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03 酒井抱一の計略
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一橋家当主、徳川斉礼が絵画に無関心という。その斉礼の眼鏡にかなう画など。
「描けるはずがない」
「さればでござる」
寸翁は譲らない。
彼には策を通すという使命がある。
今さら後には引けない。
だからこそ。
「抱一さま……拙者、斉礼さまにあることを頼む代わりに、言ってみたのでござる。それは」
「それは」
気がつくと、鈴木其一ら弟子たちも何事かと襖の陰から見守っている。
「それは……まずは当家・酒井家の縁者に抱一なる絵師がいて」
まさか。
抱一は息を呑んだ。
「斉礼さまの眼鏡にかなう、否、これこそ徳川斉礼の屏風也と言える、画を描いてみせまする、と」
「何て大風呂敷だい」
天を仰ぐ抱一。
だが寸翁は澄ました顔だ。
「以上のことを、忠実さまに申し上げたところ、それは抱一さまのところへ行け、と」
「玉助め」
しかし抱一にとって、実家である姫路藩の危機。
その藩主の心中を思えば、虚心でいられない。
ましてや、積年恋い焦がれた風神雷神図屏風が絡んでいる、となれば。
「されど」
一体どうやって、斉礼の眼鏡にかなう画を描くというのか。
「それは抱一さまにお願いするほかなく」
「手前勝手なことを言うない、寸翁さんよ」
絵心のある相手ならともかく、そんなものには何の関心もなく、ただ単に厄除けとして名画の図屏風を置くような人である。
「まったく……」
抱一は煙草盆を引き寄せ、煙管を取り出して、火をつける。
愚痴りながらも抱一は、斉礼を感心させる……それこそ「絵図面」を頭の中に描いていた。
「馬が好き、か」
「さようで」
寸翁が得たりかしこしと頷く。
人の思考を読むな。
抱一は睨んだが、寸翁はどこ吹く風だ。
「まったく」
煙管から口を離して、抱一は再びの舌打ちをした。
だが、悪い気はしない。
世は太平だが、これは一騎打ちだ。
絵師としての自分と、御三卿当主の斉礼の。
しかも、己が渇望した風神雷神図屏風がかかわってくる。
「ふむ」
「いかがでしょう」
「判ったよ。寸翁さん、アンタにゃ負けたよ」
「では」
寸翁は満足の笑みを浮かべた。
それを見て、抱一は煙管から煙を吐いた。
「だが高くつく。まず金二百疋、用意して貰おうか」
「えっ」
その寸翁の驚きの顔に、今度は抱一が満足の笑みを浮かべた。
*
徳川斉礼は、自邸に酒井抱一を招いた。
抱一は尊敬する絵師・尾形光琳の百回忌を開催し、そのために金二百疋を費やしたとの噂である。
その抱一が。
「予の風神雷神図屏風を見たいとな」
「さようでございます」
抱一はうやうやしく一礼する。
斉礼も鷹揚に礼を返し、「では見よ」と軽く体をずらした。
「ほう……」
斉礼の背後にあった、その屏風が、全容をあらわす。
左に雷神。
右に風神。
嵐を象徴する二神が、相対している屏風。
見ているだけで、こちらに向かって雷が。風が。
放たれて来そうだ。
「見事なものですな」
「そうか」
斉礼は特に関心もなさそうな口調で答えた。
この抱一の訪問にしてからが、幾たびか名馬を献上してくれた、姫路藩重役河合寸翁のたっての願いというから、かなえた。
「光琳に思いをかける、先代藩主の連枝がいる」
と聞いて。
斉礼は、己が伯父・徳川家斉の控えだということを弁えている。
そもそも御三卿という立場からして、徳川宗家の控えなのだ。
だから、先代藩主の連枝というところに、興味が湧いた。
同情と言ってもよい。
ならば、同じ控えならば。
ただ屏風が見たいというささやかな願い、かなえてやっても良いと思った。
それだけだった。
「これで良うございます」
「何?」
まだ、見せてからそれほど経っていない。
どうせ暇なのだ。
控えだから。
