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第肆夜
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「儂かて、外国の熊の縫い包みの侍人形みたいに成りたいわい」
燃え上がる様な眉に目を見開いた武者人形がぼやく。
一目でそうと判別る五月人形だ。
「若が……若が儂を怖いと言って泣くんじゃ……」
言い乍ら泣いて居るのは本人……人形である。
「理解る……理解るぜ……」
ダミ声でしみじみと、淡い金髪に青い目の少女人形が頷いた。
貴様には絶対に理解らんだろうが。
「なんだいなんだい。あんな可愛い熊で疫病神が祓えるもんかい。あんたは其の怖い顔で悪い物を追っ払って若様を護るんじゃないか。不動明王様と同しじゃないかい」
着物に黒髪の少女人形が口を挟んで来た。
「いちま……、儂、若に捨てられたんじゃぞ……」
「あたしだって歳行ったからって好い人に捨てられたけれどさ。あんたの場合は嫌がられたって戻ってやんなきゃ誰が若様を護るのさ」
そりゃあ、あたしは女より綺麗だからあんたの気持ちは解らないけどさ。と続ける。
「ところで」
と、『私』は口を開いた。
「ところで何で我が家で会合されていらっしゃるのですかねぇ?」
話は、数日前に遡る。
珍しく眼鏡ニイサンが自分から出掛けると言い出したので、お供をする事に相成った。
ネイサン青年は“御仕事”らしく外出中である為、この薄ら惘然とした眼鏡一匹では心許無かろうと、『私』も同行する事にした。我乍ら良い心掛けで或る。
眼鏡ニイサンは喜び勇んで茶色と赤のチェックのドレスに共布の帽子を用意し、自らも共布の襟巻きを巻いて、外出に至った。
運転免許証の無い眼鏡ニイサンと運転免許証の無い一介の人形、初めての二人きりの御出掛け。
そう、『私』ことメイベルは七色の髪を持ち、山羊の如き金の瞳を持ち、唯一、眼鏡ニイサンに突っ込みを入れる事の出来る人形なのですとも。
「何やらメイベルも御出掛け嬉しそうで、良かったねぇ。楽しいねぇ」
細身の眼鏡としか言い様の無い凡庸とした此の男。
実は代々続く有名な霊能力組織だか闇の一族だかの御当主様らしいが、まぁ、簡単に言えば人間嫌いの引き篭もりの人形愛好者である。
其の趣味を生かして引き篭もった儘仕事が出来て御金が稼げるのだから良い御身分で御座居ますね。
うきうきと足取り軽く駅へ向かう眼鏡ニイサンに、ふと、昔の工場を思い出す。
あの、捨てられた工場のうねうねとした悪霊の成りかけ。
何処に逝ったのか不明な、あれ。
あれは、やはり『私』と同じ様に意識の産まれたあの工場の片隅の諸先輩人形達の、無念や恨みや何かだったのだろうと、今なら理解出来る。
「今日はね」
駅まで車で30分の距離を人形を抱えてスキップで3時間掛けて移動する変態は、まぁ、朝の四時なので特に見咎められる事無く、無事に駅まで辿り着けた。
到着時間が、四時である。
「今日はネット友達の人形供養の神社に行こうね」
へらりと笑顔を浮かべ、眼鏡ニイサンが一番高い切符を買った。
「楽しみだねぇ。うふふ」
と人形に声を掛ける弩変態は、電車の混み合う時間には辛うじて乗客の少ない路線に入り込んで居た。
否、若しかすると本人もこの時間ならと解って居ての早朝突破だったのかと思わない気がしないでも無い。
電車は山の中へ山の中へと入り込んで行く。
其の内、乗客は眼鏡ニイサン以外一人も居無くなり、気付けば車両も一両のみに成って居た。
周囲は山しか見えない。
正確には木々と何かの動物か鳥か虫かは見えて居る。
田舎、と言う言葉では表現出来ない、人の気配のせぬ緑深い山中。
其の丸で手入れされてい無いとしか思え無い無人駅と言うのも烏滸がましい、セメントで出来た2畳程の足場。
「終点デース」
独特の声と喋り方で、車掌が此方に来て言う。
「降りますか?」
「降ります。ありがとう」
上機嫌で眼鏡ニイサンが返す。
「次に此の駅に来るのは明日の同じ時間ですが」
「わかりました。人形神社に用が有って泊めて貰える事になっているから大丈夫ですぅ」
「でしょうね。じゃあ又明日」
車掌が頷いて此方を見る。
何だ! 何だ其の何か言いたげな視線は!!
切符を車掌に渡して電車を下り、改札も何も無い足場の端に階段を見つける。
見れば先の線路は無く、線路の先はくるりと上に丸まっていた。
階段を下り、線路を渡ると、唐突に舗装のされていない踏み固められただけの道と一台の蛍光黄色の車が現れた。
大木の陰になり今迄見え無かっただけなのだが、唐突な黄色に一寸驚く。
「御足労お掛けしてます、“桔梗信玄餅”さん」
「お世話になります、“筑紫餅”さん」
黄色の車から半纏にジーンズの眼鏡の男が降りて出向かえ、眼鏡ニイサンと挨拶を交わした。
無人駅から車で2時間。更に山奥へ山頂へと向かい、途中、如何考えても道では無い小川を車で渡り、岩を器用に登って下り、倒木を乗り越え、一言で言うと、乗り心地は最悪でした。最悪でしたとも。
眼鏡二匹は何やら会話が弾んで居りますが、そんなものに気を止めて居られない程の素敵な乗り心地でしたとも。
「いつも此方に来て頂いて居るばっかりで。今なら伺えるかと思ったんですけれども、御迷惑では無かったですかぁ?」
「否否、いつも快く迎えて頂いて居るのですから、何を迷惑とか有りましょうか。勿論喜んで迎えますよぉ」
嗚呼、眼鏡二匹の燥ぎ浮かれた声が苛付く。
舌を噛んでしまえ。
ぐったりと死んだ様に成って居る内に到着したらしい建物の前で車がやっと、やっと停止した。
後ろを見れば、立派な鳥居が幾つか並んで在るのが見え、目の前の建物は、やはり神社然とはして存在た。
だが、圧巻なのはその境内に所狭しと並べられた黒髪和服の少女人形。
「うわぁ」
眼鏡ニイサンが明らかに喜びの声を上げる。
「朝からみんなで御出迎えするべく並べたんですよぉ。大変だったけど、楽しかったなぁ」
無駄な御苦労様である。この弩変態め。
「此処に並べたのは市松だけだけど、他にも居ますからね。後でゆっくり御観覧下さいね」
きゃっきゃと眼鏡が言う言葉にきゃっきゃと応じる眼鏡。
この変態眼鏡共め。
「先ずは御挨拶して頂いてから」
手水舎へ促され、手と口を漱いでから拝殿へ向かう。
荷物と一緒に下ろされ、眼鏡が鈴を鳴らし三礼三拍手一礼し、わたくしも眼鏡二匹を真似て倣う。
再び抱えられ、社務所へ向かい乍、此処の神様は人形の神様なんだよと半纏眼鏡が言う。
ふと、じゃりじゃりと言う音に振り返ると、境内に並べられて居た筈のあの大量の人形共が御行儀良く一列に並んで蔵へと帰って行く。
……何を考えて居るのか解らない無表情な笑顔が怖い……。
て言うか、動いてます。動いていますが!?
思わず眼鏡ニイサンの腕を叩いて人形行列を指差す。
其方へ視線をやり
「うん? そうだねぇ。可愛いねぇ」
あああああ、この薄ら眼鏡!!
何事も無いかの様に社務所へ招き入れられ、居間としか言い様の無いコタツのある部屋へ通される。
其処には先客が……いそいそと半纏眼鏡が黒髪和服の少女人形の後ろに回り込み、人形の両手を持って挙げ、振る。
「うちの一番古い市松ちゃんでーっす」
瞬間、がくりと市松の頭が後ろに傾げ、ごっ……と嫌な音を立て半纏眼鏡に頭突きを噛まして居た。
「いちまって呼べって何度言ったら解るんだい。この盆暗」
はっ。と息を吐き、呆れた様に首を振る、市松人形。
鼻を押さえて居る半纏眼鏡を放置し、市松人形が此方へ向き直って畳みに手を着いた。
「御見苦しい所を御見せしんした。遠い所をようこそお出でなさんした。狭い所で御ざんすが御緩りとしておくんなまし」
市松人形は、佐野川市松と名乗った。
「名乗る程の者じゃありんせんが……」
恥ずかしそうに指先だけ見える着物の袖口で口元を隠す。
「可憐だ……可憐だねぇ……」
エエ、左様デ御座居マスネ。
眼鏡ニイサンの感嘆の声にやや気骨無く頷く。
「うちの神社の中じゃ一番の古株でね……」
ごっ。
市松の裏拳が半纏眼鏡に入った。
再び鼻を押さえて呻く半纏眼鏡。
「仲が宜しくて結構ですねぇ」
のほほんと言い放つ眼鏡ニイサン。
「此れの母親みたいなもんでありんすから……躾が行き届かず……御無礼を働いとりゃせんかと日々わっちは気が気で無ぇでござんす」
「三百歳位だけどね」
「弐百六拾四!!!」
半纏眼鏡の茶々に、市松が手元の菓子盆を投げ付けた。
ごっ。と半纏眼鏡の額に命中し、半纏眼鏡が引っ繰り返る。
立ち上がり乍、ゆっくりと振り返り、此方に背を向ける市松。
「……女に……歳の話はするなって、何度言やぁわかるんだい! 其れも御客様の前で!! 其処に直れ! 今日と言う今日は尻を猿の如くしてくれるわ!!」
「えー、いちまっちゃん、女の子じゃないじゃん」
引っ繰り返った儘、半纏眼鏡がぼやくが、こんな可憐な少女人形になんと失礼な。
「この身は男とて仮にも女形!! 唐変木の薄らトンカチのコンコンチキが!! そんなんだから嫁の来手も無いんだよ! 先代先々代果ては初代に土下座しな!」
威勢良く怒鳴り付けていらっしゃいますが。
……えー、えー……今、何か聞こえましたよ。聞こえました。うん。聞こえましたとも。
え?
「凄いねぇ、初代の頃からの付き合いなんですか?」
「あら、わっちったら御客様の前で端無い所を……。御客様なんて久し振りでありんすもんで……」
片手で半纏眼鏡を押さえ付け、本気で尻を叩こうとした所で我に返ったらしく、そそくさと其の場に座り直す。
半纏眼鏡も座り直し、改めて、と声を上げた。
「改めまして、私“筑紫餅”こと、此の神社の12代目神主を勤めさせて頂いて居ります。沙沙貴紫庵です」
「御丁寧に有難う御座居ます。“桔梗信玄餅”こと、亜爻二三です。此方はメイベルと申します」
「……メイベルです……」
眼鏡二匹が改まって挨拶をし、釣られて自分も頭を下げた。
「最初から絶対気が合うと思ったんですよねぇ」
「ああ、僕もです。此の人は大丈夫だと確信してました」
「動く市松を見ても驚かないし」
「動くメイベルを見ても平然としていらっしゃるし」
えへへと気持ち悪い笑みで何か通じ合っているらしい。
「何だかねぇ、類は友を呼ぶてな事だねぇ。おメイちゃんは何か御出来に成るのかい?」
何やら一気に言葉が崩れる市松。
「強いて言えば……何も出来ませんとも!」
「えばれるこっちゃないねぇ。まぁ良かろうよ。息子の友達が遊びに来てくだすったんだ。腕に縒りを掛けて持て成してやろうじゃないか」
昼行灯が二人になったとぼやきながらも嬉しそうに市松が割烹着を着け、奥へと向かう。
何か手伝った方が良いのだろうかと伺うも「有難うね。良い子だから遊んどいで」と連れ無い。
蔵に行こう、人形が沢山居るんだってと眼鏡ニイサンに抱え上げられた。
先程の大量の市松人形達が収まって居る蔵は果たして結構な広さが有った。
蔵と云うより屋敷では無いかと思う程度には。
先程の社務所が納屋に思える広さ。
少女人形の他に男の子の人形や鎧兜を身に着けた武者人形、雛人形、縫い包み、赤ちゃん人形、着せ替え人形、様々な人形を一つ一つ丁寧に紹介説明され、眼鏡ニイサンが一々頷き感想を言う。
何とかの一つ覚えで「可愛い」ばかりなのだが、全てのとは言わずとも、何割かの人形は紹介された時に微笑んだり首を傾げたり小さく会釈したりと好意的な反応を見せた。
中々の不思議空間である。
と、しくしくと啜り泣く声が聞こえた。
訝しがる眼鏡ニイサンに半纏眼鏡が答える。
「あー、此れね……」
聞けば、節句が終わる前に人形を怖がった子供に寄って捨てられた鍾馗様を引き取ったのだと言う。
燃え上がる様な逞しい眉は天に向かい、髭は髪と同化しており、長い髪は爆発の中心部でもあるかの様に縮れて広がっている。
顔は赤く染まり、表情は“憤怒”としか言い様が無い。
烏帽子に付けられた羽根は左右上下を指し、躍動感がある。
右手に刀、左手は五指を開いて何かを捕まえようとしているかの様。
これは確かに……。
「あー、成程ねぇ」
眼鏡ニイサンが頷く。
此れは神様と云うより赤鬼と言われた方が納得が行く。
幼い子供には恐ろしいだろう。
「貴様!! 納得をするでない! 儂とて、儂とて好きでこんな姿に成った訳では……」
うおおおお、と鍾馗様が天を仰いで啼泣した。
「彼は数日前に入ったばかりなんだけど、来た時からずーっと泣いてるんだよねぇ。他の人形達からの苦情が凄くて困ってるんだ」
半纏眼鏡が全く困って無い様子で言う。
「儂は、一生懸命頑張ったのじゃ。儂は……」
「どちらにしはったって、うちら節句人形は厄を背負わされて御焚き上げか川に流されるかでっしゃろ」
「いつまでも男らしゅうない」
「泣き人形なら其処の赤子で足りてはりますえ」
「此処に納められはって余生が出来たはるんさけ、何時までも泣いてはったらあかんえ」
「さかいに捨てられはったんやろ」
雛人形たちから一斉攻撃に、更に泣く鍾馗。
「あまり苛めないであげてよ。此れでも彼未だ六歳だから」
「誕生して六年も経てば充分でっしゃろ」
「御役目を放棄するどあほうに掛けて差し上げる言葉は持ち合わせとりゃしません」
「一生懸命やったら何ですか? 厄病神さんが去てもうてくれはるんですか?」
「何ですか? うちらが一生懸命でも無いと言わはるんですか?」
鍾馗を庇った眼鏡半纏へ攻撃が移る。
雛人形の男性陣は我関せずとばかりに無言を貫いて居る。
「こんな感じで……」
へらりと笑って此方を振り返る半纏眼鏡に、眼鏡ニイサンが心底同情した様な表情を浮かべて言った。
「良いなぁ」
……は?
「良いなぁ。うちの人形達もこんな風に話してくれたら楽しいだろうなぁ……」
えー……ええ、貴方絶対怖がって泣くでしょうよ……。いや、其れとも歓喜して毎日宴会か?
「此方は人形の神様である少彦名命様が守護されていらっしゃいますから、昔から或る程度の自由が利くらしいですよ。市松達みたいに動いたり雛人形達みたいに喋ったり」
「でも、夜中に赤ん坊の泣き声が聞こえたりしたら、ちょっと怖いですねぇ」
「あはは、そうですねぇ」
眼鏡共がにこやかに笑い合うが、何か知らんが一寸傷付きましたが?
自分でも何故か解らないがむくれて居ると、眼鏡ニイサンが覗き込んで来る。
「あれ? どうしたの、メイベル? 構ってあげなかったから拗ねちゃった?」
「其の子は桔梗……あぎょう? さん? が造ったんですか?」
「ああ、メイベルは、うちの弟が連れて来て、僕がリペアしたんですよ。……ええっと……あれ? 何でだっけ……?」
「目と髪が特徴的ですよねぇ」
「ああ、そうなんです。……其の時に……? 有り合わせで……? 否、此れが良いと思って……? あれ?」
何やら、眼鏡ニイサンが頭を捻り乍ら言葉を探す様に紡ぐが、如何やら此の薄ら惘とした眼鏡は記憶が曖昧なのだろう。
日々を惘と過ごして生きて居るからだ、全く。
謝れ。取り敢えずわたくしに謝れ。
「センスが有りますよねぇ」
「いやぁ、そんな、お褒めに預かり……えへへ」
此の空間だからなのか、眼鏡が眼鏡を褒めて眼鏡が照れる図と言うのは何だか寧ろ其方が本当に人間なのか疑いたく成って来る。
引き続き、人形を眺め人形について語り、化粧がどうの着物がどうの年代がどうの流行がどうのと、現在の流行に興味の欠片も無さそうな二人が語り盛り上がっていた。
やっぱり時代を見るなら変わり雛ですよねと、襟巻トカゲの立雛を手に半纏眼鏡が言う。
其の会話の最中も、しくしくしくしくと嘆く音が響く。鍾馗だ。
ああ、うざい。此れはうざい。雛人形達が文句を言いたくなるのも解ら無いでは無い。
しかも金髪美少女なら兎も角、赤ら顔の男性の人形だ。
苛々が段違いに跳ね上がる。
再度、彼方此方から不満の声が漏れ出す。
半纏眼鏡が困った様に頭を掻き、眼鏡ニイサンが、良い事を思い付いたとばかりに手を打った。
「君、僕の家に遊びに来ないかい? 僕の家には弟が居るんだ」
弟が居るから何なのだ、と、その弟を思い浮かべる。
そう言えば、出掛けて来ると告げていただろうか?
眼鏡ニイサンは忘れている気がしないでも無い。
「いいの? みんなの不満と苛立ちが募って居て困ってたんだ。気分転換にも成るし有り難いんだけれど」
きょとんと泣き止んだ鍾馗の代わりに、半纏眼鏡が全然困って無さそうな気の抜けた笑顔で応えた。
夕食が出来たと呼びに来る迄人形共を堪能し、語り合い、眼鏡の友情はどうやら深まった様で或るが、此方は納められる予定の人形では無く只の付き添いと判った瞬間から人形共の質問攻めに遭って居た。
出身から馴初めから何やらかにやら、答えられず解らないと返答するしかない事が粗全部では或るが。
呼ばれて戻れば、卓の上には御御馳走が並んでいた。
採れたての山菜の天麩羅。豆腐と厚揚げの味噌汁。焼魚は岩魚。山の湧き水をたっぷり吸って炊き上がった白米。爽やかな香りの緑茶。程好く漬かった漬物。
手を合わせ、頂きますと言う眼鏡共に市松が召し上がれと応じる。
何故かわたくしの分は用意されて居ない事に少し衝撃を受けたが、其れもそうだ、人形に食事を振舞う理由も無いなと、思い直す。
今迄、眼鏡ニイサンやネイサン青年が当たり前に用意して居たので、どうも其れに馴れすぎて居た様だ。
「おメイちゃん、あたしらはコッチ」
市松に誘われ、部屋を出て廊下を進み、小さな木戸を潜ると、一層澄んだ空気が流れ込んで来た。
一畳程の小さな空間が其処に有った。
「此処は御神座の裏側」
月明かりのみを頼りに、他に光源など無いと言うのに仄かに建物内全体が明るい。
足付きの膳を二つ出し、双方に白い小皿に盛られた塩と酒と米を其処に並べる。
「うちの神さんのお下がりです。どうぞ」
此れは……此の対応は、正直、予想外だった。
本気かと市松の顔を見返せば、小首を傾げ、ああと頷く。
「人の真似事をしなくても大丈夫。あたしらは、こうやって神さんの御神気を頂くのさ」
そう言って、市松は自分の膳の前で大きく深呼吸を、した。
米と酒と塩、其々から淡い光が立ち上がる。
建物内を淡く照らす其の色と同じ色の光。
其れが大きく深呼吸をした市松の体内に吸い込まれて行った。
ふう、と息を吐き、市松が無言で同じ様にする様に促して来る。
やや、躊躇しつつも、市松を真似て大きく息を吸って見た。
ぽ、と淡い光が米と酒と塩から立ち上がり、空気と共に浸入して来る。
澄んだ空気が喉から一斉に身体中を駆け巡る。
髪の先、手足の指の先迄、冷たく清い水を満たされたかの様な。
全ての柵から解き放たれたかの様な、爽快感。
あまりの衝撃に市松を見ると、口元に指を立てて、静かに、と手振りして居た。
市松と二人、深呼吸を繰り返す都度、全ての身体の部位が洗われ新しくされる様な爽快感を得る。
其の何度目かの深呼吸、唐突に爽快感が感じられ無く成った。
「御馳走様でした」
手を合わせ、市松が言う。
「御馳走様でした」
其れに倣った。
「さて、あたしは片付けしてから戻るから、先に戻って御出で」
市松の言葉に頷き、立ち上がろうとした時、外からエンジン音が聞こえて来た。
来客だろうか? こんな時間に?
