『セカンドスクール 』 ガングロが生存していた頃のある通信制高校野球部の軌跡

ボブこばやし

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ストーカーにされた櫻井

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 櫻井は堀井と美樹との出会いをお膳立てした。
 土手の上から河川敷を見下ろすと何百ものビニールシートが碁盤の目のように置かれていた。土手の反対側には簡易トイレが並び、ドミノの駒のように女の人が並んでいた。三人は板チョコの形をしているコンクリートの壁を降りた。シートの間を、畳二畳分の所有権を侵害しないように気をつけて歩かなくてはならなかった。
「堀井、悪いな。一等席じゃないか。」
 堀井が確保したシートの先には見物客がいなかった。ほとんど川岸であった。花火の合間に釣りができそうだった。
「先生も田中さんも靴を脱いであがってください。一応、お菓子とか飲み物とかありますから、どんどんやってください。」
「悪いな、随分早くから来ないとこんな良い席とれないよな。」
「全然、大丈夫です。」
「いつから来てたんだ?」
「昨日の夜からです。」
「徹夜したのか?」
「全然、大丈夫です。」
 堀井は寝袋代わりに使っていたのだろう、肌掛けを丸めて自分の背中に隠した。
「悪かったな。」
 櫻井は人のために自分を犠牲にすることをいささかも負担と考えない堀井にあらためて感心した。
「楽しかったです。夜、寝ながら星を見られて。ただ、蚊が一杯いて、蚊取り線香を一杯焚きました。」
「そう言えば、蚊取り線香の臭いがするな。」
「虫除けスプレーもしましたし、虫は完璧によってきません。」
 堀井は胸をはった。櫻井は堀井のこの直向きさを学業の方に向ければ、卒業どころでなく飛び級も不思議ではないといつも思っていた。櫻井は真面目さのベクトルを変えなくてはもったいないと、教師の思考になっていた。
「堀井は世話好きだよな。人の喜ぶことをやるの何とも思わない。」
 櫻井は堀井の魅力を分かってもらえるように「うんうん。」と言いながら笑顔で美樹の方を向いた。
「そんなことないです。」
 謙遜ではなく堀井は本気で打ち消した。
「堀井君は内の野球部にはなくてならない存在だよな。キャプテンとして本当にまとめてくれてるよ。」
 櫻井は美樹にアピールしながら視線は堀井に送っていた。
「先生、僕のこと、買いかぶりすぎです。」
 堀井は赤面していた。
 肝心な美樹は体育座りをして天空の彩りを見上げていた。櫻井はこの場で話すような話題ではないと自分の交渉術のなさを痛感した。自分はキューピット役には荷が重いと感じた。
 多分、美樹にはこんな会話はどうでもいいことであるだろうと櫻井は見て取ったが、何か突破口を探さなくてはいけないと考えた。
 焦ったせいか、無理矢理こちら側に引き込むために素っ頓狂な話になってしまった。
「蚊がいても俺なんかの血はまずいって、寄ってこないよ。田中さんは美味しそうだって寄ってくるから、気をつけた方がいいよ。」
 美樹の後ろ髪がそよ風に揺れるだけで顔は振り向いてくれなかった。
「私って、そんなにポチャリしている?」
 逆に美樹は扉を閉めてしまった。
「そうじゃなくて。」
「最近、ストレスでカロリー取り過ぎてるから。」
 美樹は川に向かって吐き捨てた。
「そんなことないよ。」
 櫻井は力を込めたが、空しかった。
「ちょっと、トイレに行ってきます。」
 堀井は期待していたのとは違う空気を読んで、きれいに揃えた自分の靴をシートに手をつきながら履いた。堀井は美樹にも挨拶したが、美樹は気だるそうに頷くだけだった。
