しえるのショートショート

杏栞しえる

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9月『チョコレートコスモス』

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 ついに手が止まった。微かにするチョコレートの香りがそうさせたのだろうか。まるで誰かがお菓子作りでもしているみたいだ。
 ぐつぐつぐつぐつ。赤いお鍋を思い浮かべてみる。チョコの海をかき混ぜて、くまちゃんの型に流し込むのかしら。目を閉じるとチョコのくまちゃんが可愛いラッピングを施されているところだった。
再び目を開けると、私の手元にある絵の具はとっくに乾いていて、絵筆もかぴかぴ。いつの間にか寝てしまっていたみたいだ。
 「チョコレート」今でも大好きなのに、最近は食べていなかった。それに気がついた途端に家から飛び出していた。オレンジ色の空が出迎える。電車が通り過ぎるとぎゅうぎゅう詰めの人たちが見えた。私は相変わらず人気のない線路沿いの道をゆったりと歩いていく。道半ばで年季の入った看板に花屋という文字を見つけた。おそらく普段は早足で通り過ぎる場所だ。何が置いてあるのだろうと覗くと、色とりどりの花の中でもピンク色のコスモスが目に入った。
「もう秋だったのかぁ」
 一人でつぶやいて吸い込まれるように中へ入っていく。本当に色々な花の香りが混ざっている。けれどその中にチョコレートの香りを感じた気がした。
「何かお探しですか?」
 看板に不釣り合いなほど若い女の子の店員さんだった。もしかしたら私よりも年下かもしれない。
「あ、あの……」
 次の言葉を待っている顔で見つめられる。
「えっと、チョコレートの香りがした気がして……」
 店員さんの驚いた顔を見て、私はばかなことを聞いたと思った。
「よくわかりましたね!」
「え?」
「チョコレートコスモスっていうんです」
 そういうと近くにあった赤黒い花を見せた。試しに嗅がせてもらうと、たしかにチョコレートの香りがする。ただ本物のチョコレートとはまた違った感じだ。私が難しい顔をしていたのか店員さんが申し訳なさそうな顔をしていた。
「すみません。贈り物向きではないですよね。興味を示される方が少ないのでつい……」
 その言葉を聞くと、地味な色と思うのも失礼な気がした。
「私、それ買います!」
 若い店員さんは再び驚いた顔をさせて、その後はとびきりの笑顔に変わっていた。自宅用と告げるのも恥ずかしくて、いない姉を作り出した。
「お姉さん、きっと喜んでくれますよ」
 シンプルなラッピングに包まれて、さっきよりもおしゃれな雰囲気になっている。
「ありがとうございます」
 時々鼻に近づけながら、帰路についた。窓辺に飾ると、妙にしっくりくる。赤と茶色と黒をパレットに出した。くるくるくる。絵筆も軽やかに、感覚で滑らせていく。久しぶりにイメージが湧く日だ。チョコレートのくまちゃんを添えてもいいな、そんなゆとりをもって絵を眺めていた。
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