訝しがる市松と二人、社務所へ戻ると、食事を終えて片付けようとして停止して居る半纏眼鏡と、同じく皿を持って中腰の儘停止して居る眼鏡ニイサンと、腰に手を当て不敵な笑みを浮かべるネイサン青年が、居た。
「兄さん、出掛ける時は家の人に言って何時に帰るか約束してから出掛けるものですよ?」
ネイサン青年は今迄常に笑顔で居たが、笑顔を貫き通して居たが、こんな全開の笑顔を見た事は今迄一度も無い。
此れは怒っている。怒っていらっしゃる。
「何だい、おメイちゃんの身内かい?」
市松に聞かれて頷く。
「嗚呼、ヤギリン、そんなとこに居たんだぁ」
「な、何か御免なさい」
「えー? 何がぁ?」
眼鏡ニイサンが思わずだろう口走った謝罪に、更に笑顔を深めるネイサン青年。
「黙って遊びに出た事? 黙って外泊するつもりだった事? 徹夜で仕事を終わらせて帰った僕に心配掛けた事? 徹夜で仕事して帰った後、蛻の殻の家の中から此処に居る事を突き止める為にヒント探して家中引っ繰り返して見つけるのに数時間掛かった事? 徹夜の後にレンタカー借りて此処迄来るのに一睡も出来なかった事? 全部? 其れとも何? 生きてて御免なさいとかそう言う事?」
嗚呼、此れはかなり、怒ってらっしゃる。
「お騒がせしました。ほら、帰るよ、兄さん」
半纏眼鏡に深々と頭を下げ、ネイサン青年が眼鏡ニイサンの襟首を掴んで引き摺って帰ろうとした瞬間、其の場に崩れ落ちた。
「へ? ちょっっ……」
「なっ……」
駆け寄って見れば……寝て居る。
「あー、ホッとして気が抜けたんだろうねぇ。いちま、片付けをお願いできるかい? 僕は彼を寝かせて来るよ」
「そうしておやり。兄を心配してすっ飛んで来るなんざ、良い子じゃあないか」
半纏眼鏡がひょいとネイサン青年を抱き上げ、眼鏡ニイサンが慌てて自分がと名乗り出、じゃあ一緒にと何やら二人掛かりでネイサン青年を運ぶ。
「おメイちゃんも付いて行っておくれでないか? あの盆暗二人じゃ襖を開けられるかだって怪しいよ」
市松に言われ、慌てて二人を追い掛ける。
客間だろう部屋に、案内され、一旦ネイサン青年を下ろすと布団を二人掛かりで敷き出す。
眼鏡二人が鏡の様に同じ動きをして居るのが効率的なのかも知れないが気持ち悪い。
ネイサン青年を寝かせ、もう二組布団を敷く。
一組は子供用だろう小さな布団。
「今日は此の儘、御二人も此方で休んでくださいね」
半纏眼鏡がにっこりと笑った。
「お風呂は沸いたら後でまた呼びますね」
朝、目が覚めたのだろう、珍しくネイサン青年が布団から半身を起こし、放心状態で此方を見ていた。
「……お、はようございます……?」
「……嗚呼、ヤギリンだ……」
……見えて無かったのか……。
「此処、何?」
「僕のSNS友達の家の人形神社だよ」
自分の布団を畳んでお茶を飲んで居た眼鏡ニイサンが答える。
「朝食だって」
用意された大根の味噌汁。山の湧き水をたっぷり吸った雑穀米ご飯。焼き海苔。漬物。生卵。丁寧に焙じられた焙じ茶。
昨夜の勢いが嘘の様に半纏眼鏡と市松に爽やかに挨拶をし、朝食に甚く感激をし、感謝を述べるネイサン青年。
食事を済ませ、「お世話になりました」と兄弟二人して半纏眼鏡と市松に頭を下げ、車に乗り込みエンジンを掛ける。
「また来て下さい。僕も遊びに行かせて下さいね」
「おメイちゃん、またお出で」
「お世話になりました。またSNSで」
「突然に押し掛けて御迷惑をお掛けしまして……。有難う御座いました」
「いちま、さん。何か、あの。有難う御座いました」
「では、達者でな」
?
車内の声が一人多い?
振り返れば、何時の間にか鍾馗が手を振って居た。
「ん?」
首を傾げて此方を見返す鍾馗。の、頭が鷲掴みにされた。
伸びた腕を辿れば開けた窓の向こうにいちまの顔が迫って居た。
「何を、やって、居るんだい!?」
斯くして。
我が家での会合と相成ったので御座居ます。
「儂かて、外国の熊の縫い包みの侍人形みたいに成りたいわい」
燃え上がる様な眉に|見開いた目。鍾馗が嘆く。
「若がなぁ、熊人形が欲しいと写真を儂のケースに貼って中の儂が見えない様にして居ってなぁ」
「あんな可愛い熊で疫病神が祓えるもんかい」
写真を見たのか本物を見たのか、いちまが知った風な事を言う。
「理解る……理解るぜ……。……其の辛さ……」
黄色いドレスの淡い金髪に青い目の少女人形がダミ声で呟く。先日、海外から引き取って来た人形で或る。もっと言えば、此の人形を造った本人の霊魂が中に入って存在して居る。何故、貴様は……此処に居るのかと。天国から追い返された、忘れていたけど色々犯罪を犯していたと頭を掻きながら言うコイツを今直ぐ飛行機に乗せて返品したい。
あたしは女より綺麗だからあんたの気持ちは解らないけどさ。といちまが言う。
「あんたは其の怖い顔で悪い物を追っ払って若様を護るんじゃないか。不動明王様と同しじゃないかい。嫌がられたって戻ってやんなきゃ誰が若様護るのさ」
「……でもなぁ……」
時刻は午前三時。
人形が会合をするにもメソメソ泣く節句人形を慰めるのにも丁度良い時間……かも知れませんがね。
翌日、いちまは迎えに来た半纏眼鏡の車で帰り、鍾馗は気が済むまで我が家に滞在する事と成った。
そもそも、塵集積所に若様直々に捨てられ、しくしく嘆く人形が気持ち悪い。良識の有る人が神社に持って行ったものの御焚き上げで燃えずに残り、盥回しにされた挙句、あの神社へ辿り着いたのだと言うから、余程わたくしなんぞよりも呪いの悪霊人形の様では無いか。
市松を見送り、家に入ろうとすると、鍾馗が居ない。
暢気に家に戻ろうとして居る眼鏡ニイサンの腕を叩く。
「鍾馗は!?」
「あれ? 何処に行ったのかねぇ? 一緒に帰ったっけ?」
そんな訳が有るまい。今、たった今、帰るのを拒否して残ると言ったのだから。
「先に家に入ったのかなぁ?」
それも考え難い。が、若しかしたらも無きにしも非ず。
だが。果たして、鍾馗は家中何処を探しても出ては来なかった。
「困ったなぁ。預かり物なのに……」
全く困っていない様子で、眼鏡ニイサンが言った。
一日経ち、二日経ち、三日経ち……一週間経っても、鍾馗の足取りは掴めなかった。
「気が済んだら出て来るよ~」
暢気に眼鏡ニイサンが言い、興味無さそうにネイサン青年が今日の茶菓子なんぞに頭を悩ませて居た。
時刻は三時。
眼鏡ニイサンが、お茶の支度をし、ネイサン青年が茶菓子を買いに走る。
何時もの光景。
だが、そのネイサン青年は、玄関から出なかった。
正確には、出る必要が無くなった。
「お久し振りです。増田です」
そう、玄関の前に立っていたマスカットちゃんは頭を下げた。
涙黒子が印象的な小柄な女性らしい姿。
手には近所の和菓子屋のカスドースの包みを下げて居る。
「実は、御相談が……」
マスカットちゃんの背後には、もっと小柄な姿の長めの髪の子供が立って居た。
年齢は就学前くらいか。
天然だろう淡い茶色の柔らかそうな髪、子供特有の肌、くりっとした瞳。
女の子に間違えそうな可愛らしい顔の造作をしている。
服装も中性的で、名前も……。
「私の甥っ子で、礼紋と言います」
「へぇ、レモンちゃん?」
「増田礼紋です」
もじもじと顔を赤らめ、恥ずかしそうにマスカットちゃんの影に隠れる。
「甥っ子の事で相談が有って……」
深刻そうに言うマスカットちゃんの言葉に、レモンちゃんがべそを掻き始めた。
実は、とマスカットちゃんが話し始める。
眼鏡ニイサンが珈琲を淹れ、レモンちゃんには本人の希望で紅茶を淹れた。
実は先日から甥っ子に変な電話が掛かって来るのだと、マスカットちゃんは話した。
頂いたばかりのカスドースをお茶請けに出す。
話はこうだ。
レモンちゃんの子供用携帯に、数日前から毎日、何者かから電話が掛かって来る。
出ると相手は一言だけ言って切れる。
着信履歴には残っていない。
最初は「変な電話が掛かって来る」と聞いたレモンちゃんの両親も、登録して有る番号以外拒否設定して有る上に着信履歴が残っていないので、レモンちゃんの自演か精神的な物か病気による幻聴を疑ったが、其の内、両親の前で子供用携帯が鳴った。相手の番号は表示されない。
恐る恐る父親が出てみると、ぼそり、と男の声で地名だけ言って切れた。
着信履歴を見ても、たった今通話した筈の履歴が残っていない。
母親は半狂乱になって叫び、父親は子供用携帯を叩き付けて壊した。
しかし、子供に携帯を持たせて置かない方が恐ろしい。
直ぐに携帯の機種変更と番号変更を行い、再度、登録番号以外拒否設定にした。
セキュリティもしっかりと強に設定した。
其れでも、翌日、また、電話は掛かって来た。
「……」
それは、三つ隣の駅名だった。
マスカットちゃんの兄は、取り敢えず逃がさねばと、飛行機の距離のマスカットちゃんに連絡を取り、レモンちゃんを預けたのだと言う。
それで収まれば引越しを考えよう。
収まらなかったら、どうしよう、如何したら良いのかと。
「其れで、昨日、また、掛かって来たんです」
番号の表示されない、着信履歴の残らない電話が……と。
「あのね、最初は、何処かも知らない場所だったの」
レモンちゃんが言う。
「何度目かの電話で、隣の隣の県だったの」
「その後又何度目かが隣の県だったの」
「其の次が、ボクの居る県の駅の名前だったの」
「うちの近くの駅から、何個目かの駅だったの」
「毎日、駅を一個ずつ言うの」
「ボクの家の近くの駅まで、一個ずつ」
「一個ずつ一個ずつ近付いて来て、お父さんが、逃げろって」
「だから、トオゴちゃんのとこに今居るんだけど」
「トオゴちゃんの家でも何回か電話が鳴ってて、でもボク怖くて出なくて」
「昨日、トオゴちゃんが出たら……」
一気に其処まで言った後、黙ってしまったレモンちゃんの言葉を、マスカットちゃんが引き継ぐ。
「昨日、私が電話に出たら、兄の家から此方方面に数駅分、移動していたんです」
「此の儘だと追い付かれちゃう!」
レモンちゃんの目に見る見る涙が溢れた。
「声に聞き覚えとか……?」
「いえ、無いです」
ネイサン青年の質問に、レモンちゃんが首を振り、マスカットちゃんが答える。
「男の声、だっけ?」
「はい」
「……どんな感じ?」
「其れは……ボソッと一言呟くだけなので、何とも……」
「電話の向こうで別の音は聞こえる?」
マスカットちゃんが首を傾げレモンちゃんを見るが、再度レモンちゃんが首を横に振る。
「何も?」
「なんにも聞こえない。凄く静か」
そうなんだ? と首を傾げながらネイサン青年が考え事をする様に唸った。
「電話来る時間決まってるの?」
「何時も十五時二十五分です」
「そうかぁ」
ネイサン青年が時計を見せる。
「暫く、家に居て見る?」
時計は十五時三十分を指していた。
ゲストルームでごゆっくりどうぞとネイサン青年が案内するが、待て、そんな物が此の家に在ったとは『私』、初耳ですが……。
「ゲストルーム? 有るよ? 偶に使うからいつも綺麗にしてあるしねぇ」
眼鏡ニイサンが言う。
……知らなかった……。そう言えば、此の家の間取りも良く解って居ない気がしないでも無い。
「うんとねぇ、此処が玄関でしょう? 此処が駐車場でしょう?」
何かのチラシの裏にボールペンで大きく四角を書き、四角の中に簡単な間取りを書き始める。
「駐車場の隣が洗い場兼納戸で、トイレがこっちで、此処にお風呂に此処にキッチン」
……既に四角の中が埋まって居るのですが?
「此処に廊下が有るでしょう、此処からこう伸びて此処にリビング」
がっつり駐車場に被る形で四角を描き込む。
「こっち側に僕らの私室が在って、此処に人形部屋と作業部屋」
トイレやキッチンや風呂に被る形でガリガリと上から書き込んで行く。
「此の手前に、此方側に行く廊下が有るでしょう。此処にゲストルーム」
紙面が四角を沢山ぐちゃぐちゃに描かれただけの何か。
其れを手にほらねと笑う眼鏡に、説明を期待した自分の馬鹿さ加減に少し反省をする。
「今日は僕らが御持て成しする側だねぇ」
夕飯は何にしようかなぁと、眼鏡ニイサンはうきうきと台所に消えて行った。
客を迎え、男四人で賑やかに夕食を取って居る間、やはりと言うか何と言うか、遠慮して人形部屋に篭る。
飾られた多数の人形を眺め、寧ろ何故此方の諸先輩方は自分の様に動かないのだろう? と何度目かの疑問を抱く。
封じられたと言うのなら、何故自分は動けているのだろうかと。
「なんだよ、浮かない顔だな」
金髪美少女の人形が声を掛けて来る。
此方、此の家で私以外で唯一喋って動ける人形なのであるが、人目の無い所限定なのは、当初のわたくしと一緒の御様子。
「ダーニ……、其の濁声を如何にかしろとは申しませんから、せめてもう一寸外見に似合った話し方をされてみては?」
「あらん、あたくしそんなお下品な言葉遣いだったかしらん?」
「……ああ、すみません……わたくしが間違っておりました……」
「だろ? 俺も自分で気持ち悪い」
「所で、ダーニ。貴方、如何思います? 其のレモンちゃんの電話」
「アレだなぁ。彼奴じゃねぇのか?」
「そう、ですよね。其れしか考えられないですよね」
時期的に、合い過ぎる。
恐らくレモンちゃんが、鍾馗を捨て熊の縫い包みを欲しがった男児。
そう考えると、鍾馗は人形神社へ戻ればあそこから出られない。
恐らく、我が家に気分転換と称して移動し、慰めの言葉である市松の言葉を真に受けて帰ろうとしたのだろう。
恐らく。
其れで、喜んで迎えて貰えるとでも思ったのか、現在地を知らせて来て居るのだろう。
己の若様に会いたい一心で。
翌日、試しにと、レモンちゃんの子供携帯を持ってネイサン青年が家から出た。
結局、昨日は掛かって来なかった。
翌々日、レモンちゃんとマスカットちゃんと一緒に、ネイサン青年が出掛けて行った。
十六時過ぎ、戻って来たネイサン青年が顔色の悪い二人をゲストルームへ促し、眼鏡ニイサンに茶と土産のケーキを茶請けに出す様に頼む。
其の足で廊下から覗き見ていた『私』を捕まえ、人形部屋へと押し込んだ。
「ヤギリン。電話の声、アイツだった。あの毛もじゃの武者人形」
メソメソ泣いてたアイツ、と続ける。
鍾馗で間違い無かった。
「アイツ、今、飛行場に居る。多分、飛行機に乗って来たっぽい」
如何しよっかー、と続ける。
「預かり物だから手荒な真似は出来ないし、困ったからって人形神社に熨し付けて返すのはコッチの名折れになるし、兄さんに綺麗にさせる訳にもいかないしなぁ」
基本徒歩移動みたいだから、時間稼ぎのつもりも有ったんだけど、兄さんの結界内に入ってるから、居場所が判ら無くなって焦ったのかなぁ? と呟く。
毎日一駅ずつ近付いて来る様子に、徒歩と中りをつけたらしい。
「でもアレだねぇ。現在地を電話で知らせて来るなんて、律儀だねぇ」
そう言う問題では無いと思う。
取り敢えず迎えに行こうか。とネイサン青年が言う。
今迄の電話から、恐らく電車の駅沿いを徒歩移動なのは間違い無い。
飛行機に如何やって乗ったのか疑問は残るが、此の相手が鍾馗なら話が通じない相手では無いだろうし、レモンちゃんに危害を加える事も無いだろう。
無駄に逃げ回っても毎日の電話が無くなる訳では無いし、一生何処かの結界の中で過ごす訳にも行かない。
レモンちゃん自身が色々な意味で強くなれば良いのだろうが、其れも現実的とは言え無い。
ただ、此の提案にレモンちゃんとマスカットちゃんの二人が同意するか如何かと言う問題がある。
今迄の様子から、説得には時間が掛かりそうだ。
「少し、礼紋と相談して良いですか?」
案の定、ネイサン青年が話を持ち掛けると、マスカットちゃんがそう応じた。
アッサムティーを濃い目に淹れたミルクティーとアップルパイを前に、レモンちゃんは凄い勢いで首を横に振って居る。アップルパイを一口、口に含んでいるので喋れないのもあるだろう。
しかし、此処から一生出ない訳にも行かないのだ。
「大丈夫、二人は兄さんと一緒に車の中に居て待ってて貰うだけだから」
要するに餌である。
「少し、明日の朝まで時間を下さい」
レモンちゃんの様子を見て、マスカットちゃんが言った。
翌朝、レモンちゃんとマスカットちゃんが決死の表情で、お願いしますと頭を下げ、ネイサン青年が大丈夫と手を振る。
ネイサン青年は昨日の電話から場所を予測し、朝食を終えると眼鏡ニイサンを準備もそこそこに車に放り込んだ。
流石に霊柩車ではないが黒のワゴン車の三列シートの一番後ろに眼鏡ニイサンと付録のわたくし。
真ん中にレモンちゃんとマスカットちゃん。
運転席にネイサン青年。助手席に何やら金属音を立てる謎の物の入った大きなバッグ。
窓には目隠しの様に黒いカーテンが付いている。よく見れば金の模様が真っ黒なカーテンの端に刺繍されて居た。
前日の電話で告げられた場所に先ずは向かう。空港に。
空港まで約一時間。電話が来るのが十五時二十五分。
空港で昼食をとり、土産物屋を巡る。レモンちゃんが林檎が丸ごと入ったアップルパイを両親へのお土産に欲しがり購入する。余程、昨日のお茶請けに出したのが気に入ったと見える。他に色取り取りの熊の小さな縫い包みや何やら気が付けば両手に持てない位の量のお土産をマスカットちゃんが買い与えていた。
大きな両手で抱えるサイズの熊の縫い包みを持たせ、他の物は宅配でレモンちゃん両親に発送する事にする。
熊の縫い包みは、偶然にもわたくしの髪とよく似た様な白地に虹色の毛並みをして居た。
大きな目玉は金色で、目玉が大きすぎて違和感が拭えないが、レモンちゃんが喜んでいるのだから良いのだろう。
十五時になり、空港から我が家の方面へ向けて出発する。
今迄の電話の内容から、恐らくは駅名を読んでいるのだろうと推測し、路線沿いに車を走らせる。
今迄の内容から、一日一駅。
車なら十五分も掛からないが、細い道に入り込んで居たら見つけるのは困難なので、其の場合は電話を待つ。
熊の縫い包みを抱き締め、恐らくはその大きさと毛並みの温かさと柔らかさに恐怖を和らげる効果が有るのだろう、レモンちゃんが顔を埋めている。
グルグルと車を巡回させ、人通りの少ない道を捜索し、十五時二十五分、駅前の駐車場に駐車した瞬間、子供携帯が鳴った。
びくんと飛び跳ねたレモンちゃんの代わりに、マスカットちゃんがスピーカーにして、通話釦を押した。
『……』
電話の声は確かに、確かに鍾馗の声で、駐車場の名前を読み上げた。
今、車を停めた、その駐車場の名前を。
「二人と兄さんは中で待ってて。兄さんと一緒なら絶対に大丈夫だから」
熊の縫い包みを抱き締めて顔を埋めるレモンちゃんに声を掛け、マスカットちゃんと目を合わせて頷いて子供携帯を預かり、車から降りるネイサン青年。
眼鏡ニイサンが、窓を開ける。
「メイベル。一緒に行ってお出で」
ぽいっと窓から放り出された。
慌てて着地……に失敗し、顔面から落ちる。
身体が反転し、顔面ブリッジから上半身を起こし、起き上がる。
顔面を撫で乍ら振り返れば、既に窓は閉まっていて黒いカーテンに閉ざされ、中の様子は伺えない。
……後でじっくりと話し合いが必要な様ですね……。
「持ってて」
ネイサン青年が子供携帯を投げて来たのを慌てて掴む。
目の前には鍾馗が、最後に見た時よりも大分と襤褸襤褸に成った鍾馗が、立って居た。
絹の着物は黒く汚れて所々破れ、髪と髭と眉は荒れてより一層滅茶苦茶に広がり、羽根飾りは取れて無くなり、顔は真っ黒に汚れて瞳だけがギラギラと嫌な光を放って居り、地面からわずかに浮いて、居た。
何かが、違った。
あの、『私』が知っている泣き虫の鍾馗と、何かが、決定的に、違った。
「やぁ、何日ぶりかな? 久し振りって言うべきなんだろうけど……」
ネイサン青年が鍾馗へ声を掛ける。
「……じゃない……」
鍾馗の口から、声がもれた。
「……若じゃない……」
鍾馗の身体がブルリと震える。
「若じゃない……若じゃない……若じゃない、若じゃない、若じゃない! 若じゃない!!」
徐々に声を荒げ激昂していって居るのか、ゆっくりと身体を起こす様に地面から上昇する。
「若じゃない!!!」
鍾馗の叫びと共に、一陣の風が刃と成ってネイサン青年に襲い掛かった。
金属音と共に、咄嗟に構えたバール状の物が、切断されて先が飛んで行く。
ネイサン青年の髪が数本、一緒に切れて飛んだ。
「うわ、こっわー。凄い切れ味」
のんびりとネイサン青年が言い乍ら真っ二つになったバール状の物を放り、新しい物を取り出す。
「……若は……何処だ……」
眼鏡ニイサンの結界で車の中に居るのがわからないのだろう、鍾馗が声を絞り出す様に呻いた。
「君、先ずは落ち着いたら?」
「若は何処だ!!」
再度、風刃がネイサン青年のバールを真っ二つにした。
「怖い怖い。君、怖いよ。こんなんじゃ怯えちゃうでしょ。君の若様」
ぎくり、と鍾馗が大きく一つ震えた。
「君、若様を追い掛けて会って何をしたいの?」
「……儂は……」
きょろきょろと周囲を見渡し、何かを探す様な仕草を見せた。
「……儂は……儂は……儂は……」
地面を見つめ、自分の手を見つめる。
「……儂は……守護人形……。若様を守護し、成長を見守るが役目……」
手を握り締め、ミシリ、と嫌な音が響く。
「……儂は……儂が……守護してやろうと言って居るのに……此の儂が……護ってやろうとして居るのに、何故に若は……儂を棄てる……儂から逃げる……儂を置いて行く……儂は……儂は……」
風が不自然に鍾馗の周囲を巻き上げ、吹き荒れる。
「……儂は……若を呪い、殺し、守護としよう!」
どう、と音を立てて風が吹き荒れた。
場内の車が風に煽られて揺れる。
「若が儂を要らぬと棄てた。守護など要らぬと言い捨てた。為らば守護の要さぬ身にして差し上げよう、生きていくなら守護の無き身はいっそ死んだ方が救われるだろう。……儂は……若を呪い殺し、若を一生守護する事としたのだ。儂の使命は若を呪い殺す事なのだ!」
風の刃がネイサン青年をじわりと甚振る。
腕や足や顔に、小さな切り傷が一つまた一つ増えて行く。
「君ねぇ!!」
声が風に掻き消される。
「ちょ……駄目だ此れ。穏便に話し付けようと思ったのに」
ねー、とネイサン青年が此方に向かって首を傾げる。
「邪魔立てする者は全て敵! 若の怨敵!! 儂が若に憑いて居る限り、若に仇なす者は許す訳には行かぬ!!」
壊したら怒られるかなぁ? 預かり物だしなぁ。とネイサン青年が呟き、振り被る。
「若には死こそが救いなのだ!!」
ごっ。と音を立てて、先程斬られたバールの先が鍾馗の額に突き刺さった。
其の儘、勢いをつけて後方へと吹き飛んで行く。
旋風が収まった。
「お、効いた?」
投球姿勢の儘、ネイサン青年が笑う。
ネイサン青年が吹っ飛んだ鍾馗を回収し……恐らく目を回して居るのだろう……バールやら釘バットやら入った鞄に詰め込む。
……あ、何か既視感……。
周囲を見渡し、誰にも見られていない事を確認してから、車へ戻った。
鞄とわたくしを助手席に放り込む。
「……あの……何が……?」
運転席に乗り込んだネイサン青年にマスカットちゃんが声を掛けた。
レモンちゃんは相変わらず熊の縫い包みを抱き締めて顔を埋めて居る。
「あー、大丈夫大丈夫。もう此れで大丈夫に成ったと思うよ」
にっこりと笑ってみせ、ネイサン青年は車を出した。
我が家迄の道中静まり返った車内、わたくしが盛り上げる訳にも行かずジッと耐え、1時間後マスカットちゃんのマンションへ送り届けるまで車の中も鞄の中も静まり返って居た。
レモンちゃんへ子供携帯を返し、まだ訝しがり乍らも御礼を言うマスカットちゃんとレモンちゃんを見送り、我が家への道を辿る。
駐車場へ車を入れ、ネイサン青年が鞄を開けて鍾馗を取り出す。
家の結界か、眼鏡ニイサンの結界か、ただの襤褸人形に見えた。
其れを兄に投げて渡す。
「ソイツ、ちょっと綺麗にしてやってよ」
「あーあ、こんなに成っちゃって……。筑紫餅さん、怒るかなぁ?」
のんびりと兄弟の会話を交わす二人に次いで居間へと戻ると、何やら、ほうと気が抜ける。
何をした訳でも無いのに無駄に緊張していたのか、疲れたのか。
「メイベル、疲れたの? 眠いの?」
眼鏡ニイサンの心配そうな声が、聞こえた。
「……ねぇ……」
声が聞こえる。
「ねぇ」
顔を上げれば、少女を模した人形が目の前で佇んで居る。
二十糎程の身長に古い少女漫画の様な顔、カールした茶髪、ピンクのワンピース。
「ねぇ」
人形が微笑む。
「あたし、チカちゃん」
首を傾げ、微笑み掛けて来る。
「あなたのお友達よ。一緒に遊びましょう」
真っ白な空間の中、少女の姿をした人形が微笑み掛けて来る。
其の姿は、一世を風靡したあの人形で。
其の姿は、少女達の憧れの姿で。
「ねぇ」
微笑み掛けて来る。
「あなた、可哀想。酷いわよね。あたし、知ってるの」
顔を覆って嘆くかの様な素振りを見せる。
「ずっとずっと工場の端で、塵みたいに放って置かれて」
顔を覆った儘、嫌々と首を振る。
「やっと助けが来たと思ったら、塵みたいに袋に入れられて」
顔を覆った儘、泣き崩れる。
「塵みたいに焼却炉で燃やされて」
あああああ、と泣き声を上げる。
「可哀想に」
搾り出す様に呻く。
「可哀想に可哀想に可哀想に可哀想に可哀想に」
あああああああああ、と慟哭の声が徐々に大きくなって行く。
「可哀想。あなた可哀想。あたしが」
顔を上げる。
人形である其の顔には涙一粒流れては居ない。
「あたしが居るから大丈夫。あたしが、あたしだけが味方だから」
少女の人形が微笑む。
「一緒に、人間を、殺しましょう」
「メイベル、疲れたの? 眠いの?」
眼鏡ニイサンの心配そうな声に、ぎくり、とした。
周囲を見渡せば、先程と何も変わり無い、室内。
帰宅したばかりの其れ。
此の結界内に何かが、そう、悪い物が侵入出来る筈は無いのだ。
あれは、悪い奴だ。
直感で或る。だが確信だ。
あれの話は聞いてはいけない。
なのに、声が、聞こえた。姿が、見えた。
悪寒が走る。
ざわりと胸騒ぎがする。
眼鏡ニイサンに、ネイサン青年に話すべきか如何か迷う。
今の一瞬の白昼夢を。
此の不安感を。
「いえ、あの……」
「今日は疲れたろう。早くお休み」
抱き上げられ、人形部屋へと戻される。
寝巻きへ着替えさせられ、ベッドへ寝かし付けられる。
「今日はもう、お休み。僕は鍾馗様の手入れをするよ」
パタリと閉じられた扉に、一人にされるのが怖いとは、言え無かった。
「なんだ? 珍しく殊勝な顔をして」
黄色いドレスの人形、ダーニが声を掛けて来た。
彼女は、否、彼は、其の金髪に青い目の少女人形を造った人形師であり、天国にも拒まれ逝き先も無く此処にこうして留まって居る。
そうだ、ダーニは人形では無い。中身は元は人間だ。
ならば、と思う。
ならば、あの悪魔の様な囁きになぞ耳を貸さないだろう。
人間に危害を加えようなどと考えないだろう。
そして、今、あの白昼夢の話を聞いてくれそうな唯一の相手でもあった。
「おまえさぁ……」
鍾馗の話から一通り話し終え、ダーニが苦笑してその天使の様な姿で肩を竦める。
「おまえ、人間に夢を見過ぎだよ。俺が天国に行け無かったのは、人間に害を為したからだぜ?」
まぁ、結果、此の姿に成れたのだから寧ろ天国に行けなくて良かったけれどと頬を掻く。
「優しく話し掛けて来て、人殺しを進めるのか。丸で悪魔だな」
ダーニの言葉に、鳥肌が立った。
悪魔、そうだ、此の不安の原因は其の悪魔の囁きに負の感情を呼び起こされそうな此の自分自身なのでは無いだろうか。
「でも、そいつは、人形を惑わすんだろう? 俺は人形だけれど人形では無いからな。なるべく一緒に居て、おまえが奇異しくなったら殴って眼を覚まさせてやるよ」
細く白い人形の腕を、力瘤なぞ出ないのに見せつけ、ダーニがガハッと笑う。
「俺は昼間寝たからな。付いててやるから、寝ろよ」
よいしょとベッドに飛び乗り、添い寝の形を取ると、頭を撫でられた。
少し、不安が払拭された気がして、ゆるゆると眠りに落ちて行く。
時刻は十時。陽の差さぬ人形部屋にも珈琲の芳香が届き、身体を起こす。
ダーニは自分の場所に戻ったのか見当たらず……否、彼がいつも座っている場所にも居らず、それどころか此の人形部屋の人形の数が明らかに減って居た。
胸騒ぎがする。
不安が掻き立てられる。
慌てて部屋を出、作業部屋へと向かった。
「ん? どうしたの、メイベル? 駄目だよ、作業中は入って来ないでって……」
「みんなが……っ!」
「みんな?」
音を立てて扉を開けると、のんびりと眼鏡ニイサンが嗜めて来るのを遮って、逡巡する。
何と言えば良いのか? 何と説明すれば良いのか?