 花火大会は佳境にはいっていった。最前列の席は花火を観賞するというより体験するような場所だった。花火の打ち上げポイントが近すぎて火の粉が間近の川の中にジュッと落ちて来た。恐怖を覚えるほどではなかったが、臨場感はあった。
「先生、大丈夫?火傷しないかな。」
 二人きりになったビニールシートの上で美樹は三人でいる時とは違った表情で櫻井を見た。
「大丈夫だよ。」
 櫻井は立ち上がって花火を取る勢いで背伸びをした。
「なんか。」
 美樹は言葉を飲み込んだ。
「え?」
「なんか。余裕ありそうな先生は嫌いなの。おどおどしている先生が良いんだな。」
 体育座りした美樹が呟いた。
「私ね。ハンカチ落としみたいに、知らん顔してハンカチを相手の後ろにおいていくの。でも好きな人は一度も気づいてくれなかった。それでも、いいの。自分で合図を送ることができたんだから、それだけで満足なの。」
 櫻井は返す言葉を見つけられなかった。
「先生、私と堀井君が付き合って欲しいって思ってるんでしょ。先生、面倒くさいんでしょ。私といると。・・・高校の時もそうだった。みんな面倒くさくて。私に関わると、うざいって思ってた。・・・私、迷惑かけるだけ。迷惑かけるだけにいるの?」
 櫻井は本当の火の粉が自分にかかっていくことに戸惑いというか恐怖を少し感じ、へなへなと座り込んだ。
                     *
 美樹が櫻井の家の電話番号をどのようなルートで探したのか分からないが、櫻井の妻に美樹から電話があった。
川辺にはビルが不統一に並んでいた。いくつもの窓や看板から川面に灯りがこぼれていた。ゆらゆらと川が燃えているようだった。櫻井は石橋の欄干に両手を置き、自分を支えていた。やり場のない空虚感にコンパスを失い彷徨するうちにたどり着いたのが、この下町の古い橋の上だった。着物の帯が流れているような派手な川面を見ながら櫻井は思った。
『今の状況は小さな手漕ぎボートの艪が流され、それを見届けているようなものだ。意志が波間に消えていき、波にプカプカと翻弄されているだけだ。』
 蛇蝎のごとく櫻井を見る妻の顔が浮かんだ。別に嫌われることについては何の感慨もなかった。かえって、すべてを飲み込んで慈悲深い顔をされるよりよかった。
「あなた、本当にストーカーやってたの。あなた、馬鹿でしょ。」
 腐ったものを吐き出すように、妻は言った。
 櫻井は自分の存在も妻の存在ももしかしたら、テレビ画面の中にいる人かと錯覚するくらい、全く知らない遠い世界のものだった。櫻井は最近購入した液晶テレビのリモコンをオンにし、すぐ消した。妻との間にこのような重たい空気が流れたのは初めてではなかったが、いつもとは違った鬱陶しさから早く逃れたかった。
「先生がストーカーやってもいいの?それも生徒の。バカじゃないの。親から訴えられたらどうするつもり?え?クビになるのよ。クビになるのよ。どうするつもりよ。まだ、この家だってローンは一杯残ってるし。私にもっと働けっていうの。」
 妻は櫻井からリモコンを奪うとソファに投げつけた。
「あなたが、クビになったら、私の両親にどう説明するのよ。夫はストーカーやってましたって言えると思う。バカじゃないの。」
 妻は櫻井に向かって行き、弱って動かない櫻井の頭を何度も叩いた。
「やめろよ!」
 櫻井は初めて妻に大声を出した。妻は興奮のあまりゼイゼイ音が聞こえるくらい肩を振るわせていた。櫻井は少し、不謹慎だと自戒したが何か新鮮さを感じた。
 三日前の始業式の日だった。職員室の前に美樹がいた。
「先生、私、彼氏ができたの。」
「そうか。」
 櫻井はぶっきらぼうに言った。
「ごめんね。」
 美樹は軽く頭を下げて微笑んだ。
「ごめんね。って何で。よかったじゃない。」
