人形工場

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第伍夜

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 アン!

 犬が鳴いている。

 アンアン!

 見なくてもれと理解わか仔犬こいぬ特有の甲高い声。

 テテテテテテテテテテテテテテテテテテ……

 軽快に走り回る音。

 アンアンアンアンアンアンアン!

 吠えて走り回って……

 ゴッ。キャイン!

 …………何かにつかって、悲鳴の様な、否、正しく悲鳴だろう鳴き声を上げる。
「見えない犬って不便だねぇ……」
 恐らく、うっかり蹴飛ばしたのだろう、細身の眼鏡の男、ニイサンが困った様子で手を空中に彷徨さまよわせる。
 抑々そもそもの見えない犬、いや、抜け出す犬を連れて来たのはニイサンの弟である長髪の青年、ネイサンなのだから、ネイサン青年が面倒を見れば良い物を「見えないから仕方無い」で家の中で放し飼い状態で現在如何どうにも困ってしまって居る所だ。
 ネイサン青年が、てのひらにすっぽり隠れる程度の小さな犬の人形をしげしげと眺め、溜息を吐く。
「勝手にどっかに行かないだけマシ……なのかなぁ」
 運動会を再開したらしい元気な足音に、溜息をきんない。
 まぁ、の見えない仔犬が元気に走り回るのを無意識に許可してしまったのは眼鏡ニイサンなのだから、是非とも御二人で如何どうにかして欲しい物である。
 『私』わたくしはただの一介のか弱いお人形なのですから。
 恐らく見えない仔犬に滅茶苦茶臭いを嗅がれて居るのだろう、顔面近くでフンフンフンフンと3秒程された後、興味が逸れたのかテテテテテ……と走り出す音がして気配が遠去かった。
 ホッと息を吐く。

 ネイサン青年が此の見えない仔犬と其の容れ物を持ち込んだのは、今朝方4時の事だった。
 ネイサン青年が明け方帰宅し、仕事を持ち帰って来たと賽子さいころ形の菓子の箱をポケットから取り出す。
 赤に白い丸で模様の入った其れは、キャラメルの箱だった。
 振ればモゴモゴとくぐもった音がするのは、恐らく中身がキャラメルでは無いからだろう。
 疲れて帰宅した弟にと、眼鏡ニイサンがミルクティーを淹れて居た。
「其れは、何?」
「んー、何か、多分、仔犬みたい」
「へぇ、可愛いねぇ」
 キャラメルの箱を開けて逆さまにすれば、二センチ程の小さなフエルトで出来た犬の人形が転がり出て来た。
 ネイサン青年が指で摘み、光に梳かす様に翳して見る。
「小さいねぇ」
「うん、多分、コイツだと思うんだよね」
「うん?」
「兄さんなら見えるんじゃないかな? 仔犬。結構元気に走り回ってワンワン言うらしいよ」
「仔犬! 良いなぁ、可愛いんだろうなぁ。未だ声音が高くてね」
 アン!
 仔犬の様な鳴き声が、した。ような、気がした。
「……あ、ちょ、兄さん…」
「人間に構って欲しくて足元に纏わりついたり」
 テテテテテテテ……
 軽い何か動物が走り回る様な足音。
「待った! 兄さん!」
「悪戯盛りで走り回ったり」
 アンアン! テテテテテテテ……
 鳴き声と足音が部屋中を走り回る。
「……しまった……」
「千切れそうな位尻尾振って飛び付いて……え? なんだい?」
 ぼふっと何かが倒れ込む音。
 完全にミスった、と呟くネイサン青年を不思議そうに見つめる眼鏡ニイサン。
 ダガシカシ、此の、引っ繰り返って居るあなたたちの可愛いお友達に気付いて暮れませんかね?
 何かよく判らないもふもふとした感触の何かにベロベロ顔を舐められて居る此の『私』わたくしに。
 隔して、見えない犬は部屋中を思う存分探検し纏わり付き遊び倒して居るので或る。

「兄さんが見えないのは兎も角として、ヤギリンも見えないわけ? 其の仔犬」
 ネイサン青年が声を掛けて来る。
 ヤギリンと呼ばれた 『私』わたくし、名前はである。筈。だと、思うのですが。何を隠そう実は人形で或る。一目瞭然なので或るが、まぁええ一目瞭然では或りますが。此んな七色の髪に白の睫、山羊の瞳の人間は、まぁ、居ないとは断然しませんが普通では無いですしサイズも奇異しいですし。ええ、どうせわたくしは奇異しいですともそうですとも。まぁとは言え 『私』わたくし、人間では無く人形なので多少の奇異も誤差の範囲内で御座いますけれども。
「……見えませんねぇ……」
 まぁ、今、滅茶苦茶髪の毛で遊ばれて居りますが。
「そうかぁ……困ったなぁ」
 全く困って無さそうに珈琲を啜る青年を、此奴こやつ如何どうしてくれようかと思わないでも無い。
  『私』わたくしが此んな風に話せて動けるのも、今見えない仔犬が 『私』わたくしの服を咥えて 『私』わたくしを引き摺って行ってるのも、此の爽やか青年の所為だろう。
「て、あ、こら、ちょっと、待ちなさい」
 捲れ上がったスカートを手で押さえ、引き摺られたまま手繰り寄せる。
 見えない仔犬に抱き付くと、イヤイヤをする様に首を振られたのだろう、振り払われた。
「このくらいかな?」
 眺めて居たネイサン青年が手を30センチほど広げる。
 何と暢気な。
「此の間、兄さん達が遊びに行った御陰おかげで仕事が途中の儘だったんだよね」
 にっこりと爽やかに笑ってネイサン青年が言う。
「えー……、れは関係無く無い?」
 眼鏡ニイサンが反論するが、声が弱い。
「まぁ、現状見て貰えば……見えないけど……解る通り、家の中に見えない仔犬が居る気配がする、如何どうにかして欲しいって依頼だったわけなんだけれども」
 気配なんて言う生温い物じゃなくて、しっかりとした存在感が有りますが? お有りになりますが?
「取り敢えずポケットに入れて持って帰って忘れてたんだよね。依頼主からアレ以来仔犬の気配が無くなったって御礼の電話が来て思い出したよ」
 其れは又あんまりな。
 思わず仔犬に憐憫の情が湧く。
 ポッケに入れられて忘れられて居たとか、幼い仔犬にはあんまりな所業。可哀想ではないですか。
 カシャン。
「ああああああああああ……」
 何かが割れる音と眼鏡ニイサンの搾り出す様な声が聞こえる。
 ……同情も薄れようと云うもので御座います……。
 まぁ、確かに此れは普通の御家庭では御困りになられる事請け合いであろう事は想像に難く無い。
「もう、本当に、自由気侭って感じだよね」
 他人事の様にネイサン青年が呟き、優雅に珈琲を啜った。
「何か方法は無いのかい? 此れじゃ部屋中壊されちゃうよ」
「其れが実は……」
 眼鏡ニイサンの言葉に、ネイサン青年が声を潜める。
「此の犬の人形、依頼主の家で飼って居た犬の遺髪? と言うか遺毛? で出来てるんだよね。抜け毛を集めて作ったらしいよ」
「じゃあ、其の犬が?」
「いや、其の犬は老衰で大往生だったから、違うよね。仔犬では無いよね」
「えーっと、ほら、昔を思い出して仔犬に戻ってとか」
「そもそも犬種が違うらしいよ」
「……見えないのに?」
「僕は犬に詳しく無いけれど、恐らく、此の仔犬、雑種とか柴犬とか秋田県とかそう云うのだと思う」
「んー……」
「飼って居たのは此れ」
 そう言って一枚の写真を取り出す。
「……熊かな?」
「兄さん、チャウチャウ見た事無かったっけ?」
 其の写真には優しそうな老夫婦と共に巨大な毛玉としか言い様の無い茶色い何かが写って居た。
「えーっと……中国の……珍獣?」
「犬だよ。確かに例の見えない仔犬は触ればもふっとして居るけれどチャウチャウ程の毛量は無い」
「で、此の犬の人形は」
「チャウチャウを作りたかったらしい。奥さんが壊滅的に不器用で、なんか普通の犬みたいになったって言ってた」
「じゃあ、あの仔犬は」
「其処なんだよねー。此の人形から遠くには離れないらしい。でも、依頼主の御夫婦は出来れば此の人形は形見だから持っていたい。しかし、見えない仔犬に走り回られるのは困る」
「犬好きでも困ってしまうなら、犬の事解らない僕らはもっと困ってしまうよぉ」
「其処なんだけどねぇ」
 ネイサン青年が顳顬こめかみをぐりぐりと自分の指で押し、珍しく顔をしかめる。
「どうも、依頼主と同居している息子さん夫婦のお子さん。まぁ要するにお孫さんなのだけれど、そのお孫さんが夜な夜な夢遊病状態で見えない仔犬と遊んで、昼は幼稚園でもずっと寝て居て、夜になると起き出して来て仔犬と遊んでの繰り返しで、今は一時的に入院させて様子を見ているらしいんだよね」
 ネイサン青年が、深く溜息を吐いた。
「悪い物じゃあ無さそうなんだけど、此れが飼い犬の霊が人形に残って居て……とかだったら寧ろ楽なんだけどなぁ……」
「うーんうーん……此れ、ヤギリンが持ってて」
 ネイサン青年が何を言い出すのかと思えば、犬の毛人形を押し付けて来る。
「え? メイベルに?」
 眼鏡ニイサンが声を上げた。
「メイベル、大丈夫? 取り敢えず後で仔犬の飼い方調べておいたからね。頑張ってね」
 眼鏡ニイサンが紙の束を押し付けて来る。見れば、インターネットで調べた仔犬の彼是あれこれの様だが。……心配して下さるのは解る。解るけれど、頓珍漢な事を言って居る自覚は全く無さそうで或る。
「何故……」
「役立たずは嫌だって言ってたじゃない」
 抗議を上げかけた声に被せてネイサン青年がにっこりと笑って言う。
「役に立っても良いんじゃない?」
 ……ぐうの音も出ないとは此の事か。
「アン!」と一声上げて飛びついて来た見えない犬に仰向けに押し倒された瞬間、うっかり開いた口にぽいと何かを、犬の人形を、放り込まれた。
「……なっ、げほっ……んっ……」
 飲んだ。
 飲んでしまった。
「ほら、失くすと困るし、其の点、君、人形だし」
 にっこりと爽やかにネイサン青年が笑う。
「お腹壊すとか無いと思うんだよね。取り出す時は兄さんに頼んで解体すれば良いだけだし」
 随分な扱い。随分な扱いではあるまいか。
 他人を、否、人形を便利なポケットか何かの様に。
 何でも入れて良いと思うなよ此のぉ、と思わないでも無いが。
「わぁ、凄いね! メイベル!!」
 膝の上に丸まる見えない毛玉と、心底そう思って居そうな眼鏡ニイサンの眼差しに、怒りが挫ける。
「……少しだけ……少しだけですからねっっ」
 犬人形を呑み込んで数日。
 気付けば見えない仔犬の気配はパッタリと無く成り、すっかり鳴りを潜めて居た。
 否、昨日は其れでも声が時偶聞こえては居たし、一昨日は足音も聞こえて居た。
 其の前は眼鏡ニイサンが間違えて踏みそうになったと言って居たし、其の前は……。
 何やら変な気分で、腹を撫でる。
 一介の人形でしかない 『私』わたくしが犬の人形と仔犬の……霊、と言って差し支えないのか如何か解らないけれど、そう云ったモノをまさか消化した訳でも有るまいが、何とも変な気分では或る。
「わんこ、随分と大人しいねぇ」
 眼鏡ニイサンが 『私』わたくしの髪を梳き乍ら、呟いた。
「寂しいねぇ」
 否、寂しい筈が有ろうものですか。散々振り回されてどたばたしたのを忘れたとでも言うのですかね、この眼鏡昼行灯は。寂しい筈が有る訳が無いのです。ただ、何かが妙な感じなだけで。消化不良的なモノではないですかね、此れは。
 眼鏡ニイサンが 『私』わたくしの髪をお団子にまとめリボンを掛けて居ると、ガレージの自動シャッターが開く音がした。
 恐らくネイサン青年が仕事から帰宅したのだろう。時計は午前十時を指して居る。
「ただいまぁ。ヤギリン、お仕事だよーん」
 ややあって、ネイサン青年が爽やかな笑顔で居間の扉を開け、顔を覗かせた。
 勿体付けて身体は硝子戸の向こうだが、いつもの鞄を持って居るのが硝子越しに見える。
「じゃじゃーん」
 居間に入り、ネイサン青年が鞄を引っ繰り返した。
 お団子頭にバラバラと何かが降って来る。
 其れは。
 小さな其れは。
 全て。
 犬の人形。
「……は……?」
「わぁ」
「大丈夫そうだから全部引き受けて来たんだよね」
 何十個有るのか解らない人形をばら撒き、ネイサン青年が其れは其れは爽やかに笑った。
 途端にあんあんきゃんきゃんと仔犬達の鳴き声と足音が縦横無尽に家の中を走り回る。
「うわぁ、流石に凄いなっと」
 ネイサン青年が説明もせずにポイと一つ 『私』わたくしの口に放り込む。
「一寸開けといてね」
 否、待て、了承してはいない、未だ了承していない。と抗議をしようとするも次から次へと放り込まれ、声を出すに出せないまま、気付けば粗方が腹に収まって居た。
 最後の一個を、口に押し込まれ、同時に仔犬達の駆けずり回る音と鳴き声も、消えた。
「よし、お仕事終わり」
 ネイサン青年が満足気に言う。が。
「一寸、此れは酷いよ」
 眼鏡ニイサンが抗議の声を上げた。
 そうだそうだ、言って差し上げて下さいまし。こんな非道な事を……
「そんなに沢山無理に食べさせたらメイベルがお腹壊しちゃうでしょう」
 ……そうじゃない……其処じゃない……そうじゃなくてもっと違う所を……あああああ……
「大体、こんなに沢山、何処から持って来たの?」
 ……もっと 『私』わたくしの事を心配して下さいませんかね……人間だったら此れ酷いじゃすまないですよね……そりゃあ 『私』わたくしはお人形ですから、可愛い可愛いお人形ですから、人間じゃありませんけれども……
「誰も、見えない仔犬が一匹だけとは言ってなかったでしょう?」
 ネイサン青年が心底不思議そうな表情で小首を可愛らしく傾げる。
 あああああ小憎らしい。
「此の犬人形を作る教室に通って居た人達の作った人形、全部、似た様な事になってたから丸ごと引き受けて来ちゃった」