言わない訳にはいかない。だが、何と言えば……。
迷い乍ら顔を上げると、聞き返す眼鏡ニイサンの向こうに、消えたと思った人形が並んで居た。
途端に身体の力が抜ける。
其の場に座り込んだ。
嗚呼、何だ、みんな此処に居たのか、と息を吐く。
「みんなって?」
「いえ、何でも無いのです……。一寸した早とちりで……」
眼鏡ニイサンが振り返る。
眼鏡ニイサンだと思ったモノが、黄色いドレスの金髪碧眼の少女人形を抱き上げ、振り返る。
「 み ん な っ て 、 此 の 子 達 の 事 ?」
振り返って、チカちゃん人形が、笑った。
「うあああああああああっ」
自分の声で飛び起きる。
時計は午前十時を指して居た。
薄暗い、陽光の差さぬ窓の無い部屋。
ベッドの上で、周囲を見渡し、今のは夢かと安堵する。
息を整え、添い寝してくれて居た筈のダーニを探す。
黄色いドレスの金髪に青い目の少女人形を。
暗くて良く見えないが、恐らく自分の場所に戻って居るのだろうと其方へ目をやれば、其処に居る筈の天使の様な其の姿は見当たらず。
まさかとの思いを抱きつつ周囲を見渡せば、明らかに数体の人形が消えている。
否、あれは夢だ。ただの悪い夢だ。そんな筈は無い。有り得無い。此の眼鏡ニイサンの結界の中で、 有 り 得 無 い 。
転がる様に部屋から飛び出し、居間へと急ぐ。
バン、と音を立てて飛び込めば、ネイサン青年が優雅に十時の珈琲を飲んで居る。
「なぁに、ヤギリン、騒々しいなぁ」
「みんな……っ! みんなは……っ!?」
「みんなって?」
勢いで転がって蹴躓き、クッションに縺れ込む。
「みんなですよ! 人形部屋に居たみんな……」
クッションから身体を起こし、顔をネイサン青年に向けると、其処に、消えた人形達が立ちはだかって居た。
ネイサン青年の姿が、人形達で隠されて居る。
「 あ あ 、 み ん な っ て 、 此 の 子 達 の 事 ね 」
人形の壁の向こうで、ネイサン青年だと思って居た相手が、立ち上がって姿を現す。
黄色いドレスの金髪碧眼の少女人形を抱き上げ、チカちゃん人形が、笑った。
「あああああああああ」
飛び起きた。
時計は、午前十時を指して居る。
眩暈がする。
薄暗い部屋の中、直ぐ其処に気配を感じ、胸を撫で下ろした。
黄色いドレスの金髪碧眼の少女人形が、ダーニが、其処に居る。
「なぁに? 騒々しいなぁ」
ネイサン青年が扉を開け、声を掛けて来た。
「ああ、何でも無いのです。一寸、嫌な夢を見ただけです」
人形の振りをして身動きを取らないダーニとネイサン青年を交互に眺め、肩を竦める。
「そ? 珈琲淹れたけど、君も飲む?」
興味無さそうに言うと、ネイサン青年が居間へと向かった。
ダーニを抱えるとわたくしもネイサン青年の御相伴に預かるべく後に続く。
甘く甘くミルクを多めに入れて砂糖もたっぷり入れた珈琲と呼んで良いのか解らぬ温かな其れを口にし、何やら不安や胸騒ぎと言った雑念が融けて流れて消えて行く気がした。
其れでも又消えてしまう気がして、片手でしっかりダーニの手を掴む。
其の手が握り返され、兄の様な姉の様な頼もしさに、口元が緩んだ。
「ところで、うちにそんな人形有ったっけ?」
興味無さそうに、ネイサン青年がダーニを、黄色いドレスの金髪碧眼の人形を指差す。
「もう、何を言ってるんですか、此の人形は……」
傍らに目をやれば其処には、黄色いドレスでは無くピンクのワンピースの、ダーニでは無くチカちゃん人形が、『私』の手を、しっかりと握り返して居た。
「 ど の 人 形 ? 」
ネイサン青年とチカちゃん人形が、同じ笑顔で、笑う。
「ああああああああああああああ」
自分の声で飛び起きた。
時計を見ればまた十時。
珈琲の匂いが漂って来る。
「どうしたの?」
ぎくり、と、した。
振り返りたく無かった。
振り返りたく無かったのに、何故か振り向いた。
ゆっくりと時間を掛けて振り返れば、黄色いドレスを着たチカちゃん人形が、嗤って居る。
「 ど う し た の ? 」
如何、すれば、良いと言うのか。
直ぐ様逃げ出したい衝動に駆られ乍らも、身体が思う様に動か無い。
ゆっくりと後退ると、背中が軽く何かにぶつかる。
「 ど う し た の ? 」
背後から、声が、した。
振り返りたく無かった。
振り返りたく無かったのに、何故か振り向いた。
ゆっくりと時間を掛けて振り返れば、花の着物を着たチカちゃん人形が、嗤って居る。
「 ど う し た の ? 」
右から、赤いエプロンドレスを着た三つ編みのチカちゃん人形が。
「 ど う し た の ? 」
左から、白いシャツに青い吊りズボンのチカちゃん人形が。
「 ど う し た の ? 」
斜め右後ろから。
「 ど う し た の ? 」
斜め左後ろから。
「 ど う し た の ? 」
斜め右前から。
「 ど う し た の ? 」
斜め左前から。
「 ど う し た の ? 」
「 ど う し た の ? 」
「 ど う し た の ? 」
「 ど う し た の ? 」
「 ど う し た の ? 」
「 ど う し た の ? 」
「 ど う し た の ? 」
「 ど う し た の ? 」
消えた人形達の服装で髪型で、チカちゃん人形が、嗤う。
「 い い 加 減 に お し !!」
聞き覚えの有る張りの有る声と共に、轟音を立て乍ら天井を突き破って、巨大な手が現れた。
チカちゃん人形達が怯んで見上げるその手は、真っ直ぐにわたくしに伸び、鷲掴みにする。
破れた天井の向こうに、もう一つ、天井が見えた。電灯が真っ白に眩しい。
ぐいと其の儘引っ張り上げられ、天井から取り出される。
暗い所から急に明るい場所に出されて眩しさに目が眩む。
徐々に視界が戻り、気が付けば、正面に市松が両手を握って立って居た。
「戻って来たね。もう大丈夫だ」
市松の後ろに、眼鏡ニイサンとネイサン青年と、こっそりと黄色いドレスの少女人形ダーニが佇んで居る。
其の心配そうな姿に、安堵の息を吐いた。
良かった。やはり悪い夢なのだ。
「大丈夫かい?」
市松の言葉に頷く。
「声は、出せるかい?」
勿論です、と、言おうとした。
言おうとしたが、出ない。
出なかった。
言葉が、出て来ない
如何やったら話せるのか解らない。
声の出し方が、其の方法が、全く解らない。
今迄、如何やっていた!? 如何やって声を出していた!?
「出せないか」
ぼそりと、市松が言う。
其れに、頷いた。視界が滲む。
「……声を、取られた……?」
静かな、静かな声が響いた。
不思議な響きを持って、響いた。
「……誰に……?」
眼鏡ニイサンが、表情を無くした顔で、呟いた。
ゆらり、と、眼鏡ニイサンの輪郭が二重に成った気が、した。
眩惑の所為か眩暈の所為か、眼鏡ニイサンの表情が、解らない。
「……誰なの……? メイベル、答えて。誰?」
ゆらり、と、眼鏡ニイサンの輪郭が八重になり、二十重に成り、幾重にも揺らいで行く。
水の底から太陽を見上げる様な、そんな感覚に陥る。
「……その相手は……」
不思議な響きの声で、人間では無い様な声で、静かに、言う。
「誰なの?」
「駄目ですよ」
眼鏡の狩衣の男が、ソッと背後から眼鏡ニイサンの眼鏡を押さえた。
「桔梗信玄餅さんではメイベルちゃんごと壊してしまいますよ」
「……筑紫餅さん……」
半纏から着替えた眼鏡の男がにこやかな笑顔でおちゃらける様に言った。
「うちの鍾馗様がやらかした事だから、僕が引き受けましょう。もし失敗したらお願いします」
軽く舌を出し、小首を傾げる。
「……わかりました……」
零れた水が逆再生で戻るかの様に、眼鏡ニイサンの輪郭が明瞭に成って行く。
「失敗したらなんて言っちゃ嫌ですよぉ。うちの大事な大事なメイベルを預けるんで……あああああ眼鏡に指紋付いたじゃないですかぁ! レンズ触っちゃ駄目ですよ、もぉっ!」
いつもの声でいつもの顔でそう言うと、眼鏡ニイサンは「眼鏡を洗浄機に掛けて来ますので失礼します」と自室に戻って行った。
眼鏡ニイサンが居た場所には鍾馗が髪も顔も汚れを落とされ、着物も替えられ羽根飾りも帽子も元通り以上に綺麗に成って硝子ケースに入れられて居た。
ネイサン青年が数歩下がって、遠巻きに見て居る。
「連絡を貰って鍾馗を迎えに来ただけなんだけどねぇ」
一応、着替えて来て良かったよ。と、半纏、否、神主眼鏡が頭を掻き乍ら言う。
「うちの子に悪戯したの、だぁれかなぁ?」
何時の間に用意したのか、葉の付いた木の枝を日本酒に浸した。
「掛巻も綾に畏き国造りし……」
朗々と歌う様に、否、歌い出し、酒の滴る木の枝を揮う。
辺りに酒が飛び散った。
「……失ぬる少ぬ事をら愁嘆かひ……」
再度酒に枝の葉を浸し、揮う。
「……廣き厚き恩頼を貴奉り仰奉りて……」
二度、三度、酒を撒き散らすと、深々と頭を下げた。
「……恐み恐みも白す……」
市松が、握り拳を神主に差し出す。
其の拳には、細い透明な糸が握られて居り、|鍾馗単語へと繋がって居た。
頭を上げた神主に、市松が口を開く。
「早く鍾馗をお起こしよ。何時までも寝惚けて居られちゃ此ちとら迷惑千万だよ」
「いちまは優しいねぇ」
「さっさと御しよ」
はいはい、と言い乍ら、神主が其の糸を懐から出した裁ち鋏で切った。
鍾馗への糸は溶ける氷の様に宙に掻き消える。
しかし、まだ、其の糸は市松の拳の反対側から出ていた。
つ、と神主が辿れば、『私』の喉から。其れが、糸が、出て居た。
其の糸も、神主が切る。
糸は、宙に掻き消え、そして。
「あ、逃げられちゃった」
何やら剣呑な事を、神主眼鏡が舌を出して言った。
「厄介だなぁ」
いちまに尻を折檻されて居る神主を横目に、ネイサン青年が呟く。
此方に向き直り、独り言なのか話し掛けているのか判らない様子で腕を組み、続ける。
「多分、兄さんとか紫庵さんと違うアレなんだと思うんだよね。でも、僕じゃぁ相性悪いみたいだし……」
ぶつぶつと言い乍ら此方に視線を投げ、首を傾げた。
「取り敢えず、声は出せる?」
「……あー……ええ……あー……出せますね」
あまりにも呆気なく声が出る様になると、寧ろ若しかしたら自分の気の所為だったのかも知れない気がして来る。
「そかぁ。じゃあ、相手の事、解ってる事知りたいんだけど」
ああ、其れもそうかと、ちらりと後ろと見る。
既に黄色いドレスの影は見えない。恐らく人形部屋に戻ったのだろう。
ダーニに話した事、そして、まだ話して無い迷路の様な起きても起きても夢の中だった話を、ネイサン青年に聞かせた。
何故、声を奪おうとしたのかは解らない。
何故、自分に声を掛けて来たのか解らない。
何故、否、少しだけ、解る。少しだけ。
ネイサン青年が、口を開いた。
「恐らくは、僕が鍾馗を捕獲し結界内に持ち込んだ事で、チカちゃん人形の糸を通じて結界に細い穴が開き、兄さんの結界内にチカちゃん人形の結界が出来た。ヤギリンを抑え込み自分の結界の内側に閉じ込め、其の上で、奪われた鍾馗を取り戻そうとしたのか、其れとも鍾馗の代わりにヤギリンを仲間に引きずり込もうとしたのか。其の両方か。目的は、人間を殺す事で得られる恐怖の感情か」
溜め息を一つ吐くと「そう云った輩には心当たりが有る」とネイサン青年は続けた。
「人の感情を喰らって生きる。生きる為により強い恐怖を得ようとし、最終的には殺される人間の恐怖を喰らう様に成る。其れ等を僕ら人間は一括りに、妖怪とか妖魔とか悪魔と呼ぶ」
「人は、人で無い者に名前を付けたがるんだよね。神然り、妖怪然り、悪魔然り。そうして名前を付けて理解した気に成る。人間は他者を理解した気に成って安心したい生き物なんだよ」
ネイサン青年は言う。
「お陰で、対策なんかも結構広まっていてね。相手の本質さえ解れば何とか対処出来る。最悪の事態は免れる」
「人形の妖し相手なら人形の神様だよ」
尻を摩りながら、市松の手を逃れた神主眼鏡が言った。
「神饌を毎日頂いて数百年のいちまが神気を帯びて居るのも当たり前。チカちゃん人形の歴史は百年も経って無い。と云う事は其のチカちゃん人形が産まれてからまだ数十年。いちまの敵じゃあ無いよね」
懐かしいなぁ、子供の頃親戚のお姉ちゃんが大事に持ってたチカちゃん人形……と眼鏡神主が暢気に続ける。
「紫庵さん、一応、警戒して置いた方が良いと思います。大分頭が良くて狡猾な奴みたいだし」
「何々? 何の話?」
眼鏡を拭き乍ら、眼鏡ニイサンが戻って来る。
否、眼鏡無し眼鏡ニイサンか。
「兄さんは黙ってて」
「なんだよぅ」
ネイサン青年に笑顔で相知らわれ、眼鏡ニイサンが拗ねて台所へ向かう。
「件のチカちゃん人形は、捕獲後はうちの神社でお預かりしましょうね」
神主眼鏡が微笑んで言った。必ず再度接触してくる筈だと。
「やっぱりねぇ、向こうから来て頂けるのならうちの神社で待ち構えたいのだけれども」
否、無理でしょう。電車で数時間に車で山越え谷越え其の上神域で或るが故辿り着く迄に何ヶ月掛かるか……、寧ろやる気無くして別へ向かいそうではないですか。
そんな子供っぽさ、飽きっぽさが見え隠れするでは無いですか。
「そうかなぁ? こう言った奴等は執念深い者なのかと思っていたけれど」
一時の感情に囚われて前に進め無く成り悪意や失意が渦巻くのだと、神主眼鏡が言う。
「其の人形の気持ちに興味は無いけれど、降り掛かる火の粉は積極的に火種其の物を、をも消しに行きたいよね」
ネイサン青年が爽やかに言った。
「何か物騒な話しだねぇ」
「兄さんが一番物騒なんだけどね」
「自覚が無い分厄介な御人だぁわいねぇ」
「僕は桔梗信玄餅さんのそう云う所が赴きが有って良いと思うのだけれどねぇ」
茶の用意をして現れた眼鏡ニイサンの一言に、一斉に声が上がる。
如何にも深刻に成り切れない面子に、此の意図的に作られて居る空気に、恐らくは救われて居るのだろう。自分も。
あれが、あの如何しようも無い夢で或るか如何かも解らない迷路の様なあれが、救い様が無い様にしか思え無いあれを、鍾馗も同じ事を、否、自分より延々と繰り返されたとしたら……。
人形に、自分に、鍾馗に心と云う物が存在するのなら、其れが容易く自壊して行くのは、想像に難く無かった。
再度、接触して来るだろうと予測し、待ち構え、1週間。
二日目には再度結界を強化したとか何とかネイサン青年が眼鏡ニイサンと神主眼鏡と何やら細工を施し、
三日目には神主眼鏡が市松と鍾馗を連れて帰り、
四日目にマスカットちゃんからレモンちゃんが無事に家に戻った其の後も何も異変が無いとの連絡が有り、
五日目にネイサン青年に仕事が入った為丸一日眼鏡ニイサンと留守番をし、
六日目に馴染みの和菓子屋が試作品の試食を持って立ち寄り、
七日目の朝、至極普通の朝を迎え、緊張の糸も緩んで居た。
「勝てない相手は相手にしないって事かな?」
珈琲を口に運びつつ、のんびりとネイサン青年が言う。
「何事も平和が一番だよぉ」
「兄さんの平和は、自分の身内限定だから一概に同意はしかねるけど、まぁ、平穏は良い事では有るよね」
御茶請けにと頂き物の欠餅を出し、焙じ茶の湯気を吸い込んでほうと息を吐く眼鏡ニイサンに、首を傾げつつネイサン青年が同意した。
黄色いドレスの少女人形が欠餅に手を伸ばす。
少しの違和感を感じ乍ら、その違和感の原因が解らず首を傾げた。
「ダーニ、あなた、縮みました?」
「? 何言ってるの?」
可愛らしい声でダーニが怪訝そうに言う。
眼鏡ニイサンとネイサン青年が続ける。
「ヤギリン? 何言ってるの?」
「メイベル、如何したの? ダーニは買って来た時から何一つ変わって無いじゃない」
「そうそう、あの時のヤギリンったら無かったよね!」
可笑しそうに思い出し笑いをするネイサン青年。
「玩具売り場で引っ繰り返って強請ってねぇ。わんわん泣くものだからお母さん恥ずかしかったわぁ」
眼鏡ニイサンが言う。
思い出した。
そう。
あれは4歳の誕生日でした。
『私』がお誕生日のプレゼントは自分で選びたいと我儘を言って母と兄と玩具屋へ行ったのでした。
「忘れちゃってたんでしょう、あたしと会った時のこと。ひどぉい」
頬を膨らませてダーニちゃんが拗ねる様に言う。
「えへへ、ごめんごめん。だってもう10年も前だもん。そう言う事も有るよぉ」
「もーう、許すっ」
軽く謝ると、ダーニちゃんが笑顔で言った。
そうだ、此の笑顔が可愛くて、一番安い奴じゃなくて此の子にしたんでしたっけ。
当時は随分と高かった記憶が有る。
高くて困って安いのを勧める母に泣いて喚いて抗議して床に引っ繰り返って泣き喚いたんでした。
一番安いのの十倍はした様な……。
数十分泣き喚いて引き付けを起こして、やっと、買って貰った、大事な大事なお友達。
やけに鮮明に覚えて居る事に、寧ろ忘れていた事の方が不思議な位だ。
「ずーっと一緒だからね」
ダーニちゃんが可愛らしく言う。
「……うん……ずーっと……」
十四歳の誕生日。
彼女は『私』を箱に入れて蓋をした。
「ばいばい」
そう寂しげな笑顔で言って、隙間をガムテープで止めた。
次に箱が開けられた時には、ゴミ処理場で。
燃え滾る炎の中に投げ込まれ、業火に焼かれた。
ずっと一緒だって言ったのに。
約束したのに。
何故。捨てたの?