 櫻井は首を傾げた。
「うん。やっと一緒にいて幸せだっていう人に巡り合ったみたい。」
「よかったな。」
 櫻井はその言葉より思いつかなかった。
 職員室前の廊下は新学期の初めで教員や生徒が人だかりを作っていた。喧噪の中で美樹の小さな声が聞こえた。
「・・・・もう奥さんの方に戻ってもいいよ。」
 滞っている櫻井と美樹に当たった生徒が不思議そうな顔をして二人を覗いた。
「・・・・・」
 櫻井も不可解な顔をした。
「何か誤解していない?」
 櫻井は周囲を気にせず、美樹の眼を直視し、疑問を投げかけた。
「誤解って?」
 美樹は全く理解していないようだった。櫻井は美樹の裏側に美樹と違った人格がいるように思った。そう考えないと辻褄があわなかった。
 自分では制御がきかず、波にもてあそばれている感覚だった。
                     *
「あの子、あなたのことをストーカーだって言ってたわよ。ホントなの?」
「そんなこと。」 
 櫻井は妻の質問には言い淀むしかなかった。
「あの子、校長先生に話すって。あなた、自分が何をしているのか、わかっているの?」
「何って、悪いことなど・・・してないよ。」
「あなた、いい。いい。クビになるかもしれないのよ。」
「そんこと。」
「ホントに馬鹿だね。あなた、ホントにそれで教師なの?」
「証拠は?証拠はあるって言ってたのかよ。」
なぜ、こんな風に苛立って言ったのか、自分はとても訝しいと言っているのと同じでなはないかと櫻井は後悔した。
「メールがあるって、あなたからのいやらしいメールが。」
「なんで、そんなメールが。あるわけないよ。」
 自分がストーカーでないということを弁明し始めたら、上滑りして、藻掻いても、藻掻いても、えん罪の穴の中に吸いこなれて行くだろうと櫻井は思った。予想もつかない展開にただ、どぎまぎしている方が、真実を訴えているように見えるだろうと櫻井は高をくくるしかなかった。単に、言い訳をするのは、かったるかっただけでもあった。
 それに妻との対決は必然的に負け戦だった。
 櫻井の結婚は八景島の事件で始まった。『ブルーフォール』という垂直落下型のアトラクションの真下で櫻井はプロポーズした。櫻井は『命をかけて君を守る。その証拠を今見せる。この絶叫マシンにこれから乗ってやる!』と一世一代の大見得を切った。櫻井の唇は紫色に変色し、まさに清水の舞台から落ちるような決意に満ちていたと後日、妻は他人事のように櫻井に語った。
妻 は櫻井の小度胸を見透かして『絶対、無理だから。』と『分かった。分かった。結婚するから。無理しないで。』と軽く受け止めて結婚を承知した。
 これも後日談であるが、
「哀れみよ。これに尽きわ。絶叫マシンにはあなたは何時間待っても乗らないと思ったけど。・・・だいたい、あなたが高い所が苦手だって分かってたから、タワー何とかと言うところには行かなかったでしょ。でもね。そんなこと言うと、あなた、いつまでも、めそめそ考えてどうなるか分からないし。自分の責任で廃人にするのは忍びないから。まあ、いいか。と靴を選ぶ感覚で結婚をしたのよ。だめだったら取り替えればいいやと思っていた。」
 妻は天井の蛍光灯も替えられない高所恐怖症の櫻井に代わって脚立に登って、物理的にも夫を見下しながら櫻井に語ったことがあった。
 顔も見たくないという妻のリクエストに答えてそれから一カ月、櫻井はマンスリーマンションに一人暮らしした。
月に八万円の出費は痛かったし、借りた部屋の下がスナックで夜な夜なカラオケの音がうるさかったことを除けば久しぶりの独身生活は正直、まんざらでもなかった。 
 美樹からの連絡もなかった。
                      *
