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第0章(お試し版) 黒猫少女と仮面の師

ある聖書の一節

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 遠い昔―――人がまだ剣と槍と弓を持って戦を行っていた頃。
 ある大国が世界の支配を望み、数多の国々が併呑され、人々が道具に墜とされ、怨嗟の声が正気となって世界を侵し始めた時代である。

 小国の兵士は亡骸となり、山の様に積まれ、将の首が高く晒される。
 弱き民は囚われ殺され犯され、親を亡くした子供は泣き叫び、日々多くの人々が野垂れ死ぬ。
 そんな地獄のような日常が、そこら中にありふれていた。

 人々は希望する。こんな惨劇を終わらせてくれる誰かを。
 人々は絶望する。そんな事ができる誰かなどいるはずがないと。

 大国は日に日に魔の手を伸ばし、やがて大陸の外にまで意識を向け始める。
 いつまで続くかもわからない侵略、戦を続けるための労力や財力は民から搾り取られ、苦痛はより一層強くなる。

 もう、いっそのこと殺してくれ。
 この日々から誰か開放してくれ―――誰もがそう考えていた時であった。


 遠き北の果ての森より、彼の者は現れた。
 白き獣の貌を持ち、雪のような分厚く長い外套を纏う、見上げる程の体躯を持った異邦の者。


 彼の方はある亡国の王子に連れられ、戦火が舞う地に足を踏み入れた。

 王子の望みは、父母や臣下を殺した大国、過ぎた欲望に溺れた王を自らの手で討ち取ること。
 彼の方はそれに応え、数千数万もの敵を前に、たった一人で王子を守る盾となった。

 彼の方は見せる―――人智を越えた〝力〟を。
 何もない宙から火を、水を、風を、雷を、生み出し、礫に変えて無数の塀に降り注がせる。
 或いは地を揺らし、嵐を呼び、海を生み出し、噴火を起こす。

 まるで神の御業と見紛うような〝力〟を次々に見せ、大国の兵をたった一人で打ち破ったのである。


 そして王子は、ついに仇である大国の愚王を討ち取り、英雄として、新たな王として玉座に就いた。

 吉報は大陸中に広がり、多くの民が湧いた。
 もう苦しむ必要はない、もう命を脅かされる事はない。
 苦難の末に父母の仇を取り、悪逆非道の愚王を討ち払った英雄を称え、人々は只管に歓喜した。


 そして彼の方はというと―――己が〝力〟を人々に広め始めた。
 特別などではない、誰もが使える平凡な力なのだと語り、多くの子女にその御業を師事していった。

 教えを受けた子女達は、大喜びで〝力〟を学び、鍛え、さらに多くの者に広めようとした。
 冬の寒さを凌ぐ為。より多くの作物を得る為、獲物を手に入れる為。さらに立派で頑丈な家屋を造る為。豊かな暮らしを手に入れる為。

 人の望みに限度はなく、彼の方の弟子とその教え子達は、さらなる〝力〟の発展を目指した。
 より多く子を産む家畜を、何者にも壊せない建物を、老いる事も傷つく事も病む事もない強靭な体を、そして―――あらゆるものを壊せる術を。

〝力〟に対する教えは彼の方の手を離れ、大陸どころか世界中に広がっていく。
 彼の方が求めない方に、彼の方が恐れた方向に、彼の方の声も届かないほどに、恐怖を覚える速度で広がっていく。

 そして、世界は―――









 ミシミシと、首の骨が軋みを上げる。
 呼吸が阻害され、白目を剥きながら、その女は苦悶に満ちた声を漏らした。

「あ……ガ…、せ、せんせぇ…!」
「―――黙れ、糞餓鬼。お前に師などと呼ばれたくなどない、吐き気がする」

 長い黒髪に、深緑色の瞳をした長身の美女。
 人目を惹く整った顔は、苦痛でひどく歪み真っ青になっている。彼女の間に立つ大柄な男が、片手で彼女の首を絞めているからだ。