何で「ばいばい」なの?
何で燃やすの?
何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で
何であたしなの?
何であんたじゃないの?
嘘を吐かれた。
信じてた。
幸せだった。
裏切られた。
哀しい。
哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい
だから、みんな、殺す事にしよう。
起き上がった時、『私』は廊下に居た。
居間へと向かうと、長い髪の細身の青年がソファに腰掛けて居た。
ので、首を絞めて殺した。
次に起きた時、『私』は居間に居た。
廊下に出て作業部屋に向かうと、長身の細身の眼鏡の男が居た。
ので、包丁を刺して殺した。
次の起きた時、『私』は作業部屋に居た。
玄関に向かうと、背の低い涙黒子の女性が居た。
ので、玄翁で殴って殺した。
次に起きた時、『私』は玄関に居た。
駐車場へ向かうと、少女の様な少年が居た。
ので、縊り殺した。
次に起きた時、『私』は駐車場に居た。
居間に向かうと長い髪の細身の青年がソファに腰掛けて居た。
ので、首を絞めて殺した。
次に起きた時、『私』は居間に居た。
廊下に出て作業部屋に向かうと、長身の細身の眼鏡の男が居た。
ので、包丁を刺して殺した。
次の起きた時、『私』は作業部屋に居た。
玄関に向かうと、背の低い涙黒子の女性が居た。
ので、玄翁で殴って殺した。
次に起きた時、『私』は玄関に居た。
駐車場へ向かうと、少女の様な少年が居た。
ので、縊り殺した。
次に起きた時、『私』は駐車場に居た。
居間に向かうと長い髪の細身の青年がソファに腰掛けて居た。
ので、首を絞めて殺した。
次に起きた時、『私』は居間に居た。
廊下に出て作業部屋に向かうと、長身の細身の眼鏡の男が居た。
ので、包丁を刺して殺した。
次の起きた時、『私』は作業部屋に居た。
玄関に向かうと、背の低い涙黒子の女性が居た。
ので、玄翁で殴って殺した。
次に起きた時、『私』は玄関に居た。
駐車場へ向かうと、少女の様な少年が居た。
ので、縊り殺した。
「……もう少し……」
口から言葉が零れ落ちる。
「あと少し……」
自分の声では無い様に聞こえる声。
「……のの様……」
「人間は嘘を吐く」
ニンゲンハウソヲツク。
「のの様は嘘を吐かない」
ノノサマハウソヲツカナイ。
「人間は裏切る」
ニンゲンハウラギル。
「のの様だけが救って下さる」
ノノサマダケガスクッテクダサル。
「人間はあたし達を産み出して捨てる」
ニンゲンハワタクシタチヲウミダシテステル。
「のの様は捨てられたあたし達を優しく受け入れて下さる」
ノノサマハワタクシタチヲヤサシクウケイレテクダサル。
「人間は存在してはいけない」
ニンゲンハソンザイシテハイケナイ。
「人間はのの様を苦しめる」
ニンゲンハノノサマヲクルシメル。
「人間を殺そう」
ニンゲンヲコロソウ
「殺そう」
コロソウ。
「のの様を助けよう」
ノノサマヲタスケヨウ。
「少しでも、のの様に近付く為に」
スコシデモノノサマニシカヅクタメニ。
「のの様に微笑んで頂く為に」
ノノサマニホホエンデイタダクタメニ。
「人間を駆除しなければ」
ニンゲンヲクジョシナケレバ。
「殺さなければ」
コロサナケレバ。
「人間は嘘を吐く」
ニンゲンハウソヲツク。
「のの様は嘘を吐かない」
ノノサマハウソヲツカナイ。
「人間は裏切る」
ニンゲンハウラギル。
「のの様だけが救って下さる」
ノノサマダケガスクッテクダサル。
「人間はあたし達を産み出して捨てる」
ニンゲンハワタクシタチヲウミダシテステル。
「のの様は捨てられたあたし達を優しく受け入れて下さる」
ノノサマハワタクシタチヲヤサシクウケイレテクダサル。
「人間は存在してはいけない」
ニンゲンハソンザイシテハイケナイ。
「人間はのの様を苦しめる」
ニンゲンハノノサマヲクルシメル。
「人間を殺そう」
ニンゲンヲコロソウ
「殺そう」
コロソウ。
「のの様を助けよう」
ノノサマヲタスケヨウ。
「少しでも、のの様に近付く為に」
スコシデモノノサマニシカヅクタメニ。
「のの様に微笑んで頂く為に」
ノノサマニホホエンデイタダクタメニ。
「人間を駆除しなければ」
ニンゲンヲクジョシナケレバ。
「殺さなければ」
コロサナケレバ。
『私』は、人形部屋を出て居間に向かいました。
長髪の青年が、釘バットを構えて立って居ました。
首を絞めようと飛び掛る前に、釘バットが『私』の身体を打ち飛ばしていました。
壁に身体を打ちつけ、床に滑り落ちる『私』の頭に、釘バットの先を押し付け、青年が口を開きました。
「ざまぁねぇな。おい、聞こえてるんだろう」
幸い、壊れた所は無い。この害虫を駆除せねばと思うものの身動きが取れない。
「おい、お前。此奴の中は居心地が良いか? 快適か? ああ?」
言い乍ら、釘バットの釘を一本引き抜き、『私』の髪に埋める。
「快適だろうなぁ。俺も一寸解らない位の力だもんなぁ。餌喰い放題だよなぁ」
更にもう一本、釘を髪に埋める。
「だけどさぁ」
最初に埋めた釘を『私』の髪毎引き抜き、ぶちぶちと嫌な音を立てる。
「そろそろ気付いた方が良いんじゃねぇかなぁ」
釘をぐいと曲げ、釣り針の様な形にすると、額の花の様な模様に押し付けた。
釘が抵抗無く額の中に沈んで逝く。
「相手が悪いって事にさぁ」
ずるり、と針と共に引っ張り出された異物は、其れは、ピンクのワンピースに三本の足を持った着せ替え人形。
あのチカちゃん人形だった。
気付けば、目の前でチカちゃん人形をネイサン青年が釘バットで滅多打ちにして居た。
否、此れはネイサンではない、二三青年だ。
夢から覚める様に、意識が透き通って行く。
何処から何処までが夢で何処から何処までが現実なのか解らない。
ゾッとした。
『私』はネイサン青年を殺して居ない。
しかし、眼鏡ニイサンは? マスカットちゃんは? レモンちゃんは?
『私』は、殺したのか?
四歳の誕生日に人形を泣いて強請ったのは誰だ?
十四歳の誕生日に捨てられたのは?
のの様を崇拝し敬愛していたのは?
「根性入ってるなぁ、お前」
見れば、釘刺しになりながらも抵抗をして居るチカちゃん人形が居た。
細い糸の様な物でぐるぐる巻きにされている。
「お前、助けてやったんだから感謝の言葉位言っても良いんだぜ?」
「……な……にが……感謝……人間なんかにっ」
可愛らしい声で言うチカちゃん人形を、二三青年が見下ろす。
「見無かったのか? 此奴の中に居て、見無かったのか? 其れだけ深くは潜って無かったってのか」
鼻で笑った。
「運が良かったなぁ。お前が喰われてる所だったんだぜ」
長髪の青年が釘バットを投げ捨て爽やかににっこり笑う。
「遠隔操作かと思っていたんだけどねぇ。まさか入り込んでるとかねぇ」
ああ、これはネイサン青年だ。
「君の力だけじゃ出来ない芸当だよねぇ」
身動きが取れないのだろう、チカちゃん人形は口を噤んだ。
髪の中に残った釘が気に為って触るが、如何も取れない。
て言うか、チカちゃん、足が三本! 三本有るんですが!? 有るんですが!!??
此処で其れを言って良いのかが判らずに周囲を見渡す。
確かに、確かに前回まで見た時は足は……、と気付く。
見ていなかった。
足は見ていなかった。
しかし、三本だったのなら、その異形さに気付く筈。
気付か無かった。
気付け無かった? 何故?
「兄さん」
「はぁい。取り出だしたります此方、僕の御手製ベッドルーム」
ソファの裏から唐突に手品の様に眼鏡ニイサンが現れ、木製の旅行鞄をぱかりと開ける。
中は、天蓋の付いたフリルとレースが満載の寝台に成っていた。
寝台はぽっかりと人型に凹んでおり、チカちゃん人形を埋め込む形で寝かせると、上からふわりと掛け布団を掛ける。
「おやすみ」
ぱたり、と音を立てて閉めた。
捕獲したチカちゃん人形は人形神社に納める事と成って居たので、レンタカーを借りて約束通り人形神社へ向かう事にする。
何故、ネイサン青年の車では駄目なのか聞いたが、此の車じゃ無理の一点張りで要領を得ない。
電車では結構な時間を擁した行程も、半分程の其れで辿り着く。
「いらっしゃーい」
来る事が判っていたのだろう。半纏眼鏡と市松が出迎えてくれた。
「此の中かい?」
「よく眠れるようにお姫様ベッドにしてみたんですよぉ」
「御挨拶がてら、神様に見て居て貰いましょうねぇ」
暢気な会話をし乍ら本殿へと向かう二人を眺め、いちまが『私』とネイサン青年に声を掛けた。
「疲れたろう、盆暗共は放って置いて此方でのんびりして御行き……」
言い掛けて、ぎくり、とした様に身を竦める。
不思議に思う前に
「……もうし……」
と背後から声を掛けられた。
気配なぞ何もし無かった、誰も居なかった、背後から。
何時の間にか鳥の声も風の音も川のせせらぎも、何も、聞こえない。
無音の中、
「……もうし……」
振り返れば、大きな黒い、立派な角の牛が、其処に立って居た。
「我の子が大変お世話に成って居る様で、迎えに参りました」
そう、牛が、喋った。
「……ほ……懐かしい気配だこと……」
黒牛はゆっくりと首を巡らせ、一歩足を踏み出す。
「ちょ……ま……」
咄嗟に手を伸ばそうとしたネイサン青年が、突如嘔吐した。
市松は、ガタガタと震えている。
黒牛は二歩、三歩と歩を進め、本殿へ向かおうとして、気付いた様に振り返る。
目が、合った。
「……御前……此方に来るかい……?」
そう、身動きの取れぬ『私』に向かって、呟いた。
「……わ……わたくしは……」
「下がってみんな!!」
突如、酒を浴びせられた。半纏眼鏡、否、12代目神主、沙沙貴紫庵が叫ぶと、無理矢理、黒牛と『私』達の間に割り込み、黒牛に平伏した。
「畏み畏み申し上げ奉る。嘸かし名の有る神と御見受け致しまするれば、此の度の御訪問や如何に有りましょうぞ。我が神の神域でありまする故、何卒お引き戴き……」
「我はお主に発語を許して居らぬ」
早口で捲くし立てる沙沙貴紫庵の言葉を黒牛が遮る。
『私』に「来るか」と言った、其の言葉の何百倍も冷たい声音で。
「故に、お主は口の病を患うが良い」
紫庵の唇に水泡が見る見ると膨れ上がり、破裂し、更に水泡が膨れ上がる。
血と膿が飛び散る。
黒牛が其の鼻先で放り出されて居た木製の旅行鞄に触れると、音も無く鞄が開いた。
「のの様!」
恐らく鞄が開いた時に拘束していた糸も切れたのだろう、チカちゃん人形が飛び出して来て黒牛にしがみ付いた。
「ねぇえ、随分とぉ、酷い事をぅ、するじゃないかぁ」
眼鏡ニイサンが、立ったままゆらゆらと揺れて居る。
「アレが欲しかったのかい?」
「だって、のの様のお役に立ちたかったの」
「アレは御前達にとって毒の様な物。アレが自分で此方に来る迄、気を急いたりせずに御待ち」
其れを無視する様に、黒牛がチカちゃん人形を嗜めた。
「ねええええええええええええええええ」
眼鏡ニイサンの腕の影が伸び、黒牛に掴み掛かる。
黒牛に触れた部分から、眼鏡ニイサンの腕の影が崩れた。
小さく呻き声を上げて、眼鏡ニイサンが蹲る。
影が崩れた部分の指先から腕に腐って行く。
其れを意にも介さない様子で、黒牛が此方を見た。
否、わたくしの後ろの、市松を、見た。
市松が、淡い光を放って居た。
「神下ろしか」
「……駄目でしょう、他所様のお家に入る時には丑と言えど御挨拶くらいしないとさぁ……」
声が、明らかに市松の声では無かった。
「久しいな……小さ過ぎて見えなんだ……。うちの子が世話になった様だ……」
長い睫を瞬かせ、黒牛が言う。
「其の前にうちのにチョッカイ出したからでしょう」
「言い草だな。嘆き悲しむ弱き者に手を差し伸べた事だけだと言うのに」
「そう言うの、最近の言葉で要らぬ世話って言うんだよ」
「救われぬな。……救われぬ……」
そう、言うと、黒牛は踵を返した。
「小さいの、お互い仮宿の身、再会を幸ふのは又としよう」
「そうしてくれると此方も助かる」
市松の口で、何かが返答した。
「……御前……」
黒牛が鼻面を此方に向ける。
身動きの取れぬ此方に。
「……気が向いたら、何時でも御出で……」
「あんた!」
黒牛の言葉に被せる様に、チカちゃん人形が叫んだ。
「あんたも、あいつらもコッチ側でしょう?」
人形達の蔵を指差す。
「あんたもあいつらも捨てられて塵みたいに扱われて、恨んでるんでしょう? 捨てた相手を、人間を恨んでるんでしょう? 恨まなきゃ奇異しいでしょう? あんたが居るのはそっち側じゃ無い。コッチ側よ。ねぇ。一緒に行ってあげる。捨てた相手に、其の家族に、一族郎党に、同じ目を合わせてやろうよ。ねぇ。私達はおんなじ。私達はおんなじだから理解る。解るんだよ。悔しい。寂しい。辛い。哀しい。苦しい。侘しい……」
「御辞め」
黒牛の一言に、チカちゃん人形が言葉を詰まらせた。
「無理強いをする物じゃあ無い……。御前は未だ幼い。救いを求める者には手を差し伸べよう。其の悔恨を晴らすべく手を差し伸べよう。しかし、嫌がる者に無理強いをする物じゃあ無い。救われたくない者も居るのだと、御前は知る必要が有る……」
黒牛の言葉に、チカちゃん人形が其の頭部に嘆く様に顔を伏せる。
黒牛は、ゆっくりとゆっくりと、此方に背を向け、一歩一歩ゆっくりと立ち去って逝く。
其の姿が鳥居に差し掛かると、忽然と消えた。
音が戻って来る。
風の音、川のせせらぎ、鳥の声、そして、我慢して居たのだろう眼鏡ニイサンと紫庵の呻き声。
ネイサン青年に至っては、玉砂利に転がって痙攣を繰り返し白目を剥いて居た。
パリッと静電気が走る。
「……本殿に運ばなきゃあだねぇ……」
市松がいちまの声で、声を震わせ乍ら言う。
「おメイちゃん、動けるかい? 悪いけど、蔵の市松達を使って綺麗なシーツを何枚か持って来させておくれで無いかい?」
「情けないね、腰が抜けちまった」と言ういちまに頷くと、蔵に急ぐ。
動く度にパリパリと静電気が走った。
市松達は速やかに新しいシーツ数枚を持って出て来ると、総勢で人間三人をシーツで包み上げた。
大きめの市松達に寄る『人間を抱え上げ運ぶ班』と、小さい市松達に寄る『酒と塩で境内を浄める清掃班』に分かれる。
いちまと人間達を市松達が本殿へと運び入れる。
残されたわたくしは、其の場で座り込む事も出来ず、かと言って本殿へ行っても何も出来ず、迷った挙句に、レンタカーへと、其の車内へと戻った。
レンタカーのドアに触れた時に一際大きく静電気が走るが、入ってしまえば如何と言う事は無かった。
少し、『私』も、身体と心を休めなければならない様な気がした。
けれども、『私』には此の神社の何処にも居場所など無いのだ。
座席に放置していた膝掛けに包まる。
……如何して……? 大丈夫……一緒……みんな……
儚げな声が聞こえた気がして、意識を手離した。
何度目かの朝、唐突に車のドアが開けられた。
突如現れた大入道に、開いた口が塞がらない。
「よぉ、ヤギゾウ。久し振り。ネイゾウから連絡貰ってな」
ひょういと摘み出され、顔を覗き込まれる。
レンタカーの隣に並ぶ大きな黒いオートバイの存在に、何故此の轟音に気付かなかったのかと呆れる。
所でそのネイゾウと言うのは若しやネイサン青年の事でしょうか?