 通信制で教師のメインの仕事はレポートの添削であり、毎日、束になって机に置いてあるノルマをこなした。櫻井のルーティーンは添削の前に赤鉛筆五本を鉛筆削りで削ってから始めることだった。
 出来の良いレポート、ほとんど無回答のレポート、何かのシミを付けてあるレポート。匂いを嗅ぐとそのだいたい成分を識別できた。タバコの匂いが染み付いていたり、その家で使っている洗剤もわかるような時もあった。悪筆で判別できないレポート。間違っている場合はヒントを書いたり、完璧なレポートには『よくできました。』と文房具屋で買ってきた可愛いスタンプを捺したりした。 
通 信制では教師と生徒を結ぶのは日常レポートのやり取りだけであった。生徒が教師に分からない所を質問する場合、逆に教師がサゼスションする場合、電話を使うケースはほとんど無くレポートの余白に生徒、教師相互で書き込んだ。超アナログ的なコミュニケーションのとりかただった。櫻井はインターネットの掲示板より味わいがあるというか血が通っているように思っていた。
 生徒の字体をみると何となく生徒の素顔が見えるように思えた。教科とは関係ない人生観を訴える文章も沢山あった。櫻井は地歴の問題より、余白にある生徒の心情を書き綴った文章を読むのが楽しみだった。生徒から教えられることも多った。
『全日の高校を家庭の事情で中退し三十年たった。その間、もう一度勉強したいという気持ちはくすぶり続けていた。十五から十六の頃とは違います。自分自身が学びたいというそれだけです。一生懸命勉強して自分の力にしたい。エネルギーにしたい。』
『中学はほとんど授業も受けず、親や先生に迷惑ばかりかけていた。人より早く仕事をしてお金を稼いだ方がいいと思った。でも働いてみると勉強を頑張った人とそうでなかった人に差が出るという事がわかりました。例えば、一つの問い対して自分は一つの答えしか出せないのに勉強を頑張った人はいろいろな知識からいろいろな見方や考え方で何通りもの答えが出る事です。』
『通信を選んだのは、先生と会う回数が少ないから。先生って嫌い。自分の意見を言ったら必ず反論してくる。受け入れてくれなくてもいいから受け止めてほしい。』
『高校を中退してから、いろいろな人と出会っていろいろな経験をしてきた。きっとそれで良かったのかもしれない。あのまま、不安定な気持ちで高校を卒業していたら、それこそどうしていたかわからない。私を支えてくれている人たちがたくさんいるということに気づいたので良かったと思う。』
『ぼくは十五歳、中学を卒業した頃に精神的な病いにかかり高校にかよっては見たものの結局中退になりました。今もまだ病気の療養中です。ぼくには昔の学生生活にとても後悔がありました。中学、高校と続いた部活の時の仲間に対する態度や先輩後輩の関係、友達づきあい。中学の時に気づいて高校では失敗しないようにしようとしてきたことが完全にはできなかった。それに病気のひどいときには何もできなかったので、あまりにも無知な成人になってしまいました。だから、この通信で勉強して知識を蓄えることはもちろんのこと人格としてもすばらしい人間になるためにこの学校で学びたいと思っています。』
 櫻井の心に響く、書き込みはたくさんあった。その都度、櫻井は自分の思いをレポートの隅に書いた。
               *
 秋、夕暮れでボールも見えなかった。
「堀井、せっかく球場を見つけてくれたけどこれじゃ練習無理だな。」
 仕事を終わらせて駆けつけた櫻井がボールとバットケースを少々不満げに置いた。
「大丈夫です。照明が今、つきますから。」
 堀井が合図をすると、ファーストの方角から一本のヘッドライトの線がグランドに走った。
「もう一つ照明があります。」
 一瞬間が開いた後
