『セカンドスクール 』 ガングロが生存していた頃のある通信制高校野球部の軌跡

ボブこばやし

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城南高校 全国大会登場

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 神宮球場のスタンドに立つと思ったより、狭かった。底の浅い中華料理の鍋を櫻井は連想した。鍋の周りには立錐の余地無く広告が書かれてあった。客がいない閑散とした中で広告だけがやけに目に付いた。鍋の底は人工芝が敷かれ、ピッチャーマウンドの後方から陽炎がゆらゆらしていた。この熱を利用してこの球場の鍋でマーボー豆腐を作ったら何人前できるかなとつまらないことが頭に浮かんだ。
「熱いでしょうな。」 
佐藤先生が日陰を探しながら、『もう、これで仕事は十分。』と聞き違えてもおかしくないように嫌気気味に言った。
「ヤクルトは1塁側のベンチですよね。」
 櫻井は話を変えた。
「私はテレビで野球中継など、あまり見ないものですから。そうですかね。」
 佐藤先生は応えるのも難儀なようだ。
「下に行きますか。この炎天下では、まぶしくてクラクラしてしまいます。」
 佐藤先生の後に櫻井は従って階段を降りた。スタンドの下はコンクリートの空間で素気なく、外気に比べて若干涼しかった。昭和の時代をむき出しにしていて、上野駅の昔の地下街を彷彿した。
 櫻井は以前、池袋の映画館に通い詰めて何回も見た黒沢明の『野良犬』の野球場のシーンを思い出した。そう言えば、あのシーンで追いつめられるやくざの靴音がコンクリートに響いていた。櫻井はここでも響くだろうなと思い思い切り手を叩いた。
「先生、何してるのですか?」
 佐藤先生は不可解に感じて、ぶっきらぼうに聞いた。
「先生何か飲みますか?」
 櫻井は誰も学校から応援に来てくれない中で唯一来てくれた先生に感謝し気を遣った。
「先生、申し訳ないですよ。今日の主役にそんなことさせては。私が買って来ます。良いんです。良いんです。コーヒー牛乳でいいですか?」
 佐藤先生は売店に走った。
「コーヒーだけのほうが。」
 櫻井はリクエストしようとして口ごもった。
 佐藤先生はガラスの瓶が汗をかいた冷たいコーヒー牛乳を二本抱えて、一本を一気飲みするともう一本を櫻井に渡した。
 一呼吸ついて余裕ができた佐藤先生は先ほどの質問に答えた。
「先生、お店のおばちゃんに聞いたら、ヤクルトは確かに一塁側でした。野村監督がいつも座っているのは。内は一塁側でしたよね。やりましたね。こりゃ、幸先がいい。」
 佐藤先生はこれからの試合の勝ち負けとは関係なく、櫻井の肩を叩いた。櫻井も佐藤先生に頷くとポオッと勝利の笑顔がこぼれた。
 櫻井も余裕ができたのか佐藤先生のスタイルに今更ながら感心した。上半身は都会を意識したのだろう。白いワイシャツに夏らしい水玉模様のネクタイをつけていた。しかし、下半身とのアンバランスは、痛快でもあった。紺の下の蕾んだジャージに靴はアディダスの三本線だった。
「先生、その靴、おニューですか?」
「わかりますか。応援で神宮球場に行くって、うちのペコちゃん、いや、うちのワイフというか、妻に話したら、買ってくれたんですね。」
 佐藤先生は自慢するように靴を脱いで、櫻井に靴の裏までを見せた。
「すごいですね。」
 櫻井はなんと返事をしていいものだか分らなかったので一応、褒めた。
「でも、櫻井先生、靴はいいんですけど、この格好はおかしいですかね。」
 佐藤先生は『そんなこと絶対ありません。』と櫻井に強く否定してもらいたいと哀願する視線を櫻井に送った。
「そんなことありませんよ。」
 櫻井は精一杯気を遣い、佐藤先生のセンスに全面的に賛同した。
「そうですよね。そうですよね。都会でもおかしくないですよね。」
 佐藤先生は完全に調子に乗り、自分のスタイルの論理的な説明に入った。
