『セカンドスクール 』 ガングロが生存していた頃のある通信制高校野球部の軌跡

ボブこばやし

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城南高校新チームのスタート

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 カラオケボックスのカウンターに櫻井がいた。
「佐々木さんで予約してあると思うんですけど。」
「215室です。」
 店員は眼の下にあるパソコンのようなものを操作していった。
「そこ右にいってすぐの部屋です。」
 きょろきょろしている櫻井に指で指し示した。
 櫻井はトレーに満杯に積まれたジョッキーを軽々と運ぶ店員にぶつかりそうになり、頭をさげた。215室の番号を見つけ、その小窓に目をやると。薄暗い部屋の中から島倉千代子の『東京だよおっかさん』が漏れてきた。歌手はもちろん佐々木だった。マイクを持って立って熱唱する佐々木はテレビの画面に顔を摺り寄せるように近づけて、歌詞を追っかけているようだった。滑稽であったが悲壮感も感じられた。櫻井はそっと、邪魔しないようにドアを開けた。
「ここが二重橋。記念の写真をとりましょうか。」
 佐々木が歌いながら振り返えった。和服であった。
「びっくりした。」
「こんにちは。」
 櫻井は小さくお辞儀をした。
『びっくりしたのはこっちのほうだ。』
 櫻井は言いたかったが口をつぐんだ。
「どうしたの?」
 佐々木は他人事のように言った。
「どうしたのって。佐々木さんが超、超、大切な話があるから、この時間、この場所に必ず来ることって言ったから。」
「そうだっけ。」
「そうだっけじゃないでしょ。『ミッションインポシブル』みたいに、ほとんど指令に近かったじゃないですか。」
 さすがに櫻井は少しむっとなった。
 その間も『東京だよおっかさん』のメロディが独り言のように続いていた。
「先生。ごめんね。こんな所に呼び出して。ほんとごめん。ゆるして」一転して佐々木は猫なで声になって手を合わせた。
「ええ。」
 やはりメールで済ませばよかったと櫻井は後悔した。しかし、できない理由があった。口が裂けても言わないが佐々木は老眼だった。
「喫茶店か居酒屋かそんな所考えたんですけど。周りの人に、どうしても聞こえてしまうでしょ。秘密の話をする時には、個室がいいな。って考えて。デート喫茶ってもうないでしょ。」
 島倉千代子を絶対、意識していると思わせるように佐々木は髪の毛をボリュームアップし、風船のような頭をしていた。
 刺した花の簪でパチンと割れるところを想像すると櫻井は笑いをこらえるのが大変だった。
「デート喫茶って、2・30年前の話でしょ。」
 笑顔を隠すように櫻井は眉をひそめた。
「美樹ちゃんから手紙が来ました。」
 鷹揚に話すと、バッグから手紙を出し、カラオケボックスのガラスのテーブルに置き、手紙の上をバンと手の平で叩いた。
 櫻井はその音でフラッシュバックした。強風の東京湾の岸壁。照明灯のポールにしがみついている美樹。
「これです。」
 佐々木は櫻井の目を真剣に見つめながら、またパンと手紙を叩いた。『どうだ。観念したか。』
 佐々木が言っているようだった。
「そうですか。田中さんから。」
「そうです。」
 佐々木は何か櫻井の秘密を握っているように力を込めて言った。
「見ていいんですか。」
 櫻井は尻尾を握られることなんかないと虚勢をはった。
「私宛に書いてあるんですけど、『先生に読んでもらって。』って、書いてあるのよ。」
 渡された美樹の手紙が入っていた封筒にはヴァンダービルト大学と裏に書いてある写真が同封されていた。
『佐々木さん。お元気ですか。
 ナッシュビルは日本のように四季があります。アメリカにいても父と母と三人で日本のどこかに住んでいるのかと錯覚することがあります。語学スクールが決まって、すべて書類を提出し、完璧だったのですが、私は入学しませんでした。両親は『学校へ行けばなんとかなる。』と言います。でも私は耐えられそうもありません。薬がないとだめだし、カウンセリングも必要です。もちろん日本の薬で日本のカウンセラーです。