「オガ!」
 堀井は怒鳴った。
 二本目の照明が今度はサードの方角から走り、ピッチャーマウンドの上で交差した。
「すごいな。内野の守備練習ぐらいできそうだ。」
 櫻井は堀井の野球に対する貪欲さに感心するとともに堀井の生活は収入面を抜きにすればまさしくプロだと確信した。すると、小河原の照明が突然消えた。
「カシャ、カシャ、カシャ、カシャ、カシャ」
 何回か点滅した。
「オガ!何やってんだよ。」
 堀井がまた大きな声を出した。
「アイシテルのサインだよ!」
 小河原は夜空にむかって自分の感情を吐き散らした。
「どうしたんだ。あいつ。」
 櫻井はいつもの不可解な行動にいつものように首を傾げた。
「すいません。またフラれたみたいです。」
 野球部の部員のことであれば、黒子の数も分かっている堀井は、自分のことのように悲しい声で櫻井に説明した。
「でも、アイシテルのサインはバイクだよな。」
「先生、忘れてましたが、もう一つの照明は誰のヘッドライトだか分かりますか。」
 一変して堀井は悪戯っ子の目になって笑った。
「誰?」
 櫻井は堀井のせっかくの演出を壊さないように優しく聞いた。
「絶対、分かりませんよ。」
 堀井はめずらしく得意げになった。
「誰だ?」
「わかんないですか。」
「誰?」
 櫻井は苛立つことなく、逆に答えを自分が握っている優越感を味わっている堀井が可愛らしくなった。
「伊藤君のお父さんです。」
「伊藤君って?」
「先生、忘れたんですか。伊藤先輩ですよ。サード守っていた伊藤さんですよ。」
「伊藤のお父さん?なんで?」
 堀井の可愛らしさは消えた。
 伊藤の父親は暗がりから姿を現わし、ヘッドライトに照らされた。
『偉そうなこと言いやがって。』
 櫻井は以前、家庭訪問をした時、この父親に胸ぐらを掴まれ唇の震えが止まらなかったことを思い出した。
「先生、お久しぶりです。」
 父親は太い腕の先に付いたグローブのような手で坊主頭を撫でた。
「卒業式の時はご挨拶になさらずに、ご容赦しました。」
 父親は急にかしこまると、精一杯の何となく意味はわかる敬語を使い、ゆっくりと直角に頭を下げた。遮蔽していた大柄の身体が折られるとヘッドライトのまばゆい光が直に櫻井の目に入った。櫻井は眩しさから逃れるようにグランドの方に身体を向けた。頭を上げた父親は櫻井が機嫌を損ねたと思ったのか、櫻井の前に出ると、今度はイギリス人のように頭をカクンと曲げただけの挨拶をした
「先生、茂は元気で大工やってます。」
「そうですか。」
「なんか、真面目になりまして、一日も休まず仕事してます。休みの日も遊びにも行かず、パソコン買って、カチャカチャ家でやってます。入学金ためて、先生が何時か言ってたゲームなんとかの学校に入りたいって、貯金してるんじゃないんですか。」
「よかった。自分のゴールに向かって、頑張ってるんじゃないですか」
「たいしたもんです。先生、たいしたもんです。」
 父親は自分を納得させるように繰り返すと、声を詰まらせた。櫻井も急に胸が熱くなった。父親は太い人差し指で目の下に湧いた涙を拭いた。
「先生、心配しないでくださいよ。一銭も息子の金使ってないです。」「はあ?」
 胸を熱くさせた次の言葉には似つかわしくない、どうしようもない言葉に櫻井は呆気にとられた。
「まあ、自分で稼いだ金をどう使おうが息子の勝手ですから。私は何も言いません。」
「そうですね。」
と答えるしかなかった。
「先生。ボール拾でも何でもやりますから、手伝わしてくださいよ。来年、この学校に入学して、高校卒業しようかと思いまして。」
「エッ!」
「そうなったら、学校生活をエンジョイするためにやっぱり部活動もやりたいななんて思いまして。」
 伊藤の父親は白髪の交じった坊主頭を掻いた。
