱一から濤花という俳号を貰うほどである。
「で、お世継ぎさま曰く、抱一さまに挨拶せよ。さすれば、道が開くと」
「は?」
賢い者ほど、話を端折ることがある。己が考えたことは他人も判るはずだと過程を飛ばす。
今の寸翁がそれかと思ったが、どうやらちがうようだ。
「さればでござる」
こうなると、もう聞かざるを得ない。
どうやら、寸翁に釣られてしまったようだ。
「抱一さま、風神雷神図屏風という画をご存知か」
「何」
釣られたどころではない。
すでに、俎上にいるようだ。
*
河合寸翁は、二十一歳から家老を務め、姫路藩の財政再建を担当していたが、次第に、限界を感じてるようになっていた。
「倹約するのはいい。だがそれだけでは駄目だ」
倹約に務めるのは常道だが、それはただ、出費を減らすことであって、収入を増やすわけではない。
「抜本的に収入を増やさなくては」
そう思って模索する日々を過ごす内、主君が死んだ。
その折りに、周囲から嫉視を買っていたこともあり、失脚した。
だがその失脚して暇となった日々こそ、のちの寸翁にとって、肥やしとなった。
「姫路は、加古川周辺から産する木綿がいい。評判だ」
他にも、名産となるべきものはあるが、まずは木綿だ。
姫路木綿は薄く、やわらかく、その上白い。
姫玉あるいは玉川晒という美称まである。
寸翁は、これに目を付け、特産品として売り出すことを目論んだ。
そしてその目論見を云々するのに熱中するうちに、江戸の酒井忠実から呼び出されたという次第である。
「イヤ一寸待て」
抱一としては、お説御尤もといったところであるが、その寸翁の目論見に難を示した。
「姫路木綿の良さは承知している。だが今さら、売り出したところで……」
「それは……おっとその前に、失敬」
寸翁は、其一の出した菓子に手を付けた。
もしゃもしゃと賞味し、微笑む。
「美味しゅうございますな、こちら」
「ああ。最中かい」
「む。これがあの……最中」
寸翁は目を剥いたが、次の瞬間には口中の最中を呑み込んで、一首、歌を吟じた。
――池の面に照る月なみを数ふれば今宵ぞ秋のもなかなりける
拾遺和歌集にある源順の歌である。最中とは、この歌にちなんで作られた菓子といわれている。
「よく知っているね」
「拙者、菓子に目が無いのでござる」
実際、寸翁は、姫路を代表する和菓子「玉椿」の名付け親であり、また、長崎に人を派遣してかりんとうの作り方を学ばせた、という逸話の持ち主である。
「ま、そんなことはいい。それより、つづきは?」
「これは失礼を」
寸翁は一礼してから、姫路木綿の売上を増大する方策を告げた。
今度は抱一が目を剥いた。
「す、すりゃあ大ごとだ。た、確かにそうすりゃあ、売上は上がる。で、でも、一体全体……」
「だからこそ、風神雷神図屏風、でござる」
まるで禅問答だ。判じ物だ。
抱一は寸翁のやり口にすっかり閉口した。
寸翁の策は凄い。
だが、その策に至る道筋が見えない。
大体、何で風神雷神図屏風なんだ。
「今の大樹さまは……どなたでしたかな」
寸翁のわざとらしい問いに、抱一は敢えて乗った。
狂言の「このあたりのものでござる」と同じだ。
乗らないと先が無い。
「徳川家斉さまだ。それが何か」
「その家斉さま。どこの家の者で」
「そらあ、一橋家さ。それも、知っておろう?」
「一橋家に屏風があります」
抱一は絶句した。
何ということだ。
画を見た記憶はある。
だがそれが何処にあるのかという記憶はなかった。
思えば、幕府の名門中の名門、酒井家に生まれて、その伝手で、名画を観るとしたら、それ以上の家しかない。
たとえば、御三卿の家のような。
「拙者、忠以さまに見出されて藩に出仕したとき、聞いたことがございます。抱一さまと共に一橋家を訪うた時、抱一さまの目が尋常ではなかった、と」
「…………」
兄はちゃんと記憶していたのか。
抱一の反応も含めて。
何だかんだ言って、兄弟というものは、よく見ているものだな、と思った。
「つけくわえて申し上げますが」
寸翁は、その策のために――大樹・家斉に近づくために、その出身である一橋家に接近した。
まさに、将を射んと欲すれば先ず馬を射よ、という次第である。
実際、一橋家の当主は馬が好きということなので、名馬を献じた。
その献上の際に。
「拙者、ご当主さまの御席のうしろに屏風を見ました」
その当主、徳川斉礼は、寸翁の視線に気づいて、ああこれかとこともなげに言った。
「昔の絵師の作とか。ま、厄除け魔除けにはなるじゃろうと思うて、こうして置いておる」
「さようでござるか」
寸翁としては、これほどの名画を除災のお守りにしている、というところに度肝を抜いた。
抜いたが、それは別に豪胆というわけでもなく、ただ単に「その程度のものだろう」という、斉礼の認識の「軽さ」によるものである、ということにも気づいた。
「厄除け、魔除け」
抱一はうめいた。
画を愛でるでもなく、鑑賞するでもなく、あるいは高価な代物として珍重するでもなく、只のお守り扱い。
これでは、あの世の尾形光琳が泣く。
いや、実際泣きはしないが、あきれはするだろう。
それよりも――。
「なら――いっそのこと……この抱一が買い求める……」
「お止め下され」
そんな金銭が、何処にあるのか。
寸翁の視線がそう言っていた。
「……………」
抱一が拗ねたように沈黙すると、寸翁は茶碗に残った茶を啜ってから、口を開いた。
「却説そこで提案でござる」
「提案?」
そういえば、そもそも寸翁は何の用件があって来たのか。
策のことはいい。
この酒井抱一に、何をさせたくて、来たのか。
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「何だい」
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