 漆黒のローブに、山羊を模した黒い仮面を被った、見上げる程の巨躯を持つ男。
 仮面の眼からは、真っ赤な血のように光る目が覗いており、突き刺そうとしているように女を鋭く睨みつける。

「一丁前に命乞いなどするな、塵屑が。おれが禁じた事を平気で行う貴様に、己が慈悲などあたえると思ったのか。馬鹿にするのも大概にしろ」

 大男から放たれるのは、若者共老人とも取れる奇妙な響きの声。
 尋常でない力で掲げられる女にはそれが、まるで地獄の底から響き渡るもののように思えた。

「…ふん」
「あぐっ…!」

 唐突に、大男が女を放り捨て、床に叩きつける。
 女は食う気を求めて咳き込み、ずんずんと近づいてくる大男に、怯えた視線を返す。

「ち……違うんです、違うの、先生…! わた、私……先生の教えを破ったつもりなんて」
「どの口がそれをほざく」
「ほ、本当なの! 私、こんな事をしようなんて思っていなかったの! だけど、だけど……」

 ぶるぶると震える姿は憐れみを誘うが、大男はまるで気にした様子を見せない。
 女は目に涙を溜め、上目遣いで大男を見つめる。

 自然とか態とか、自らが有する豊かな胸を腕で挟み、強調するような体勢を取る。普通の男柄であれば絆され、目を奪われそうな姿で、必死に懇願する。

「脅されて…! そう、上に脅されたの! 言う事を聞かないと、酷い事するって言ったから…! わ、私は、貴方みたいに強くなんてないから……だから仕方なく!」

 ボロボロと涙を流し、悲痛な姿を見せる女。

 彼女の前で、大男はおもむろに横に手を伸ばす。
 すると、大男の足元にできた影が蠢き、ずるずると地上に何かを吐き出していく。

「だから……何だ。お前がどんな言い訳を口にしようが、己がお前を赦す道理はない。見っともない最期を晒すくらいなら、誇りを持って死ね」
「ヒッ―――!」

 大男の影の中から現れたのは、一振りの斧だった。
 長さだけでも女の背丈より大きく、刃の分厚さは女の腕と同じ、広さは女が寝転んでもまだ余るほど。

 あまりにも凶悪な外見をした凶器を、大男は無言で掴み、軽々と振り回して肩に担いで見せる。  

「それと……己を師と呼ぶな。お前はただ、己に無断でくっついて知識を貪っていただけの盗人。己に寄生し害悪を齎すだけの害虫……己は一度たりとも、お前を弟子と思ったことはない」
「…! 何よ……何なのよぉ⁉」

 大斧の刃が、自分の向けられた直後、女の表情が一変する。
 憐れみを誘う潤んだ目は激情で埋め尽くされ、眉間に深くしわが刻まれ、美貌が台なしな醜悪な表情へ変化する。女の中にあった本性が、剥き出しにされていた。

「何で私が、あんたに殺されなきゃならないのよ! 耄碌爺の分際で偉そうなこと言ってんじゃないわよ! あんたが持て余してるものを、私が有効活用してやっただけじゃないの! それのどこが悪いのよ!」
「……」
「糞爺が…! 何を私だけが悪いみたいな態度を取ってるのよ! 弟子じゃないとか後付けして、あんたがちゃんと見張ってないからこんなことになってるんっでしょう⁉ 自分の至らなさを私に押し付けてるんじゃないわよ! 私がこうなったのも、全部全部あんたのせいに決まってるでしょうが‼」

 突如、堰を切ったように本音をぶちまける女に、大男は何も答えない。
 ただじっと、目を血走らせ、隠していた正体をさらけ出す女を見下ろすだけである。

「あんたがいたせいでこんな世界になったんでしょうが! あんたがいなきゃ、私はこんな事にならなかったのよ! 黴の生えた化石が、失敗したくせに偉ぶってるんじゃないわよ! 魔術の祖とか世界の創造者とか! 過去の遺物がでかい顔して何時までも地位にしがみつくな! さっさと消えちまえ亡霊め!」

