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一 泥中の目
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その男は、泥田の中にその身を沈めていた。
ただ、目だけを。
頭頂から足先まで、全てを泥に塗れさせた中、目だけを。
凝と。
凝と。
見つめていた。
永禄三年五月。
場所は、尾張、沓掛城。
沓掛城の前の、泥田の中。
「輿は、まだか」
とは言っていないが、それが男の見つめる理由である。
男の名は、簗田政綱。
織田信長の謀臣である。
永禄三年五月のこの時。
海道一の弓取り、今川義元は大軍を率いて、尾張へと向かっていた。
世にいう桶狭間の戦いの始まりである。
「……輿を、探せ?」
「そうだ」
今を遡ること数日前。
清州城にて。
深更。
政綱は信長との密議の最中にあった。
実は閨だという一室にて、政綱は信長と膝を詰めて会話していたが、隣室からの衣擦れの音が、気になった。
信長は、濃が脱いでいるだけだと、こともなげに言い放った。
「あの音は、聞き耳を立てる家臣どもを退ける、魔除」
濃とは濃姫、信長の正室である。
隣国、美濃の梟雄、斎藤道三の女である。しかし道三は、己の子である斎藤義龍によって殺され、今は亡い。
義龍が道三の子であるかどうかは措くが、少なくとも今、義龍は足利幕府から一色と称することを許され、今や斎藤という家もなくなり、一色となってしまった。
「その一色と揉めている最中に、今川よ」
信長は自嘲ともつかない、現状を語った。
今川義元。
彼は、足利幕府名門・今川家の四男として生まれ、寺に入れられていたところを、長兄と次兄が死に(原因は不明)、三兄との争い、すなわち花倉の乱に打ち勝って、今川家の家督を得た。
当時今川家は、駿河の半国のみ支配しており、残りの半国は北条家が支配していた。そこで義元は関東管領山内上杉憲政と結び、北条家を南北から挟撃するという壮大な戦略を展開した。
しかし北条家は河越夜戦にて憲政らの撃退に成功した。
たが、義元は一連の争乱の中で、残りの駿河半国を取り戻し、さらに甲斐の武田晴信を仲介として、史上有名な、武田、北条、今川の三国同盟を結盟。以後、今川家は西進に傾注する。遠江、三河へと。現に、三河については、土豪の松平という家を取り込み、己が手下として三河の支配に協力させている。
そして今、義元の興味は尾張だ。
「尾張の次は天下を盗る、との話だ」
信長は無表情だ。
彼は、いつも密議の間はこんな感じだ。
襖の向こうの隣室で、正室が全裸になっていようが、眉一つ動かさない。
「政綱よ。それで輿だ」
そして話が飛ぶ。
いや、戻るというべきか。
これだから信長との密議は気が抜けない。
「輿を探すのだ。さすれば、勝ちが見えてくる」
「つまり……」
輿。つまり貴人の乗り物。
この場合、その貴人とは。
「義元の所在を、と」
すると信長はちがうと首を振った。
「一番手厚く守られている義元など、討てるか」
勘違いもはなはだしいと、信長は彼らしくもなく、ため息をついた。
「よいか」
ここは尾張ぞ、と信長は呟いてから、それを言った。
「尾張で輿に乗れるは、幕府により斯波と決まっておる。よいか、斯波義銀を探せ。尾張守護だった斯波義銀を探せ。さすれば、織田に勝ち目が見えてくる」
ただ、目だけを。
頭頂から足先まで、全てを泥に塗れさせた中、目だけを。
凝と。
凝と。
見つめていた。
永禄三年五月。
場所は、尾張、沓掛城。
沓掛城の前の、泥田の中。
「輿は、まだか」
とは言っていないが、それが男の見つめる理由である。
男の名は、簗田政綱。
織田信長の謀臣である。
永禄三年五月のこの時。
海道一の弓取り、今川義元は大軍を率いて、尾張へと向かっていた。
世にいう桶狭間の戦いの始まりである。
「……輿を、探せ?」
「そうだ」
今を遡ること数日前。
清州城にて。
深更。
政綱は信長との密議の最中にあった。
実は閨だという一室にて、政綱は信長と膝を詰めて会話していたが、隣室からの衣擦れの音が、気になった。
信長は、濃が脱いでいるだけだと、こともなげに言い放った。
「あの音は、聞き耳を立てる家臣どもを退ける、魔除」
濃とは濃姫、信長の正室である。
隣国、美濃の梟雄、斎藤道三の女である。しかし道三は、己の子である斎藤義龍によって殺され、今は亡い。
義龍が道三の子であるかどうかは措くが、少なくとも今、義龍は足利幕府から一色と称することを許され、今や斎藤という家もなくなり、一色となってしまった。
「その一色と揉めている最中に、今川よ」
信長は自嘲ともつかない、現状を語った。
今川義元。
彼は、足利幕府名門・今川家の四男として生まれ、寺に入れられていたところを、長兄と次兄が死に(原因は不明)、三兄との争い、すなわち花倉の乱に打ち勝って、今川家の家督を得た。
当時今川家は、駿河の半国のみ支配しており、残りの半国は北条家が支配していた。そこで義元は関東管領山内上杉憲政と結び、北条家を南北から挟撃するという壮大な戦略を展開した。
しかし北条家は河越夜戦にて憲政らの撃退に成功した。
たが、義元は一連の争乱の中で、残りの駿河半国を取り戻し、さらに甲斐の武田晴信を仲介として、史上有名な、武田、北条、今川の三国同盟を結盟。以後、今川家は西進に傾注する。遠江、三河へと。現に、三河については、土豪の松平という家を取り込み、己が手下として三河の支配に協力させている。
そして今、義元の興味は尾張だ。
「尾張の次は天下を盗る、との話だ」
信長は無表情だ。
彼は、いつも密議の間はこんな感じだ。
襖の向こうの隣室で、正室が全裸になっていようが、眉一つ動かさない。
「政綱よ。それで輿だ」
そして話が飛ぶ。
いや、戻るというべきか。
これだから信長との密議は気が抜けない。
「輿を探すのだ。さすれば、勝ちが見えてくる」
「つまり……」
輿。つまり貴人の乗り物。
この場合、その貴人とは。
「義元の所在を、と」
すると信長はちがうと首を振った。
「一番手厚く守られている義元など、討てるか」
勘違いもはなはだしいと、信長は彼らしくもなく、ため息をついた。
「よいか」
ここは尾張ぞ、と信長は呟いてから、それを言った。
「尾張で輿に乗れるは、幕府により斯波と決まっておる。よいか、斯波義銀を探せ。尾張守護だった斯波義銀を探せ。さすれば、織田に勝ち目が見えてくる」
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