同じ控えとして憐憫の情を感じ、今日一日と言われてもつきあうつもりでいたが。
「イヤもう充分でござい、おっと、ございます」
何だその炯々とした眼は。
それでも控えか。部屋住みか。
「一寸試してみたいことがございます。また来てもよろしゅうございますか」
鼻息荒く、こちらまで聞こえるほどだ。
何なんだ、この男は。
斉礼は、出家した元部屋住みの絵師など、さぞかし乾いた男だろうと思っていた。
そんな男が、金二百疋を使ってまで数寄に傾くというのなら、自分にできることならしてやろうと思った。
それが。
「されば、この風神雷神図屏風を写してご覧に入れましょう」
何と楽し気に言うのだろう。
ほんの少し眺めただけと言うのに、この屏風を写し取るというのか。
素人目に見ても、結構な手間がかかる代物だというのに。
「よかろう」
斉礼は頷いた。
この控えとして生きる平々凡々な日々に、この抱一なら刺激をもたらしてくれるかもしれない。
そういう期待――人生初の期待を、抱いた。
*
「ご覧下さい」
抱一はそれほど待たせずに、また一橋邸へやって来た。
さすがに屏風はかさばるので、河合寸翁と、弟子の鈴木其一を連れて来ていた。
「ほう」
斉礼が早速に抱一の屏風を、光琳の屏風の隣にならべてみた。
さすがに壮観。
だが、斉礼の目には、やはり光琳の方が凄みがあると感じた。
「なかなかの出来だが、抱一どのの画、今一歩及ばずと見える」
門外漢の予が言うのも何だがな、と斉礼は断りを入れた。
一方の抱一は面を伏せたまま無言だった。
言い過ぎたか。
斉礼は相すまぬと手を振って、何なら光琳の屏風を貸し出しても良いと言った。
抱一の顔が上がった。
「それはまことでござるか」
してやったりという顔をしている。
癪に障るが、何だか面白そうなので、撤回はしないことにする。
面白そう。
今自分はそう思ったのかと斉礼はひとりごちた。
「では早速」
抱一は寸翁と其一に目配せして、光琳の風神雷神図屏風を運び出し始めた。
何やら、物盗りのようだと斉礼が言うと、そのとおりですなと抱一は笑った。
斉礼も笑った。
何故だか、楽しかった。
「描けるはずがない」
「さればでござる」
寸翁は譲らない。
彼には策を通すという使命がある。
今さら後には引けない。
だからこそ。
「抱一さま……拙者、斉礼さまにあることを頼む代わりに、言ってみたのでござる。それは」
「それは」
気がつくと、鈴木其一ら弟子たちも何事かと襖の陰から見守っている。
「それは……まずは当家・酒井家の縁者に抱一なる絵師がいて」
まさか。
抱一は息を呑んだ。
「斉礼さまの眼鏡にかなう、否、これこそ徳川斉礼の屏風也と言える、画を描いてみせまする、と」
「何て大風呂敷だい」
天を仰ぐ抱一。
だが寸翁は澄ました顔だ。
「以上のことを、忠実さまに申し上げたところ、それは抱一さまのところへ行け、と」
「玉助め」
しかし抱一にとって、実家である姫路藩の危機。
その藩主の心中を思えば、虚心でいられない。
ましてや、積年恋い焦がれた風神雷神図屏風が絡んでいる、となれば。
「されど」
一体どうやって、斉礼の眼鏡にかなう画を描くというのか。
「それは抱一さまにお願いするほかなく」
「手前勝手なことを言うない、寸翁さんよ」
絵心のある相手ならともかく、そんなものには何の関心もなく、ただ単に厄除けとして名画の図屏風を置くような人である。
「まったく……」
抱一は煙草盆を引き寄せ、煙管を取り出して、火をつける。
愚痴りながらも抱一は、斉礼を感心させる……それこそ「絵図面」を頭の中に描いていた。
「馬が好き、か」
「さようで」
寸翁が得たりかしこしと頷く。
人の思考を読むな。
抱一は睨んだが、寸翁はどこ吹く風だ。
「まったく」
煙管から口を離して、抱一は再びの舌打ちをした。
だが、悪い気はしない。
世は太平だが、これは一騎打ちだ。
絵師としての自分と、御三卿当主の斉礼の。
しかも、己が渇望した風神雷神図屏風がかかわってくる。