 別人のように顔を歪め、唾を吐き捨て、喚き続ける女。
 すると不意に、彼女の頭上を大きな影が覆う。大斧を持ち上げた大男が、自身の頭上に掲げ始めたのだ。

「……ぁ、あ」
「言いたい事はそれだけか、小娘」
「ま、待って先生……嘘、今の全部嘘です。あんなのこと、本当は全然思ってません……だから、だからやめてください…!」

 大斧の輝きを再度目にし、女は正気に戻る。いや、狂気が引っ込み、頭が冷える。
 最早、全てが手遅れと頭では理解しているのに、本能が最期を拒絶し、がたがたと全身の震えが止まらなくなる。

 ここに来てなおも言い訳を続ける女に、大男の眼が強く、鋭く光った。

「死にたくな―――」

 ポロリ、と女の目尻から涙の雫がこぼれた瞬間。

 ガンッ!と、大男が大斧を振り下ろし、女の脳天から股下までを叩き斬る。
 鋭く重い刃は容易く人肉と人骨を両断し、女の身体は綺麗に真っ二つにされる。ついで、噴き出した夥しい量の鮮血が、辺りに血の池を作り出す。

 大男は事切れた女をじっと見つめ、やがて直立の体勢に戻る。そしてやがて、変わり果てた女に背を向け、歩き出す。



 ミシミシと床を軋ませ、大男は通路を歩く。
 途中に転がっている人の残骸、自身が先ほどの女と同じように葬った者達を置き去りに、無言のまま先へ向かう。

 向かう先、大きく重厚な扉の前へと辿り着くと、大男は再び大斧を一閃し、扉を真っ二つに叩き斬る。
 閉ざされた空間へと足を踏み入れ、その先にあったものに目をやった大男は、苛立たしげに目を細めた。

「……人間電池、と言ったところか。悪趣味な」

 大男が見つめるものは、巨大な硝子の筒。
 無数にあるその中にそれぞれで浸り、全身を無数の管で繋がれた、獣の耳や鳥の羽、魚の鰭などを有する様々な外見の老若男女だった。

虎人ティグリス・サピエンス狼人ルプス・サピエンス鳥人アヴェス・サピエンス魚人ピスケス・サピエンス……猿人ホモ・サピエンス以外の人類を使用し、生産する魔力をエネルギーとして抽出する機械か。まぁ、よくできているな……しかし、実に悪趣味だ」

 大男の見つめる先で、筒の中にいる老若男女達が身動ぎする。
 彼らは皆、身動きの取れない筒の中で苦悶に満ちた表情をしていて、ぴくぴくと痙攣を繰り返している。

「〝人間〟ではない者ならば、どの様に扱っても構わない、か……自分も猿から成り上がった分際で、傲慢な。己からすれば、こいつらよりも醜悪で見るに堪えない種族だというのに、笑わせる」

 中にはぴくりとも動かない者もいた。しかしその者は、生命活動そのものを停止させている事が、一目でわかった。
 彼らは、自分以外の誰かの生活の為に、無慈悲に浪費される道具となり果てているのだ。

「なぜこうも、己の神経を逆撫でするのが巧いんだろうなぁ。教えを無視し、掟を破り、何もかもを悪い方向へと急かす……9000年たった今でもなお、一切学ぶことがない。呆れた連中だ」

 最早意識もほとんど残っていないであろう、あまりに哀れな姿を晒し、少しずつ死に向かっていく彼らに。
 大男はゆっくりと、大斧を振りかぶった。

「だから己は―――人間が嫌いなんだ」




 ―――彼は、悠久の時を〝在り〟続ける者。
    魔術の祖にして、今尚在り続ける最古の魔術師。
    世界の変遷に最も大きな影響を及ぼした彼は、永きに渡り世界各地で多くの弟子を育て、そして多くの弟子に裏切られてきた、

    この世で最も、人間を憎んでいる男である。
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