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第二章 シグルド~15歳 ケヴィン~21歳 アネット~20歳(?)
二章-6
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ケヴィンが見ていた彼女は、本当の彼女ではなかったのかもしれない。
そう思った時、落胆した。
親しげにしているようで、実はまったく心を開いてくれていなかったのかと。
だが、自分の生い立ちを何でもないことのように話す彼女を見ていて、そうではないのだと理解した。
彼女は、彼女だ。
明るくて能天気で、警戒心が足らなくてケヴィンをやきもきさせる。
たとえそれが、生い立ちや置かれた立場を隠すための仮面だったとしても、それも含めて彼女なのだ。
そんな当たり前のことに気付いただけなのに、焦燥にも似た、知りたいと思う欲求は静まった。
彼女が隠そうとした理由は、今でもわからない。
だが明らかにしたいとは、ケヴィンはもう思わなかった。
菓子を食べながらアネットが涙ぐむのを、ケヴィンは見て見ぬふりをした。
気付いてほしくなさそうだったから。
手を伸ばしてなぐさめたい思いに耐え、ただじっと彼女を見つめていた。
それ以来、たまに彼女の部屋を訪れるようになった。
もちろん深夜。ランプと差し入れの菓子、それに書物を持って。
ケヴィンが持っていたランプの明かりの下、彼女は菓子を口にしつつ繕い物をし、ケヴィンは書物を読んだ。
ほとんど言葉は交わさない。だが、それは心地のいいひとときだった。
──・──・──
月日はまたたく間に過ぎ、シグルドとともにケヴィンが近衛隊士見習いとなって早三年。
シグルドは成長と共にますます剣の腕を上げ、実力者ばかりの下級貴族出身の近衛隊士の中でも抜きんでた才能をあらわすようになった。上級貴族出身の隊士たちはもはやシグルドに手を出すことはできず、上級貴族出身の隊士でも下級貴族の隊士たちを虐げるありように疑問を持っていた者たちは下級貴族と行動を共にするようになり、隊内の派閥の均衡は完全に下級騎士に傾いた。そのため上級貴族の一派は、隊内で肩身の狭い思いをすることとなる。
シグルドを貶めるためにラダム公爵が弄した策は、こうして失敗に終わったのだった。
もうすぐ十四歳になるシグルドが、ある日を境に急に荒れだした。
何かにつけて反抗的になり、近衛隊の訓練にも勉学にも身が入らず、ケヴィンの制止を聞かないで近衛仲間と下街の酒場へ繰り出す。
理由を尋ねても答えない。父公爵も十三という年齢ならよくあることと、何もしようとはしない。
ケヴィンははらはらしながら、シグルドを見守るしかなかった。
そんな日が続いたある日、どうしても外せない用事があって、ケヴィン一人遅れて酒場に着いた。
下街を歩くのにケヴィンの普段着は目立ちすぎるということで、近衛仲間から借り受けた質素な上着をまとっている。それでも目立ってしまうのは、下街の住人らしくない姿勢や歩き方のせいなのか、それとも下街で目立つヘリオットの知り合いだと知られてしまっているからか。
道行く女にからかいの言葉をかけられながら、細い路地に面した酒場の入り口の木戸を押し開ける。
日が暮れても明かりがそこかしこを照らす路地と比べ、店内は多少うす暗く感じた。酒を飲みつまみを食い、大声で談笑する男たちの熱気に、一瞬だけだが息がつまる。