「やはり、生徒引率という校務なので白のワイシャツは当然です。この水玉のネクタイは少し都会を意識しました。しかし、おしゃれだけではだめです。野球の試合、つまり運動のために来ているのです。生徒が運動するときには教師も同じように、下半身はいつでも動ける状態でなければなりません。」
 佐藤先生はこの夏、三回目の管理職試験を受けた。ある先輩教師は事あるごとに言っていた。
『管理職になる人は授業や部活で生徒と関わるのが苦手だ。だから、管理職に逃げるのだ。』
 佐藤先生に限っていえばそれは違った。公式戦には必ず来てくれた。試合後は生徒に慰労の声をかけてくれた。練習にも時々参加してボール拾いをやってくれた。先生の授業は面白いと生徒の中で評判だった。櫻井にとって面白いとは最上の賛辞であったが、生徒から言われたことは一度もなかった。堀井ですら言ってくれたことはなかった。
 櫻井と佐藤先生は、再度、観客席に上がり、神宮球場を俯瞰した。いつもプロ野球や6大学の高次元の選手が力量を競っている野球の殿堂ともいえる場所。ここで城南高校野球部が試合をしても良いのか。信じられなかった。昔でいえば、身分の低い平民が王宮の重厚な門をあけてもらえるようなものだ。櫻井は歴史的な偉業を感じた。恐れ多い。櫻井は夢のようだった。本音を言えば、夢であって欲しかった。
 櫻井は何十年も前の修学旅行で行った京都を思い出した。京都の銀閣寺。そこにある平らにならされた白い砂、誰も足を踏み入れることを畏れる冷厳な場所。踏みいって自分の足跡を付けようなんて誰も脳裏に浮かばない。しかし、生徒がじゃれ合ってなだれ込んでしまい、足跡だらけにしてしまった。櫻井はお坊さんに昔の平民のように地べたに額をつけるほど謝った。櫻井は城南高校野球部の選手もじゃれ合って処女のような人工芝の上で寝転んでいないか心配した。
「・・・」
 目を合わせて、櫻井と佐藤先生は安堵した。
 選手の集合場所は入場券売り場にした。
 城南高校はどの試合でも目標は同じであった。「勝利」は二の次、副産物、まずは「全員集合」である。到着の順番は打順と同じで、一番が堀井でラストはライトの斉藤君だった。もちろん、鮫島はいつになるかは誰も知る余地もなかった。
 もう一つの情けない目標は背番号をきちんと背中に付けているかどうかであった。セカンドの鮫島は4番でなければならないのに4つまり『シ』は縁起が悪いから14にしてくれと無理難題を櫻井に持ち込んだ。これだけ反抗的なものの考え方をしているのに、超保守的な所もあった。反抗が革新と直接つながるものではないということを櫻井は鮫島から学んだ。十人きり選手登録していないのに、『14番は付けられない。』と言うと、『14はラッキーナンバーの2倍だから』と憚ることなく言い切った。その鮫島は櫻井の予想通り、集合時間に遅れた。
1塁側のベンチまでの道のりは迷宮のようだ。
「鮫島は絶対ここまでたどり着けないだろうな。森の中だったら、枝を折ってしるしを付けられたかもしれないけどな。」
 野村監督が座っていただろうあたりに鎮座し、櫻井は意地悪に笑った。
「心配ありません。」
 徳山は上から櫻井を見下ろしながら自信ありげに言った。
「→をつけときましたから。」 
 徳山は大きなひとさし指を視力検査の時のように横に突き出した。
「お前ね。」
 言いかけるやいなや櫻井はまた通路を逆走していた。矢印を探し、一枚、一枚はずしながら歩いていくと、タオルを頭に巻いたランニングシャツの鮫島に出くわした。白すぎるランニングシャツが目にまばゆく場違いだった。
「何やってんの。早くベンチへ行け!」
「何、怒ってんの?」
「もういい。早くついて来い。」
 ベンチに戻り、櫻井が試合の準備をしている選手をひとりひとりチェックした。一応に極度の緊張で唇が乾いているに違いない。さかんに唇をペロペロ嘗めていた。小河原だけはメロンパンをほおばって、口についた砂糖を嘗めていた。その他の選手はカチンカチンで手に取るように緊張感が伝わってきた。みんなでパントマイムを踊っているようだった。高橋は左手の甲に『人』の字を書いて盛んに飲み込んでいた。
