晴朗、きわまる ~キオッジャ戦記~

四谷軒

文字の大きさ
5 / 7

05 暗転の袋小路(クルドサック)

しおりを挟む
 一三七九年十二月二十二日。
 夜。
 ヴェネツィア共和国の第一艦隊が、静かに船出した。
 滑るように運河を往く第一艦隊がキオッジャの近くに至ると、副司令官ヴェットール・ピサーニの無言の命令により、重石おもしを積んだ船が前に出る。
 乗組員が飛び降り、重石おもしを積んだ船を置き去りにすると、第一艦隊は、やはり滑るように運河を走り、去っていった。

 翌朝。
 キオッジャの港湾施設の一角を占領して、指揮官スペースにしていたジェノヴァ海軍提督、ピエトロ・ドーリアは、夜来の不審な音の調査を命じた。
「昨夜は今までとはちがう、何かちがう感じの音がした」
 だが今、キオッジャの目の前の運河には、何もない。
 もしかしたら、夜の運河をヴェネツィア艦隊が往来していたのかもしれない。
 そのピエトロの読みは、実は当たっているのだが、彼自身が一笑に付した。
「そうだとしても、何ら現状に変化はない」
 ピエトロは、ヴェネツィアのキオッジャへの未練がこの艦隊行動であると考えていた。
「なら、その未練を利用して、今夜またこのキオッジャに来ようとするヴェネツィアを討つ」
 キオッジャを占領したものの、浮標が片付けられていたこともあり、ジェノヴァは運河に侵入して、ヴェネツィア本土を襲えずにいた。
 だからこうして包囲しているわけではあるが、こうしてヴェネツィアの側から自らのこのこと出てくるのなら好都合だ。
不寝番ねずのばんは注意。全艦、戦闘態勢にて待機」
 だが、待てど暮らせど、一向にヴェネツィア艦隊は来ない。
 不審に思った、ある艦の艦長が、艦を少し進めてみた。
 すると。
暗礁あんしょう?」
 そうではなく、それは沈んだ船であった。
 そう、ヴェットールは、重石を積んだ船に自沈させて去って行ったのだ。
 その自沈は迅速であり、朝日が昇る頃には、海面には何もないようになっていた。
 しかし「暗礁」は確かに存在し、それは船の往来を妨害した。
「莫迦な」
 ピエトロは事態が激変したことを悟った。
 昨日までジェノヴァは、ヴェネツィアを包囲していた。
 だが今日からは、ジェノヴァは、ヴェネツィアに『包囲されている』のだ。



 狭い運河を、小型の船が迫って来て、小規模だが、手痛い攻撃をした。
 そして逆襲しようとすると、すぐに去っていった。
 そういう報告がもう何回も挙げられ、ジェノヴァのピエトロ・ドーリア提督の怒りは頂点に達した。
「いい加減にしろ!」
 ジェノヴァ本国には増援の要請をした。
 だが、間に合うかどうか。
 何しろ、ヴェネツィアはカルロ・ゼンという札を残している。
 このまま待っている暇はない。
 いっそのこと、このキオッジャから脱出を。
「でも提督、あの沈んだ船どもが」
「分かっている!」
 幕僚が、ヴェネツィアが沈めた船が邪魔で、船が出せないという現実を、改めて言い出す。
「パドヴァとハンガリーは?」
「何も」
 ピエトロは、連合した相手のパドヴァとハンガリーに、陸側から攻めるよう、使いを送っていた。
 だが、それが何も言ってこないということは。
「使いが捕まったか、あるいは」
 勝ち馬に乗れない以上、静観に徹する気か。
「くそっ」
 ピエトロは床を蹴った。
「矢でも大砲でもいい、とにかくヴェネツィアへの攻撃を! ……と再度使いを出せ!」
 ちなみに、この当時の大砲は射石砲といって、とてもではないが狙いを定めて撃てるような代物ではない。
 そのため、船上での砲撃ではなく、陸上で、しかも至近距離で壁を崩すという使い方が一般的だった。
 つまりは、ピエトロは、こけおどしの攻撃でもいいから、とにかくヴェネツィアに付け入る隙をと頼んだのである。
 しかし、静観を決め込んだパドヴァとハンガリーがそこまですることはなかった。
 こうして、ヴェネツィアはキオッジャにジェノヴァ艦隊を閉じ込めるという奇策に成功し、形勢を逆転させた。
 そして、事態はさらにヴェネツィアの有利に傾く。

 一三八〇年一月一日。
 数少ない獲得領「土」であるブロンドロ島を警護していたジェノヴァ陸軍は、とんでもないものを海上に発見する。
「艦隊だ!」
「どっちだ? 味方か、敵か?」
 その兵士が指差す先には、旗艦とおぼしき艦の旗が揺れていた。
 旗には、有翼の黄金獅子が。
サンマルコ……」
 ジェノヴァ兵が見たのは、ヴェネツィア共和国第二艦隊、カルロ・ゼン提督の旗艦である。
 すなわち、今、ヴェネツィアに二個艦隊が揃ったことを意味した。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

日露戦争の真実

蔵屋
歴史・時代
 私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。 日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。  日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。  帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。  日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。 ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。  ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。  深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。  この物語の始まりです。 『神知りて 人の幸せ 祈るのみ 神の伝えし 愛善の道』 この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。 作家 蔵屋日唱

もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら

俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。 赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。 史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。 もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。

無用庵隠居清左衛門

蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。 第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。 松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。 幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。 この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。 そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。 清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。 俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。 清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。 ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。 清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、 無視したのであった。 そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。 「おぬし、本当にそれで良いのだな」 「拙者、一向に構いません」 「分かった。好きにするがよい」 こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。

天竜川で逢いましょう 〜日本史教師が石田三成とか無理なので平和な世界を目指します〜

岩 大志
歴史・時代
ごくありふれた高校教師津久見裕太は、ひょんなことから頭を打ち、気を失う。 けたたましい轟音に気付き目を覚ますと多数の軍旗。 髭もじゃの男に「いよいよですな。」と、言われ混乱する津久見。 戦国時代の大きな分かれ道のド真ん中に転生した津久見はどうするのか!!??? そもそも現代人が生首とか無理なので、平和な世の中を目指そうと思います。

if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜

かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。 徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。 堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる…… 豊臣家に味方する者はいない。 西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。 しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。 全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。

小日本帝国

ypaaaaaaa
歴史・時代
日露戦争で判定勝ちを得た日本は韓国などを併合することなく独立させ経済的な植民地とした。これは直接的な併合を主張した大日本主義の対局であるから小日本主義と呼称された。 大日本帝国ならぬ小日本帝国はこうして経済を盤石としてさらなる高みを目指していく… 戦線拡大が甚だしいですが、何卒!

アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。 佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。 幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。 ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。 又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。 海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。 一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。 事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。 果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。 シロの鼻が真実を追い詰める! 別サイトで発表した作品のR15版です。

処理中です...