「お、来たな!」
近寄ってきたヘリオットを無視して、ケヴィンは目をこらして店内を見回した。
シグルドの姿が見えない。
店内は奥に向かって細長く、右半分に四つの丸テーブルが一列に並び、その周囲を所狭しと椅子と人とがひしめきあう。左半分は通路とカウンターになっていて、右にも左にもシグルドの姿は見当たらなかった。
「殿──シグルドは?」
身分を伏せるため呼びなれない名前を口にすると、隣にまで来たヘリオットがにやり笑って人差し指で上を指した。
「上でお楽しみ」
その言葉に、ケヴィンは蒼白になる。
この酒場には二階があって、さまざまな用途に貸し出されている。仲間内だけで飲みたい時や、ここより更に下街に行くために粗末な衣服に着替えたりする。
ベッドもあるので仮眠もとれるが、“お楽しみ”といえば女を呼び出して──。
一度は血の気の引いた頭が、次の瞬間一気に逆流する。
ケヴィンは怒りに任せ、こぶしを振り上げた。
しかし振り下ろしたそれは、ヘリオットに簡単に避けられてしまう。
「ちょっとは落ちつけよ」
「落ち付いていられるか! おまえか!? そそのかしたのは!」
今ならまだ間に合うかもしれない。止めに行かなければ。
ケヴィンはヘリオットを怒るのを後回しにして、店の奥にある階段に向かおうとした。それをヘリオットが二の腕をつかんで止める。
「待てよ。大丈夫だって」
「何を根拠に大丈夫などと!」
振り払おうとするが、ヘリオットは肩にも腕を回してケヴィンを押さえ、強引に引っ張っていく。椅子のないカウンターの端に場所を取り、回した腕で顔を引き寄せて声をひそめた。
「相手は俺のなじみの女。明朗会計を身上としてる奴だから、あとで面倒が起こることもねーよ」
それも心配していたことだが、しかし。
なおも手を振り払おうとするケヴィンに、ヘリオットはささやく。
「行ってからずいぶん経つから、もう遅いと思うよ?」
それを聞いて、ケヴィンはカウンターに肘をついて頭を抱えた。
「まだ13歳の子どもなんだぞ……」
女を知るには早すぎる。
ケヴィンから腕を離したヘリオットがぼそっとつぶやいた。
「その“13歳の子ども”が、自分から言い出したんだけどね」
「!!!」
衝撃に言葉が出せず、顔を上げ間近のヘリオットを凝視して口をぱくぱくさせる。
てっきり誰かにそそのかされたのだとばかり思っていた。
話が途切れたところを見計らって近寄ってきた店主に、ヘリオットは安い酒を二杯注文する。店主はすぐに酒を注いできて、二人の前に並べた。ヘリオットが銅貨を数枚、カウンターの上に滑らすと、それを受け取って店主は離れていく。
ヘリオットは店主が他の客の相手を始めたのを見計らって、ケヴィンに言った。
「女を抱くことでしか晴らせないうさってのもあるのさ」
「……彼にどういううさがあるのだと言いたい?」
すごみをかけて問いかけても、ヘリオットは頓着せず答える。
「たとえば失恋したとか」
ケヴィンは息を飲んだ。
「それくらいしか思いつかないんだよね。ああいう唐突な荒れ方をするってのはさ」
ケヴィンは気をもんでいたというのに、ヘリオットは察していて黙っていたというのか。
いや、それよりも。
「だから言ったんだ……交友関係を把握しておかないと、あとで取り返しのつかないことになると」
ケヴィンもうすうす気づいていた。
シグルドが誰かに恋をしていると。
──誰だっていいだろ?