 櫻井は高校野球のかりそめにも監督であった。緊張を解すために選手を集合させた。
「集合!」
 堀井に頼らず、櫻井は気合いの入った声でベンチの前に選手を集めた。
「みんな、緊張するのは分かる。みんなで大きく深呼吸しよう!」
「監督の言うとおり、深呼吸して、リラックスしよう!」
 堀井が率先して大きく息を吸って、思い切りはいた。
「ス~。はぁ~。ス~。はぁ~。」
 鮫島以外の選手が従った。
「よ~し。ノックだ。みんなベンチの前に整列!」
 堀井が叫んだ。キャプテンの責任感により堀井のプレッシャーは消滅した。
 その瞬間、今度は櫻井の血液が心臓から一気に発射され上昇した。櫻井は紅潮した顔を晒さないように帽子を目深にかぶり、打席の白線の脇に歩いて行った。
 顔は見られないようにしていてもムーンウォークのような歩行とその後のノックは球場全体に見事に晒し者にされた。重力が櫻井の周辺からなくなって、櫻井は宙を歩いているようだった。
 左手で揚げたボールは落ちてこずバットが下をくぐって、当たってくれなかった。
「ノッカー!何やってんの!しっかりしてよ!」
 鮫島らの容赦のない叱咤激励で、今度は櫻井の身体はマットか何かで巻かれたように固まった。
「セ ン セ イ。ダ イ ジョ ウ ブ。ですか。」
 ベンチでメロンパンをかじっていた時は余裕綽々であったキャッチャーの小河原に櫻井の緊張感が感染していた。小河原は櫻井にボールを手渡そうとするのだが、手が震えてボールが落ちてしまった。
 やっとサードに打ったバントのようなゴロを轟がトンネルした。緊張感は人間を素に戻すのか、ファーストの高橋はただのおじさんになったように足が縺れてボテボテのボールが来てもグラブではじいて、さらに右足でボールを蹴っ飛ばしてしまった。
 ショートのキャプテンと弱者に無関心な鮫島はゴロを難なく裁いていた。
「ノッカー!しっかりしろよ!」
 鮫島は無慈悲に手で投げたような切ない櫻井のボールの威力を罵った。鮫島は馬鹿にしたように素手でボールを掴み、下投げでホームに返した。
 櫻井の身体の血液は頭のてっぺんと心臓に滞留し手足の抹消神経まで回ってこなくなった。つまり、外野まで届くノックはできるはずもなかった。他流試合で負けた武士が片膝をついて『参った。』というように櫻井は刀ではなくバットを置いた。
「無理だ!三人でキャッチボールをしてくれ!」
 櫻井は外野に向かって叫んだ。観客席からは波のようにように嘲笑が襲ってきた。うるさい蚊が何十匹も耳元に飛んでくるようだった。手で払っても払っても逃げてくれなかった。ノックの最後はキャッチャーフライを上げなくてはならない。しかし、一度放棄しまったバットは使えず、手で真上に投げた。小河原も緊張感や羞恥心の極地に達していて完全に『ここはどこ?わたしは誰?』の世界に入ってしまっていた。上を見上げてもボールは空に吸い込まれていた。0.1秒後ボールは小河原の額に落ちた。
「ボテッ」
 鈍い音がした。球場はまた爆笑に渦に包まれた。
「みんな大丈夫か?」
 ベンチに帰ると一番大丈夫でない監督が労った。櫻井は頭のてっぺんから声を出しているような高い声に恥ずかったが、最早やけくそ気味であった。自分でもコントロール不能になっていた。選手もやけっぱちになっているのか、緊張感から解放されているようだった。
「よ~し。」
 櫻井は一人で盛り上がった。
「先生、あそこにいるの先生の彼女だよ。ほら、ビール飲んでるおばさんの隣。」
 鮫島がスタンドの上の方を目配せした。
「誰?」
 櫻井がベンチから少し乗り出してスタンドを見ると上の方に確かに美樹と佐々木がいた。目線を下げていくとネットに絡まって熱い視線を鮫島に送っているあの彼女がいた。相変わらず軟体動物のようにネットに絡まっていた。
 櫻井はさっきの失態を美樹に見られたかと思うと不健康な汗が額から湧きだしてきた。
「ティチャー、何おどおどしてるの?た・の・む・よ。」
 何を頼まれたのか分からないが、気持ちを早く正常に戻さなくてはいけないと櫻井は思った。