「そろそろ食料が尽きるって言うのに買出しに行けないって言うんだが、此処い等一体神域で、流石に妖怪寺じゃ入れなくてなぁ。隣山に持って来てるから取りに行くぞ」
助手席に放り込まれ、運転席に桑門が乗り込んだ。
「あの……三人は無事なのでしょうか……?」
知らないと答えられても詮の無い事を呟く。
「心配すんな。医学と薬学の神様だぞ。少々何か有っても死にゃあしねぇよ」
まぁ餓死はするかもな、と妙な明るさで笑い飛ばし、エンジンを掛けた。
無人駅の裏手に、山寺は出没して居た。
野箆小坊主達がわらわらと手に荷物を持って飛び出して来る。
其の一番後ろから、一番大きな野箆小坊主が、他の小坊主達の頭をぺしぺしと叩いて落ち着かせた。
ダンボール入りのレトルト食品を山盛り積んで居る大八車を牽いて。
「お久し振りです。其の節は御迷惑をお掛けしまして」
「いえいえいえいえいえ」
タヌエモンが頭を下げるのに釣られて頭を下げた。
「神様の御気に召すか解りませんが、死の穢れよりも余程良いかと思いますので、お持ち下さい」
「僕達も行きたいんですが」
「ポンはポンだから入れないんだポン」
「ごめんなさい」
「また遊びに来てね」
「美味しいの用意して待ってるね」
「お力になれず、すみません」
次々に口を開く野箆小坊主達に、胸が締め付けられた。
「何じゃ、ヤギちゃん泣かしおって。誰に泣かされたんじゃ」
円顱方趾が何やら抱えて出て来たかと思うと、荷物を放り出して抱き付いて来る。
「あー、はいはい、セクハラセクハラ」
「なんじゃい、人聞きの悪い」
ひょいと桑門が『私』をつまみ上げ、車の助手席に放り込んだ。
「円顱方趾も一緒に来れば良いじゃないですか。人形が山程居ますよ、彼処」
「いや、後ろめたい身じゃからのぉ。御上品な場所は苦手でのぉ」
桑門の言葉に円顱方趾は「ほっほ」と笑い、又遊ぼうのぉと手を振る。
荷物の積み込みを終えると、手を振って車を出発させ、神社への道程を戻る。
果たして。
本殿から眼鏡ニイサン、ネイサン青年、そして此の神社の神主である紫庵が出て来れたのは、あれから四ヶ月も経って居た。
「ごめんねぇぇえ。待たせたよねぇえ、寂しかったよねぇえ」
そう言って抱きついて来た眼鏡ニイサンの片腕は肩から失われて居た。
「後先考えずに暴走するからこうなるんだよ。今回の事は良い勉強だったね」
だいぶん痩せ衰えた様に見えるネイサン青年が、力無く言う。
「はは、痛い目に有ったねぇ。参った参った」
紫庵が全然参って無さそうに言うが、彼もだいぶん痩せて居た。
市松が、何も変わらない様子で肩を竦める。
「二度とあんなのは御免だわいね」
あんな、何も出来ないで眺めて居るだけなのは、と続ける。
わたくしも、其れは痛感して居た。
自分の無力さを、徒に害される大切な人達を前に何も出来ない自分の愚かさを、其の脆弱さを。
四ヶ月間ずっと悔いて居た。
「そんな顔しないで。大丈夫だから」
眼鏡ニイサンが、優しく頭を撫でる。残った方の手で。
「帰ろう」
拝殿を振り返り、眼鏡ニイサンがいつもの笑顔で、頭を下げた。
「お世話になりました」
燃え上がる様な眉に目を見開いた武者人形がぼやく。
一目でそうと判別る五月人形だ。
「若が……若が儂を怖いと言って泣くんじゃ……」
言い乍ら泣いて居るのは本人……人形である。
「理解る……理解るぜ……」
ダミ声でしみじみと、淡い金髪に青い目の少女人形が頷いた。
貴様には絶対に理解らんだろうが。
「なんだいなんだい。あんな可愛い熊で疫病神が祓えるもんかい。あんたは其の怖い顔で悪い物を追っ払って若様を護るんじゃないか。不動明王様と同しじゃないかい」
着物に黒髪の少女人形が口を挟んで来た。
「いちま……、儂、若に捨てられたんじゃぞ……」
「あたしだって歳行ったからって好い人に捨てられたけれどさ。あんたの場合は嫌がられたって戻ってやんなきゃ誰が若様を護るのさ」
そりゃあ、あたしは女より綺麗だからあんたの気持ちは解らないけどさ。と続ける。
「ところで」
と、『私』は口を開いた。
「ところで何で我が家で会合されていらっしゃるのですかねぇ?」
話は、数日前に遡る。
珍しく眼鏡ニイサンが自分から出掛けると言い出したので、お供をする事に相成った。
ネイサン青年は“御仕事”らしく外出中である為、この薄ら惘然とした眼鏡一匹では心許無かろうと、『私』も同行する事にした。我乍ら良い心掛けで或る。
眼鏡ニイサンは喜び勇んで茶色と赤のチェックのドレスに共布の帽子を用意し、自らも共布の襟巻きを巻いて、外出に至った。
運転免許証の無い眼鏡ニイサンと運転免許証の無い一介の人形、初めての二人きりの御出掛け。
そう、『私』ことメイベルは七色の髪を持ち、山羊の如き金の瞳を持ち、唯一、眼鏡ニイサンに突っ込みを入れる事の出来る人形なのですとも。
「何やらメイベルも御出掛け嬉しそうで、良かったねぇ。楽しいねぇ」
細身の眼鏡としか言い様の無い凡庸とした此の男。
実は代々続く有名な霊能力組織だか闇の一族だかの御当主様らしいが、まぁ、簡単に言えば人間嫌いの引き篭もりの人形愛好者である。
其の趣味を生かして引き篭もった儘仕事が出来て御金が稼げるのだから良い御身分で御座居ますね。
うきうきと足取り軽く駅へ向かう眼鏡ニイサンに、ふと、昔の工場を思い出す。
あの、捨てられた工場のうねうねとした悪霊の成りかけ。
何処に逝ったのか不明な、あれ。
あれは、やはり『私』と同じ様に意識の産まれたあの工場の片隅の諸先輩人形達の、無念や恨みや何かだったのだろうと、今なら理解出来る。
「今日はね」
駅まで車で30分の距離を人形を抱えてスキップで3時間掛けて移動する変態は、まぁ、朝の四時なので特に見咎められる事無く、無事に駅まで辿り着けた。
到着時間が、四時である。
「今日はネット友達の人形供養の神社に行こうね」
へらりと笑顔を浮かべ、眼鏡ニイサンが一番高い切符を買った。
「楽しみだねぇ。うふふ」
と人形に声を掛ける弩変態は、電車の混み合う時間には辛うじて乗客の少ない路線に入り込んで居た。
否、若しかすると本人もこの時間ならと解って居ての早朝突破だったのかと思わない気がしないでも無い。
電車は山の中へ山の中へと入り込んで行く。
其の内、乗客は眼鏡ニイサン以外一人も居無くなり、気付けば車両も一両のみに成って居た。
周囲は山しか見えない。
正確には木々と何かの動物か鳥か虫かは見えて居る。
田舎、と言う言葉では表現出来ない、人の気配のせぬ緑深い山中。
其の丸で手入れされてい無いとしか思え無い無人駅と言うのも烏滸がましい、セメントで出来た2畳程の足場。
「終点デース」
独特の声と喋り方で、車掌が此方に来て言う。
「降りますか?」
「降ります。ありがとう」
上機嫌で眼鏡ニイサンが返す。
「次に此の駅に来るのは明日の同じ時間ですが」
「わかりました。人形神社に用が有って泊めて貰える事になっているから大丈夫ですぅ」
「でしょうね。じゃあ又明日」
車掌が頷いて此方を見る。
何だ! 何だ其の何か言いたげな視線は!!
切符を車掌に渡して電車を下り、改札も何も無い足場の端に階段を見つける。
見れば先の線路は無く、線路の先はくるりと上に丸まっていた。
階段を下り、線路を渡ると、唐突に舗装のされていない踏み固められただけの道と一台の蛍光黄色の車が現れた。
大木の陰になり今迄見え無かっただけなのだが、唐突な黄色に一寸驚く。
「御足労お掛けしてます、“桔梗信玄餅”さん」
「お世話になります、“筑紫餅”さん」
黄色の車から半纏にジーンズの眼鏡の男が降りて出向かえ、眼鏡ニイサンと挨拶を交わした。
無人駅から車で2時間。更に山奥へ山頂へと向かい、途中、如何考えても道では無い小川を車で渡り、岩を器用に登って下り、倒木を乗り越え、一言で言うと、乗り心地は最悪でした。最悪でしたとも。
眼鏡二匹は何やら会話が弾んで居りますが、そんなものに気を止めて居られない程の素敵な乗り心地でしたとも。
「いつも此方に来て頂いて居るばっかりで。今なら伺えるかと思ったんですけれども、御迷惑では無かったですかぁ?」
「否否、いつも快く迎えて頂いて居るのですから、何を迷惑とか有りましょうか。勿論喜んで迎えますよぉ」
嗚呼、眼鏡二匹の燥ぎ浮かれた声が苛付く。
舌を噛んでしまえ。
ぐったりと死んだ様に成って居る内に到着したらしい建物の前で車がやっと、やっと停止した。
後ろを見れば、立派な鳥居が幾つか並んで在るのが見え、目の前の建物は、やはり神社然とはして存在た。
だが、圧巻なのはその境内に所狭しと並べられた黒髪和服の少女人形。
「うわぁ」
眼鏡ニイサンが明らかに喜びの声を上げる。
「朝からみんなで御出迎えするべく並べたんですよぉ。大変だったけど、楽しかったなぁ」
無駄な御苦労様である。この弩変態め。
「此処に並べたのは市松だけだけど、他にも居ますからね。後でゆっくり御観覧下さいね」
きゃっきゃと眼鏡が言う言葉にきゃっきゃと応じる眼鏡。
この変態眼鏡共め。
「先ずは御挨拶して頂いてから」
手水舎へ促され、手と口を漱いでから拝殿へ向かう。
荷物と一緒に下ろされ、眼鏡が鈴を鳴らし三礼三拍手一礼し、わたくしも眼鏡二匹を真似て倣う。
再び抱えられ、社務所へ向かい乍、此処の神様は人形の神様なんだよと半纏眼鏡が言う。
ふと、じゃりじゃりと言う音に振り返ると、境内に並べられて居た筈のあの大量の人形共が御行儀良く一列に並んで蔵へと帰って行く。
……何を考えて居るのか解らない無表情な笑顔が怖い……。
て言うか、動いてます。動いていますが!?
思わず眼鏡ニイサンの腕を叩いて人形行列を指差す。
其方へ視線をやり
「うん? そうだねぇ。可愛いねぇ」
あああああ、この薄ら眼鏡!!
何事も無いかの様に社務所へ招き入れられ、居間としか言い様の無いコタツのある部屋へ通される。
其処には先客が……いそいそと半纏眼鏡が黒髪和服の少女人形の後ろに回り込み、人形の両手を持って挙げ、振る。
「うちの一番古い市松ちゃんでーっす」
瞬間、がくりと市松の頭が後ろに傾げ、ごっ……と嫌な音を立て半纏眼鏡に頭突きを噛まして居た。
「いちまって呼べって何度言ったら解るんだい。この盆暗」
はっ。と息を吐き、呆れた様に首を振る、市松人形。
鼻を押さえて居る半纏眼鏡を放置し、市松人形が此方へ向き直って畳みに手を着いた。
「御見苦しい所を御見せしんした。遠い所をようこそお出でなさんした。狭い所で御ざんすが御緩りとしておくんなまし」
市松人形は、佐野川市松と名乗った。
「名乗る程の者じゃありんせんが……」
恥ずかしそうに指先だけ見える着物の袖口で口元を隠す。
「可憐だ……可憐だねぇ……」
エエ、左様デ御座居マスネ。
眼鏡ニイサンの感嘆の声にやや気骨無く頷く。
「うちの神社の中じゃ一番の古株でね……」
ごっ。
市松の裏拳が半纏眼鏡に入った。
再び鼻を押さえて呻く半纏眼鏡。
「仲が宜しくて結構ですねぇ」
のほほんと言い放つ眼鏡ニイサン。
「此れの母親みたいなもんでありんすから……躾が行き届かず……御無礼を働いとりゃせんかと日々わっちは気が気で無ぇでござんす」
「三百歳位だけどね」
「弐百六拾四!!!」
半纏眼鏡の茶々に、市松が手元の菓子盆を投げ付けた。
ごっ。と半纏眼鏡の額に命中し、半纏眼鏡が引っ繰り返る。
立ち上がり乍、ゆっくりと振り返り、此方に背を向ける市松。
「……女に……歳の話はするなって、何度言やぁわかるんだい! 其れも御客様の前で!! 其処に直れ! 今日と言う今日は尻を猿の如くしてくれるわ!!」
「えー、いちまっちゃん、女の子じゃないじゃん」
引っ繰り返った儘、半纏眼鏡がぼやくが、こんな可憐な少女人形になんと失礼な。
「この身は男とて仮にも女形!! 唐変木の薄らトンカチのコンコンチキが!! そんなんだから嫁の来手も無いんだよ! 先代先々代果ては初代に土下座しな!」
威勢良く怒鳴り付けていらっしゃいますが。
……えー、えー……今、何か聞こえましたよ。聞こえました。うん。聞こえましたとも。
え?
「凄いねぇ、初代の頃からの付き合いなんですか?」
「あら、わっちったら御客様の前で端無い所を……。御客様なんて久し振りでありんすもんで……」
片手で半纏眼鏡を押さえ付け、本気で尻を叩こうとした所で我に返ったらしく、そそくさと其の場に座り直す。
半纏眼鏡も座り直し、改めて、と声を上げた。
「改めまして、私“筑紫餅”こと、此の神社の12代目神主を勤めさせて頂いて居ります。沙沙貴紫庵です」
「御丁寧に有難う御座居ます。“桔梗信玄餅”こと、亜爻二三です。此方はメイベルと申します」
「……メイベルです……」
眼鏡二匹が改まって挨拶をし、釣られて自分も頭を下げた。
「最初から絶対気が合うと思ったんですよねぇ」
「ああ、僕もです。此の人は大丈夫だと確信してました」
「動く市松を見ても驚かないし」
「動くメイベルを見ても平然としていらっしゃるし」
えへへと気持ち悪い笑みで何か通じ合っているらしい。
「何だかねぇ、類は友を呼ぶてな事だねぇ。おメイちゃんは何か御出来に成るのかい?」
何やら一気に言葉が崩れる市松。
「強いて言えば……何も出来ませんとも!」
「えばれるこっちゃないねぇ。まぁ良かろうよ。息子の友達が遊びに来てくだすったんだ。腕に縒りを掛けて持て成してやろうじゃないか」
昼行灯が二人になったとぼやきながらも嬉しそうに市松が割烹着を着け、奥へと向かう。
何か手伝った方が良いのだろうかと伺うも「有難うね。良い子だから遊んどいで」と連れ無い。
蔵に行こう、人形が沢山居るんだってと眼鏡ニイサンに抱え上げられた。
先程の大量の市松人形達が収まって居る蔵は果たして結構な広さが有った。
蔵と云うより屋敷では無いかと思う程度には。
先程の社務所が納屋に思える広さ。
少女人形の他に男の子の人形や鎧兜を身に着けた武者人形、雛人形、縫い包み、赤ちゃん人形、着せ替え人形、様々な人形を一つ一つ丁寧に紹介説明され、眼鏡ニイサンが一々頷き感想を言う。
何とかの一つ覚えで「可愛い」ばかりなのだが、全てのとは言わずとも、何割かの人形は紹介された時に微笑んだり首を傾げたり小さく会釈したりと好意的な反応を見せた。
中々の不思議空間である。
と、しくしくと啜り泣く声が聞こえた。
訝しがる眼鏡ニイサンに半纏眼鏡が答える。
「あー、此れね……」
聞けば、節句が終わる前に人形を怖がった子供に寄って捨てられた鍾馗様を引き取ったのだと言う。
燃え上がる様な逞しい眉は天に向かい、髭は髪と同化しており、長い髪は爆発の中心部でもあるかの様に縮れて広がっている。
顔は赤く染まり、表情は“憤怒”としか言い様が無い。
烏帽子に付けられた羽根は左右上下を指し、躍動感がある。
右手に刀、左手は五指を開いて何かを捕まえようとしているかの様。
これは確かに……。
「あー、成程ねぇ」
眼鏡ニイサンが頷く。
此れは神様と云うより赤鬼と言われた方が納得が行く。
幼い子供には恐ろしいだろう。
「貴様!! 納得をするでない! 儂とて、儂とて好きでこんな姿に成った訳では……」
うおおおお、と鍾馗様が天を仰いで啼泣した。
「彼は数日前に入ったばかりなんだけど、来た時からずーっと泣いてるんだよねぇ。他の人形達からの苦情が凄くて困ってるんだ」
半纏眼鏡が全く困って無い様子で言う。
「儂は、一生懸命頑張ったのじゃ。儂は……」
「どちらにしはったって、うちら節句人形は厄を背負わされて御焚き上げか川に流されるかでっしゃろ」
「いつまでも男らしゅうない」
「泣き人形なら其処の赤子で足りてはりますえ」
「此処に納められはって余生が出来たはるんさけ、何時までも泣いてはったらあかんえ」
「さかいに捨てられはったんやろ」
雛人形たちから一斉攻撃に、更に泣く鍾馗。
「あまり苛めないであげてよ。此れでも彼未だ六歳だから」
「誕生して六年も経てば充分でっしゃろ」
「御役目を放棄するどあほうに掛けて差し上げる言葉は持ち合わせとりゃしません」
「一生懸命やったら何ですか? 厄病神さんが去てもうてくれはるんですか?」
「何ですか? うちらが一生懸命でも無いと言わはるんですか?」
鍾馗を庇った眼鏡半纏へ攻撃が移る。
雛人形の男性陣は我関せずとばかりに無言を貫いて居る。
「こんな感じで……」
へらりと笑って此方を振り返る半纏眼鏡に、眼鏡ニイサンが心底同情した様な表情を浮かべて言った。
「良いなぁ」
……は?
「良いなぁ。うちの人形達もこんな風に話してくれたら楽しいだろうなぁ……」
えー……ええ、貴方絶対怖がって泣くでしょうよ……。いや、其れとも歓喜して毎日宴会か?
「此方は人形の神様である少彦名命様が守護されていらっしゃいますから、昔から或る程度の自由が利くらしいですよ。市松達みたいに動いたり雛人形達みたいに喋ったり」
「でも、夜中に赤ん坊の泣き声が聞こえたりしたら、ちょっと怖いですねぇ」
「あはは、そうですねぇ」
眼鏡共がにこやかに笑い合うが、何か知らんが一寸傷付きましたが?
自分でも何故か解らないがむくれて居ると、眼鏡ニイサンが覗き込んで来る。
「あれ? どうしたの、メイベル? 構ってあげなかったから拗ねちゃった?」
「其の子は桔梗……あぎょう? さん? が造ったんですか?」
「ああ、メイベルは、うちの弟が連れて来て、僕がリペアしたんですよ。……ええっと……あれ? 何でだっけ……?」
「目と髪が特徴的ですよねぇ」
「ああ、そうなんです。……其の時に……? 有り合わせで……? 否、此れが良いと思って……? あれ?」
何やら、眼鏡ニイサンが頭を捻り乍ら言葉を探す様に紡ぐが、如何やら此の薄ら惘とした眼鏡は記憶が曖昧なのだろう。
日々を惘と過ごして生きて居るからだ、全く。
謝れ。取り敢えずわたくしに謝れ。
「センスが有りますよねぇ」
「いやぁ、そんな、お褒めに預かり……えへへ」
此の空間だからなのか、眼鏡が眼鏡を褒めて眼鏡が照れる図と言うのは何だか寧ろ其方が本当に人間なのか疑いたく成って来る。
引き続き、人形を眺め人形について語り、化粧がどうの着物がどうの年代がどうの流行がどうのと、現在の流行に興味の欠片も無さそうな二人が語り盛り上がっていた。
やっぱり時代を見るなら変わり雛ですよねと、襟巻トカゲの立雛を手に半纏眼鏡が言う。
其の会話の最中も、しくしくしくしくと嘆く音が響く。鍾馗だ。
ああ、うざい。此れはうざい。雛人形達が文句を言いたくなるのも解ら無いでは無い。
しかも金髪美少女なら兎も角、赤ら顔の男性の人形だ。
苛々が段違いに跳ね上がる。
再度、彼方此方から不満の声が漏れ出す。
半纏眼鏡が困った様に頭を掻き、眼鏡ニイサンが、良い事を思い付いたとばかりに手を打った。
「君、僕の家に遊びに来ないかい? 僕の家には弟が居るんだ」
弟が居るから何なのだ、と、その弟を思い浮かべる。
そう言えば、出掛けて来ると告げていただろうか?
眼鏡ニイサンは忘れている気がしないでも無い。
「いいの? みんなの不満と苛立ちが募って居て困ってたんだ。気分転換にも成るし有り難いんだけれど」
きょとんと泣き止んだ鍾馗の代わりに、半纏眼鏡が全然困って無さそうな気の抜けた笑顔で応えた。
夕食が出来たと呼びに来る迄人形共を堪能し、語り合い、眼鏡の友情はどうやら深まった様で或るが、此方は納められる予定の人形では無く只の付き添いと判った瞬間から人形共の質問攻めに遭って居た。
出身から馴初めから何やらかにやら、答えられず解らないと返答するしかない事が粗全部では或るが。
呼ばれて戻れば、卓の上には御御馳走が並んでいた。
採れたての山菜の天麩羅。豆腐と厚揚げの味噌汁。焼魚は岩魚。山の湧き水をたっぷり吸って炊き上がった白米。爽やかな香りの緑茶。程好く漬かった漬物。
手を合わせ、頂きますと言う眼鏡共に市松が召し上がれと応じる。
何故かわたくしの分は用意されて居ない事に少し衝撃を受けたが、其れもそうだ、人形に食事を振舞う理由も無いなと、思い直す。
今迄、眼鏡ニイサンやネイサン青年が当たり前に用意して居たので、どうも其れに馴れすぎて居た様だ。
「おメイちゃん、あたしらはコッチ」
市松に誘われ、部屋を出て廊下を進み、小さな木戸を潜ると、一層澄んだ空気が流れ込んで来た。
一畳程の小さな空間が其処に有った。
「此処は御神座の裏側」
月明かりのみを頼りに、他に光源など無いと言うのに仄かに建物内全体が明るい。
足付きの膳を二つ出し、双方に白い小皿に盛られた塩と酒と米を其処に並べる。
「うちの神さんのお下がりです。どうぞ」
此れは……此の対応は、正直、予想外だった。
本気かと市松の顔を見返せば、小首を傾げ、ああと頷く。
「人の真似事をしなくても大丈夫。あたしらは、こうやって神さんの御神気を頂くのさ」
そう言って、市松は自分の膳の前で大きく深呼吸を、した。
米と酒と塩、其々から淡い光が立ち上がる。
建物内を淡く照らす其の色と同じ色の光。
其れが大きく深呼吸をした市松の体内に吸い込まれて行った。
ふう、と息を吐き、市松が無言で同じ様にする様に促して来る。
やや、躊躇しつつも、市松を真似て大きく息を吸って見た。
ぽ、と淡い光が米と酒と塩から立ち上がり、空気と共に浸入して来る。
澄んだ空気が喉から一斉に身体中を駆け巡る。
髪の先、手足の指の先迄、冷たく清い水を満たされたかの様な。
全ての柵から解き放たれたかの様な、爽快感。
あまりの衝撃に市松を見ると、口元に指を立てて、静かに、と手振りして居た。
市松と二人、深呼吸を繰り返す都度、全ての身体の部位が洗われ新しくされる様な爽快感を得る。
其の何度目かの深呼吸、唐突に爽快感が感じられ無く成った。
「御馳走様でした」
手を合わせ、市松が言う。
「御馳走様でした」
其れに倣った。
「さて、あたしは片付けしてから戻るから、先に戻って御出で」
市松の言葉に頷き、立ち上がろうとした時、外からエンジン音が聞こえて来た。
来客だろうか? こんな時間に?