二年前、菓子を欲しがるシグルドに不審を覚え問いかけた際、シグルドは返事をはぐらかし目元をわずかに赤らめた。
その時はヘリオットたちに邪魔をされて、聞き出すことができなかった。
日を改めて何度か問い質そうとしたが、そのたびに上手いぐあいに逃げられて。
ケヴィンにも軽く考える気持ちがあったのだと思う。恋をしているといってもしょせんは子ども、単なるあこがれにすぎないのだと。
だが、ここ数日の荒れようが失恋のせいなら、それほどまでに真剣だったということになる。
事前に知っていれば、殿下をああまで苦しめずに済んだかもしれないものを……。
うなだれるケヴィンの肩に、ヘリオットは手を置いた。
「経験を積み重ねていかなきゃおとなになれないんだからさ。そんなに気にすることないって。アイツと同年の近衛連中も経験してる奴はしてるんだから、別に目くじら立てる必要ないんじゃねーの? ヤバい女には近付かないように、一応目ぇ光らせてるしさ」
……そうなのかもしれないが、だが、しかし。
眉間にしわを寄せて悩んでいると、ヘリオットが前屈みになって顔をのぞきこんできた。
「おまえもやっとく?」
「何をだ?」
ケヴィンはうろんな目を向ける。するとヘリオットは上を指差した。
「お楽しみ」
目を吊り上げてにらむと、ヘリオットはかわすように体を退いてへらっと笑った。
「あ、おまえにはいらんか。何たってアネットちゃんがいるもんね」
──全身が、沸騰するかと思った。
ヘリオットの胸倉をつかんで引き上げる。
「彼女はそういう女じゃない! おまえも手を出してみろ! ただじゃすまさん」
ケヴィンの激昂ぶりに一瞬目をみはったヘリオットは、すぐに何かをたくらむようないやらしい笑みを浮かべる。
「そういう女って何? 友人の女に手を出すほど飢えちゃいないよ」
頭に血の上ったケヴィンは、ヘリオットのたくらみに気付かない。胸倉をつかんだ手でヘリオットをゆさぶる。
「友人!? 誰だ、それは!」
ヘリオットは笑いをこらえながら答えた。
「おまえのことだろ」
「──何?」
意外なことを言われ、ケヴィンの手は止まる。ヘリオットはくつくつ笑いながら、ケヴィンの手を外した。
「だから、その友人ってのはおまえのこと。アネットちゃんはおまえの女なんだろ?」
「違う! 彼女はそんなことをする女じゃない!」
「だからさぁ、そんなことって、どういうことだと思ってんの?」
「……」
答えられるわけがない。否定の言葉であっても、彼女を汚してしまうような気がして。
ヘリオットは肩をすくめながら、小さくため息をついた。
「あのね、アネットちゃんが金とか物とかになびかない女だってのはわかってるよ。あの子は好きな男以外には自分を許さない女だ。俺なんてちょっと誘いをかけただけでぴしゃーっと閉め出されちゃってたんだけど、気付かなかった?」
「何の話だ?」
「ほら、おまえを邸に送り届ける時、俺いっつも誘ってただろ? でも彼女は、一度だって誘いをかけられそうな隙を見せなかった」
「え──?」
ぼうぜんとするケヴィンを見て、ヘリオットは面白そうに眉を上げる。
「おまえ、気付いてなかった? “仕事忙しくってごめんなさーい”なんて言われたらとりつくしまもねーよ。どーせ“男と気軽に言葉を交わして、警戒心ってものがないのか”とか思ってたんだろ」
その通りだ。だが──。
一度にいろんなことを言われて、思考が追い付かない。
その時、階上から少々派手めな衣服を着た女が降りてきた。
気付いて振り向いたヘリオットに、女は不機嫌そうに口をとがらせながら後ろ頭をかく。
「もう! 子どものお守なんて勘弁してよね」
ヘリオットは近付いてきた女を、両腕を広げて迎えた。
「悪かったよ。助かった。おまえくらいいい女じゃないと任せられなかったんだ。足りなかったんならサービスしよっか?」
「あはは。客がサービスしてどうすんの?」
しなだれかかる女を、ヘリオットは腕の中に囲って支える。
この女が、さっきまで……。
見てられなくなって、ケヴィンはそっぽを向いた。
女はケヴィンに目を止め、ヘリオットの片腕にしがみつくようにしながらケヴィンの前に来る。
「あら、いー男。誰?」
「あのお子様の兄貴。過保護なんだ」
女は物珍しそうに、ケヴィンの頭からつま先までをじろじろ見た。
「へー……サービスするから試してみない?」