 3人の生活は久しぶりなので、お母さんは私の愚痴に慣れているけど、父は我慢ならないようです。私を最近は避けるようにしています。私がダメなので、父の夢にまで見ていた理想の親子の姿はかなえられないと思います。私の弱さがみんなをだめにしているようです。
 ごめんなさい。また佐々木さんにまで弱音を言ってしまいました。頑張らないと。頑張ります。
 先生に会っていますか。先生は元気そうですか。
 では、お互い、頑張りましょう。さようなら。』
 櫻井は力なくテーブルの上に手紙を置いた。
「『先生、助けて!』って書いてあるのと同じでしょ。先生、分かるよね。何でもいいから。何かしてあげないと。」
 佐々木は大きな手で櫻井の肩を揺すった。
「佐々木さん。無理ですよ。そんなこと言ったって、俺は無力です。」
「無力だっていえる人の方が。何か本当はできるんじゃないの。」
 佐々木は強い口調で櫻井を鼓舞するように言った。
 その後、二人は無言になった。カラオケボックスのモニター画面には二人の空気とは真逆なアイドルがべっとり塗った口紅の大きな口でジャンプしながら歌っていた。
                       *
 団地の中の野球場は背の低いフェンスで囲われた公園というか野原であった。外野には春の七草でも摘めるようにのどかに雑草が生えていた。内野はさすがに茶色であったが、3塁ベースの近くには生命力のあるタンポポが糊付けされたように這いつくばっていた。
 老朽化したベンチの中でも頑丈そうな所を見つけピンポイントに櫻井は座った。いつもの通り、これからどうやって試合に勝つかではなく、どうやって野球をさせるか、鮫島がユニフォームのボタンを留めていない時には没収試合にならないようにどうしたらよいか。その前に野球を成立される為にメンバーが揃うか心配しなければならなかった。集合時間三十分後に予定通り鮫島以外揃った。練習試合でさらに日曜日の7時集合、鮫島が来るべき要素はどこにも無かった。
「鮫島は、今日はダメか。」
 鮫島もチームの一員だ。それなのに来ないとはとんでもないことだといわんばかりに、櫻井はわざと怒りをこめて言った。
「仕事で来られないそうです。」
 堀井はすまなさそうにスパイクの紐を結んだ。櫻井は『堀井は自分より深いところか高いところにいて、教師と生徒とが逆転しているな。まずい。』と自戒すると同時にいつもの疑問『なぜ、前の学校を辞めてうちに来たの?』が頭を持ち上げてきた。
「そうか。」
 鮫島欠席でホッとした気持ちを見破られないように櫻井はぶっきら棒に吐き捨てた。
「これで、試合は無事に成立するであろう。勝敗はどうでも良い。」
「マジかよ。」
 櫻井の背中に書かれたヤレヤレの文字は太陽が雲に隠れるように消えてしまった。小川原が何かを手にして叫んだ。
「こんなところでやるんじゃねぇよ。」
 小川原は裂いたコンドームのパッケージを手にしていた。
「ちくしょう。こんなところでやるんじゃねぇよ。・・・まったく。」
「きたねぇな、オガ。早く捨てちゃえよ。」
 高橋さんが当たり前のことを言った。
「オガ、ここになにしに来てんだ。」
 櫻井が怒ると
「すいません。」
 小河原はパッケージを触った右手をユニフォームで拭いた。
「まったく、常識のない奴が多いよ。この世の中。」
 小河原は世間のせいにして少し気分が収まった。
「キャプテン、トスバッティングやっても良いですか?」
 その優しい声は神田だった。神田は今年2年生に転入してきた。前の学校は野球の強豪校でほとんどの男子は野球部だっということだ。神田は四軍に所属していたらしい。いくら四軍でも、グラブ捌きは秀悦したものだった。強烈なライナーでもショートバウンドでも、神田の上下左右に飛んだボールは使い込んだ柔らかいグラブに吸い込まれた。
 神田は高橋さんを誘った。
「私ですか?」
 草むらに座ってテーピングをしていた高橋は満面の笑みだった。
「お願いできますか?トスバッティングやりたいんですけど。」
「お願いされちゃいますよ。」
 おどけた高橋さんを見るのは初めてだった。
「すぐできるから。」
 高橋は二時間前からストレッチ、ランニングと準備万端だった。
 二人ともグランドに礼をして練習を始めた。
 二人が練習している光景は仲の良い親子という感じでほのぼのしていた。