 キャインッ

 悲鳴の様な仔犬の声が聞こえた。
 又、眼鏡ニイサンがうっかり蹴り飛ばしたのだろうか。

 キャンキャンキャンキャンッ

 其れにしては何か、必死に助けを求めるかの様な。

 ウウウウガウウウウウウ……

 未だ幼い其の高い唸り声は明らかな威嚇。

 ガッ……キャインキャイン……

 何かが如何にかした音。仔犬の悲鳴。

 ……………………………………………………………………

 妙な間。そして。

 キャインッ
 キャンキャンキャンキャンッ

 悲鳴の様な仔犬の鳴き声。

 ウウウウガウウウウウウ……

 唸り声。

 ガッ……キャインキャイン……

 鈍い音。悲鳴。
 ……………………………………………………………………

 沈黙。

 キャインッ
 キャンキャンキャンキャンッ
 ウウウウガウウウウウウ……
 ガッ……キャインキャイン……
 ……………………………………………………………………

 何度も。

 キャインッ
 キャンキャンキャンキャンッ
 ウウウウガウウウウウウ……
 ガッ……キャインキャイン……
 ……………………………………………………………………

 何度も。

 キャインッ
 キャンキャンキャンキャンッ
 ウウウウガウウウウウウ……
 ガッ……キャインキャイン……
 ……………………………………………………………………

 何度も。

 キャインッ
 キャンキャンキャンキャンッ
 ウウウウガウウウウウウ……
 ガッ……キャインキャイン……
 ……………………………………………………………………

 何度も。

 キャインッ
 キャンキャンキャンキャンッ
 ウウウウガウウウウウウ……
 ガッ……キャインキャイン……
 ……………………………………………………………………

 何度も何度も何度も何度も何十回も壊れたレコーダーの様に繰り返し音だけが闇の中に響く。
「酷い顔してるよ」
 開口一番、ネイサン青年が言った。
 何を仰いますやら、 『私』わたくしの顔が酷い筈が有る訳が無いでしょうに。
 一応、鏡を見る。
 金色の山羊の目も白い睫も色取り取りの髪も塗られた白粉も頬と唇に乗せられた薄紅も剥げても居なければ変色もしていない。
 ただ、ネイサン青年の言わんとして居る事は解らないでも無かった。
 何か、自分の顔に違和感を覚える。
 何かが何なのかはっきりとはしないけれども。
 差し出されたココアを受け取り、差し出した眼鏡ニイサンを見上げる。
「何か、嫌な悪い夢でも見た?」
「……いえ……」
 見ては居ない。
 聞こえただけで、見ては居ない。
 仔犬の悲鳴が耳にこびり付く様に残って居る気がする。
 其の奥に、有る、何か嫌なモノを見ないで済んだと言う気がして居る。
 靄が胃の腑に溜まっているかの様な、何か重苦しい様な。
「何か、此処が、此の辺が奇妙しくて」
 腹辺りを掌で摩り言うと、眼鏡ニイサンが眉を顰めた。
「変な物食べさせたから、もぉ」
「ええー、僕の所為? でも、ほら、見えない仔犬現象は収まった訳じゃない?」
 此れで解決と本気で思って居るのか戯言なのか、ネイサン青年の笑顔の真意が解らない。
「大丈夫大丈夫、其の内慣れるから」
 ネイサン青年は、無責任にもいつもの笑顔でそう宣った。