「鮫島、お前のタコじゃなくて彼女がネットに絡まっているよ。」
 櫻井は『教師としてどうかな。』と反省しながら鮫島をからかった。
 監督としての櫻井には初戦突破の確信があった。神宮球場は都会のど真ん中にある。つまり、蝶々等の昆虫系はいないと思われるからであった。
 でもよく考えると、虫がいないから、大黒柱がのびのびピッチングできて無双状態かといえば、そんなことはない。ピッチャーだけで野球をしているわけではない。エラー、ファインプレー、監督の采配等雌雄を決する要因はたくさんあった。『ピンチの後にチャンスあり、野球はツーアウトから。』何が起こるか分からないのが野球であった。9回二死からの大逆転劇、鳥肌が立つような感動的なメークドラマ。特に高校野球は直向きな球児が汗と涙で感動を誘った。
 城南高校野球部の華やかな一回戦はラフプレーと乱闘で観客の不快感を誘った。櫻井は茫然自失に陥り、不快な汗をタラタラ流した。 
 3回の攻撃の時だった。予兆もなしに事件は発生した。8番の藤沢が3累ゴロを打った。誰が見ても余裕でアウトであった。一塁手は藤沢がベースに駆け込む三秒前くらいに3塁手からのボールをキャッチしていた。ところが、ベースを踏めばアウトが取れるのに、走ってくる藤沢にタッチした。それも、藤沢の顔にファーストミットで思い切りビンタを食わした。
 鮫島の反応は早かった。
「ヨッシャー!」
 櫻井の脇を駈け抜けると、一塁手に向かってダッシュしダイビングエルボーをかました。その後は、本当の総力戦になった。高橋は理性を完全に忘れ、自分が還暦を過ぎていることも忘れ去った。鍛え上げた厚い胸をぶつけて次々と相手の選手をなぎ倒した。『手を出してない。』と主張するように、グローブのような両手は後ろに組んでいた。狼狽する相手選手の腕や首に紫だったり赤だったり黄色だったり色々な色のタトゥーが覗いた。相手チームの選手はこの暑い盛りの試合なのに長袖のアンダーシャツを着ていた。ある選手は首にテーピングをしていた。櫻井も変だなと思っていた。
「やっぱり、もんもんを入れているチームは荒くれ者だな。」
 選手全員が出払ったベンチで櫻井は他人事のように呟いた。
 十分後、優秀な審判が抗争を丸く収めた。
 大黒柱の徳山は何かの虫の毒牙にかかったように、目が据わり、人格が荒れ始め、それに連れてボールも荒れ始めた。ストライクが入らない代わりに敵チームの得点はどんどん入っていった。
「俺にピッチャー、やらせろよ。」
 抗争で右目に青あざができて弱っているはずの鮫島であったが、そんな時も人の弱みにつけ込むプロであることには変わりなかった。
 櫻井もさすがの堀井もほぼ放心状態で首を縦に振った。野球の神様は永久に得点を入れ続けるということはしなかった。訳の分からないうちにスリーアウトにしてくれた。
 試合が終わると、堀井はベンチの前に監督、選手を整列させ、観客席に向かって礼をさせた。『誰もいないコンクリートと青いプラスチックの椅子に頭を下げても意味あるのかな。』と櫻井は思ったが、『これも良き慣例なのだ。』と納得して堀井に従った。ベンチの片付けをしながら、相手チームの上の観客席を何気なく見た櫻井の目に助けを待っているように賢明にタオルを振っている佐々木と美樹が写った。櫻井は帽子をとって頭を下げた。
「あそこにいるのは、田中さんですか?」
 堀井も佐々木と美樹を見つけた。
「そうだな。」
 櫻井は無感情に答えたが、堀井は帽子をとって深々と礼をした。
「先生、先生。」
「何?」
 櫻井はゴミが落ちていないか最終チェックをしながら、やはり無頓着に答えた。
「先生、お願いしたいことがあるんですが。」
「堀井さ。お前もよく確認してくれるかな。ゴミとか忘れ物とか。」
「分かりました。」
 堀井はベンチの中を見回すと、総仕上げといわんばかりに、自分のタオルを使ってベンチを拭きだした。
「堀井、そこまでしなくてもいいよ。」
「よし、行こう。」