「キャッチボール良いですか。」
 センターの中野が同じ野球部二年目の轟を指名した。
 草むらに座って競馬新聞に集中していた轟は爽やか野球少年の声に我に返った。
「わかった。ちょっと待って。」
 赤鉛筆を自分のバッグにしまった。
 藤沢は一応経験者だった。少し自閉症気味なのか一つの事に秀でいた。フライをとる才能はピカイチでフライがあがるといつの間にか落下点にいて、なんなく捕球した。後にクリーニング屋に就職しワイシャツのアイロンかけに才能を発揮したらしい。その他のものは全く興味を示さなかったらしい。
「集合!」
 キャプテンの声が『これから野球をするぞ!』と宣言するように団地に木霊した。
 魂がこもった甲高い声が窓辺に響いたせいか、いくつもの窓が開き、家人が眼下の野原のような球場を見下ろした。ホームベースを挟んで両チームの選手が整列した。城南高校も相手校も選手は統一したユニフォームではなく、まちまちの格好をしていた。ジャージを着ている者が多かった。球審が特別グラウンドルールの説明をした。
「では、ただ今より始めます。礼!」
 何事もない試合進行を願うように櫻井も深々と礼をした。
「お願いします!」
 両チームの選手が頭を下げた。
 もし、ここに鮫島がいたら、頭を下げることはなく、自分とキャラクターがかぶる相手チームの選手を見つけ、ガンを飛ばしていただろうと思うと、櫻井は背筋がゾッとした。
 考古学者のように球審は刷毛で埋もれたホームベースを探し出した。定時制通信制の試合では審判を外部に依頼するなど夢の夢である。公式戦の決勝でも野球経験者の教員が試合をコントロールした。予選や練習試合では櫻井のように素人がかり出された。『野球部の顧問はだれでも審判ができるようになる。』がモットーで、春には高校野球(硬式)のセミプロのような審判を講師に呼んで、審判講習会を行った。
 潤沢な高野連の試合では自信にあふれた審判が冷静沈着に試合を進行しているが、にわか仕立ての審判は実戦に出ると緊張もあり正確なジャッジといえないような場面も多々あった。どう考えてもミスジャッジの時は、アットホームの手作りの試合も、もめにもめた。もめるときの選手の激高ぶりはプロの試合に近いものがあった。5年前には、警察を呼んだという伝説の抗争事件があったらしい。
「プレーボール!」
 球審が宣言した。
 今日は今シーズン最初の試合で、城南高校のエースの初登板の試合であった。あの恥ずかしがりの大男徳山はマウンドの上に立つと、勇者のように精悍に大きく見えた。彼は断崖に立つライオンのように下界を見下ろしていた。彼の体躯から考えてそれができるキャパシティは十分あった。彼が『エイ!』とうなると落下するように速球が重力を突き抜けて小河原のキャッチャーミットに吸い込まれた。
 徳山が後日、重い口を開いて櫻井にボソッと言ったことには、中学校時代から名の知れたピッチャーだったらしい。ある有名私立高校へ特待生で入学し、甲子園出場の請負人と期待されたらしい。その将来を嘱望されていた投手が1年生の夏休みに鬱病にかかり2学期からは学校を欠席する日が続き、部活動もできなくなった。部活で入学した生徒は部活を辞めることイコール学校にいられないという鉄の掟によって1年の秋、退学して通信制の城南高校に編入してきた。
 徳山にとっては悪夢の1年の原因は『野球』だと思うが、徳山はそれを排除できなかった。スターダムにのし上がった歌手が場末のスナックかなんかで営業をやっているのと同じように、徳山は場末のスナックである城南高校野球部でも歌を歌い続けたかった。ボールを投げ続けたかったのであった。
徳 山の弱点は心だけでそれ以外何もなかった。上腕の筋力をはじめピッチャーとしての資質を完璧に備えていた。相手のバッターはど真ん中のボールでも擦りもしなかった。バットを振り切る前に小河原のキャッチャーミットにボールがあった。
 徳山は3回まで二十七球で投げ終えた。それが。あっという間に悪夢に変わった。相手チームの心無い野次ではない。相手チームのベンチは砂埃をあげて走る速球に口がポカンとなるだけで野次ひとつなかった。『手が痛いから、もう少し緩くな。』とキャッチャーに要求されたからではない。春の風にのってふわふわマウンドに遊びに来た蝶のせいであった。徳山は吼える百十の王から、気弱な羊に変身してしまった。