 犬の人形を腹に収めてから数日。
 慣れたか慣れないかと問われれば、慣れた。
 慣れてしまった。
 否、何事も無かったかの様に違和感が消え、消化なぞしない筈の人形の此の身の筈が、内容物が取り出されたか排出されたかの様に、その存在を感じられ無い。
 あの妙な音声だけの夢も、もう其の内容が曖昧に成りつつある。
 自分の意識の無い内に眼鏡ニイサンが取り出したのかと思えばそうでも無く。
 答えの出ない儘、日々を過ごして居た。
「御邪魔する」
 夕刻、日も傾き薄暗く成った頃に唐突な来客の声が上がった。
 眼鏡ニイサンは鳩が豆鉄砲喰らった様な顔で来客を見返し、ネイサン青年は背後に突然現れた其の存在に、身動きが取れずに居た。
 其れ、は狩衣に太刀をいた二足歩行の大きな犬、に、見えた。
 銀灰色と黒の斑な毛並み、袖から覗く手……否、前足には肉球と爪。穏やかな白銀の瞳。
「突然の来訪、相すまぬ。御邪魔する」
 低く和らげな声で再びそう言うと、住人の驚きも意に解さぬ様に音も無く近付く。
 するりと 『私』わたくしの目の前に腰を落とし、正面に座った。
「此の中か」
「待っ……ちょっと待って!!」
 犬が 『私』わたくしに向かって前足を伸ばそうとするのを静止しようとしたのか、眼鏡ニイサンが慌てて手を伸ばし犬の身体に触れる前に、軽い音と共に其の腕が弾き飛ばされた。
 装具が外れたのだろう、鈍い音と共に義手が床に転がる。
 犬がガラガラと音を立てて転がる其方を振り返り、義手を弾き飛ばされて身動きの取れぬ眼鏡ニイサンを見やり、 『私』わたくしを見た。何とも言えぬ表情で。
「あー……、仔が世話に成った様だ」
 再び此方へ前足、否、手を伸ばし抱き上げた。
「弱い者虐めをするつもりはあらなんだ。すまぬ」
 次の瞬間、緑の木々に囲まれた山の中としか言い様の無い場所に、居た。山の中、二足歩行の狩衣の犬に軽く抱き上げられた儘。
 思考が、追い付いて来ない。
「あ……あのですね……」
「おお。付き合わせてすまなんだ。手荒な真似をした。許せ」
 存外に笑顔を浮かべ、大きな岩に座らせられる。空気が、匂いが、知って居る神域に酷似して居た。吸い込む度に浄化される様な、静謐な何か。
「我が仔等がそなたに入り込んだ様だ。未だ仔故、好奇心からの事であろう。災難であったな」
 此方を覗き込み、其の大きな身体を人の様に肩を竦ませ、首を横に振る。
 此れは……面倒臭がったネイサン青年が取り敢えず放り込んだとは言わない方が良さそうで或る。
「いえいえ……其れでは、貴方様の御仔様をお返しして『私』わたくしは帰らせて頂きましょうね。そうしましょうね。ええ、其れが宜しいですとも。そうで御座居ますとも」
「そうか? では……」
 徐に、犬が、手を突っ込んだ。
 『私』わたくしの口に。
「ごっ……!?」
 自然、顔が真上を向く。口と喉と体内が一直線に成る様に。
 『私』わたくしの口の中に犬の君が肩まで腕を突っ込み中を掻き回す。
「好し、捕まえた」
 言って、ずるりずるりと『私』わたくしの身体から其の腕を、手に掴んだモノを引き出す。
 中身が何もかも其の儘身体も精神も裏返る様な、気が、した。
 手首まで出て、其の掴んだモノが鳴く。
「おぎゃあ……」
「ふむ、外れか」
 手を離した瞬間、出ようとしていたモノが反動だろう勢い良く身体の奥底に落ち込み、衝撃で身体が倒れた。
 あの……殺す気ですかね……? 此れ、死にません? 死にますよね? 否、其れはもう『私』わたくしはただの一介の可愛い御人形で御座居ますけれどもっ。壊れませんかね?
「では、もう一度」
「無理です無理です無理無理無理無理無理」
「……然様さようか……」
 困った様な表情で、首を傾げる姿は丸きり犬その者である。二足歩行で狩衣を着込んで人語を話して何やら怪しげな術か何かを駆使しては居るが。いらっしゃるが。いらっしゃいますが。ええ、ええ。此れ、今更ですけれども犬じゃあありませんよねぇ、ナニかですよねぇ。
「其れでは御互い時間も有る様だ。ゆるりと待つると致そう」
 雨の日は洞穴で過ごし、晴れれば岩の上で過ごし。ただ待つだけの日々は初日で厭きが来、しかし帰ろうにも帰れず如何にも出来ずに空を見上げ葉の数を数え風の音を聞き土の色を記憶した。
「待つだけと言うのは存外退屈なモノなのですねぇ」
 そう言って隣を見る。が、先程まで確かに居た筈の犬の君が居ない。
 仕方無く再び空を見上げると、隣に、視界の端に確かに存在して居る。
 また、だ。
「待つとしよう」と言ってから、犬の君の存在が大分曖昧に成って居た。
 居ると思って見ると居ないが、居ないと思うと居る事が多い。
 初日は話し掛けても返事が無く、独り言のつもりで呟いた事に返事が返って来て驚いたりした。
 最初の四日程は数えてはいたが、二~三日続いた雨で此の山中に連れて来られてから何日経ったのやら判ら無く成ってしまった。
 相変わらず、仔犬が自然に出て来る気配は無い。
 如何しようも無い。
「存外にそなたの中は居心地が良い様だな」
 唐突に、犬の君が言った。
 穏やかな柔らかな声。
「何ででしょうねぇ。困りますねぇ」
 形を変えながら流れる雲を見て無常を覚えた振りをし乍らぼんやりと返事をする。
「そなたの中に、うっすらと懐かしい気配を感じる。恐らくは昔、何処其どこぞの山にて居座おわした神木。其れをそなたの内部に使ってはおらぬだろうか」
「……あー……」
 御神木、何やら覚えが有る様な無い様な……。
 成り立って居るのか居ないのかも判別し難い会話を繰り返し頭の中で噛み締め、薄ら漠然と理解した事が幾つか有る。
 有るが未だ其れは判然とした確たる形は持っては居無かった。
 犬の君は人間が其の昔『神』と呼んだモノで或る事。
 山も風も岩も樹木も其処を駆ける動物も鳥も虫も『神』で或り、大きな流れの欠片で或る事。
 存在すると言う事はただ存在する事。
 何を為すも為さぬもただ流れの一環で或る事。
 死は救いなのか生は苦しみなのか。死しても救われぬ生き乍ら死して居る者等の救いとは何なのか。
 解らぬ事を解らないと解る事。
 何故、風は吹き、雨は降り、虫は地を這い、鳥は羽ばたき、草は生え茂り、生き物は生まれ衰え死ぬのか。
 自分は、ただの自分の此の自我とは何なのか。
 足掻き苦しみ乍らも其れすら砂の一粒ですら無く、其の一粒こそが全てで或る事。
「解らないのです」
 そう、呟くと犬の君がふふふと笑って言った。
「解らぬ事が解ったか」
「教えてはくれないのですか」
「他者に解を求めてはならぬ。そなたがそなたで在る為に。他者は其のモノの解を説くだろう。其のモノの知り得る其のモノの得た正を説き、他のモノの正を忌避し否認するであろう。其れは仏と呼ばれ、神の使いと呼ばれ、悪魔と呼ばれるモノだ。そなたの解はそなたでしか得られぬ」
 珍しく饒舌だなと思うも、本当に其れは犬の君の声なのか風の音なのか木々の葉ずれなのか雨音なのかすら、明確にする必要は無いと思えた。
 誘導される様に内に意識を向ける。
 月夜と星空と露を含んだ風。
 背の高い木々で囲まれた一面芝生の中、白く四角い記念碑が綺麗に整列している。
 その中を、黒い影が蠢いて居た。
 良く見れば、仔犬がじゃれ、走り、遊んで居る。
 仔犬だけでは無い。
 月明かりに仔犬と遊んで居るモノの幾つかが赤ん坊の様に見えた。
 そして、赤ん坊と仔犬を見守る様に微笑んで居たモノは、嗚呼あれは浄瑠璃人形では無いかと納得する。
 あの、人を愛し人を許し人に成りたいと願った御神木。
 ただ其の在り方を受け入れ続けた山の神。
 生涯ただ一つの願いが、自分に話し掛けて自分を彫り出した人形師と会いたいと言う其のたった一つの想いが、祟りと成ってしまった、あの方。
 まるで其の存在に侍るかの様に仔犬達は纏わり付き遊び、駆け、転がる。