「エッ!」
 櫻井は頭に血が上るが早いか。胃液も上がってきた。
「先生、伊藤君のお父さんが入部してくれたら鬼に金棒ですよ。」
 堀井が混乱して青ざめた櫻井に致命傷を負わせた。
「お父さん、一度高校を卒業した方はもう二度と高校へ入学できないんですよ。」
 鬼に金棒どころか、櫻井は『鬼は外!』で豆を巻いて絶対に入れたくなかった。
「先生、心配しないでください。私も茂と同じで、高校1年の秋に中退ですから。」
 父親は自慢そうに胸を張った。
「そうですか。」
「先生、茂に聞いて、入学のために何が必要か、心構えは何か。万全です。抜かりありませんから。アハハハ。」
 父親は豪快に笑った。
「ユニフォームに着替えますから。」
 櫻井は父親に感づかれないように落胆の色を父親に背を向けて隠した。
 次の年の三月、入学手続きを無事終え、伊藤の父親は四月に本当に入学した。入学式には息子の卒業式に着ていたあのつんつるてんのスーツをまた着ていた。
 入学手続きの時、編入の場合、退学した高校の調査書が必要であった。ところが、伊藤の父親が在籍していた高校は廃校になっていて調査書は発行されなかった。『何か、それに代わるもの。在学していた証拠になるもの。例えば通信簿とか。』と聞いた父親は家中の物をひっくり返して、やっと仏壇の引き出しから茶色に変色した高校一年の通信簿を見つけだした。
 櫻井はその手書きの通信簿を父親から見せてもらった。よく保管していたなと感心すると同時に、通信簿の保護者宛の所見欄にある一言に櫻井は驚いた。『粗暴』と記入されていたのだった。父親も高校時代、相当、手を焼かせていた生徒だったことが容易に想像できた。いくら昭和三十年代でもこの憎悪に満ちた一言を担任が保護者に投げかけることはしないだろう。よほど困りに困って担任は本来、『凶暴』と書きたかったところを一ランク落として『粗暴』にしたのかもしれないと櫻井は想像した。
 今では、ネガティブ言葉を使用することは絶対あり得ない。もし、『粗暴』などと調査書に記入したら管理職の決裁は絶対におりない。人当たりの良い、ありきたりな、愚にも付かない言葉で濁すの常であった。
               *
櫻井はムキになってノックを打ち続けた。自分に付いた悪霊を払いのけるようにバットを振り回した。
『禍福はあざなえる縄のごとし。櫻井先生も良いことあるから。』
後藤先生が学校を出る時に、背中に投げかけた言葉を櫻井は思い出した。
練習の最後はベースランニングだった。櫻井も選手に混じって走った。鬱積したモヤモヤを汗と一緒に対外に放出するためにだった。しかし、おっさん櫻井は二塁ベースを越すと両手を膝につけて止まった。悪霊が憑いたように背中を丸めてゼイゼイと息を乱した。
                  *
「センセイ。お疲れ!」
 練習が終わりバックネット裏にある粗末な水道で櫻井が顔を洗っていると、しばらく聞いていなかったフレンドリーな太い声が聞こえた。
「先生、遊ぼう!」
 振り返ると佐々木だった。
「どうしたんですか?」
 余りにも白塗りな化粧で佐々木であると断定はできなかったが、大柄で紫を着ている女性は佐々木以外には考えられなかった。
「何で、ここで練習しているって分かったんですか?」
 櫻井はいつもの通り佐々木の前では少し怪訝そうな顔になった。
「キャプテンから聞いたの。たまに堀井君とはメールしてるし。」
 佐々木はハンドバッグから携帯電話を出すと、意味なくパカパカと開閉した。
「堀井君、よっ。」
 佐々木は田中角栄のように片手を揚げて堀井に挨拶した。
「いつも、お世話になっています。」
「いいんだよ。よっ。」