「ふむ」
「いかがでしょう」
「判ったよ。寸翁さん、アンタにゃ負けたよ」
「では」
寸翁は満足の笑みを浮かべた。
それを見て、抱一は煙管から煙を吐いた。
「だが高くつく。まず金二百疋、用意して貰おうか」
「えっ」
その寸翁の驚きの顔に、今度は抱一が満足の笑みを浮かべた。
*
徳川斉礼は、自邸に酒井抱一を招いた。
抱一は尊敬する絵師・尾形光琳の百回忌を開催し、そのために金二百疋を費やしたとの噂である。
その抱一が。
「予の風神雷神図屏風を見たいとな」
「さようでございます」
抱一はうやうやしく一礼する。
斉礼も鷹揚に礼を返し、「では見よ」と軽く体をずらした。
「ほう……」
斉礼の背後にあった、その屏風が、全容をあらわす。
左に雷神。
右に風神。
嵐を象徴する二神が、相対している屏風。
見ているだけで、こちらに向かって雷が。風が。
放たれて来そうだ。
「見事なものですな」
「そうか」
斉礼は特に関心もなさそうな口調で答えた。
この抱一の訪問にしてからが、幾たびか名馬を献上してくれた、姫路藩重役河合寸翁のたっての願いというから、かなえた。
「光琳に思いをかける、先代藩主の連枝がいる」
と聞いて。
斉礼は、己が伯父・徳川家斉の控えだということを弁えている。
そもそも御三卿という立場からして、徳川宗家の控えなのだ。
だから、先代藩主の連枝というところに、興味が湧いた。
同情と言ってもよい。
ならば、同じ控えならば。
ただ屏風が見たいというささやかな願い、かなえてやっても良いと思った。
それだけだった。
「これで良うございます」
「何?」
まだ、見せてからそれほど経っていない。
どうせ暇なのだ。
控えだから。
同じ控えとして憐憫の情を感じ、今日一日と言われてもつきあうつもりでいたが。
「イヤもう充分でござい、おっと、ございます」
何だその炯々とした眼は。
それでも控えか。部屋住みか。
「一寸試してみたいことがございます。また来てもよろしゅうございますか」
鼻息荒く、こちらまで聞こえるほどだ。
何なんだ、この男は。
斉礼は、出家した元部屋住みの絵師など、さぞかし乾いた男だろうと思っていた。
そんな男が、金二百疋を使ってまで数寄に傾くというのなら、自分にできることならしてやろうと思った。
それが。
「されば、この風神雷神図屏風を写してご覧に入れましょう」
何と楽し気に言うのだろう。
ほんの少し眺めただけと言うのに、この屏風を写し取るというのか。
素人目に見ても、結構な手間がかかる代物だというのに。
「よかろう」
斉礼は頷いた。
この控えとして生きる平々凡々な日々に、この抱一なら刺激をもたらしてくれるかもしれない。
そういう期待――人生初の期待を、抱いた。
*
「ご覧下さい」
抱一はそれほど待たせずに、また一橋邸へやって来た。
さすがに屏風はかさばるので、河合寸翁と、弟子の鈴木其一を連れて来ていた。
「ほう」
斉礼が早速に抱一の屏風を、光琳の屏風の隣にならべてみた。
さすがに壮観。
だが、斉礼の目には、やはり光琳の方が凄みがあると感じた。
「なかなかの出来だが、抱一どのの画、今一歩及ばずと見える」
門外漢の予が言うのも何だがな、と斉礼は断りを入れた。
一方の抱一は面を伏せたまま無言だった。
言い過ぎたか。
斉礼は相すまぬと手を振って、何なら光琳の屏風を貸し出しても良いと言った。
抱一の顔が上がった。
「それはまことでござるか」
してやったりという顔をしている。
癪に障るが、何だか面白そうなので、撤回はしないことにする。
面白そう。
今自分はそう思ったのかと斉礼はひとりごちた。
「では早速」
抱一は寸翁と其一に目配せして、光琳の風神雷神図屏風を運び出し始めた。
何やら、物盗りのようだと斉礼が言うと、そのとおりですなと抱一は笑った。
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