「アンッ!」

 鳴き声が聞こえた気がした。

「アンアンッ!」

 明らかに、此方を見つけ、まっしぐらに一匹の仔犬が駆け寄って来る。

「アオンッ!」

 飛び上がった仔犬の顔面が一瞬で至近距離を飛び越え……。

「おかえり」

 其の衝撃に引っ繰り返ると、隣の犬の君が仔犬を抱えて微笑んだ。

 木々の合間から覗く空は確かに“此方”の空であるし、 『私』わたくしは確かに岩の上に引っ繰り返って居るし、隣には相変わらず狩衣を着た犬の君が、何処から出て来たのか仔犬を抱いて居た。
 茶の短い毛並み、特徴的な白眉。其の身体には太目のがっしりとした足。
「……お、おお。出たのですね。此れで……」
「おお、此れであと三十八匹ぞ」
 帰れる。と言おうとした言葉を遮って犬の君はにこやかに言った。
「そんなに……いらっしゃいました……?」
「数えておらなんだか。全部で三十九匹居る」
 ……数えるも何もザーッと流し込まれ……否、其処には触れないでおきましょう。
「どうも、どうして此の子が出て来れたのかが今一解りかねるのですが」
「恐らく波長が合ったのであろう。そなたの見ゆる物が皆に見える訳では無い。だが、“さかしま”から覗く事は出来ゆる。そなたの見ゆるモノとは少し違うておるが」
「そう云うモノですか」
「可哀想な仔等なのだ。何やらそなたの中で存分に遊び慈しまれて居る様子」
 もふりとした仔犬が引っ繰り返った儘のわたくしに飛び乗り、顔面を舐める。
 見えない筈の仔犬が見えるのも、見えるとか見えないとかに拘って居たからなのかも知れぬと思えなくも無い。
「おまえ、おまえの兄弟も此方に呼び寄せては貰えないものだろうか」
「あんっ!」
 溜息交じりの呟きに仔犬が元気良く返事?を返すが……期待できそうには無い事は明らかだった。
 一匹の仔犬が飛び出して来てから数日、気付けば仔犬が二匹になって居た。
 灰色の青い目の仔犬が、 『私』わたくしの膝に頭を乗せて居た。
 おや、と気付いた時には犬の君が「二日前から居る」と教えてくれたが、全く気付か無かった。
 其の二匹の仔犬がやおら立ち上がると二声程吠え、ぐるぐると 『私』わたくしを中心に走り回り、徐々に速度を上げていき……ああ、もうそんなに回ったら牛酪バターに成ってしまいますよと云い掛けるも、ふと、仔犬が三匹に成って居るのに気付く。
 黒い毛並みに黒い目の仔犬。多分。恐らく。ぐるぐる回っているので確証は無いが。
 尚もぐるぐると回り、徐々に輪が広がって行く。
 三匹が五匹……十匹……二十……三十……。
 恐らく、 『私』わたくしの中に居た仔犬の全部が、周囲を取り囲んでぐるぐると走り回って居た。
「おやめ」
 犬の君の、柔らかだが何処か哀しみを含んだ様な声が響き、仔犬達が走るのを止める。
 様々な、様々な犬種の仔犬が、其処には居た。
 皆一様に犬の君を見上げて居る。
「ああ、わかっているよ……。“また”だ。迎えに行くとしよう」
 何が“また”なのか。
 何を「迎えに行く」のか。
 聞いてはいけない気がした。
 口を挟んではならぬ気がした。
 犬の君が其の手を伸ばして来る。
 そっと犬の君に抱かれゆっくりと移動すると、仔犬達が後を追って来る。
 仔犬達が追って来れる様に、逸れぬ様に、ゆるゆると山を降り始めた。
 ゆるゆると仔犬を引き連れて山を降り、林を抜け、人里が見えて来る。
 見覚えの無い、畑と疎らに見える民家……。
 思ったよりも犬の君と仔犬達は速い速度で移動していたのだろう、前を走る農道を走る軽トラックが瞬く間に背後へと消えて行く。
 仔犬達が一匹、また一匹と吠え出す。
 其れは、聞いた事の無い程の恐怖と怒りを含んだ咆哮。
 通りすがる人々には風の音にでも聞こえているのか、此方を目に留める人すら居ない。
 ただ、仔犬の吠える声が聞こえるのか、近付いた家の飼い犬が次々と遠吠えを始めた。
 そして、住宅街に辿り着き、犬の君は一軒の家の前にゆるゆると足を付けた。
 ぴたり、と遠吠えと仔犬達の咆哮も止む。
 其の家には、何とも言えない吐泥の様なモノが家の大方を覆い、辺りに生臭い臭いを発して居た。
 からり、と音がして其の家の玄関から極普通の女性が顔を出す。
「いやぁねぇ、どこかの救急車のサイレンにでも反応したのかしら」
「犬にゃ俺等の耳じゃ聞こえない音とか聞こえるらしいでなぁ」
 オートバイを止めて新聞を手渡し、新聞配達の極普通の中年男が言う。
「犬笛? とか何処かで鳴らしてるのかも知れんね。じゃあ」
 新聞配達の男は言うだけ言って、隣の家の、又隣の家、と新聞を配達して去って行った。
「いやぁねぇ。犬の鳴き声を嫌いな人間も居るんだから、如何にかして欲しいわぁ」
 新聞を持って、家の中に入って行く女性。
「嫌いな人も居るのに……」
 ぶつぶつと呟きながら、玄関の扉を閉める。
 嫌な、臭いが、する。
 嫌な、モノの、臭いが、する。
 嫌だ。
 嫌だ。
 此処は嫌だ此処は嫌だ此処は嫌だ。
 本能と言う物が有ると言うのなら、その本能とやらが拒否をして居る。
 此の、家は、嫌だ。
「おまえ達は此処でお待ち」
 仔犬達に一言、そう告げ、
「……すまぬの。そなたを巻き込む形に成ってしまった……。が、もしかしたらと言う想いが無いでも無い」
 犬の君はするりと吐泥に塗れた家の中に入る。わたくしを抱いた儘。
 仔犬達が再び吠え始め、何処かの飼い犬達が遠吠えを始めた。
 鼻を付く臭いが一層濃くなる。
 鼻から口から目から隙間と言う隙間からあの吐泥が浸入しようとして来るかの様な。
 上下も左右も判らぬ捩くれた視野の中、犬の君は迷わず女性の後ろを付いて進む。
 女性が扉の前で、立ち止まり、扉に向かって話し掛けた。
「……ちゃん」
 確かに話し掛けた。だが、雑音が邪魔した。
「……ちゃん、また、シタでしょう」
 ザッザザッ……と雑音と、女性の声が、妙に遠い。
「おかあさん、もう、ゴミに出すの嫌よぉ」
 感情の篭って居ない声。
「わかってるんだから。……ちゃんがシタ時にはいつも近所の犬がほらまた、ああやって遠吠えして……」
 部屋の中からは何も……否……微かな雫の音が。
「……ちゃんってば」
 女性が言い募ろうとした時、部屋の扉が音も無く開いた。
 開かれた扉の向こうから、尚一層の、吐き気を催す程の、血の臭いが、した。
「……ちゃん」
 女性が声を掛ける其の相手は、扉の内側に立ってはいたが、塗り潰された様に真っ黒で、其の顔も様子も判別し難い。
『『『『『『うるさいなぁ』』』』』』
 声が、何人もの声が反響して何処から聞こえているか判らない何人が声を出したのか判らない様なそんな声を、其の黒い影が発した。
『『『『『『うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいだまれ』』』』』』
 声が周囲に反響する。
 大声を出した訳でも無いのに、耳鳴りが頭に響く。
「……ちゃん」
『『『『『『うるさい』』』』』』
 女性にナニカを投げつけ、ソレは扉を閉めた。
 女性がべしゃあと床に落ちたビニール袋を摘んで拾う。溜息を吐き、其のやけに水分の多い中身から目を逸らして、家の裏へと回った。
 犬の君が女性の後を追って移動する。
 勝手口から裏庭に出た女性が、隅に植えて在る木の根辺りに穴を掘って、ビニール袋ごと投げ入れた。
 土は……恐らく何度も掘り返されているのだろう……柔らかく、そして穴の中には既に幾つものビニール袋が埋まって居た。
 其の様を眺める犬の君の表情からは感情を窺い知る事が出来無い。
 女性は穴を手早く埋め直すと、勝手口から家の中へと戻って行く。
 犬の君は、もう女性の後を付いて行く事はせず、其の儘、埋められた穴の前に留まって居た。
 犬の君が、ゆっくりと木の根元、埋められた場所に手を翳す。
 埋め直された穴が有った場所の奥に、小さな小さな光が灯った。
 くぐもった光はゆっくりとゆっくりと時間を掛けて地中から上って来る。
 やがて、地表に出ると、ほんの少し光が明瞭に成った。
 其の小さな光の中心には、小さな小さな仔犬の姿が見止められた。
 光がゆっくりと犬の君の手の中へと収まる。
 犬の君は其の光を懐に仕舞い込んだ。
「……母と還ろうぞ……」
 其の儘玄関前に回り込み、仔犬達と合流すると、するすると山へと来た道を戻る。
「……な……アレは……アレは……」
「如何も無い。此の仔達が悪いモノに成らぬ様、苦しまぬ様してやらねば」
 アレは如何するんですか!? あの家を、あの家のモノを……と言う問い掛けを、言葉にせずとも解って居たのだろう、犬の君が遮って答えた。
「此の仔等は、此れ等四十の仔等は全てあの家の悪魔が屠った」
 しかし、此の儘では……如何にかしなければ……と漠然と思った其の思いを汲まれたのだろう、来る時と違い帰りは随分と静かな仔犬達を従え、犬の君が此方を見ずに言った。
「だが、もうあの悪魔もじきに人の捌きが下り、人の手で何とかするであろう」
「ソレは何時なのですか!?」
「判らぬ。だが、既に人は疑問を抱き始めて居る。アレは、自分と同じ人間なのか? と」
「しかし、其の捌きを待っている間にあと何匹の仔犬が……」
「犠牲になるやも知れぬ」
「では何故!!」
「そう、責めるな。あの悪魔は旧くから此の国に住まうモノの一つだ」
「……だから……何も出来ぬと……?」
「出来ぬ事は無い。爪と牙を持って其のヒトで出来た肉体を屠る事は出来る。悪魔も一緒に屠る為にはヒトの身を屠るしか無い。一度、試した事が有る……」
 下らぬ昔話をしてやろう……と犬の君は目を伏せて言った。
 其の昔、或る山の奥に山犬の群れが住んで居た。
 父親である雄と母親である雌、其れに仔犬達である。
 山犬の仔は、親兄弟と一緒に小動物や虫や鳥を狩って暮して居た。
 群れの縄張りは山の中腹から頂上に掛けて。しかし一匹の仔犬が未だ幼かった或る日、飛んで居た蝶か鳥か何かに気を取られ、追いかける内に親兄弟と逸れてしまった。
 気が付けば出入りの禁じられた中腹のやや麓側、開けた場所で仔犬は下界を目にした。
 山と違い、森と違い、川と違い、空と違う場所。
 ヒトの住まう建物、畑や田んぼやそう言った“ヒトの手が入った物”、そして、ヒトを初めて目にした。
 仔犬と言うのは何時の世も好奇心の塊でしか無い。
 仔犬は如何やったらあれらを間近で見る事が出来るのか、考えた。
 考えて、答が出る前に崖から転がり落ちて居た。
 痛みと驚きで自分の身に何が起きて居るのか判らず、叫んだ。
 イタイイタイと、オカアサンタスケテと叫んだ。
 叫んで、気を失った。
 激痛と妙な臭いで目が覚めた。
 温かな寝床が「これこれ」と声を上げる。
 寝床と思ったのはヒトの老人の男で、塗りたくられた嫌な臭いの草の汁が傷に染みた。
 牙を剥こうとした仔犬を老人は撫で回し、其の手の温かさに抗えず仔犬は眠りに落ちた。
 寝ても覚めても、老人は仔犬の寝床を使命とでもして居るのか、其処に居た。
 仔犬の二日間は、長い。仔犬はもう、老人に牙を剥こうとはしなくなって居た。
 目が覚めれば温かな重湯を、眠りに落ちれば其の手と膝の温かさを、丸で母の乳を吸って居た頃の様に優し気な一時を過ごした。
 七日目、すっかり元気に成り、老人に懐いた仔犬は、老人が立ち上がって家の用事をするのを忙しく邪魔して居た。
 母犬に甘える様にヒトである老人に甘えて居た。
 母犬に甘えるのは兄弟で争わなければ手に入れられない権利だったが、老人は仔犬が独り占めである。
 夕刻、村が騒がしくなり、老人の所に何人かの男が尋ねて来て二言三言交わして帰って行った。
 すっかり薬の所為で鼻の効かぬ仔犬には、父母が居なくなった仔犬を探して山を降りて来た事なぞ知る由も無かった。
 そして、山で待って居る言いつけを守らず、兄弟が山を下り村に入り込んだ事すらも、知り得ない事だった。
 父母兄弟は、仔犬の叫び声を聞いて居た。助けを呼ぶ声を。
 必死に山の中を探し、臭いを辿り、崖の下でヒトの臭いと仔犬の臭いが一緒に在った事を知った。
 血の臭いと共に。
 其の場所から仔犬の臭いが途絶え、臭いは村へ続いて居た。
 ヒトが、仔犬を、連れ去ったのだと知った。
 悲痛な助けを求める叫びを上げて、仔犬は連れ去られたのだと。
 父母は、だが、低く唸って、一度山に戻った。
 ヒトの臭いが強すぎて、仔犬を連れ去ったモノの臭いが紛れてしまって居たのが一つ。
 そして、父母はヒトの怖さを知って居た。
 ヒトの残酷さと無慈悲さを知って居た。
 仔犬の臭いはもう、完全に消えて居た、だから、一匹の仔犬は諦めて群れを守る事にした。
 其れが強い臭いの薬草の効果だとは山犬には知る由も無い。
 だから、山に戻った。縄張りに。
 しかし村迄迫った姿を、ヒトに見られて居た。
 見られてしまって居た。
 仔犬と言うのは何時の世も好奇心の塊でしか無い。
 兄弟達が一度訪れた村に再度訪れたのはほんの翌日だった。
 親と違い警戒心が無く、恐怖心が無く、思慮が無い仔犬が6匹。
 幼い声でアンアンと鳴き回り、村を縦横無尽に走り回った。
 其の声を耳にした老人の家の仔犬が嬉しさに飛び跳ね鳴こうとした時、雷が轟いた。
 其れが雷では無くヒトの使う猟銃だと知ったのは、もっと後だった。
 時折、山で聞こえる銃声を、父母は仔犬達に「神鳴り」と教えて居た。
 もし、聞こえたら晴れて居ても危険だからと洞穴からけして出してくれなかったあの雷の音が、直ぐ其処で轟いたのだ。其れも立て続けに何発も。
 仔犬は恐怖で身を竦めていた。膝が震え腰が抜け涎が垂れた。
 ヒトとは「神鳴り」を起こすのだと、恐怖した。
 老人がそっと布団で包み込み、仔犬は其の温かさに意識を手放した。
 仔を奪われた母犬の狂気は凄まじかったらしい。
 銃声が轟いてから母犬が村を襲う迄一時も掛から無かった。
 疾風の様に駆け爪を牙を存分に揮い、其の身に何発もの凶弾を受けつつも立ち上がりヒトに向かって行った。
 其の後ろで見守る様に父犬が座して居た。丸で気が済む迄自由にやれと言わんばかりに。
 やがて母犬が倒れ、ヒトが……何人ものヒトが倒れ、残ったのは家から出なかったヒトと父犬だけになった時、ゆっくりと父犬が立ち上がった。
 数歩進み、ゆっくりと村中をねめつけ、窓の隙間から見て居たヒト達と一つ一つ目を合わせていった。
 村人達は慌てて引っ込み、息を呑むが、身動きを取る気配は無い。
 もしや先程の母犬の倒れた様子で怖気付いたか、とヒトが思い始めた時、父犬が咆哮した。
 低く、長く、まるで「忘れるな」と刻み付けるかの如く。
 村人達の心の臓に、恐怖を刻み込んだ。
 残った村人達に、山犬と闘える者は残って居なかった。
 父犬は毎朝毎晩、山の頂上の岩の上で遠吠えをした。忘れるなと。あの惨状を、恐怖を忘れるなと、咆哮した。
 刻み込まれた恐怖は、己を恐怖心から守る為に畏怖へと変換し、仔犬と母犬の屍骸は山の中腹の開けた場所に埋め、神として祀る事にした。
 其れより上を禁足地とし、山神の大神様の居わす所として崇めた。
 二度と山から下りて来ぬ様、山の守護と成る様、伏して祈った。
 死した村人達の遺体は其の少し下、山の麓に埋めた。
 大神様とヒトの間に立つ者として、如何にか自分達を護ってくれと切に祈った。
 老人は仔犬を誰にも見られぬ様、そっと山に返した。
 仔犬は名残惜しそうにしながらも、老人に背を向け山の中に入って行った。
 やがて、村人達の間に、奇妙な噂が立った。
 山の中腹、母と兄弟達の埋められた辺りに埋められた筈の犬が化けて出ると言う噂だったが、ただ母と兄弟の埋められた場所に伏して居るだけで丸で彫像の様に身動き一つしないと言う。
 老人が若しやと思い其の場所に向かうと、化けて出たと言われていたのはやはりあの時の仔犬であり、飲まず喰わずだったのだろう痩せ細って骨と皮になって薄汚れ生気の無い其の様は確かに彫像の様にも眠って居る様にも見えた。
 老人が駆け寄り、其の手を触れようとした時、父犬の咆哮が鳴り響いた。
「忘れるな」と。
「あの恐怖を忘れるな」と。
「ヒトの罪を忘れるな」と。