女がヘリオットからケヴィンに移ってこようとする。
醜悪だ。安っぽい香水のにおいに息がつまる。
迫ってくる女からできるだけ離れようとカウンターの縁に張りついていると、ヘリオットがまだつかまれている腕で女を止めた。
「やめといてやってくれよ。そいつ純情なんだ。今青春まっさかり」
「あら、まあ」
女は目を丸くして、先程よりも遠慮のない視線でケヴィンを眺めまわす。何を思ったのか含み笑いをもらすと、ヘリオットの手をするりと離す。
「まだ夜も早いから、他のところで仕事してくるわ」
「そっか。またな」
「またよろしくね、ヘリオット」
出口に向かいながら、女はケヴィンに向かって小さく手を振った。
「フラれたら声かけてね。なぐさめてあげる」
女は木戸を開けて酒場から出ていった。
見送っていたヘリオットは、戸が閉まるとケヴィンのほうを向いて、さっきの女と同じような笑い方をした。ケヴィンがむっとすると、肩をすくめる。
「ひどい顔色してるぜ。今日のところは帰ったら? ──シグルドのことは面倒みとくからさ」
この男にはいつも見透かされているような気がする。
今はシグルドと顔を合わせたくなかった。どんなふうに接すればいいかわからなくて。
だが、シグルドの従者ともいえる立場にあるケヴィンが帰るというのは……。
頼みにしたいロアルは近衛仲間たちの間で、酔いつぶれて机に突っ伏している。
迷っていると、ヘリオットは小さく笑いをこぼし、ケヴィンの耳元に小さく言った。
「アネットちゃんを“そういう女”にするかどうかは、おまえの心がけ次第だ。大事にしてやんなよ。あ、これあげる」
差し出された小さな紙包みを、ケヴィンは胡散臭げに眺める。
「何だ? これは」
「避妊薬」
「いらん!」
大事にしろと言ったすぐそばから、こんなものを出してくるのか。大事にするのなら、このようなものを必要としないようにすることが第一だというのに。
ヘリオットはケヴィンの返答を予想していたのか、あっさりと紙包みを懐にしまった。
「もしもの時のために持っておくのが、男のたしなみだと思うんだけどね。まあいいや。欲しくなったらいつでも言ってね。そんじゃ様子見に行ってくるわ」
ヘリオット“ははは”と明るい笑い声を立てて階段を上がっていった。
そう思った時、落胆した。
親しげにしているようで、実はまったく心を開いてくれていなかったのかと。
だが、自分の生い立ちを何でもないことのように話す彼女を見ていて、そうではないのだと理解した。
彼女は、彼女だ。
明るくて能天気で、警戒心が足らなくてケヴィンをやきもきさせる。
たとえそれが、生い立ちや置かれた立場を隠すための仮面だったとしても、それも含めて彼女なのだ。
そんな当たり前のことに気付いただけなのに、焦燥にも似た、知りたいと思う欲求は静まった。
彼女が隠そうとした理由は、今でもわからない。
だが明らかにしたいとは、ケヴィンはもう思わなかった。
菓子を食べながらアネットが涙ぐむのを、ケヴィンは見て見ぬふりをした。
気付いてほしくなさそうだったから。
手を伸ばしてなぐさめたい思いに耐え、ただじっと彼女を見つめていた。
それ以来、たまに彼女の部屋を訪れるようになった。
もちろん深夜。ランプと差し入れの菓子、それに書物を持って。
ケヴィンが持っていたランプの明かりの下、彼女は菓子を口にしつつ繕い物をし、ケヴィンは書物を読んだ。
ほとんど言葉は交わさない。だが、それは心地のいいひとときだった。
──・──・──
月日はまたたく間に過ぎ、シグルドとともにケヴィンが近衛隊士見習いとなって早三年。
シグルドは成長と共にますます剣の腕を上げ、実力者ばかりの下級貴族出身の近衛隊士の中でも抜きんでた才能をあらわすようになった。上級貴族出身の隊士たちはもはやシグルドに手を出すことはできず、上級貴族出身の隊士でも下級貴族の隊士たちを虐げるありように疑問を持っていた者たちは下級貴族と行動を共にするようになり、隊内の派閥の均衡は完全に下級騎士に傾いた。そのため上級貴族の一派は、隊内で肩身の狭い思いをすることとなる。
シグルドを貶めるためにラダム公爵が弄した策は、こうして失敗に終わったのだった。
もうすぐ十四歳になるシグルドが、ある日を境に急に荒れだした。
何かにつけて反抗的になり、近衛隊の訓練にも勉学にも身が入らず、ケヴィンの制止を聞かないで近衛仲間と下街の酒場へ繰り出す。