訝しがる市松と二人、社務所へ戻ると、食事を終えて片付けようとして停止して居る半纏眼鏡と、同じく皿を持って中腰の儘停止して居る眼鏡ニイサンと、腰に手を当て不敵な笑みを浮かべるネイサン青年が、居た。
「兄さん、出掛ける時は家の人に言って何時に帰るか約束してから出掛けるものですよ?」
ネイサン青年は今迄常に笑顔で居たが、笑顔を貫き通して居たが、こんな全開の笑顔を見た事は今迄一度も無い。
此れは怒っている。怒っていらっしゃる。
「何だい、おメイちゃんの身内かい?」
市松に聞かれて頷く。
「嗚呼、ヤギリン、そんなとこに居たんだぁ」
「な、何か御免なさい」
「えー? 何がぁ?」
眼鏡ニイサンが思わずだろう口走った謝罪に、更に笑顔を深めるネイサン青年。
「黙って遊びに出た事? 黙って外泊するつもりだった事? 徹夜で仕事を終わらせて帰った僕に心配掛けた事? 徹夜で仕事して帰った後、蛻の殻の家の中から此処に居る事を突き止める為にヒント探して家中引っ繰り返して見つけるのに数時間掛かった事? 徹夜の後にレンタカー借りて此処迄来るのに一睡も出来なかった事? 全部? 其れとも何? 生きてて御免なさいとかそう言う事?」
嗚呼、此れはかなり、怒ってらっしゃる。
「お騒がせしました。ほら、帰るよ、兄さん」
半纏眼鏡に深々と頭を下げ、ネイサン青年が眼鏡ニイサンの襟首を掴んで引き摺って帰ろうとした瞬間、其の場に崩れ落ちた。
「へ? ちょっっ……」
「なっ……」
駆け寄って見れば……寝て居る。
「あー、ホッとして気が抜けたんだろうねぇ。いちま、片付けをお願いできるかい? 僕は彼を寝かせて来るよ」
「そうしておやり。兄を心配してすっ飛んで来るなんざ、良い子じゃあないか」
半纏眼鏡がひょいとネイサン青年を抱き上げ、眼鏡ニイサンが慌てて自分がと名乗り出、じゃあ一緒にと何やら二人掛かりでネイサン青年を運ぶ。
「おメイちゃんも付いて行っておくれでないか? あの盆暗二人じゃ襖を開けられるかだって怪しいよ」
市松に言われ、慌てて二人を追い掛ける。
客間だろう部屋に、案内され、一旦ネイサン青年を下ろすと布団を二人掛かりで敷き出す。
眼鏡二人が鏡の様に同じ動きをして居るのが効率的なのかも知れないが気持ち悪い。
ネイサン青年を寝かせ、もう二組布団を敷く。
一組は子供用だろう小さな布団。
「今日は此の儘、御二人も此方で休んでくださいね」
半纏眼鏡がにっこりと笑った。
「お風呂は沸いたら後でまた呼びますね」
朝、目が覚めたのだろう、珍しくネイサン青年が布団から半身を起こし、放心状態で此方を見ていた。
「……お、はようございます……?」
「……嗚呼、ヤギリンだ……」
……見えて無かったのか……。
「此処、何?」
「僕のSNS友達の家の人形神社だよ」
自分の布団を畳んでお茶を飲んで居た眼鏡ニイサンが答える。
「朝食だって」
用意された大根の味噌汁。山の湧き水をたっぷり吸った雑穀米ご飯。焼き海苔。漬物。生卵。丁寧に焙じられた焙じ茶。
昨夜の勢いが嘘の様に半纏眼鏡と市松に爽やかに挨拶をし、朝食に甚く感激をし、感謝を述べるネイサン青年。
食事を済ませ、「お世話になりました」と兄弟二人して半纏眼鏡と市松に頭を下げ、車に乗り込みエンジンを掛ける。
「また来て下さい。僕も遊びに行かせて下さいね」
「おメイちゃん、またお出で」
「お世話になりました。またSNSで」
「突然に押し掛けて御迷惑をお掛けしまして……。有難う御座いました」
「いちま、さん。何か、あの。有難う御座いました」
「では、達者でな」
?
車内の声が一人多い?
振り返れば、何時の間にか鍾馗が手を振って居た。
「ん?」
首を傾げて此方を見返す鍾馗。の、頭が鷲掴みにされた。
伸びた腕を辿れば開けた窓の向こうにいちまの顔が迫って居た。
「何を、やって、居るんだい!?」
斯くして。
我が家での会合と相成ったので御座居ます。
「儂かて、外国の熊の縫い包みの侍人形みたいに成りたいわい」
燃え上がる様な眉に|見開いた目。鍾馗が嘆く。
「若がなぁ、熊人形が欲しいと写真を儂のケースに貼って中の儂が見えない様にして居ってなぁ」
「あんな可愛い熊で疫病神が祓えるもんかい」
写真を見たのか本物を見たのか、いちまが知った風な事を言う。
「理解る……理解るぜ……。……其の辛さ……」
黄色いドレスの淡い金髪に青い目の少女人形がダミ声で呟く。先日、海外から引き取って来た人形で或る。もっと言えば、此の人形を造った本人の霊魂が中に入って存在して居る。何故、貴様は……此処に居るのかと。天国から追い返された、忘れていたけど色々犯罪を犯していたと頭を掻きながら言うコイツを今直ぐ飛行機に乗せて返品したい。
あたしは女より綺麗だからあんたの気持ちは解らないけどさ。といちまが言う。
「あんたは其の怖い顔で悪い物を追っ払って若様を護るんじゃないか。不動明王様と同しじゃないかい。嫌がられたって戻ってやんなきゃ誰が若様護るのさ」
「……でもなぁ……」
時刻は午前三時。
人形が会合をするにもメソメソ泣く節句人形を慰めるのにも丁度良い時間……かも知れませんがね。
翌日、いちまは迎えに来た半纏眼鏡の車で帰り、鍾馗は気が済むまで我が家に滞在する事と成った。
そもそも、塵集積所に若様直々に捨てられ、しくしく嘆く人形が気持ち悪い。良識の有る人が神社に持って行ったものの御焚き上げで燃えずに残り、盥回しにされた挙句、あの神社へ辿り着いたのだと言うから、余程わたくしなんぞよりも呪いの悪霊人形の様では無いか。
市松を見送り、家に入ろうとすると、鍾馗が居ない。
暢気に家に戻ろうとして居る眼鏡ニイサンの腕を叩く。
「鍾馗は!?」
「あれ? 何処に行ったのかねぇ? 一緒に帰ったっけ?」
そんな訳が有るまい。今、たった今、帰るのを拒否して残ると言ったのだから。
「先に家に入ったのかなぁ?」
それも考え難い。が、若しかしたらも無きにしも非ず。
だが。果たして、鍾馗は家中何処を探しても出ては来なかった。
「困ったなぁ。預かり物なのに……」
全く困っていない様子で、眼鏡ニイサンが言った。
一日経ち、二日経ち、三日経ち……一週間経っても、鍾馗の足取りは掴めなかった。
「気が済んだら出て来るよ~」
暢気に眼鏡ニイサンが言い、興味無さそうにネイサン青年が今日の茶菓子なんぞに頭を悩ませて居た。
時刻は三時。
眼鏡ニイサンが、お茶の支度をし、ネイサン青年が茶菓子を買いに走る。
何時もの光景。
だが、そのネイサン青年は、玄関から出なかった。
正確には、出る必要が無くなった。
「お久し振りです。増田です」
そう、玄関の前に立っていたマスカットちゃんは頭を下げた。
涙黒子が印象的な小柄な女性らしい姿。
手には近所の和菓子屋のカスドースの包みを下げて居る。
「実は、御相談が……」
マスカットちゃんの背後には、もっと小柄な姿の長めの髪の子供が立って居た。
年齢は就学前くらいか。
天然だろう淡い茶色の柔らかそうな髪、子供特有の肌、くりっとした瞳。
女の子に間違えそうな可愛らしい顔の造作をしている。
服装も中性的で、名前も……。
「私の甥っ子で、礼紋と言います」
「へぇ、レモンちゃん?」
「増田礼紋です」
もじもじと顔を赤らめ、恥ずかしそうにマスカットちゃんの影に隠れる。
「甥っ子の事で相談が有って……」
深刻そうに言うマスカットちゃんの言葉に、レモンちゃんがべそを掻き始めた。
実は、とマスカットちゃんが話し始める。
眼鏡ニイサンが珈琲を淹れ、レモンちゃんには本人の希望で紅茶を淹れた。
実は先日から甥っ子に変な電話が掛かって来るのだと、マスカットちゃんは話した。
頂いたばかりのカスドースをお茶請けに出す。
話はこうだ。
レモンちゃんの子供用携帯に、数日前から毎日、何者かから電話が掛かって来る。
出ると相手は一言だけ言って切れる。
着信履歴には残っていない。
最初は「変な電話が掛かって来る」と聞いたレモンちゃんの両親も、登録して有る番号以外拒否設定して有る上に着信履歴が残っていないので、レモンちゃんの自演か精神的な物か病気による幻聴を疑ったが、其の内、両親の前で子供用携帯が鳴った。相手の番号は表示されない。
恐る恐る父親が出てみると、ぼそり、と男の声で地名だけ言って切れた。
着信履歴を見ても、たった今通話した筈の履歴が残っていない。
母親は半狂乱になって叫び、父親は子供用携帯を叩き付けて壊した。
しかし、子供に携帯を持たせて置かない方が恐ろしい。
直ぐに携帯の機種変更と番号変更を行い、再度、登録番号以外拒否設定にした。
セキュリティもしっかりと強に設定した。
其れでも、翌日、また、電話は掛かって来た。
「……」
それは、三つ隣の駅名だった。
マスカットちゃんの兄は、取り敢えず逃がさねばと、飛行機の距離のマスカットちゃんに連絡を取り、レモンちゃんを預けたのだと言う。
それで収まれば引越しを考えよう。
収まらなかったら、どうしよう、如何したら良いのかと。
「其れで、昨日、また、掛かって来たんです」
番号の表示されない、着信履歴の残らない電話が……と。
「あのね、最初は、何処かも知らない場所だったの」
レモンちゃんが言う。
「何度目かの電話で、隣の隣の県だったの」
「その後又何度目かが隣の県だったの」
「其の次が、ボクの居る県の駅の名前だったの」
「うちの近くの駅から、何個目かの駅だったの」
「毎日、駅を一個ずつ言うの」
「ボクの家の近くの駅まで、一個ずつ」
「一個ずつ一個ずつ近付いて来て、お父さんが、逃げろって」
「だから、トオゴちゃんのとこに今居るんだけど」
「トオゴちゃんの家でも何回か電話が鳴ってて、でもボク怖くて出なくて」
「昨日、トオゴちゃんが出たら……」
一気に其処まで言った後、黙ってしまったレモンちゃんの言葉を、マスカットちゃんが引き継ぐ。
「昨日、私が電話に出たら、兄の家から此方方面に数駅分、移動していたんです」
「此の儘だと追い付かれちゃう!」
レモンちゃんの目に見る見る涙が溢れた。
「声に聞き覚えとか……?」
「いえ、無いです」
ネイサン青年の質問に、レモンちゃんが首を振り、マスカットちゃんが答える。
「男の声、だっけ?」
「はい」
「……どんな感じ?」
「其れは……ボソッと一言呟くだけなので、何とも……」
「電話の向こうで別の音は聞こえる?」
マスカットちゃんが首を傾げレモンちゃんを見るが、再度レモンちゃんが首を横に振る。
「何も?」
「なんにも聞こえない。凄く静か」
そうなんだ? と首を傾げながらネイサン青年が考え事をする様に唸った。
「電話来る時間決まってるの?」
「何時も十五時二十五分です」
「そうかぁ」
ネイサン青年が時計を見せる。
「暫く、家に居て見る?」
時計は十五時三十分を指していた。
ゲストルームでごゆっくりどうぞとネイサン青年が案内するが、待て、そんな物が此の家に在ったとは『私』、初耳ですが……。
「ゲストルーム? 有るよ? 偶に使うからいつも綺麗にしてあるしねぇ」
眼鏡ニイサンが言う。
……知らなかった……。そう言えば、此の家の間取りも良く解って居ない気がしないでも無い。
「うんとねぇ、此処が玄関でしょう? 此処が駐車場でしょう?」
何かのチラシの裏にボールペンで大きく四角を書き、四角の中に簡単な間取りを書き始める。
「駐車場の隣が洗い場兼納戸で、トイレがこっちで、此処にお風呂に此処にキッチン」
……既に四角の中が埋まって居るのですが?
「此処に廊下が有るでしょう、此処からこう伸びて此処にリビング」
がっつり駐車場に被る形で四角を描き込む。
「こっち側に僕らの私室が在って、此処に人形部屋と作業部屋」
トイレやキッチンや風呂に被る形でガリガリと上から書き込んで行く。
「此の手前に、此方側に行く廊下が有るでしょう。此処にゲストルーム」
紙面が四角を沢山ぐちゃぐちゃに描かれただけの何か。
其れを手にほらねと笑う眼鏡に、説明を期待した自分の馬鹿さ加減に少し反省をする。
「今日は僕らが御持て成しする側だねぇ」
夕飯は何にしようかなぁと、眼鏡ニイサンはうきうきと台所に消えて行った。
客を迎え、男四人で賑やかに夕食を取って居る間、やはりと言うか何と言うか、遠慮して人形部屋に篭る。
飾られた多数の人形を眺め、寧ろ何故此方の諸先輩方は自分の様に動かないのだろう? と何度目かの疑問を抱く。
封じられたと言うのなら、何故自分は動けているのだろうかと。
「なんだよ、浮かない顔だな」
金髪美少女の人形が声を掛けて来る。
此方、此の家で私以外で唯一喋って動ける人形なのであるが、人目の無い所限定なのは、当初のわたくしと一緒の御様子。
「ダーニ……、其の濁声を如何にかしろとは申しませんから、せめてもう一寸外見に似合った話し方をされてみては?」
「あらん、あたくしそんなお下品な言葉遣いだったかしらん?」
「……ああ、すみません……わたくしが間違っておりました……」
「だろ? 俺も自分で気持ち悪い」
「所で、ダーニ。貴方、如何思います? 其のレモンちゃんの電話」
「アレだなぁ。彼奴じゃねぇのか?」
「そう、ですよね。其れしか考えられないですよね」
時期的に、合い過ぎる。
恐らくレモンちゃんが、鍾馗を捨て熊の縫い包みを欲しがった男児。
そう考えると、鍾馗は人形神社へ戻ればあそこから出られない。
恐らく、我が家に気分転換と称して移動し、慰めの言葉である市松の言葉を真に受けて帰ろうとしたのだろう。
恐らく。
其れで、喜んで迎えて貰えるとでも思ったのか、現在地を知らせて来て居るのだろう。
己の若様に会いたい一心で。
翌日、試しにと、レモンちゃんの子供携帯を持ってネイサン青年が家から出た。
結局、昨日は掛かって来なかった。
翌々日、レモンちゃんとマスカットちゃんと一緒に、ネイサン青年が出掛けて行った。
十六時過ぎ、戻って来たネイサン青年が顔色の悪い二人をゲストルームへ促し、眼鏡ニイサンに茶と土産のケーキを茶請けに出す様に頼む。
其の足で廊下から覗き見ていた『私』を捕まえ、人形部屋へと押し込んだ。
「ヤギリン。電話の声、アイツだった。あの毛もじゃの武者人形」
メソメソ泣いてたアイツ、と続ける。
鍾馗で間違い無かった。
「アイツ、今、飛行場に居る。多分、飛行機に乗って来たっぽい」
如何しよっかー、と続ける。
「預かり物だから手荒な真似は出来ないし、困ったからって人形神社に熨し付けて返すのはコッチの名折れになるし、兄さんに綺麗にさせる訳にもいかないしなぁ」
基本徒歩移動みたいだから、時間稼ぎのつもりも有ったんだけど、兄さんの結界内に入ってるから、居場所が判ら無くなって焦ったのかなぁ? と呟く。
毎日一駅ずつ近付いて来る様子に、徒歩と中りをつけたらしい。
「でもアレだねぇ。現在地を電話で知らせて来るなんて、律儀だねぇ」
そう言う問題では無いと思う。
取り敢えず迎えに行こうか。とネイサン青年が言う。
今迄の電話から、恐らく電車の駅沿いを徒歩移動なのは間違い無い。
飛行機に如何やって乗ったのか疑問は残るが、此の相手が鍾馗なら話が通じない相手では無いだろうし、レモンちゃんに危害を加える事も無いだろう。
無駄に逃げ回っても毎日の電話が無くなる訳では無いし、一生何処かの結界の中で過ごす訳にも行かない。
レモンちゃん自身が色々な意味で強くなれば良いのだろうが、其れも現実的とは言え無い。
ただ、此の提案にレモンちゃんとマスカットちゃんの二人が同意するか如何かと言う問題がある。
今迄の様子から、説得には時間が掛かりそうだ。
「少し、礼紋と相談して良いですか?」
案の定、ネイサン青年が話を持ち掛けると、マスカットちゃんがそう応じた。
アッサムティーを濃い目に淹れたミルクティーとアップルパイを前に、レモンちゃんは凄い勢いで首を横に振って居る。アップルパイを一口、口に含んでいるので喋れないのもあるだろう。
しかし、此処から一生出ない訳にも行かないのだ。
「大丈夫、二人は兄さんと一緒に車の中に居て待ってて貰うだけだから」
要するに餌である。
「少し、明日の朝まで時間を下さい」
レモンちゃんの様子を見て、マスカットちゃんが言った。
翌朝、レモンちゃんとマスカットちゃんが決死の表情で、お願いしますと頭を下げ、ネイサン青年が大丈夫と手を振る。
ネイサン青年は昨日の電話から場所を予測し、朝食を終えると眼鏡ニイサンを準備もそこそこに車に放り込んだ。
流石に霊柩車ではないが黒のワゴン車の三列シートの一番後ろに眼鏡ニイサンと付録のわたくし。
真ん中にレモンちゃんとマスカットちゃん。
運転席にネイサン青年。助手席に何やら金属音を立てる謎の物の入った大きなバッグ。
窓には目隠しの様に黒いカーテンが付いている。よく見れば金の模様が真っ黒なカーテンの端に刺繍されて居た。
前日の電話で告げられた場所に先ずは向かう。空港に。
空港まで約一時間。電話が来るのが十五時二十五分。
空港で昼食をとり、土産物屋を巡る。レモンちゃんが林檎が丸ごと入ったアップルパイを両親へのお土産に欲しがり購入する。余程、昨日のお茶請けに出したのが気に入ったと見える。他に色取り取りの熊の小さな縫い包みや何やら気が付けば両手に持てない位の量のお土産をマスカットちゃんが買い与えていた。
大きな両手で抱えるサイズの熊の縫い包みを持たせ、他の物は宅配でレモンちゃん両親に発送する事にする。
熊の縫い包みは、偶然にもわたくしの髪とよく似た様な白地に虹色の毛並みをして居た。
大きな目玉は金色で、目玉が大きすぎて違和感が拭えないが、レモンちゃんが喜んでいるのだから良いのだろう。
十五時になり、空港から我が家の方面へ向けて出発する。
今迄の電話の内容から、恐らくは駅名を読んでいるのだろうと推測し、路線沿いに車を走らせる。
今迄の内容から、一日一駅。
車なら十五分も掛からないが、細い道に入り込んで居たら見つけるのは困難なので、其の場合は電話を待つ。
熊の縫い包みを抱き締め、恐らくはその大きさと毛並みの温かさと柔らかさに恐怖を和らげる効果が有るのだろう、レモンちゃんが顔を埋めている。
グルグルと車を巡回させ、人通りの少ない道を捜索し、十五時二十五分、駅前の駐車場に駐車した瞬間、子供携帯が鳴った。
びくんと飛び跳ねたレモンちゃんの代わりに、マスカットちゃんがスピーカーにして、通話釦を押した。
『……』
電話の声は確かに、確かに鍾馗の声で、駐車場の名前を読み上げた。
今、車を停めた、その駐車場の名前を。
「二人と兄さんは中で待ってて。兄さんと一緒なら絶対に大丈夫だから」
熊の縫い包みを抱き締めて顔を埋めるレモンちゃんに声を掛け、マスカットちゃんと目を合わせて頷いて子供携帯を預かり、車から降りるネイサン青年。
眼鏡ニイサンが、窓を開ける。
「メイベル。一緒に行ってお出で」
ぽいっと窓から放り出された。
慌てて着地……に失敗し、顔面から落ちる。
身体が反転し、顔面ブリッジから上半身を起こし、起き上がる。
顔面を撫で乍ら振り返れば、既に窓は閉まっていて黒いカーテンに閉ざされ、中の様子は伺えない。
……後でじっくりと話し合いが必要な様ですね……。
「持ってて」
ネイサン青年が子供携帯を投げて来たのを慌てて掴む。
目の前には鍾馗が、最後に見た時よりも大分と襤褸襤褸に成った鍾馗が、立って居た。
絹の着物は黒く汚れて所々破れ、髪と髭と眉は荒れてより一層滅茶苦茶に広がり、羽根飾りは取れて無くなり、顔は真っ黒に汚れて瞳だけがギラギラと嫌な光を放って居り、地面からわずかに浮いて、居た。
何かが、違った。
あの、『私』が知っている泣き虫の鍾馗と、何かが、決定的に、違った。
「やぁ、何日ぶりかな? 久し振りって言うべきなんだろうけど……」
ネイサン青年が鍾馗へ声を掛ける。
「……じゃない……」
鍾馗の口から、声がもれた。
「……若じゃない……」
鍾馗の身体がブルリと震える。
「若じゃない……若じゃない……若じゃない、若じゃない、若じゃない! 若じゃない!!」
徐々に声を荒げ激昂していって居るのか、ゆっくりと身体を起こす様に地面から上昇する。
「若じゃない!!!」
鍾馗の叫びと共に、一陣の風が刃と成ってネイサン青年に襲い掛かった。
金属音と共に、咄嗟に構えたバール状の物が、切断されて先が飛んで行く。
ネイサン青年の髪が数本、一緒に切れて飛んだ。
「うわ、こっわー。凄い切れ味」
のんびりとネイサン青年が言い乍ら真っ二つになったバール状の物を放り、新しい物を取り出す。
「……若は……何処だ……」
眼鏡ニイサンの結界で車の中に居るのがわからないのだろう、鍾馗が声を絞り出す様に呻いた。
「君、先ずは落ち着いたら?」
「若は何処だ!!」
再度、風刃がネイサン青年のバールを真っ二つにした。
「怖い怖い。君、怖いよ。こんなんじゃ怯えちゃうでしょ。君の若様」
ぎくり、と鍾馗が大きく一つ震えた。
「君、若様を追い掛けて会って何をしたいの?」
「……儂は……」
きょろきょろと周囲を見渡し、何かを探す様な仕草を見せた。
「……儂は……儂は……儂は……」
地面を見つめ、自分の手を見つめる。
「……儂は……守護人形……。若様を守護し、成長を見守るが役目……」
手を握り締め、ミシリ、と嫌な音が響く。
「……儂は……儂が……守護してやろうと言って居るのに……此の儂が……護ってやろうとして居るのに、何故に若は……儂を棄てる……儂から逃げる……儂を置いて行く……儂は……儂は……」
風が不自然に鍾馗の周囲を巻き上げ、吹き荒れる。
「……儂は……若を呪い、殺し、守護としよう!」
どう、と音を立てて風が吹き荒れた。
場内の車が風に煽られて揺れる。
「若が儂を要らぬと棄てた。守護など要らぬと言い捨てた。為らば守護の要さぬ身にして差し上げよう、生きていくなら守護の無き身はいっそ死んだ方が救われるだろう。……儂は……若を呪い殺し、若を一生守護する事としたのだ。儂の使命は若を呪い殺す事なのだ!」
風の刃がネイサン青年をじわりと甚振る。
腕や足や顔に、小さな切り傷が一つまた一つ増えて行く。
「君ねぇ!!」
声が風に掻き消される。
「ちょ……駄目だ此れ。穏便に話し付けようと思ったのに」
ねー、とネイサン青年が此方に向かって首を傾げる。
「邪魔立てする者は全て敵! 若の怨敵!! 儂が若に憑いて居る限り、若に仇なす者は許す訳には行かぬ!!」
壊したら怒られるかなぁ? 預かり物だしなぁ。とネイサン青年が呟き、振り被る。
「若には死こそが救いなのだ!!」
ごっ。と音を立てて、先程斬られたバールの先が鍾馗の額に突き刺さった。
其の儘、勢いをつけて後方へと吹き飛んで行く。
旋風が収まった。
「お、効いた?」
投球姿勢の儘、ネイサン青年が笑う。
ネイサン青年が吹っ飛んだ鍾馗を回収し……恐らく目を回して居るのだろう……バールやら釘バットやら入った鞄に詰め込む。
……あ、何か既視感……。
周囲を見渡し、誰にも見られていない事を確認してから、車へ戻った。
鞄とわたくしを助手席に放り込む。
「……あの……何が……?」
運転席に乗り込んだネイサン青年にマスカットちゃんが声を掛けた。
レモンちゃんは相変わらず熊の縫い包みを抱き締めて顔を埋めて居る。
「あー、大丈夫大丈夫。もう此れで大丈夫に成ったと思うよ」
にっこりと笑ってみせ、ネイサン青年は車を出した。
我が家迄の道中静まり返った車内、わたくしが盛り上げる訳にも行かずジッと耐え、1時間後マスカットちゃんのマンションへ送り届けるまで車の中も鞄の中も静まり返って居た。
レモンちゃんへ子供携帯を返し、まだ訝しがり乍らも御礼を言うマスカットちゃんとレモンちゃんを見送り、我が家への道を辿る。
駐車場へ車を入れ、ネイサン青年が鞄を開けて鍾馗を取り出す。
家の結界か、眼鏡ニイサンの結界か、ただの襤褸人形に見えた。
其れを兄に投げて渡す。
「ソイツ、ちょっと綺麗にしてやってよ」
「あーあ、こんなに成っちゃって……。筑紫餅さん、怒るかなぁ?」
のんびりと兄弟の会話を交わす二人に次いで居間へと戻ると、何やら、ほうと気が抜ける。
何をした訳でも無いのに無駄に緊張していたのか、疲れたのか。
「メイベル、疲れたの? 眠いの?」
眼鏡ニイサンの心配そうな声が、聞こえた。
「……ねぇ……」
声が聞こえる。
「ねぇ」
顔を上げれば、少女を模した人形が目の前で佇んで居る。
二十糎程の身長に古い少女漫画の様な顔、カールした茶髪、ピンクのワンピース。
「ねぇ」
人形が微笑む。
「あたし、チカちゃん」
首を傾げ、微笑み掛けて来る。
「あなたのお友達よ。一緒に遊びましょう」
真っ白な空間の中、少女の姿をした人形が微笑み掛けて来る。
其の姿は、一世を風靡したあの人形で。
其の姿は、少女達の憧れの姿で。
「ねぇ」
微笑み掛けて来る。
「あなた、可哀想。酷いわよね。あたし、知ってるの」
顔を覆って嘆くかの様な素振りを見せる。
「ずっとずっと工場の端で、塵みたいに放って置かれて」
顔を覆った儘、嫌々と首を振る。
「やっと助けが来たと思ったら、塵みたいに袋に入れられて」
顔を覆った儘、泣き崩れる。
「塵みたいに焼却炉で燃やされて」
あああああ、と泣き声を上げる。
「可哀想に」
搾り出す様に呻く。
「可哀想に可哀想に可哀想に可哀想に可哀想に」
あああああああああ、と慟哭の声が徐々に大きくなって行く。
「可哀想。あなた可哀想。あたしが」
顔を上げる。
人形である其の顔には涙一粒流れては居ない。
「あたしが居るから大丈夫。あたしが、あたしだけが味方だから」
少女の人形が微笑む。
「一緒に、人間を、殺しましょう」
「メイベル、疲れたの? 眠いの?」
眼鏡ニイサンの心配そうな声に、ぎくり、とした。
周囲を見渡せば、先程と何も変わり無い、室内。
帰宅したばかりの其れ。
此の結界内に何かが、そう、悪い物が侵入出来る筈は無いのだ。
あれは、悪い奴だ。
直感で或る。だが確信だ。
あれの話は聞いてはいけない。
なのに、声が、聞こえた。姿が、見えた。
悪寒が走る。
ざわりと胸騒ぎがする。
眼鏡ニイサンに、ネイサン青年に話すべきか如何か迷う。
今の一瞬の白昼夢を。
此の不安感を。
「いえ、あの……」
「今日は疲れたろう。早くお休み」
抱き上げられ、人形部屋へと戻される。
寝巻きへ着替えさせられ、ベッドへ寝かし付けられる。
「今日はもう、お休み。僕は鍾馗様の手入れをするよ」
パタリと閉じられた扉に、一人にされるのが怖いとは、言え無かった。
「なんだ? 珍しく殊勝な顔をして」
黄色いドレスの人形、ダーニが声を掛けて来た。
彼女は、否、彼は、其の金髪に青い目の少女人形を造った人形師であり、天国にも拒まれ逝き先も無く此処にこうして留まって居る。
そうだ、ダーニは人形では無い。中身は元は人間だ。
ならば、と思う。
ならば、あの悪魔の様な囁きになぞ耳を貸さないだろう。
人間に危害を加えようなどと考えないだろう。
そして、今、あの白昼夢の話を聞いてくれそうな唯一の相手でもあった。
「おまえさぁ……」
鍾馗の話から一通り話し終え、ダーニが苦笑してその天使の様な姿で肩を竦める。
「おまえ、人間に夢を見過ぎだよ。俺が天国に行け無かったのは、人間に害を為したからだぜ?」
まぁ、結果、此の姿に成れたのだから寧ろ天国に行けなくて良かったけれどと頬を掻く。
「優しく話し掛けて来て、人殺しを進めるのか。丸で悪魔だな」
ダーニの言葉に、鳥肌が立った。
悪魔、そうだ、此の不安の原因は其の悪魔の囁きに負の感情を呼び起こされそうな此の自分自身なのでは無いだろうか。
「でも、そいつは、人形を惑わすんだろう? 俺は人形だけれど人形では無いからな。なるべく一緒に居て、おまえが奇異しくなったら殴って眼を覚まさせてやるよ」
細く白い人形の腕を、力瘤なぞ出ないのに見せつけ、ダーニがガハッと笑う。
「俺は昼間寝たからな。付いててやるから、寝ろよ」
よいしょとベッドに飛び乗り、添い寝の形を取ると、頭を撫でられた。
少し、不安が払拭された気がして、ゆるゆると眠りに落ちて行く。
時刻は十時。陽の差さぬ人形部屋にも珈琲の芳香が届き、身体を起こす。
ダーニは自分の場所に戻ったのか見当たらず……否、彼がいつも座っている場所にも居らず、それどころか此の人形部屋の人形の数が明らかに減って居た。
胸騒ぎがする。
不安が掻き立てられる。
慌てて部屋を出、作業部屋へと向かった。
「ん? どうしたの、メイベル? 駄目だよ、作業中は入って来ないでって……」
「みんなが……っ!」
「みんな?」
音を立てて扉を開けると、のんびりと眼鏡ニイサンが嗜めて来るのを遮って、逡巡する。
何と言えば良いのか? 何と説明すれば良いのか?