「其の時の愚かな仔犬が、此の様な形をして神の真似事をして居る。因果なものよ」

 自嘲の篭った声で呟くと大岩の上に座した。
 戻って来た。山の頂上にある此の大岩に。もしや、此処は件の父犬が毎朝毎晩咆哮を上げて居た大岩なのでは無いだろうかと思うが、犬の君に尋ねる気にはなれ無かった。

「我が身は木で出来たかの様に成り、村人は小さな社を建てて其処に此の身を納めた」

 犬の君が話を続ける。

 仔犬は暫くして体がすっかり軽くなり、苦しさも傷みも空腹も感じなかった。
 仔犬は、嘆き哀しんだ。其の肉の身を失った事が哀しかったのでは無い。
 母を、兄弟を、失った事。ヒトの老人の温かさを失った事。何より父の朝晩の咆哮が心を抉った。
 そうして嘆き哀しんで居ると、山で一番古く太く大きな木が話し掛けて来た。
 在る様に在れ、と。
 羨むな。恨むな。蔑むな。
 そなたが何かを成しても成さずとも、何れこう成ったであろう。と。
 未だ幼かった仔犬には樹齢百年を越す老木の言って居る意味には理解が及ば無かった。
 しかし、其の大木の声を聞き身を預けるのは心地良かった。なので、理解の出来ぬ話も聞くだけ聞いた。
 ヒトの何やらから聞いたと言う経や謡言も身動き取れぬと言うのに何処から聞いたのかと聞けば、木々のさざめきで口伝して来るのだと言う。
 そうして仔犬は言葉を、理を、自身の在り方を、老木から学んだ。
 多少の知識と知恵を、風や石や空や虫や鳥や感じる全ての物から学んだ。
 学んで気付いた時、既に父犬の朝晩の咆哮は、聞こえ無くなって居た。
 父の元へと走った。
 気付いて直ぐ父の元へと走った。
 あの後、如何しても顔を合わす事が出来無かった父。
 如何してもあの場所を離れられ無かった自分。
 肉の身を失った仔犬にとって山頂はほんの数歩だった。
 ほんの数歩を、数年にも感じた。もどかしかった。
 父は痩せ細り大岩の上で眠る様に逝って居た。
 仔犬は鳴いた。鳴いて鳴いて鳴いた。
 半年間鳴き続けて、父の肉体が土に戻るのを見届けた。
 見届けて、父が既に此処に居ない事を知った。
 父母兄弟の誰も、自分の様に成って居ない。
 ただ、自分だけが何故か此処に居る。
 老木の語った事を理解出来ないなりに曖昧にだが理解した。
「在る様に在れ」
 理解できぬなりに理解した。
 其の儘、何年か何十年か、大岩に留まった。
 理由が在る訳では無く理由が無い訳で無かった。
 ただ、岩の上で空を眺め風を詠み星を数え過ごした。
 そうして過ごして居た或る日、唐突に何か嫌な臭いを感じた。
 何かが腐った様な甘ったるく、そして嫌な臭い。
 胸騒ぎがしてジッとして居られず、臭いを辿った。
 臭いの元は、あの里と逆側に山を下り更に連なる山を二つ越えた向こうの人里から流れて来ていた。
 山中にて幾つかの山犬の群れを見掛けた。
 父母にも兄弟にも似ていたが、足を止める事はせず、臭いの元へと駆けた。
 人里から少し距離を置いた場所に在る小屋から強烈なあの嫌な臭いがしていた。
 其れは、多量の血の臭い。
 其れは、獣の嘆きの臭い。
 其れは、自分に近しい物の無念の臭い。
 其れは、恐怖の臭い。
 其れは、何か其れは、嫌な甘ったるい果物が腐った様な、だがもっと何か違う様な臭い。
 知らない臭い。
 好奇心では無い。
 厭わしい気配が小屋の中から漂う。
 するりと小屋の中へと進むと、狭い小屋一杯に血と肉が撒き散らされていた。
 血溜まりの中に足が、尾が、首が、内臓が、点在していた。
 肉片が、骨が、ソレが未だ幼い力の無い仔犬で或る事を示した。
 肉片が、骨が、血が、其の数が夥しいもので或る事を示した。
 急速に、闇に呑まれた気がした。
 何もかもが、闇に呑まれたと思った。
 闇の中で、ヒトの形をしたナニかが、小屋へ入って来た様な気がした。
 ソレはヒトの形をした闇だった。
 ソレは片手に、蠢く袋を持って居た。
 ソレは袋から未だ幼いナニかを取り出すと、無造作に刃を揮った。
 若しかしたら山犬では無かったかも知れない。
 若しかしたら家犬か狸か狐かそう云うものだったかも知れない。
 若しかしたらそう云う生業だったのかも知れない。
 しかし、ソレは、ヒトの形をしたソレは、ヒトでは無かった。
 ヒトの皮を被りヒトの肉を持ちヒトの居場所を得ただけの、ナニかであった。
 其れは怒りでは無かった。
 其れは哀しみでは無かった。
 其れは恐怖に似ていた。
 其れは焦りに似ていた。
 アレは放って置いてはならぬと思った。
 アレは生かして置いてはならぬと思った。
 だから、爪を揮った。
 アレが小さな同胞に刃を揮った様に、アレに爪を揮った。
 アレが其の身に起きた事が理解出来ず己の血に塗れ深手を負い乍らも村の中心目掛けて逃げるのを、緩慢な動きで追った。
 こけつまろびつするのを眺め、二度三度と揮い、其の心の臓に爪を衝き立てた。
 断末魔を上げ、痙攣を繰り返し、やがて動かなくなるまで見届けた。
 村人だろう人々が騒ぎ立てて遠巻きに取り囲むが、近寄って来る様子は無かった。
 衝き立てた爪を引き抜くと、血飛沫と共にアレの身体から濃い靄が音も無く抜け出た。
 靄は握り潰すと音も無く掻き消えた。
 見れば、ヒトの形をしたナニかと思えた物は、ヒトの屍骸以外の何物でもなくなって居た。
 あの甘く厭な臭いも掻き消えていた。
 だから、元居た場所に戻った。否、戻ろうとした。
 老木の居る場所へ。
 気が晴れた訳でも無いが、ほんの少しでも父母兄弟の敵を取った様な気がして居た。
 だが、老木は厳しい声で問うた。
「何をして来たのか」と。
「何て事をしてくれたのだ」と。
「ヒトが山狩りを始める」
「ヒトが山犬を、獣を、一掃しようとして居る」
「ヒトが山を殺す」
「ヒトがヒト意外を殺す」
「ヒトが同胞を喪い報復に出る」
「見よ。己の浅薄さの結末を」
「血で穢れ、闇で穢れ、そして何を成したのか」
「見よ。火を放たれ炎に巻かれ息絶える獣達を」
「見よ。煙に巻かれ視界を失い恐怖に怯えて息絶える同胞達を」
「そして聞け。恐怖の声を。罪無き者達の声を」