理由を尋ねても答えない。父公爵も十三という年齢ならよくあることと、何もしようとはしない。
ケヴィンははらはらしながら、シグルドを見守るしかなかった。
そんな日が続いたある日、どうしても外せない用事があって、ケヴィン一人遅れて酒場に着いた。
下街を歩くのにケヴィンの普段着は目立ちすぎるということで、近衛仲間から借り受けた質素な上着をまとっている。それでも目立ってしまうのは、下街の住人らしくない姿勢や歩き方のせいなのか、それとも下街で目立つヘリオットの知り合いだと知られてしまっているからか。
道行く女にからかいの言葉をかけられながら、細い路地に面した酒場の入り口の木戸を押し開ける。
日が暮れても明かりがそこかしこを照らす路地と比べ、店内は多少うす暗く感じた。酒を飲みつまみを食い、大声で談笑する男たちの熱気に、一瞬だけだが息がつまる。
「お、来たな!」
近寄ってきたヘリオットを無視して、ケヴィンは目をこらして店内を見回した。
シグルドの姿が見えない。
店内は奥に向かって細長く、右半分に四つの丸テーブルが一列に並び、その周囲を所狭しと椅子と人とがひしめきあう。左半分は通路とカウンターになっていて、右にも左にもシグルドの姿は見当たらなかった。
「殿──シグルドは?」
身分を伏せるため呼びなれない名前を口にすると、隣にまで来たヘリオットがにやり笑って人差し指で上を指した。
「上でお楽しみ」
その言葉に、ケヴィンは蒼白になる。
この酒場には二階があって、さまざまな用途に貸し出されている。仲間内だけで飲みたい時や、ここより更に下街に行くために粗末な衣服に着替えたりする。
ベッドもあるので仮眠もとれるが、“お楽しみ”といえば女を呼び出して──。
一度は血の気の引いた頭が、次の瞬間一気に逆流する。
ケヴィンは怒りに任せ、こぶしを振り上げた。
しかし振り下ろしたそれは、ヘリオットに簡単に避けられてしまう。
「ちょっとは落ちつけよ」
「落ち付いていられるか! おまえか!? そそのかしたのは!」
今ならまだ間に合うかもしれない。止めに行かなければ。
ケヴィンはヘリオットを怒るのを後回しにして、店の奥にある階段に向かおうとした。それをヘリオットが二の腕をつかんで止める。
「待てよ。大丈夫だって」
「何を根拠に大丈夫などと!」
振り払おうとするが、ヘリオットは肩にも腕を回してケヴィンを押さえ、強引に引っ張っていく。椅子のないカウンターの端に場所を取り、回した腕で顔を引き寄せて声をひそめた。
「相手は俺のなじみの女。明朗会計を身上としてる奴だから、あとで面倒が起こることもねーよ」
それも心配していたことだが、しかし。
なおも手を振り払おうとするケヴィンに、ヘリオットはささやく。
「行ってからずいぶん経つから、もう遅いと思うよ?」
それを聞いて、ケヴィンはカウンターに肘をついて頭を抱えた。
「まだ13歳の子どもなんだぞ……」
女を知るには早すぎる。
ケヴィンから腕を離したヘリオットがぼそっとつぶやいた。
「その“13歳の子ども”が、自分から言い出したんだけどね」
「!!!」
衝撃に言葉が出せず、顔を上げ間近のヘリオットを凝視して口をぱくぱくさせる。
てっきり誰かにそそのかされたのだとばかり思っていた。
話が途切れたところを見計らって近寄ってきた店主に、ヘリオットは安い酒を二杯注文する。店主はすぐに酒を注いできて、二人の前に並べた。ヘリオットが銅貨を数枚、カウンターの上に滑らすと、それを受け取って店主は離れていく。
ヘリオットは店主が他の客の相手を始めたのを見計らって、ケヴィンに言った。
「女を抱くことでしか晴らせないうさってのもあるのさ」
「……彼にどういううさがあるのだと言いたい?」
すごみをかけて問いかけても、ヘリオットは頓着せず答える。
「たとえば失恋したとか」
ケヴィンは息を飲んだ。
「それくらいしか思いつかないんだよね。ああいう唐突な荒れ方をするってのはさ」
ケヴィンは気をもんでいたというのに、ヘリオットは察していて黙っていたというのか。
いや、それよりも。
「だから言ったんだ……交友関係を把握しておかないと、あとで取り返しのつかないことになると」
ケヴィンもうすうす気づいていた。
シグルドが誰かに恋をしていると。
──誰だっていいだろ?