 二人はグランドに一礼するとベンチを後にした。櫻井は一年前の試合後を思い出した。櫻井はヘルメットが詰まった大きなバック、飲料水を入れるタンク、ボールケース、とにかく荷物が重かった。今はどうだ。自分のエナメルのバッグだけだ。一年をかけてこれだけ軽くなったのかと思うと少し感傷的になった。ストレスも軽くなって欲しいものだとも思った。
 チケット販売所の裏に全員が揃い、いつもの解散セレモニーを行った。
 鮫島もいた。鮫島はタバコを吸わずに、携帯電話もいじらずに櫻井の総括に聞き入った。悪態もなかった。
「ご苦労様でした!」
 堀井が最後に挨拶した。
「ご苦労様でした。」
 何と鮫島が素直に応じた。櫻井は連帯感が大きく成長したようで感無量になった。
「先生。」
 堀井は躊躇していた。
「堀井、そう言えば何かお願いしたいことあるって、さっき言ってたな。何?」
「次の試合を見ていってもいいですか。」
「そんなことか。見てくればいいじゃないか。俺は疲れたから帰るけど。せっかく来たんだから、よその試合も見て来いよ。」
「あの~。」
「何だ?」
「田中さんにもう一度、合わせてください。」
 堀井は唐突に言った。ありったけの勇気を絞り出したのか、堀井は抜け殻のようになって血の気が引いていった。
「先生、あのような女の人と海岸を走りたいのです。手を繋いでスローモーションのように飛びたいんです。」
 堀井は覚醒したように目を開いた。
「あ、そうか。」
 櫻井はただ圧倒されるだけであった。そこに、鮫島がタバコをくわえて通り過ぎた。櫻井の脳裏にテレビドラマのように海岸をスローモーションで走っているシーンが一瞬浮かんだ。隣には鮫島がいた。
「地球が四角になっても、絶対ないな。」
 櫻井は独り言で打ち消したが、櫻井の背中に戦慄が走った。
「先生、何ですか。」
「いや何でもない。分かった。田中さんに頼んでみるよ。」
 櫻井は人に頼まれると嫌と言えない自分の性格を『お人好しだな。』と嫌悪する一方、『面倒見がいいね。』と思われることを期待するいいかっこしいだった。
                      *
「佐々木さん、帰りましょう。」
 一気にテンションが下がった声で美樹が提案した。
「美樹ちゃん、先生に挨拶してから帰ろうよ。」
 佐々木はフェンスに顔をつけて、タオルを振り回した。
「私が来ていることを先生が見たから、もういいの。」
 美樹はダイヤモンドに背を向けてコンクリートの階段を上がっていった。
「美樹ちゃん、待って。」
 佐々木は手を膝にあてがって、前屈みになって上っていった。
 右手に国立競技場が見える木立の中で、美樹に追いついた佐々木は美樹のTシャツを掴んで歩みを止めた。
「ハアハア。どうしたの?仕事が終わっても、そうあっさりと帰らないものよ。せめて、『ご機嫌よう』の挨拶をしないと。」
 息が切れた佐々木はやっと、言葉が出た。
「私、もうついていけないのよね。最近、食欲ないし、痩せてきてるでしょ。その原因は何だろうって考えたんだけど、先生のこと以外、見つからないの。もう、一緒にいても、めんどくさいし、嫌なんだ。だから、今度『もう終わりにしましょ。』って言いに行こうと思うの。」
 佐々木は眼をしばたたかせた。
「そんなにシツコイの。」
 美樹はうなずいた。
「やだ。」
 佐々木は両手で口を覆った。
「メールは1時間ごと来るでしょ。電話はしょっちゅう。」
 呆れ顔の美樹が続けた。
「この頃、電話が鳴っただけで、胸が詰まって固まっちゃうの。この前ママと買い物から帰ってきた時、家の前の電柱の陰から、先生が覗いていたような感じだったし。」
「それ、ストーカーでしょ。」
 佐々木は眉間に皺を寄せた。
 田中と佐々木は黄色い電車に乗った。ドアが開くと小さな蛾が佐々木の目前を飛んで乗り込んできた。佐々木が手で払ったが、天井に止まった。やがて、そこで我慢していればいいものを迷い込んだ小さな蛾は飛び回った。座っている女の人のバッグの上に着陸して、悲鳴と同時に叩かれて絶命した。
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