「間違えたのだ」

「すべき事は別に有った」

「聞け、木々の叫び声を」
「聞け、獣達の逃げ惑う恐怖を」
「そなたは、償わなければならぬ」
「そなたが、償わなければならぬ」
「だが、愛し仔よ。我が愛し仔よ」
「そなたは未だ幼く、小さく、弱い」
「だから、此の罪は我が身を持ってして其の穢れを引き受けよう」
「そなたは未だ愚かで浅慮で未熟」
「だから、此度の事は山二つと其処に住まうモノ達と我が命で収めるとしよう」
「そなたは、触れてはならぬ物に触れた」
「そなたは、してはならぬ事をした」
「我が身が倒れ、山が燃え、獣達が全て死に絶えても、そなたは消える事が出来ぬ」
「償わなければならぬ」
「いつか、償いが終わった時、親兄弟と同じ様に眠りにつく事が出来るだろう」
「其れ迄そなたは償い続けなければならない」
「ヒトにでは無く、獣達にでは無く、山にでは無く、我にでは無く、ましてやあの悪魔になどでは無く」
「償い続けなければならない」
「此の……身……を……そな……」
 老木の言葉に合いの手を入れるかの如く、ミシリミシリと嫌な音が混じった。
 音は徐々に大きくなり、老木の言葉が遮られる迄に大きくなり、そして、老木の言葉が途切れると軋む音が一際大きく鳴った。
 瞬間、山に破裂音が轟いた。
 神鳴にも似た轟音は、老木が真っ二つに裂けた、山の神が消滅した其の徴だった。
 同時に此の山では無い隣の山の、又其の隣の山の、獣達の木々の悲鳴が雪崩の様に流れ込んで来た。
 音として映像として視覚も聴覚もそして炎の熱さえも其の場に居る様に炎の真っ只中に在る様に。
 無我夢中で声を上げ地面を転がり炎に巻かれ煙に巻かれる苦しさと反響する悲鳴と絶望に声を上げた。
 地獄だった。
 其れは今迄のどんな地獄よりも地獄だった。
 燃え落ちる虫、煙で麻痺し飛べぬ死を待つ鳥。我先にと逃げ惑い、追い詰められる獣。火を着けられ抵抗も抗議も出来ず燃やされる木々。
 何故、と獣達は鳴いた。
 何故、と木々は鳴いた。
 何故、と風は鳴いた。
 何故、とヒトは泣いた。
 何故、神様、何故……と。

 ふた月程経過し、山二つ分ありとあらゆる生き物が燃え尽き、そして鎮火した頃。
 漸く地獄が終わったかの様に思えた。
 生き物の呻き苦しむ声が聞こえ無くなった。
 悲鳴と絶望の声が聞こえ亡くなった。
 痛みと熱さを感じ無くなり、漸く此の身を起こした時……此れは罰なのであろう……丸でヒトの如き装束を身に纏い、四足で立つ事を忘れて居た。
 神の居なく成った山の意思だろうか、それとも老木の其れだろうか。
 老木の記憶を、其の恐らくもっと前から山の記憶を、神と呼ばれるモノの記憶を、受け継いで居た。
 そして山に住まうモノ全ての見る物を見、聞くモノを聞き、感じるモノを感じる様に成った。
 自分が、山であり、風であり、木々であり住まう全ての物に成った事を知った。
 此れが罰なのであろう。
 そして償いなのであろう。

 暫くは、自分が何者なのか、現在なのか記憶なのか、怒涛の映像と音と感覚に苦しんだ。
 今、自分が見えて居る物が、山の記憶なのか何処かの誰かの見ている物なのか自分が見ている物なのかが判別付かなかった。
 己の見えているモノ聞こえているモノ、全ての感覚が不確かだった。

 其の不確かな中、川の流れの如き記憶の濁流の中、何度か現れるモノもあった。

 獣やヒトを害し、食うで無くただただ傷付け嗤い命を奪う。
 ソレはヒトの姿をして居た。
 ソレはヒトの中に入り込んで居た。
 ソレはヒトに寄生し、ヒトの子として産まれ、ヒトの振りをし、そして小さき者達の血と肉と悲鳴を愉悦として居た。
 そして、ソレに寄生されたヒトは普通のヒトと同じく容易たやすく死んだ。
 寄生していた身体が死ぬと、ソレは再び別の胎に寄生し、ヒトとして産まれた。
 何度も何度も何度も何度も繰り返して居た。
 ソレは、ソレ自体は滅する事無く何度もヒトとして産まれ、其れこそが生きる術かの様に幼子達を手に掛けて血肉を飛び散らせた。

 だが、ヒトの群れの中で其の狂気がヒトの幼子に向かう事が有った。

 ヒトは、恐れた。

 恐れ、断罪した。

 ヒトはヒトの手に寄って、法に寄って、ソレを「悪魔」と呼び断罪した。
 ヒトは、「悪魔」を異物と見做した。
「悪魔」に寄生されたヒトの一族郎党が断罪された。
 其の後は「悪魔」が何処かで産まれても、再びヒトに寄って断罪された。
 何度も何度も何度も何度も繰り返した。

 そして、今も、繰り返して居る。

 語り終えたのか一休みなのか、戻った大岩の上で静かに腰を下ろし、犬の君が口を噤んだ。
「だから、其の内に人が人の間で解決をするから、静観すると言うのですか?」
 沈黙に耐え切れず、口を挟む。
「そうでは無い……とは言い切れぬな」
 返す犬の君の言葉は、やや力無く聞こえた。
「未だ何が正しいのか解らぬ若輩者なのだ。仔等の気を晴らす事位しか出来ぬ」
 其の身に神気を纏い乍らも気弱な事を言う。
「……『神』、なのに……?」
「存外に『神』とは不便な存在よ。そなたもまた……否、野暮を申すつもりはあらなんだ」
 言い掛けて何やら言葉を翻した。
「『神』はヒトと違い、口に出した言霊に縛られるでのう」
 言い訳の様に呟くと、懐の光の珠……あの仔犬……を撫でる。
「暫し我の元で眠らせた後、そなたの庭園で遊ばせてやってはくれぬかの。赤子達と共に」
「其れはまぁ、かまいませんけれども……」
 自分の管轄外の事に突然許可を求められ、戸惑った。
 そもそも件の赤子も仔犬達も浄瑠璃人形もわたくしの意思で如何こう出来るモノでも無いのだ。
 ましてや庭園ってアレ、他所の国の墓場ですが……騒ぎに成らなければ良いのですけれども……。
「感謝する」
 犬の君の言葉に、何やら、大変な事を安請け合いしてしまった様な後悔がほんの少し、心の奥に芽生えた。

 仔犬の魂を保護した翌日、犬の君が突如立ち上がった。
 仔犬達が殺気立って唸り、遠くから家犬の尋常ではない遠吠えが聞こえる。
「……まさか……早過ぎる……」
 嫌な予感は、ほぼ確信だった。
 未だ昨日の仔犬を犬の君の懐で眠りに付かせて居る状態で在るにも関わらず、だ。
 無言で『私』わたくしを抱き上げると仔犬達を伴い、するすると山を下り始めた。
「まさか……まさか……」
 焦りを含んだ其の呟きに呼応するかの様に、景色が前回とは比べ物にならぬ程の速度で過ぎて行く。
「すまぬ、そなたを家に帰してやらねばと思って居たのだが……」
 先日と同じ家の前、先日と同じ……否……先日よりも段違いに濃く家を覆う、怖気を震う靄、臭い。
 血が、玄関から外へと滲み出て居た。
 開け放たれた扉の中には、母親だろう女性が血の海に沈んで居た。
 奥に続く廊下に続く血の跡にはポツリポツリと何かの肉片が混じる。
 靄と闇に覆われた奥、『あの扉』は半分程開いていた。
 開いている其の部屋の中から、「きゃんっ」と小さな鳴き声が上がる。
『『『『『『うるさい』』』』』』
 鈍く重い音と低く静かな声が、妙に響いた。
 何かを、何かを如何どうにかしている音が、敢えて言うなら『刃物で滅多刺しにして居る様な』音が、続く。
 其処は、地獄だった。
 大振りの刃物を手に靄で出来たヒトの様な何かが、念入りに念入りに肉片を作成して居た。
 部屋中に飛び散った血と肉片は層を成し、無造作に放られたスポーツバッグには口輪をされ目を塞がれ手足を縛られた仔犬達が数匹転がって居た。
 気配を感じたのか、靄がゆっくりと振り返る。
 目が、
 合った。

 犬の君の
 全身が
 総毛立った。


 口を大きく開き、
 止める間も無く、
 音を立てて靄を一呑みにした。

 残されたヒトの足が其の儘、主をうしなった事など気付かぬ体で立って居る。
 ゆっくりゆっくりと逆立った毛が戻り、ややあってから、犬の君が部屋の中に手を翳した。
 彼方此方あちらこちらから小さな光が浮かび上がる。
 犬の君はをそっと抱き締めると、沈痛な面持ちで玄関の外を眺めた。
 異変に気付いたのだろうヒトが集まり、騒ぎになって居た。
「……還ろうぞ……」
 家を覆っていた靄は消えていた。
 家の中に蔓延っていた靄も、消えていた。
 犬の君が『喰』ってしまった。
 家の中にヒトが奇声を上げ乍ら乗り込んで来る。
 其の横をすり抜け、件の家から出た。
 背後で未だ生きて居た仔犬達がヒトに保護されたのが聞こえる。
 家を出、山へと戻る道過がら、犬の君は、無言だった。
 山に戻った犬の君は、大岩には戻らなかった。
 山頂迄行かぬ開けた場所に立てられた社の殿中に、『大口真神』と書かれた其の奥に、身を横たえる。
 『私』わたくしは、声を掛けてはいけない様な、そんな気がして、心配する仔犬達と共に傍に座り込んだ。
 『私』わたくしは、役立たずだ。
 また、何も出来なかった。
 今もまた、何も出来ないでこうして居る。
 人形で或る自分が何故動ける様に成ったのか、何故今現在此処に居るのか、何故いつも何も出来ないのか、己の無力さを知る為なのか、其れは何の嫌がらせであるのだろうか。