二年前、菓子を欲しがるシグルドに不審を覚え問いかけた際、シグルドは返事をはぐらかし目元をわずかに赤らめた。
その時はヘリオットたちに邪魔をされて、聞き出すことができなかった。
日を改めて何度か問い質そうとしたが、そのたびに上手いぐあいに逃げられて。
ケヴィンにも軽く考える気持ちがあったのだと思う。恋をしているといってもしょせんは子ども、単なるあこがれにすぎないのだと。
だが、ここ数日の荒れようが失恋のせいなら、それほどまでに真剣だったということになる。
事前に知っていれば、殿下をああまで苦しめずに済んだかもしれないものを……。
うなだれるケヴィンの肩に、ヘリオットは手を置いた。
「経験を積み重ねていかなきゃおとなになれないんだからさ。そんなに気にすることないって。アイツと同年の近衛連中も経験してる奴はしてるんだから、別に目くじら立てる必要ないんじゃねーの? ヤバい女には近付かないように、一応目ぇ光らせてるしさ」
……そうなのかもしれないが、だが、しかし。
眉間にしわを寄せて悩んでいると、ヘリオットが前屈みになって顔をのぞきこんできた。
「おまえもやっとく?」
「何をだ?」
ケヴィンはうろんな目を向ける。するとヘリオットは上を指差した。
「お楽しみ」
目を吊り上げてにらむと、ヘリオットはかわすように体を退いてへらっと笑った。
「あ、おまえにはいらんか。何たってアネットちゃんがいるもんね」
──全身が、沸騰するかと思った。
ヘリオットの胸倉をつかんで引き上げる。
「彼女はそういう女じゃない! おまえも手を出してみろ! ただじゃすまさん」
ケヴィンの激昂ぶりに一瞬目をみはったヘリオットは、すぐに何かをたくらむようないやらしい笑みを浮かべる。
「そういう女って何? 友人の女に手を出すほど飢えちゃいないよ」
頭に血の上ったケヴィンは、ヘリオットのたくらみに気付かない。胸倉をつかんだ手でヘリオットをゆさぶる。
「友人!? 誰だ、それは!」
ヘリオットは笑いをこらえながら答えた。
「おまえのことだろ」
「──何?」
意外なことを言われ、ケヴィンの手は止まる。ヘリオットはくつくつ笑いながら、ケヴィンの手を外した。
「だから、その友人ってのはおまえのこと。アネットちゃんはおまえの女なんだろ?」
「違う! 彼女はそんなことをする女じゃない!」
「だからさぁ、そんなことって、どういうことだと思ってんの?」
「……」
答えられるわけがない。否定の言葉であっても、彼女を汚してしまうような気がして。
ヘリオットは肩をすくめながら、小さくため息をついた。
「あのね、アネットちゃんが金とか物とかになびかない女だってのはわかってるよ。あの子は好きな男以外には自分を許さない女だ。俺なんてちょっと誘いをかけただけでぴしゃーっと閉め出されちゃってたんだけど、気付かなかった?」
「何の話だ?」
「ほら、おまえを邸に送り届ける時、俺いっつも誘ってただろ? でも彼女は、一度だって誘いをかけられそうな隙を見せなかった」
「え──?」
ぼうぜんとするケヴィンを見て、ヘリオットは面白そうに眉を上げる。
「おまえ、気付いてなかった? “仕事忙しくってごめんなさーい”なんて言われたらとりつくしまもねーよ。どーせ“男と気軽に言葉を交わして、警戒心ってものがないのか”とか思ってたんだろ」
その通りだ。だが──。
一度にいろんなことを言われて、思考が追い付かない。
その時、階上から少々派手めな衣服を着た女が降りてきた。