 四回も徳山の威力のあるボールはホームまでの軌道上のすべての障害物を抹殺していた。蝶々も例外ではなかった。徳山はマウンドを駆け降り、黄色い紙のような小さな分解された死骸を見つめ、手に取った。黄色の粉がロージンで白くなった徳山の手の甲についた。徳山はそれを遺書だと思った。すっと伸びた徳山の背中はカタツムリのように丸く、彼の殻に閉じこもっていった。徳山の眼は先ほどまでは何キロ先も見通せる野生の眼だったのに今はホームベースまでもかすんで見えた。コントロールは無くなり、ボールとストライクがはっきりし、力のない絶好球は容赦なく打たれた。
「タイム!」
 業を煮やした堀井が内野を集めて、徳山を励ました。
「どうした徳山。さっきまでいい玉きてたろ」
「すいません」
 徳山は肩を落とし、ミットからボールを力なく落とした。
「どうしたんだ。」
 堀井がボールをひろいあげ、捏ねながらキャッチャーに眼で聞いた。小河原は小首を傾げるだけであった。
「蝶々が・・・」
 合点がいかない二人の追求に答えようとするが徳山は声が出なかった。
「え?」
「蝶々が・・・死にました。」
 徳山はやっと答えを絞り出した。
「え?何て言った?」
 今まで聞いたことのない弁解に堀井と小河原は顔を見合わせた。
「だから、僕のせいで蝶々が死にました。」
 小河原が黄色い死骸を見つけ、足で突っついた。
「これのことか。」
「やめてください。足で。」
「ああ。」
 いぶかしげに言った後、小河原は蝶の死骸を指さした。
「でも、ホントにこれのせいでか?」
 何をほざいてるのかと言いたげに、小河原はサッサッとつま先で死骸に砂をかけた。繊細な蝶の羽より徳山の方が脆弱だった。徳山は背中を丸めて座り込んでしまった。
「先生!徳山ダメです。俺投げます。」
 堀井はベンチに居る櫻井に承諾をもらった。内野に集まった選手は一斉に腕を交差してバッテンをつくった。
「どうした?」
 ベンチから出られない櫻井は予期しない急展開の原因を知りたくて大声を出した。
「徳山が蝶々を殺しました!」
 堀井が大声で応えた。
「え?何?」
「徳山が! 蝶々を殺して、投げられません!」
 罪悪感でうな垂れた徳山は内野手全員の合唱にさらに、頭を抱えた。
「お前、ジャイナ教徒か。」
 櫻井は呟いた。
               *
 この試合には、神田君、年配の高橋さんや落ち着きのない藤沢君のほか無口というか、だれも彼が言葉を発したのを聞いたことがないサイレントマンの斉藤君もデビュー戦だった。
彼 は初心者であったが練習の虫だった。練習中、小気味よく動いた。言葉でコミュニケーションが出来ない変わりに、回りの選手の声にもあうんの呼吸で反応し、目の動きや仕草を即座に読みとり判断し、エラーのボールが転々としてようものなら、靴に特別な仕掛けがあるかのように機敏に拾ってきた。フリスビー犬のようであった。
 彼はドイツ軍のヘルメットのようなヘアースタイルであった。ボールを追う以外は下を向いていた。呼びかけには眼にかぶさる硬そうな髪の毛を二本の指でしなやかに跳ね除け上目遣いで見た。その眼は素直であった。箱から出した真っ白いニューボールのようであった。彼は下を向いていても耳はそばだっていた。
 1学期の終わり保護者会に来ていた母親に桜井は会った。
「試合のこと、メールで息子が送ってくれました」
 よほど嬉しかったのであろうと、母親はこの試合直後のメールを櫻井に見せた。
 そして、たったの一日、小学校の入学式に出席して以来、学校とは縁を切った状態で九年間、十年目にして学校生活に初めて関わった喜びを母親は涙を両手で拭きながら話してくれた。
「私はどうしよう、どうしようとあの子を見てきました。近所の子や街で見かける子はみんな学校へ行くのは当たり前、でも何であの子はその当たり前が何でできないのだろう。 
 私の育て方に間違いがあったに違いない。あの時、感情的に叱ったせいだ。あの時、甘やかしたせいだ。心当たりはたくさんある。もしかしたら、私の遺伝子のせいかもしれない。そう言えば、私の姉も人間関係が作れなくて不登校になったこともあった。