 神に眠りが必要か如何かは解らないが、犬の君は十日十晩昏睡した。
 仔犬が心配して吠え立てても、顔を舐めても、耳を噛んでも、反応が無かった。
 十一日目。不意に目を開けた犬の君が、仔犬達を順番に眺め、此方に目をやった。
「そなた……そなたに頼みがあり申す」
 其れは、静謐な穏やかな声で。
「また、我は間違えたのやも知れぬ。アレを我が身で封じられるやも知れぬと思ったが、核心はあらなんだ」
「また、我はヒトの血で穢れた」
「穢れた神は、やがて一族を、此の地を、そして山々と其処に住まうもの達を滅びに導くだろう」
「あの時の様に」
 光の珠を幾つか取り出すと、仔犬達へと転がす。
 光は仔犬の形に成り、新しい仲間に鼻を鳴らし臭いを嗅ぎやがて戯れ始めた。
「我は、アレと共に封じられなければならぬ」
「皆を、山を、幼き仔等に、託そうと思う」
「そなた、我を封じてはくれまいか」
 ソナタ ワレヲ フウジテハ クレマイカ。
「……何を……」
 何を言って居るのであろうか、の犬神は。

「……どうして……」

 如何して『私』わたくしにそんな事を頼むのか。

「……なんで……」

 何故、『私』わたくしが其れを出来ると思っているのか。

「そなたにしか、頼めぬのだ」

 卑怯。卑怯ではないか。断れぬではないか。

「そんな大役、『私』わたくしには荷が重いのですけれども」

「すまぬな。甘えさせてくれぬか」

 言うと、犬の君が頬を撫で、唇をなぞり、
『私』わたくしの口に手を差し込んだ。

「もう、己で動けぬのでな。引きずり込んでおくれ」

 お
 ぎゃ
 あ

 赤ん坊の声が身の内で響いたかと思うと、丸で餅を啜るかの様にずるりと一息に滑り込んで逝った。
 言い様の無い喉と胸と下腹部への質量に、何かが鼻から出そうな頭から何かが滲み出そうな感覚を覚える。

「え。ぉ。ちょ。こう……」

 噎せ返りながら一通り転げ周り、眩暈と嘔気が治まるのを待つ。

 転がり乍ら、本当に此れで解決になるのか? と言う疑問を拭え無い。
 拭え無いが、犬の君の出した結論であるのだろう。
 其処は尊重する事としよう。
 だが、犬の君がアレに乗っ取られ、其のアレがわたくしを乗っ取ったら?
 否、待て待て待て、そもそも中は外国のお墓に通じて居るのだから、あちらで……。

 身体を起こす。

 思い悩んでも仕方無い。
 仔犬達が円を描き心配そうに此方を見上げて居た。
 気付けば各々が小さな犬の君の如く狩衣姿になって二本足で立って居る。

 全部で四十八匹。

「めいべる、だいじょぶ?」

 一匹の仔犬の君が声を掛けて来た。

「ぼくたちわかった」「へいき」「だいじょぶ」「まかせて」

 犬の君の記憶と感覚と神気全てを分け合って負担を減らして居るのだろう。
 口々に声を上げる。

「ぼくたちが、やまをまもるよ」

 頼もしい言葉と裏腹に、仔犬達は未だ幼く、山を離れられない様子である。
 恐らく犬の君の言葉を信じるのなら、次のアレ……悪魔とやら……は暫くは現れないだろう。
 若しかしたら此の儘ずっと現れないやも知れぬ。
 此の小さな大神達が成長しその力を蓄える迄は、大丈夫なのかも知れぬ。

 唯一、『私』わたくしの名を呼んだ仔犬の君に、恐らくは最初に現れた“見えない仔犬”に、尋ねた。
 帰り方を。

 随分と経ってしまって居た。
 ネイサン青年と眼鏡ニイサンの事も、気に掛かって居る。
 里心が付いた、と言えば、其の通りなのだろう。
 此の短期間で思ったより犬の君に依存して居たのかも知れぬ。
 思ったよりも、仔犬の君達に、犬の君に、感情移入し過ぎているのかも知れぬ。

 我が家に、ネイサン青年と眼鏡ニイサンの元に、今は、帰りたかった。

「……?」

 仔犬の君が小首を傾げる。

「えー……あの、どっちの方向かだけでも……」
「あのね、わからないの」

 あっけらかんと返された。

「此処が何処かだけでも……」
「やま!」
「……ええ、ええ、ええ、そうでしょうとも……」

 そもそも元々少ないお外の情報が其の小さな身体で理解出来て居る筈が無いでしょうね、ええ。
 否、此処で引き下がってなるものですか。

「他の、他の仔犬の君でわたくしの家までの帰り方が解る方は……」

 見回すも一斉に首を横に振られ、目の前が真っ暗になった気が、した。

 さてはて、仔犬の君達に頼らず自分の中で幾つかの案を捻り出す事としてみる。

 人里に下り、公共交通機関にて現在地を把握し、帰途に着く。此れが一番現実的かと思われるが、如何やって人間に見られずに駅まで辿り着くかが問題である。いくら田舎町でも此の『私』わたくしの可愛さは隠し切れず、直ぐに見つかってしまうのでは無いだろうか。そうなった時に面白奇異しく見世物にされるか、恐怖の対象として調伏されるか、神の類として祀られて仕舞うのか。どうなっても帰れそうには無い。
 次の案としては、仔犬の君から協力を仰いで貰い、バケツリレー方式に野生動物に運んで貰い、帰途に着く。一見良い様だが、此れにもかなりの危険が伴う。そもそも。そもそもだ。可愛らしいお人形を口に咥えたり背に乗せたりした動物が疾走していたら、其れは何処かから盗んで来たと思われやしないだろうか。尚且つ、其の善意の動物が攻撃され、
『私』わたくしが人間に保護されて仕舞っては意味が無い。落し物として保存されるかゴミとして焼却されるかの二択である。
 では、上記二つの案を組み合わせ、最寄り駅まで動物に送って貰い、其処から自力で……。否、電車内の忘れ物として処理されるだけになるか、目聡い子供が可愛らしい『私』わたくしを家へと連れ帰り、親にゴミに出され、其処から街を放浪し新しい都市伝説を作り出して仕舞う可能性が低く無い。帰れなくは無いだろうが、『私』わたくしを連れ去る子供の家が何処なのか、海外や遠方であったならどれだけ遠回りになると言うのか。其の間に呪いの人形として語り継がれそうではないか。

 ふと、顔見知りの三本足の呪いの人形を思い出す。彼女はなんと便利な機能を備え、なんと生真面目であったのかと、変に感心した。

 知り合いの顔を幾つか浮かべ、助けを求める事も考え無いで無いが、如何せん携帯電話や心の声で通じ合う様な便利な能力は無い。

 脳味噌と呼べる機関の無い可愛いお人形であるわたくしの頭では、妙案は浮かびそうに……あ……。
 ひらめいた。

「とりに?」「なんのとりさんに?」「たくさん?」

 口々に仔犬の君が言うと、一斉に頷き、ありとあらゆる山の鳥を集めた。

「とおくまでいく、とりさん」
「きたのほうにいく、とりさん」
「みなみのほうにいく、とりさん」
「にしのほうにいく、とりさん」
「ひがしのほうにいく、とりさん」

「縄張りや力関係で難しいかも知れませんが、聞いてはくれませんか」

 あの、我が家の在る街の名を、駅の名を知っては居ないかと。

 ふんふんと様々な鳥と話をしていたのだろう、仔犬の君のひとりが此方を向いて口を開いた。

「からすさんが、みんなにきいてくれるって」

 成程と思わず声を上げる。
 多少種類の違いは有れど、全国各地に散らばる烏ならば其の伝達力も期待できそうなものである。
 もう、『私』わたくしの脳内では帰宅への道が出来上がって居た。烏に我が家を探し出して貰い、烏にバケツリレー式に運んで貰うのだ。烏がお人形を掴んで空を飛んで居たからと言って手出しをして来る様な人間も居ないだろうし、余程の事が無い限り、最速で最善の方法に思えた。

 そうなって来ると、未だ幼い仔犬の君達を放って帰るのに罪悪感が生じてきた。

 山の神の座を受け継いだばかりの、未だ幼くして命を不当に奪われた此の仔犬の君達が、果たして歴代山神達の記憶と山と山に住むモノ達との共感覚を持ってしても、あの犬の君がそうで在った様に悩み苦しみ過ごすのではなかろうか、と。其れを見捨てて一人温かい家族の下へと帰るのかと。消して忘れる訳ではないが、此の一連の事も他人事に成ってしまうのでは無いかと。

 だが、仔犬の君達が胸を張り、答えた。

「ははうえはぼくたちのなかにいるし、ぼくたちはすぐにおとなになるよ」
「ぼくたちはひとりひとりはちいさいけれど、みんなでいればだいじょうぶ」
「じゅもくも、どうぶつたちも、かぜも、くもも、たくさんのことをおしえてくれるよ」
「ぼくたちはだいじょうぶだよ」

 いつの間にやら口も達者に成って居る。
 一羽の烏が、待望の我が家を見つけたと一報を持って帰った。

 渋る烏を説き伏せ、仔犬の君達に別れを告げ、空へと舞い上がった。
 が。
 爪を引っ掛けて掴まれた場所がスカートなので逆さ吊りである。逆さ吊りなのである。逆さ吊りなのですがああああああ。
 此方の苦情なんぞ聞く気も無いのだろう、其の侭わさわさと上昇し続け、仔犬の君達が見えなくなり、山の木の一番高い枝が下に見え、村を越え、別の山を越え、足元には空が広がっていた。