気付いて振り向いたヘリオットに、女は不機嫌そうに口をとがらせながら後ろ頭をかく。
「もう! 子どものお守なんて勘弁してよね」
ヘリオットは近付いてきた女を、両腕を広げて迎えた。
「悪かったよ。助かった。おまえくらいいい女じゃないと任せられなかったんだ。足りなかったんならサービスしよっか?」
「あはは。客がサービスしてどうすんの?」
しなだれかかる女を、ヘリオットは腕の中に囲って支える。
この女が、さっきまで……。
見てられなくなって、ケヴィンはそっぽを向いた。
女はケヴィンに目を止め、ヘリオットの片腕にしがみつくようにしながらケヴィンの前に来る。
「あら、いー男。誰?」
「あのお子様の兄貴。過保護なんだ」
女は物珍しそうに、ケヴィンの頭からつま先までをじろじろ見た。
「へー……サービスするから試してみない?」
女がヘリオットからケヴィンに移ってこようとする。
醜悪だ。安っぽい香水のにおいに息がつまる。
迫ってくる女からできるだけ離れようとカウンターの縁に張りついていると、ヘリオットがまだつかまれている腕で女を止めた。
「やめといてやってくれよ。そいつ純情なんだ。今青春まっさかり」
「あら、まあ」
女は目を丸くして、先程よりも遠慮のない視線でケヴィンを眺めまわす。何を思ったのか含み笑いをもらすと、ヘリオットの手をするりと離す。
「まだ夜も早いから、他のところで仕事してくるわ」
「そっか。またな」
「またよろしくね、ヘリオット」
出口に向かいながら、女はケヴィンに向かって小さく手を振った。
「フラれたら声かけてね。なぐさめてあげる」
女は木戸を開けて酒場から出ていった。
見送っていたヘリオットは、戸が閉まるとケヴィンのほうを向いて、さっきの女と同じような笑い方をした。ケヴィンがむっとすると、肩をすくめる。
「ひどい顔色してるぜ。今日のところは帰ったら? ──シグルドのことは面倒みとくからさ」
この男にはいつも見透かされているような気がする。
今はシグルドと顔を合わせたくなかった。どんなふうに接すればいいかわからなくて。
だが、シグルドの従者ともいえる立場にあるケヴィンが帰るというのは……。
頼みにしたいロアルは近衛仲間たちの間で、酔いつぶれて机に突っ伏している。
迷っていると、ヘリオットは小さく笑いをこぼし、ケヴィンの耳元に小さく言った。
「アネットちゃんを“そういう女”にするかどうかは、おまえの心がけ次第だ。大事にしてやんなよ。あ、これあげる」
差し出された小さな紙包みを、ケヴィンは胡散臭げに眺める。
「何だ? これは」
「避妊薬」
「いらん!」
大事にしろと言ったすぐそばから、こんなものを出してくるのか。大事にするのなら、このようなものを必要としないようにすることが第一だというのに。
ヘリオットはケヴィンの返答を予想していたのか、あっさりと紙包みを懐にしまった。
「もしもの時のために持っておくのが、男のたしなみだと思うんだけどね。まあいいや。欲しくなったらいつでも言ってね。そんじゃ様子見に行ってくるわ」
ヘリオット“ははは”と明るい笑い声を立てて階段を上がっていった。
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リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。
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