 また、佐々木は右手を挙げた。きっと、佐々木の方が迷惑を堀井にかけているのに違いないと櫻井は直感した。
 そこに伊藤の父親がゼイゼイ息を切らしながら飛び込んできた。
「先生、ボール全部拾ってきました。」
 スーパーの買い物かごに入れたボールを櫻井に差し出した。
「そんなことしなくても良いんですよ。」
 さすがに櫻井も迷惑そうな顔はしなかった。
「来年、野球部の新入部員ですから。その練習です。」
「そうですか。」
「来年は全国大会優勝ですよね。」
 ニコっと笑った父親の顔が街頭の明かりに照らされた。
「整ちゃんだよね。伊藤さんちの整ちゃんだよね。」
「俊子だよ。」
 佐々木は白塗りの顔を人差し指で指した。
「え、え、としねえですか?」
 伊藤の父親は後退りをした。
「お前の発音は違うけど、としねえだよ。」
「何で、こんな所にいるんですか?」
 父親は佐々木との上下関係を現わすように若干姿勢が正しくなり、その分腹の出っ張りが目立った。
「馬鹿、私、去年まで先生の学校で女子高校生だったもん。」
 太い女子高校生の声に変った。
「ね~先生。」
 櫻井も街頭の下で着替えている部員も事情は皆目見当も付かなかった。
「ちんちくりんの整ちゃんだよね?」
「そうです。今はこんなになっちゃいました。」
 父親は腹を叩いた。
「お前、まだあそこの団地に住んでいるのか?」
「そうです。いや懐かしいな。姉さん全然変ってないです。石蹴りしていた小学校の頃と同じようです。」
「その頃、私、中学生ぐらいか?」
「もうちょっといってたと思います。」
「そうか。そう言えば、お前、いつもメソメソ泣いてたな。」
「いつもいじめられていましたから。姉さんにはずいぶん助けられました。」
「親父さんはまだいるか?」
「死にました。上で売れない小説、まだ書いているんじゃないですか。」頭上の枝葉の間に見える夜空を二人は見上げた。
「そうか。」
 感傷に浸っていた矢先、佐々木の目的があらわになった。
「整ちゃんも付き合え。これから先生とカラオケだから。先生の車に乗れますよね。こんなおデブでも。」
「としねえ、私、車で来てます。私が乗せていきますよ。」
「良いんだよ。私は先生の車で行くから、余計なことしなくても。」佐々木は子供を叱るように伊藤の父親を注意した。
「佐々木さん、私、明日があるから、帰りますよ。」
 櫻井はほとほと参った顔をした。
「私だって、明日があるけどカラオケに行きたいの。明日がなくなったら行けないでしょ。」
 佐々木は櫻井の手を握って上下に振った。
「その格好で良いから、早く行きましょう。もう何歌うか決めてきたんだから。」
「ユニフォームぐらい着替えさせてくださいよ。」
「いいの。どうせ車なんだから、誰も見てやしないですよ。」
 佐々木の独壇場になっていった。
「じゃ、行きますか。先生とのランデブーを邪魔されちゃうけど、久しぶりに会ったから、お前も連れてってあげる。私たちの車の後を付いてきなさい。」
 佐々木は櫻井のユニフォームの黒いベルトを握っていた。櫻井は身体を確保されていた。櫻井は最近、自宅へ帰還したが、とみに帰宅恐怖症気味なので、佐々木の強引な誘いに結局へなへな従った。
 カラオケに着いて、注文した乾き物のポテトチップを一枚食べると櫻井の耳には佐々木の歌う『唐獅子牡丹』も伊藤の父親が絶叫する『闘魂込めて』も子守歌のように聞こえてきた。朝から身体の表面にくっついていた疲労がだんだん精神力のバリアを突き破って身体の中に侵入してきた。
 カラオケボックスの長い堅いソファには睡眠薬が塗り込まれているようだった。櫻井は寝てしまった。
       
     おわり

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