 山の向こうにも山が在り、山の此方にも山が在り、合間に借り暮らしをするかの如く村が町が点在し、やがて山が少なくなり田畑が広がり、田畑が少なくなり民家が多くなり、数時間も飛ぶと野生動物の臭いのしない公園の木の上に下ろされた。
「有難う御座います」
 頭を下げると一通りかしかしと嘴で頭を挟む。飛んで来て居た嘴の形が微妙に違う烏に一声挨拶をする様に鳴き、入れ違いに山へと帰って行った。
「宜しくお願いします」
 頭を下げると、公園の烏は何やら興味深そうに覗き込み、スカートや髪を嘴で突き……あ、これ、辞めなさい。
 尻を掴むと公園の木から飛び上がる。滅茶苦茶爪が食い込んでいるのですがね。『私』わたくしがお人形だから良い様なものの……この扱いはどうかと小一時間文句を言っている間に、ビルの屋上に下ろされた。
 ビルの屋上で烏の群れと共に一晩過ごし、朝から恐らく別の烏に運搬され海沿いに出る。
 海沿いを数時間堪能し、海沿いの神社の屋根の上に下ろされた。別の烏が頭を掴み川を越え幾つかの山を越え、海の上を飛んでいる時だった。

 小さな小島に、小さな社が見えた。

 瞬間、雷鳴が轟き稲妻が、烏を、『私』わたくしを、貫いて居た。

「ふむ、面白い」

 何やらコツコツと頭を突かれ揺さぶられ、目が覚めた。
 此れは海に落ちるな、烏さんには悪い事をしたな、と思った所までは覚えて居た。
 海に、落ちたと、思った。
 いや、確かに落ちたのだろう、べたつく髪と服が其れを証明して居る。
 だが、此の、目の前の偉丈夫はなんなのだ。
 日焼けした肌。無造作に結った長い髪。筋肉の塊の様な体躯、長身。明るい金茶の目。
 ……外人さん……だろうか……。
「おまえは何やら面白いな」
 ……あ……日本語だ……。
 美形と言えば美形なのだろう、音を立てそうな明るい笑顔を浮かべる目の前の男に、此方、片足を摘まれてぷらぷら逆さに揺らされて居る状態で何故まともな返事が出来ましょうぞ。
 現状が把握出来ていない。何が如何成ったと言うのか。全く理解出来ない。否、海に落ちて漂って居た所を猟師か何かの此の男に拾われたとでも言うのだろうか。
 視線を巡らせる。
 巡らせ、遅ればせ乍ら、じわりと不味い事に成って居るのではないかと、冷や汗が噴出しそうな感覚に目が回る。
 遅くないのではないか? 今から普通のお人形の振りをしても遅くは無いのではないか?
 男は明らかに自分に向かって話し掛けたと思えたが、其れでも独り言では無いとは言い切れ無いのではないか?
 ゆっくり、ゆっくり力を抜く。死んだ振りをする。
 石畳に石で出来た簡素な室内が視界に入って来たが、其れ所では無い。
 そーっとそーっと、意識を手離した。
「おい。おい? おーい……」
 暫くつつかれ揺さ振られ、やはり此れは逃げられないかと覚悟を決め掛けた時、不意に地面に落とされた。
 波の音に混じって鈴を転がすような声が聞こえて来る。女性。明らかに女性。
 此れは拙い。非常に拙い。可愛いお人形として紹介されるなら兎も角、恐怖の呪いの人形として紹介されようものなら悲鳴に次ぐ拒絶と非難の三連続攻撃必至ですとも。動くなと『私』わたくしの本能が……有るのか如何かは兎も角……此処は動くなと『私』わたくしの本能が告げているのです。
「……かひこ……たかひこ……あにさ……」
「……てる……どうし……」
「……ははぎ……」
 声が急速に遠去かる。
 気配が完全に消えたのを確認し目を開けると、先程の偉丈夫も女性も居ない。
 青い空。白い砂浜。石造りの祠。茂る松の木。
 凡そ意思の疎通の取れそうな生き物の気配は、しない様子。
 運搬をお願いして居た烏の姿も見え無ければ、どうも他の鳥や動物の気配もし無い。
 此れは、甚だ大変非常にとてもかなり頗る大いに……拙い……。
 先程の彼等が船で来て居たとするなら、其の船は既に彼等と共に去って居るだろうと其処迄考え、先程の不自然な急速な遠去かり方は此れかと膝を打つ。
 謎が一つ解けたからとすっきりして居る場合では無い。
 此の、小島からどう文明社会に戻るか、戻れると言うのか。
 雲一つ無い空を見上げ、波の音を聞き、理不尽さを噛み締める。
 そもそも、此の状況に成って居る事だけでは無く、犬の君の事も、今回の一連の事も、そうだ、見えない仔犬を持ち込んだ事からしてもう何もかもが理不尽ではないか。
 日が落ちて辺りが朱に染まりするすると海に呑まれて行くにつれ、紫紺へと世界が変化する。
 やがてじわりと海が明るくなり、光が広がり、充分明るさが増した所で太陽が再び顔を出す。
 日がな一日辺りを照らすと、満足した様に去り際も潔く沈む。
 数日そうして過ごし、やっと立てた計画は、次にあの彼等がやって来た時にこっそり船に乗り込む事位だった。
 この文字通り空っぽの頭が恨めしい。
 いい加減、服も身体も髪も塩でべた付き、砂が入り込みじゃりじゃりと音を立てて居る。
 無人島探検と行こうかと一瞬でも思わなかった訳ではない。
 ほんの数歩だけ、松の林に入ろうかと思った。
 思ったが、無駄だろうなと一瞬で諦めただけだ。
 若しかしたら島の反対側に文明が有るかもと思わなかった訳でもない。
 だが、人が居れば動き回れば見つかる可能性が上がる。
 其の結果はあまり考えたくは無いし楽しそうなものでもなさそうである。
 溜息を吐く。
 犬の君は、消えてしまったのだろうか?
 否、恐らく、希望的観測だが、無数の赤ん坊と一緒に彼方異国の地で穏やかに過ごしているのだろう。
 多分。
 遠く遠く、彼の地を思い浮かべる。
 ああ、そうだ。あの特徴的な四角い、墓と言うより記念碑の様な、規則正しく並べられた、樹木で区画を区切られた、あの不思議な空間。
 犬の君は封じられる事を望んだけれど、遠い異国のあの場所でただの犬として何事も無く過ごす事も出来るのでは無いだろうか。
 期待と希望が入り混じる映像を脳裏に描き、とてもとても詳細に、丸で現実で見ている夢かの様に本当なら良いのにと思える程に詳細で、犬の君の姿は山の神だった頃よりも小さく二足歩行ではなく服も身に着けておらず、銀色のただの犬にしか見えなかった。
 そして其処には仔犬達では無くあの無残に捨てられた赤ん坊達が無邪気に纏わりつき浄瑠璃人形が見守り、お互いがお互いを癒す様に、友として母として守護者として穏やかな時間を過ごす事が出来るのではないだろうか。
 其れは、若しかしたら、犬の君のやっと得られた安息の地なのではないだろうか。
 ふと。
 音が、聞こえた気がした。
 エンジン音が。
 船のエンジン音かと現実に戻ろうとした其の時、区画を区切っていた樹木の間から、見慣れた人影が現れた。
 妄想の、その、中に、ネイサン青年と、眼鏡ニイサンが、現れた。
 ネイサン青年と眼鏡ニイサンが何やら犬の君を指差し、犬の君が二人へ顔を向け、此方を見た。
 犬の君が此方を見る。
 釣られてネイサン青年と眼鏡ニイサンが此方を見、遠目で判る位に眼鏡ニイサンが目と口を丸くした。
 ネイサン青年が眼鏡ニイサンと此方を交互に見て口を開く。
 眼鏡ニイサンが、此方に駆け寄ろうとして、躓き、起き上がって此方に手を伸ばした。
 眼鏡ニイサンの口が、確かに、「メイベル」と動く。
 妄想の筈なのに、妄想の中の筈なのに、思わず、眼鏡ニイサンに向かって手を伸ばして居た。
 『私』わたくしの手を、眼鏡ニイサンが掴む。
 寒天の塊の様な硬くも柔らかい何かの中へ引っ張り込まれ、視界が歪む。
 其の侭ずぶずぶと引き摺り出された。

 星明かりの下、異国の風の匂いの中、おいおいと泣く眼鏡ニイサンの泣き声とネイサン青年の呆れた様な視線。
 犬の君の姿はおろか、赤ん坊も浄瑠璃人形も見当たらない、規則正しく碑の並んだ見覚えの有る場所。
 抱き締めて離さない眼鏡ニイサンの様子に、ホッとするやら何やらで、何か言わねばと口を開こうとして……。
 意識が暗転した。

 時刻は三時。
 眼鏡ニイサンがお茶の支度をし、ネイサン青年が近所の和菓子屋の塩豆大福を用意している。
 いつもの光景。
『私』わたくしの分は? 『私』わたくしの分は何処に有るのですか?」
「……あのねぇ、ヤギリン、君ねぇ……」
 其の塩豆大福はとてもとてもとても美味しいのですよ。
 其れは紛れも無い事実なのですよ。
 とすれば、『私』わたくしがお相伴に預からない訳が有る訳無いじゃありませんか。
「メイベルは未だ一寸無理かな」
 穏やかな笑顔で眼鏡ニイサンが、やっと目玉の入った生首つるっぱげの状態の『私』わたくしに宣告した。
 塩や埃や何やらを洗い落として磨き直して傷をパテで埋めたりして乾かして居る最中の、生首の『私』わたくしにもう一寸優しくしてくれても良さそうなものでは無いだろうか。
「髪も傷んでたし、睫も新しいの付け直さなきゃね。お化粧もして身体も乾かして補修して、暫くは我慢だねぇ」
 何と言う……何と言う酷い事を笑顔で言うのだろうか、此の眼鏡は。
 打ち拉がれる可愛い可愛いお人形を横目に、ネイサン青年が塩豆大福を頬張る。
 あああああああああ、『私』わたくしの塩豆大福がああああああああ。
「大丈夫、ちゃんと治ったら美味しい物いっぱい食べようねぇ」
「大体、何であんな所に居たのさ?」
 其れは此方の台詞ですとも。
「僕等はあそこにブラッグドッグが……」
「まぁまぁそんな事は良いじゃない。メイベルは元気になったら食べたい物決めておいてね」
 にこにこと、眼鏡ニイサンが塩豆大福を頬張った。
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