言わない訳にはいかない。だが、何と言えば……。
迷い乍ら顔を上げると、聞き返す眼鏡ニイサンの向こうに、消えたと思った人形が並んで居た。
途端に身体の力が抜ける。
其の場に座り込んだ。
嗚呼、何だ、みんな此処に居たのか、と息を吐く。
「みんなって?」
「いえ、何でも無いのです……。一寸した早とちりで……」
眼鏡ニイサンが振り返る。
眼鏡ニイサンだと思ったモノが、黄色いドレスの金髪碧眼の少女人形を抱き上げ、振り返る。
「 み ん な っ て 、 此 の 子 達 の 事 ?」
振り返って、チカちゃん人形が、笑った。
「うあああああああああっ」
自分の声で飛び起きる。
時計は午前十時を指して居た。
薄暗い、陽光の差さぬ窓の無い部屋。
ベッドの上で、周囲を見渡し、今のは夢かと安堵する。
息を整え、添い寝してくれて居た筈のダーニを探す。
黄色いドレスの金髪に青い目の少女人形を。
暗くて良く見えないが、恐らく自分の場所に戻って居るのだろうと其方へ目をやれば、其処に居る筈の天使の様な其の姿は見当たらず。
まさかとの思いを抱きつつ周囲を見渡せば、明らかに数体の人形が消えている。
否、あれは夢だ。ただの悪い夢だ。そんな筈は無い。有り得無い。此の眼鏡ニイサンの結界の中で、 有 り 得 無 い 。
転がる様に部屋から飛び出し、居間へと急ぐ。
バン、と音を立てて飛び込めば、ネイサン青年が優雅に十時の珈琲を飲んで居る。
「なぁに、ヤギリン、騒々しいなぁ」
「みんな……っ! みんなは……っ!?」
「みんなって?」
勢いで転がって蹴躓き、クッションに縺れ込む。
「みんなですよ! 人形部屋に居たみんな……」
クッションから身体を起こし、顔をネイサン青年に向けると、其処に、消えた人形達が立ちはだかって居た。
ネイサン青年の姿が、人形達で隠されて居る。
「 あ あ 、 み ん な っ て 、 此 の 子 達 の 事 ね 」
人形の壁の向こうで、ネイサン青年だと思って居た相手が、立ち上がって姿を現す。
黄色いドレスの金髪碧眼の少女人形を抱き上げ、チカちゃん人形が、笑った。
「あああああああああ」
飛び起きた。
時計は、午前十時を指して居る。
眩暈がする。
薄暗い部屋の中、直ぐ其処に気配を感じ、胸を撫で下ろした。
黄色いドレスの金髪碧眼の少女人形が、ダーニが、其処に居る。
「なぁに? 騒々しいなぁ」
ネイサン青年が扉を開け、声を掛けて来た。
「ああ、何でも無いのです。一寸、嫌な夢を見ただけです」
人形の振りをして身動きを取らないダーニとネイサン青年を交互に眺め、肩を竦める。
「そ? 珈琲淹れたけど、君も飲む?」
興味無さそうに言うと、ネイサン青年が居間へと向かった。
ダーニを抱えるとわたくしもネイサン青年の御相伴に預かるべく後に続く。
甘く甘くミルクを多めに入れて砂糖もたっぷり入れた珈琲と呼んで良いのか解らぬ温かな其れを口にし、何やら不安や胸騒ぎと言った雑念が融けて流れて消えて行く気がした。
其れでも又消えてしまう気がして、片手でしっかりダーニの手を掴む。
其の手が握り返され、兄の様な姉の様な頼もしさに、口元が緩んだ。
「ところで、うちにそんな人形有ったっけ?」
興味無さそうに、ネイサン青年がダーニを、黄色いドレスの金髪碧眼の人形を指差す。
「もう、何を言ってるんですか、此の人形は……」
傍らに目をやれば其処には、黄色いドレスでは無くピンクのワンピースの、ダーニでは無くチカちゃん人形が、『私』の手を、しっかりと握り返して居た。
「 ど の 人 形 ? 」
ネイサン青年とチカちゃん人形が、同じ笑顔で、笑う。
「ああああああああああああああ」
自分の声で飛び起きた。
時計を見ればまた十時。
珈琲の匂いが漂って来る。
「どうしたの?」
ぎくり、と、した。
振り返りたく無かった。
振り返りたく無かったのに、何故か振り向いた。
ゆっくりと時間を掛けて振り返れば、黄色いドレスを着たチカちゃん人形が、嗤って居る。
「 ど う し た の ? 」
如何、すれば、良いと言うのか。
直ぐ様逃げ出したい衝動に駆られ乍らも、身体が思う様に動か無い。
ゆっくりと後退ると、背中が軽く何かにぶつかる。
「 ど う し た の ? 」
背後から、声が、した。
振り返りたく無かった。
振り返りたく無かったのに、何故か振り向いた。
ゆっくりと時間を掛けて振り返れば、花の着物を着たチカちゃん人形が、嗤って居る。
「 ど う し た の ? 」
右から、赤いエプロンドレスを着た三つ編みのチカちゃん人形が。
「 ど う し た の ? 」
左から、白いシャツに青い吊りズボンのチカちゃん人形が。
「 ど う し た の ? 」
斜め右後ろから。
「 ど う し た の ? 」
斜め左後ろから。
「 ど う し た の ? 」
斜め右前から。
「 ど う し た の ? 」
斜め左前から。
「 ど う し た の ? 」
「 ど う し た の ? 」
「 ど う し た の ? 」
「 ど う し た の ? 」
「 ど う し た の ? 」
「 ど う し た の ? 」
「 ど う し た の ? 」
「 ど う し た の ? 」
消えた人形達の服装で髪型で、チカちゃん人形が、嗤う。
「 い い 加 減 に お し !!」
聞き覚えの有る張りの有る声と共に、轟音を立て乍ら天井を突き破って、巨大な手が現れた。
チカちゃん人形達が怯んで見上げるその手は、真っ直ぐにわたくしに伸び、鷲掴みにする。
破れた天井の向こうに、もう一つ、天井が見えた。電灯が真っ白に眩しい。
ぐいと其の儘引っ張り上げられ、天井から取り出される。
暗い所から急に明るい場所に出されて眩しさに目が眩む。
徐々に視界が戻り、気が付けば、正面に市松が両手を握って立って居た。
「戻って来たね。もう大丈夫だ」
市松の後ろに、眼鏡ニイサンとネイサン青年と、こっそりと黄色いドレスの少女人形ダーニが佇んで居る。
其の心配そうな姿に、安堵の息を吐いた。
良かった。やはり悪い夢なのだ。
「大丈夫かい?」
市松の言葉に頷く。
「声は、出せるかい?」
勿論です、と、言おうとした。
言おうとしたが、出ない。
出なかった。
言葉が、出て来ない
如何やったら話せるのか解らない。
声の出し方が、其の方法が、全く解らない。
今迄、如何やっていた!? 如何やって声を出していた!?
「出せないか」
ぼそりと、市松が言う。
其れに、頷いた。視界が滲む。
「……声を、取られた……?」
静かな、静かな声が響いた。
不思議な響きを持って、響いた。
「……誰に……?」
眼鏡ニイサンが、表情を無くした顔で、呟いた。
ゆらり、と、眼鏡ニイサンの輪郭が二重に成った気が、した。
眩惑の所為か眩暈の所為か、眼鏡ニイサンの表情が、解らない。
「……誰なの……? メイベル、答えて。誰?」
ゆらり、と、眼鏡ニイサンの輪郭が八重になり、二十重に成り、幾重にも揺らいで行く。
水の底から太陽を見上げる様な、そんな感覚に陥る。
「……その相手は……」
不思議な響きの声で、人間では無い様な声で、静かに、言う。
「誰なの?」
「駄目ですよ」
眼鏡の狩衣の男が、ソッと背後から眼鏡ニイサンの眼鏡を押さえた。
「桔梗信玄餅さんではメイベルちゃんごと壊してしまいますよ」
「……筑紫餅さん……」
半纏から着替えた眼鏡の男がにこやかな笑顔でおちゃらける様に言った。
「うちの鍾馗様がやらかした事だから、僕が引き受けましょう。もし失敗したらお願いします」
軽く舌を出し、小首を傾げる。
「……わかりました……」
零れた水が逆再生で戻るかの様に、眼鏡ニイサンの輪郭が明瞭に成って行く。
「失敗したらなんて言っちゃ嫌ですよぉ。うちの大事な大事なメイベルを預けるんで……あああああ眼鏡に指紋付いたじゃないですかぁ! レンズ触っちゃ駄目ですよ、もぉっ!」
いつもの声でいつもの顔でそう言うと、眼鏡ニイサンは「眼鏡を洗浄機に掛けて来ますので失礼します」と自室に戻って行った。
眼鏡ニイサンが居た場所には鍾馗が髪も顔も汚れを落とされ、着物も替えられ羽根飾りも帽子も元通り以上に綺麗に成って硝子ケースに入れられて居た。
ネイサン青年が数歩下がって、遠巻きに見て居る。
「連絡を貰って鍾馗を迎えに来ただけなんだけどねぇ」
一応、着替えて来て良かったよ。と、半纏、否、神主眼鏡が頭を掻き乍ら言う。
「うちの子に悪戯したの、だぁれかなぁ?」
何時の間に用意したのか、葉の付いた木の枝を日本酒に浸した。
「掛巻も綾に畏き国造りし……」
朗々と歌う様に、否、歌い出し、酒の滴る木の枝を揮う。
辺りに酒が飛び散った。
「……失ぬる少ぬ事をら愁嘆かひ……」
再度酒に枝の葉を浸し、揮う。
「……廣き厚き恩頼を貴奉り仰奉りて……」
二度、三度、酒を撒き散らすと、深々と頭を下げた。
「……恐み恐みも白す……」
市松が、握り拳を神主に差し出す。
其の拳には、細い透明な糸が握られて居り、|鍾馗単語へと繋がって居た。
頭を上げた神主に、市松が口を開く。
「早く鍾馗をお起こしよ。何時までも寝惚けて居られちゃ此ちとら迷惑千万だよ」
「いちまは優しいねぇ」
「さっさと御しよ」
はいはい、と言い乍ら、神主が其の糸を懐から出した裁ち鋏で切った。
鍾馗への糸は溶ける氷の様に宙に掻き消える。
しかし、まだ、其の糸は市松の拳の反対側から出ていた。
つ、と神主が辿れば、『私』の喉から。其れが、糸が、出て居た。
其の糸も、神主が切る。
糸は、宙に掻き消え、そして。
「あ、逃げられちゃった」
何やら剣呑な事を、神主眼鏡が舌を出して言った。
「厄介だなぁ」
いちまに尻を折檻されて居る神主を横目に、ネイサン青年が呟く。
此方に向き直り、独り言なのか話し掛けているのか判らない様子で腕を組み、続ける。
「多分、兄さんとか紫庵さんと違うアレなんだと思うんだよね。でも、僕じゃぁ相性悪いみたいだし……」
ぶつぶつと言い乍ら此方に視線を投げ、首を傾げた。
「取り敢えず、声は出せる?」
「……あー……ええ……あー……出せますね」
あまりにも呆気なく声が出る様になると、寧ろ若しかしたら自分の気の所為だったのかも知れない気がして来る。
「そかぁ。じゃあ、相手の事、解ってる事知りたいんだけど」
ああ、其れもそうかと、ちらりと後ろと見る。
既に黄色いドレスの影は見えない。恐らく人形部屋に戻ったのだろう。
ダーニに話した事、そして、まだ話して無い迷路の様な起きても起きても夢の中だった話を、ネイサン青年に聞かせた。
何故、声を奪おうとしたのかは解らない。
何故、自分に声を掛けて来たのか解らない。
何故、否、少しだけ、解る。少しだけ。
ネイサン青年が、口を開いた。
「恐らくは、僕が鍾馗を捕獲し結界内に持ち込んだ事で、チカちゃん人形の糸を通じて結界に細い穴が開き、兄さんの結界内にチカちゃん人形の結界が出来た。ヤギリンを抑え込み自分の結界の内側に閉じ込め、其の上で、奪われた鍾馗を取り戻そうとしたのか、其れとも鍾馗の代わりにヤギリンを仲間に引きずり込もうとしたのか。其の両方か。目的は、人間を殺す事で得られる恐怖の感情か」
溜め息を一つ吐くと「そう云った輩には心当たりが有る」とネイサン青年は続けた。
「人の感情を喰らって生きる。生きる為により強い恐怖を得ようとし、最終的には殺される人間の恐怖を喰らう様に成る。其れ等を僕ら人間は一括りに、妖怪とか妖魔とか悪魔と呼ぶ」
「人は、人で無い者に名前を付けたがるんだよね。神然り、妖怪然り、悪魔然り。そうして名前を付けて理解した気に成る。人間は他者を理解した気に成って安心したい生き物なんだよ」
ネイサン青年は言う。
「お陰で、対策なんかも結構広まっていてね。相手の本質さえ解れば何とか対処出来る。最悪の事態は免れる」
「人形の妖し相手なら人形の神様だよ」
尻を摩りながら、市松の手を逃れた神主眼鏡が言った。
「神饌を毎日頂いて数百年のいちまが神気を帯びて居るのも当たり前。チカちゃん人形の歴史は百年も経って無い。と云う事は其のチカちゃん人形が産まれてからまだ数十年。いちまの敵じゃあ無いよね」
懐かしいなぁ、子供の頃親戚のお姉ちゃんが大事に持ってたチカちゃん人形……と眼鏡神主が暢気に続ける。
「紫庵さん、一応、警戒して置いた方が良いと思います。大分頭が良くて狡猾な奴みたいだし」
「何々? 何の話?」
眼鏡を拭き乍ら、眼鏡ニイサンが戻って来る。
否、眼鏡無し眼鏡ニイサンか。
「兄さんは黙ってて」
「なんだよぅ」
ネイサン青年に笑顔で相知らわれ、眼鏡ニイサンが拗ねて台所へ向かう。
「件のチカちゃん人形は、捕獲後はうちの神社でお預かりしましょうね」
神主眼鏡が微笑んで言った。必ず再度接触してくる筈だと。
「やっぱりねぇ、向こうから来て頂けるのならうちの神社で待ち構えたいのだけれども」
否、無理でしょう。電車で数時間に車で山越え谷越え其の上神域で或るが故辿り着く迄に何ヶ月掛かるか……、寧ろやる気無くして別へ向かいそうではないですか。
そんな子供っぽさ、飽きっぽさが見え隠れするでは無いですか。
「そうかなぁ? こう言った奴等は執念深い者なのかと思っていたけれど」
一時の感情に囚われて前に進め無く成り悪意や失意が渦巻くのだと、神主眼鏡が言う。
「其の人形の気持ちに興味は無いけれど、降り掛かる火の粉は積極的に火種其の物を、をも消しに行きたいよね」
ネイサン青年が爽やかに言った。
「何か物騒な話しだねぇ」
「兄さんが一番物騒なんだけどね」
「自覚が無い分厄介な御人だぁわいねぇ」
「僕は桔梗信玄餅さんのそう云う所が赴きが有って良いと思うのだけれどねぇ」
茶の用意をして現れた眼鏡ニイサンの一言に、一斉に声が上がる。
如何にも深刻に成り切れない面子に、此の意図的に作られて居る空気に、恐らくは救われて居るのだろう。自分も。
あれが、あの如何しようも無い夢で或るか如何かも解らない迷路の様なあれが、救い様が無い様にしか思え無いあれを、鍾馗も同じ事を、否、自分より延々と繰り返されたとしたら……。
人形に、自分に、鍾馗に心と云う物が存在するのなら、其れが容易く自壊して行くのは、想像に難く無かった。
再度、接触して来るだろうと予測し、待ち構え、1週間。
二日目には再度結界を強化したとか何とかネイサン青年が眼鏡ニイサンと神主眼鏡と何やら細工を施し、
三日目には神主眼鏡が市松と鍾馗を連れて帰り、
四日目にマスカットちゃんからレモンちゃんが無事に家に戻った其の後も何も異変が無いとの連絡が有り、
五日目にネイサン青年に仕事が入った為丸一日眼鏡ニイサンと留守番をし、
六日目に馴染みの和菓子屋が試作品の試食を持って立ち寄り、
七日目の朝、至極普通の朝を迎え、緊張の糸も緩んで居た。
「勝てない相手は相手にしないって事かな?」
珈琲を口に運びつつ、のんびりとネイサン青年が言う。
「何事も平和が一番だよぉ」
「兄さんの平和は、自分の身内限定だから一概に同意はしかねるけど、まぁ、平穏は良い事では有るよね」
御茶請けにと頂き物の欠餅を出し、焙じ茶の湯気を吸い込んでほうと息を吐く眼鏡ニイサンに、首を傾げつつネイサン青年が同意した。
黄色いドレスの少女人形が欠餅に手を伸ばす。
少しの違和感を感じ乍ら、その違和感の原因が解らず首を傾げた。
「ダーニ、あなた、縮みました?」
「? 何言ってるの?」
可愛らしい声でダーニが怪訝そうに言う。
眼鏡ニイサンとネイサン青年が続ける。
「ヤギリン? 何言ってるの?」
「メイベル、如何したの? ダーニは買って来た時から何一つ変わって無いじゃない」
「そうそう、あの時のヤギリンったら無かったよね!」
可笑しそうに思い出し笑いをするネイサン青年。
「玩具売り場で引っ繰り返って強請ってねぇ。わんわん泣くものだからお母さん恥ずかしかったわぁ」
眼鏡ニイサンが言う。
思い出した。
そう。
あれは4歳の誕生日でした。
『私』がお誕生日のプレゼントは自分で選びたいと我儘を言って母と兄と玩具屋へ行ったのでした。
「忘れちゃってたんでしょう、あたしと会った時のこと。ひどぉい」
頬を膨らませてダーニちゃんが拗ねる様に言う。
「えへへ、ごめんごめん。だってもう10年も前だもん。そう言う事も有るよぉ」
「もーう、許すっ」
軽く謝ると、ダーニちゃんが笑顔で言った。
そうだ、此の笑顔が可愛くて、一番安い奴じゃなくて此の子にしたんでしたっけ。
当時は随分と高かった記憶が有る。
高くて困って安いのを勧める母に泣いて喚いて抗議して床に引っ繰り返って泣き喚いたんでした。
一番安いのの十倍はした様な……。
数十分泣き喚いて引き付けを起こして、やっと、買って貰った、大事な大事なお友達。
やけに鮮明に覚えて居る事に、寧ろ忘れていた事の方が不思議な位だ。
「ずーっと一緒だからね」
ダーニちゃんが可愛らしく言う。
「……うん……ずーっと……」
十四歳の誕生日。
彼女は『私』を箱に入れて蓋をした。
「ばいばい」
そう寂しげな笑顔で言って、隙間をガムテープで止めた。
次に箱が開けられた時には、ゴミ処理場で。
燃え滾る炎の中に投げ込まれ、業火に焼かれた。
ずっと一緒だって言ったのに。
約束したのに。
何故。捨てたの?