 毎日、悩みました。毎日、色々な本で調べました。学校、相談室、心療内科、フリースクール色々な所に行きました。
 小学校4年生の時、そう、四月でした。急に夜、まだピカピカのランドセルに新しい教科書や筆箱を詰め込んで学校の準備を始めたことがありました。晴天の霹靂だと、夫とこっそり手を取り小躍りして喜びました。
 翌朝、『お母さんも心配だから、学校まで一緒に行く。担任の先生にも会いたいし。いいよね。』と尋ねたら『うん。』と力はこもっていなかったけれど言ってくれました。ここからだ、3年遅れたけど、ここから十分巻き返せると思いました。余計なストレスをかけないように、通学班が行った後、家を出ました。学校までの途中、あんなに緊張したことは自分の人生を振り返ってもありませんでした。緊張のせいで二人ともよそよそしくまっすぐ前を向いて歩いていたことを覚えています。手をつないで行けば良かったと後で後悔しました。
 小学校の校門が見えました。事前に連絡していたので、担任の先生らしい女の先生が校門の所で迎えていました。はち切れんばかりの笑顔でした。私が先生にお辞儀をした瞬間でした。息子は猛烈なスピードで学校とは反対の方向に走り出しました。呆気にとられ逃げていく息子を追うと、息子の背中のランドセルが踊るように跳ね、中に入れた教科書や筆箱が飛び出していました。私はその時から諦めました。自分の頭の中から息子の存在を無くそうとしました。でも、そんなことできるわけないですよね。いつも一緒にいるんですから。
 一年ぐらい前からです。フリースクーのお母さんに教えてもらいました。『諦めちゃかわいそうよ。今を認めるのよ。肯定する。あなたのことを誰も分かってくれなくても、見方が誰一人いなくなっても、お母さんはあなたの見方。どんなことがあっても。そう思うように嘘でもいいから、毎日、愛情をかけ続けること。』って言われて何か光が見えたように思いました。そして、この学校に入学できるようになり、野球部に入って試合にまで出してもらえるようになりました。」
 櫻井はすごい母親の力に圧倒され、ただ相槌を打つだけだった。
 斉藤君のメールにはこんなことが書いてあった。
『打席でバットにはじめてボールがあたった。ピッチャーゴロでも初めてボールがバットにあたる手応えを味わった。練習のときとは違う感触だ。とうとう野球選手になったと思った。何秒でもない一塁ベースまでの時間にみんなの声援が聞こえた。『やったな。すごいな。走れ!』チーム一人ひとりの声が聞こえた。今までこんなに軽く足が動いたことはなかった。
 五回裏二死二塁の時、ライトにライナーが飛んできた。シュルシュルと音がした。思い切り右に出したグラブにボールが命中した。手の甲が痛いと感じた瞬間落球した。『ホームだ。ホームに投げろ!』という声が聞こえた。落ちているボールを拾い上げ、力いっぱい投げた。腕だけでなく全身で投げようとしたから、前のめりになり体ごと土ほこりの中に倒れた。『チクショウ!』僕は久しぶりで自分の声を聞いた。『チクショウ!チクショウ!』と僕は連呼した。カバーに入ったセンターが僕のユニフォームのほこりを払いながら、驚いて僕を見上げた。『先生!何か言ってるぜ。こいつ!』スリーアウトになりベンチに帰ってきた僕をみんなが手を叩いて迎えてくれた。僕、頑張るよ。』
             *
 五回裏が終わり、選手がベンチに帰ってきた。
「斉藤君、一番ユニフォーム汚れてるな。一番頑張った証拠だ。」
 櫻井が言わなくてはいけない台詞を堀井が言うと、自然に拍手がおっこった。
 しかし、櫻井はその中に確かに『チクショウ』という初めての斉藤君の声を聞いた。
「チクショウ。チクショウ。」
 斉藤君は、本番前の演奏家がチューニングしているように、『チクショウ。チクショウ。』と自分の本当の音程を探しているようだった。
「良いから、良いから。ミスはあるって。斉藤君ははじめての試合なんだからしょうがないって。みんなでカバーするから、大丈夫。気にするなよ。」
 紙コップに入った麦茶を堀井は斉藤君に差し出した。斉藤君は軽く頭を下げ、飲み干した。
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