何で「ばいばい」なの?
何で燃やすの?
何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で
何であたしなの?
何であんたじゃないの?
嘘を吐かれた。
信じてた。
幸せだった。
裏切られた。
哀しい。
哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい
だから、みんな、殺す事にしよう。
起き上がった時、『私』は廊下に居た。
居間へと向かうと、長い髪の細身の青年がソファに腰掛けて居た。
ので、首を絞めて殺した。
次に起きた時、『私』は居間に居た。
廊下に出て作業部屋に向かうと、長身の細身の眼鏡の男が居た。
ので、包丁を刺して殺した。
次の起きた時、『私』は作業部屋に居た。
玄関に向かうと、背の低い涙黒子の女性が居た。
ので、玄翁で殴って殺した。
次に起きた時、『私』は玄関に居た。
駐車場へ向かうと、少女の様な少年が居た。
ので、縊り殺した。
次に起きた時、『私』は駐車場に居た。
居間に向かうと長い髪の細身の青年がソファに腰掛けて居た。
ので、首を絞めて殺した。
次に起きた時、『私』は居間に居た。
廊下に出て作業部屋に向かうと、長身の細身の眼鏡の男が居た。
ので、包丁を刺して殺した。
次の起きた時、『私』は作業部屋に居た。
玄関に向かうと、背の低い涙黒子の女性が居た。
ので、玄翁で殴って殺した。
次に起きた時、『私』は玄関に居た。
駐車場へ向かうと、少女の様な少年が居た。
ので、縊り殺した。
次に起きた時、『私』は駐車場に居た。
居間に向かうと長い髪の細身の青年がソファに腰掛けて居た。
ので、首を絞めて殺した。
次に起きた時、『私』は居間に居た。
廊下に出て作業部屋に向かうと、長身の細身の眼鏡の男が居た。
ので、包丁を刺して殺した。
次の起きた時、『私』は作業部屋に居た。
玄関に向かうと、背の低い涙黒子の女性が居た。
ので、玄翁で殴って殺した。
次に起きた時、『私』は玄関に居た。
駐車場へ向かうと、少女の様な少年が居た。
ので、縊り殺した。
「……もう少し……」
口から言葉が零れ落ちる。
「あと少し……」
自分の声では無い様に聞こえる声。
「……のの様……」
「人間は嘘を吐く」
ニンゲンハウソヲツク。
「のの様は嘘を吐かない」
ノノサマハウソヲツカナイ。
「人間は裏切る」
ニンゲンハウラギル。
「のの様だけが救って下さる」
ノノサマダケガスクッテクダサル。
「人間はあたし達を産み出して捨てる」
ニンゲンハワタクシタチヲウミダシテステル。
「のの様は捨てられたあたし達を優しく受け入れて下さる」
ノノサマハワタクシタチヲヤサシクウケイレテクダサル。
「人間は存在してはいけない」
ニンゲンハソンザイシテハイケナイ。
「人間はのの様を苦しめる」
ニンゲンハノノサマヲクルシメル。
「人間を殺そう」
ニンゲンヲコロソウ
「殺そう」
コロソウ。
「のの様を助けよう」
ノノサマヲタスケヨウ。
「少しでも、のの様に近付く為に」
スコシデモノノサマニシカヅクタメニ。
「のの様に微笑んで頂く為に」
ノノサマニホホエンデイタダクタメニ。
「人間を駆除しなければ」
ニンゲンヲクジョシナケレバ。
「殺さなければ」
コロサナケレバ。
「人間は嘘を吐く」
ニンゲンハウソヲツク。
「のの様は嘘を吐かない」
ノノサマハウソヲツカナイ。
「人間は裏切る」
ニンゲンハウラギル。
「のの様だけが救って下さる」
ノノサマダケガスクッテクダサル。
「人間はあたし達を産み出して捨てる」
ニンゲンハワタクシタチヲウミダシテステル。
「のの様は捨てられたあたし達を優しく受け入れて下さる」
ノノサマハワタクシタチヲヤサシクウケイレテクダサル。
「人間は存在してはいけない」
ニンゲンハソンザイシテハイケナイ。
「人間はのの様を苦しめる」
ニンゲンハノノサマヲクルシメル。
「人間を殺そう」
ニンゲンヲコロソウ
「殺そう」
コロソウ。
「のの様を助けよう」
ノノサマヲタスケヨウ。
「少しでも、のの様に近付く為に」
スコシデモノノサマニシカヅクタメニ。
「のの様に微笑んで頂く為に」
ノノサマニホホエンデイタダクタメニ。
「人間を駆除しなければ」
ニンゲンヲクジョシナケレバ。
「殺さなければ」
コロサナケレバ。
『私』は、人形部屋を出て居間に向かいました。
長髪の青年が、釘バットを構えて立って居ました。
首を絞めようと飛び掛る前に、釘バットが『私』の身体を打ち飛ばしていました。
壁に身体を打ちつけ、床に滑り落ちる『私』の頭に、釘バットの先を押し付け、青年が口を開きました。
「ざまぁねぇな。おい、聞こえてるんだろう」
幸い、壊れた所は無い。この害虫を駆除せねばと思うものの身動きが取れない。
「おい、お前。此奴の中は居心地が良いか? 快適か? ああ?」
言い乍ら、釘バットの釘を一本引き抜き、『私』の髪に埋める。
「快適だろうなぁ。俺も一寸解らない位の力だもんなぁ。餌喰い放題だよなぁ」
更にもう一本、釘を髪に埋める。
「だけどさぁ」
最初に埋めた釘を『私』の髪毎引き抜き、ぶちぶちと嫌な音を立てる。
「そろそろ気付いた方が良いんじゃねぇかなぁ」
釘をぐいと曲げ、釣り針の様な形にすると、額の花の様な模様に押し付けた。
釘が抵抗無く額の中に沈んで逝く。
「相手が悪いって事にさぁ」
ずるり、と針と共に引っ張り出された異物は、其れは、ピンクのワンピースに三本の足を持った着せ替え人形。
あのチカちゃん人形だった。
気付けば、目の前でチカちゃん人形をネイサン青年が釘バットで滅多打ちにして居た。
否、此れはネイサンではない、二三青年だ。
夢から覚める様に、意識が透き通って行く。
何処から何処までが夢で何処から何処までが現実なのか解らない。
ゾッとした。
『私』はネイサン青年を殺して居ない。
しかし、眼鏡ニイサンは? マスカットちゃんは? レモンちゃんは?
『私』は、殺したのか?
四歳の誕生日に人形を泣いて強請ったのは誰だ?
十四歳の誕生日に捨てられたのは?
のの様を崇拝し敬愛していたのは?
「根性入ってるなぁ、お前」
見れば、釘刺しになりながらも抵抗をして居るチカちゃん人形が居た。
細い糸の様な物でぐるぐる巻きにされている。
「お前、助けてやったんだから感謝の言葉位言っても良いんだぜ?」
「……な……にが……感謝……人間なんかにっ」
可愛らしい声で言うチカちゃん人形を、二三青年が見下ろす。
「見無かったのか? 此奴の中に居て、見無かったのか? 其れだけ深くは潜って無かったってのか」
鼻で笑った。
「運が良かったなぁ。お前が喰われてる所だったんだぜ」
長髪の青年が釘バットを投げ捨て爽やかににっこり笑う。
「遠隔操作かと思っていたんだけどねぇ。まさか入り込んでるとかねぇ」
ああ、これはネイサン青年だ。
「君の力だけじゃ出来ない芸当だよねぇ」
身動きが取れないのだろう、チカちゃん人形は口を噤んだ。
髪の中に残った釘が気に為って触るが、如何も取れない。
て言うか、チカちゃん、足が三本! 三本有るんですが!? 有るんですが!!??
此処で其れを言って良いのかが判らずに周囲を見渡す。
確かに、確かに前回まで見た時は足は……、と気付く。
見ていなかった。
足は見ていなかった。
しかし、三本だったのなら、その異形さに気付く筈。
気付か無かった。
気付け無かった? 何故?
「兄さん」
「はぁい。取り出だしたります此方、僕の御手製ベッドルーム」
ソファの裏から唐突に手品の様に眼鏡ニイサンが現れ、木製の旅行鞄をぱかりと開ける。
中は、天蓋の付いたフリルとレースが満載の寝台に成っていた。
寝台はぽっかりと人型に凹んでおり、チカちゃん人形を埋め込む形で寝かせると、上からふわりと掛け布団を掛ける。
「おやすみ」
ぱたり、と音を立てて閉めた。
捕獲したチカちゃん人形は人形神社に納める事と成って居たので、レンタカーを借りて約束通り人形神社へ向かう事にする。
何故、ネイサン青年の車では駄目なのか聞いたが、此の車じゃ無理の一点張りで要領を得ない。
電車では結構な時間を擁した行程も、半分程の其れで辿り着く。
「いらっしゃーい」
来る事が判っていたのだろう。半纏眼鏡と市松が出迎えてくれた。
「此の中かい?」
「よく眠れるようにお姫様ベッドにしてみたんですよぉ」
「御挨拶がてら、神様に見て居て貰いましょうねぇ」
暢気な会話をし乍ら本殿へと向かう二人を眺め、いちまが『私』とネイサン青年に声を掛けた。
「疲れたろう、盆暗共は放って置いて此方でのんびりして御行き……」
言い掛けて、ぎくり、とした様に身を竦める。
不思議に思う前に
「……もうし……」
と背後から声を掛けられた。
気配なぞ何もし無かった、誰も居なかった、背後から。
何時の間にか鳥の声も風の音も川のせせらぎも、何も、聞こえない。
無音の中、
「……もうし……」
振り返れば、大きな黒い、立派な角の牛が、其処に立って居た。
「我の子が大変お世話に成って居る様で、迎えに参りました」
そう、牛が、喋った。
「……ほ……懐かしい気配だこと……」
黒牛はゆっくりと首を巡らせ、一歩足を踏み出す。
「ちょ……ま……」
咄嗟に手を伸ばそうとしたネイサン青年が、突如嘔吐した。
市松は、ガタガタと震えている。
黒牛は二歩、三歩と歩を進め、本殿へ向かおうとして、気付いた様に振り返る。
目が、合った。
「……御前……此方に来るかい……?」
そう、身動きの取れぬ『私』に向かって、呟いた。
「……わ……わたくしは……」
「下がってみんな!!」
突如、酒を浴びせられた。半纏眼鏡、否、12代目神主、沙沙貴紫庵が叫ぶと、無理矢理、黒牛と『私』達の間に割り込み、黒牛に平伏した。
「畏み畏み申し上げ奉る。嘸かし名の有る神と御見受け致しまするれば、此の度の御訪問や如何に有りましょうぞ。我が神の神域でありまする故、何卒お引き戴き……」
「我はお主に発語を許して居らぬ」
早口で捲くし立てる沙沙貴紫庵の言葉を黒牛が遮る。
『私』に「来るか」と言った、其の言葉の何百倍も冷たい声音で。
「故に、お主は口の病を患うが良い」
紫庵の唇に水泡が見る見ると膨れ上がり、破裂し、更に水泡が膨れ上がる。
血と膿が飛び散る。
黒牛が其の鼻先で放り出されて居た木製の旅行鞄に触れると、音も無く鞄が開いた。
「のの様!」
恐らく鞄が開いた時に拘束していた糸も切れたのだろう、チカちゃん人形が飛び出して来て黒牛にしがみ付いた。
「ねぇえ、随分とぉ、酷い事をぅ、するじゃないかぁ」
眼鏡ニイサンが、立ったままゆらゆらと揺れて居る。
「アレが欲しかったのかい?」
「だって、のの様のお役に立ちたかったの」
「アレは御前達にとって毒の様な物。アレが自分で此方に来る迄、気を急いたりせずに御待ち」
其れを無視する様に、黒牛がチカちゃん人形を嗜めた。
「ねええええええええええええええええ」
眼鏡ニイサンの腕の影が伸び、黒牛に掴み掛かる。
黒牛に触れた部分から、眼鏡ニイサンの腕の影が崩れた。
小さく呻き声を上げて、眼鏡ニイサンが蹲る。
影が崩れた部分の指先から腕に腐って行く。
其れを意にも介さない様子で、黒牛が此方を見た。
否、わたくしの後ろの、市松を、見た。
市松が、淡い光を放って居た。
「神下ろしか」
「……駄目でしょう、他所様のお家に入る時には丑と言えど御挨拶くらいしないとさぁ……」
声が、明らかに市松の声では無かった。
「久しいな……小さ過ぎて見えなんだ……。うちの子が世話になった様だ……」
長い睫を瞬かせ、黒牛が言う。
「其の前にうちのにチョッカイ出したからでしょう」
「言い草だな。嘆き悲しむ弱き者に手を差し伸べた事だけだと言うのに」
「そう言うの、最近の言葉で要らぬ世話って言うんだよ」
「救われぬな。……救われぬ……」
そう、言うと、黒牛は踵を返した。
「小さいの、お互い仮宿の身、再会を幸ふのは又としよう」
「そうしてくれると此方も助かる」
市松の口で、何かが返答した。
「……御前……」
黒牛が鼻面を此方に向ける。
身動きの取れぬ此方に。
「……気が向いたら、何時でも御出で……」
「あんた!」
黒牛の言葉に被せる様に、チカちゃん人形が叫んだ。
「あんたも、あいつらもコッチ側でしょう?」
人形達の蔵を指差す。
「あんたもあいつらも捨てられて塵みたいに扱われて、恨んでるんでしょう? 捨てた相手を、人間を恨んでるんでしょう? 恨まなきゃ奇異しいでしょう? あんたが居るのはそっち側じゃ無い。コッチ側よ。ねぇ。一緒に行ってあげる。捨てた相手に、其の家族に、一族郎党に、同じ目を合わせてやろうよ。ねぇ。私達はおんなじ。私達はおんなじだから理解る。解るんだよ。悔しい。寂しい。辛い。哀しい。苦しい。侘しい……」
「御辞め」
黒牛の一言に、チカちゃん人形が言葉を詰まらせた。
「無理強いをする物じゃあ無い……。御前は未だ幼い。救いを求める者には手を差し伸べよう。其の悔恨を晴らすべく手を差し伸べよう。しかし、嫌がる者に無理強いをする物じゃあ無い。救われたくない者も居るのだと、御前は知る必要が有る……」
黒牛の言葉に、チカちゃん人形が其の頭部に嘆く様に顔を伏せる。
黒牛は、ゆっくりとゆっくりと、此方に背を向け、一歩一歩ゆっくりと立ち去って逝く。
其の姿が鳥居に差し掛かると、忽然と消えた。
音が戻って来る。
風の音、川のせせらぎ、鳥の声、そして、我慢して居たのだろう眼鏡ニイサンと紫庵の呻き声。
ネイサン青年に至っては、玉砂利に転がって痙攣を繰り返し白目を剥いて居た。
パリッと静電気が走る。
「……本殿に運ばなきゃあだねぇ……」
市松がいちまの声で、声を震わせ乍ら言う。
「おメイちゃん、動けるかい? 悪いけど、蔵の市松達を使って綺麗なシーツを何枚か持って来させておくれで無いかい?」
「情けないね、腰が抜けちまった」と言ういちまに頷くと、蔵に急ぐ。
動く度にパリパリと静電気が走った。
市松達は速やかに新しいシーツ数枚を持って出て来ると、総勢で人間三人をシーツで包み上げた。
大きめの市松達に寄る『人間を抱え上げ運ぶ班』と、小さい市松達に寄る『酒と塩で境内を浄める清掃班』に分かれる。
いちまと人間達を市松達が本殿へと運び入れる。
残されたわたくしは、其の場で座り込む事も出来ず、かと言って本殿へ行っても何も出来ず、迷った挙句に、レンタカーへと、其の車内へと戻った。
レンタカーのドアに触れた時に一際大きく静電気が走るが、入ってしまえば如何と言う事は無かった。
少し、『私』も、身体と心を休めなければならない様な気がした。
けれども、『私』には此の神社の何処にも居場所など無いのだ。
座席に放置していた膝掛けに包まる。
……如何して……? 大丈夫……一緒……みんな……
儚げな声が聞こえた気がして、意識を手離した。
何度目かの朝、唐突に車のドアが開けられた。
突如現れた大入道に、開いた口が塞がらない。
「よぉ、ヤギゾウ。久し振り。ネイゾウから連絡貰ってな」
ひょういと摘み出され、顔を覗き込まれる。
レンタカーの隣に並ぶ大きな黒いオートバイの存在に、何故此の轟音に気付かなかったのかと呆れる。
所でそのネイゾウと言うのは若しやネイサン青年の事でしょうか?
「そろそろ食料が尽きるって言うのに買出しに行けないって言うんだが、此処い等一体神域で、流石に妖怪寺じゃ入れなくてなぁ。隣山に持って来てるから取りに行くぞ」
助手席に放り込まれ、運転席に桑門が乗り込んだ。
「あの……三人は無事なのでしょうか……?」
知らないと答えられても詮の無い事を呟く。
「心配すんな。医学と薬学の神様だぞ。少々何か有っても死にゃあしねぇよ」
まぁ餓死はするかもな、と妙な明るさで笑い飛ばし、エンジンを掛けた。
無人駅の裏手に、山寺は出没して居た。
野箆小坊主達がわらわらと手に荷物を持って飛び出して来る。
其の一番後ろから、一番大きな野箆小坊主が、他の小坊主達の頭をぺしぺしと叩いて落ち着かせた。
ダンボール入りのレトルト食品を山盛り積んで居る大八車を牽いて。
「お久し振りです。其の節は御迷惑をお掛けしまして」
「いえいえいえいえいえ」
タヌエモンが頭を下げるのに釣られて頭を下げた。
「神様の御気に召すか解りませんが、死の穢れよりも余程良いかと思いますので、お持ち下さい」
「僕達も行きたいんですが」
「ポンはポンだから入れないんだポン」
「ごめんなさい」
「また遊びに来てね」
「美味しいの用意して待ってるね」
「お力になれず、すみません」
次々に口を開く野箆小坊主達に、胸が締め付けられた。
「何じゃ、ヤギちゃん泣かしおって。誰に泣かされたんじゃ」
円顱方趾が何やら抱えて出て来たかと思うと、荷物を放り出して抱き付いて来る。
「あー、はいはい、セクハラセクハラ」
「なんじゃい、人聞きの悪い」
ひょいと桑門が『私』をつまみ上げ、車の助手席に放り込んだ。
「円顱方趾も一緒に来れば良いじゃないですか。人形が山程居ますよ、彼処」
「いや、後ろめたい身じゃからのぉ。御上品な場所は苦手でのぉ」
桑門の言葉に円顱方趾は「ほっほ」と笑い、又遊ぼうのぉと手を振る。
荷物の積み込みを終えると、手を振って車を出発させ、神社への道程を戻る。
果たして。
本殿から眼鏡ニイサン、ネイサン青年、そして此の神社の神主である紫庵が出て来れたのは、あれから四ヶ月も経って居た。
「ごめんねぇぇえ。待たせたよねぇえ、寂しかったよねぇえ」
そう言って抱きついて来た眼鏡ニイサンの片腕は肩から失われて居た。
「後先考えずに暴走するからこうなるんだよ。今回の事は良い勉強だったね」
だいぶん痩せ衰えた様に見えるネイサン青年が、力無く言う。
「はは、痛い目に有ったねぇ。参った参った」
紫庵が全然参って無さそうに言うが、彼もだいぶん痩せて居た。
市松が、何も変わらない様子で肩を竦める。
「二度とあんなのは御免だわいね」
あんな、何も出来ないで眺めて居るだけなのは、と続ける。
わたくしも、其れは痛感して居た。
自分の無力さを、徒に害される大切な人達を前に何も出来ない自分の愚かさを、其の脆弱さを。
四ヶ月間ずっと悔いて居た。
「そんな顔しないで。大丈夫だから」
眼鏡ニイサンが、優しく頭を撫でる。残った方の手で。
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拝殿を振り返り、眼鏡ニイサンがいつもの笑顔で、頭を下げた。
「お世話になりました」
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