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27.真実と虚飾と
アンネリーゼの話は、一人の女性として彼女が決めた厳しい道であった。
「生涯愛する人は一人と決めているの」
細い指が持ち上げたカップから静かに湯気が立つ。その向こうで微笑むアンネリーゼはそういった。
彼女が髪を結わないのもその決意の表れ。
彼女の愛する人は、アリスの父親であるヴィリス帝国の皇太子その人だ。
「わたくしはね、器用ではないのよ。そして気が強いの。一度の二人の男を愛せはしないし、愛したいとも思わない。そして多くの愛を得ることも望んでいない。
貴女を産んだ後、修道女になるつもりだったの。わたくしの中でそれはもう決定事項で、あの方以外に縁を結ぶことも、体を許すことも考えてはいなかったわ。
でも、それは公爵である父が許さなかった」
父とはアリスも会ったことがあるベルトラム公爵のことだ。表向きは皇太子とのことを娘を傷つけたとして抗議したとされている。
高位の貴族家、それもイスブルグ王国で筆頭公爵家であるベルトラム家に於いて、娘の価値、アンネリーゼの価値は計り知れない。実際に、他国との縁を結び国に利を齎すはずだった娘である。
「父は、子供たちの中で一番自身に似ているわたくしの事を、正しく理解していらしたわ。生半可な相手ではわたくしが頷かないこともすでに分かっておられたの。だって、最初に心を奪われたのが大国の皇太子様なのよ? それこそわたくしのお兄様でも太刀打ちなんてできない相手よね。
で、そんなわたくしを分かっている父から齎された婚姻が、このグラーツ家とのお話だったのよ」
アンネリーゼが言葉を切った。エーミールが『難しいお話なら遊んできていい?』と聞いたからだ。
アンネリーゼが許可を出すと、小さな弟たちは、お菓子を急いで口に放り込み、四阿から元気に庭へ走り出ていった。
アリスはそんな二人の背中を見送って、改めてアンネリーゼと向き合った。二人きりだ。
「マックス様はね、わたくしが嫁ぐ頃にはすでにあのお姿だったわ。子を為すのは無理だと一目でわかるわね。
でも世間的にはあの姿を見せてはいないの。王都の貴族たちも、老齢で引退をしたと知ってはいても、あの姿を知っている者はほとんどいないのではないかしら。わたしくだって、お会いするまでは全く思ってもいなかったもの。
ダニエル様は早くに伯爵を継承したから、マックス様は悠々自適の隠居生活を送っているというのが世間の認識なのよ。
マックス様は、事故であのお姿になったの。そして同じ事故で、夫人を亡くしているわ」
アリスはひゅっと息を吞んだ。母が後妻として嫁いだことは聞いていたけれど、前夫人がこの場にいない理由については初めて聞いたことだった。
マックスは、車椅子に乗っている。足が不自由ということだ。屈強な武人であった彼が歩けなくなるほどの怪我だったということ。
「マックス様は夫人一筋の人よ。深く愛しておられる。
父に連れられて、マックス様にお会いしたとき、こう言われたの」
『妻はとても娘を欲しがっていた。そして私も娘がいたらと思ったことが何度もある。私たちには息子しかできなかったからね。
あれが私を残して逝ってしまったから叶わぬ夢になったと思ったが、もし君が私の元に来てくれるなら、妻の夢が叶う。君を全力で守ると誓おう。私の娘になってくれないか』
「それはそれは嬉しかったの。わたくしの境遇も理解して、そう言ってくださっているのがわかったから。
それは父がわたくしのために、マックス様に信頼して話をして、全てを託してくださったのだとわかったから。
だから、わたくしはここへ来たのよ。マックス様の養女として、ね。
対外的には、後妻になったと発表されたけれど、その実、戸籍は娘なの。そしてあろうことか、ダニエルはわたくしに息子を託してくれた。
それはエーミールを守るためでもあったし、わたくしのためでもあった。
この辺境は、疵物のわたくしにとても優しくて、家族として愛してくれる掛け替えのない場所になった」
アンネリーゼの手が、アリスの髪を撫でた。その細くてしなやかな手はとても暖かい。母の尊厳はこの地で守られ、今こうしてアリスに触れている。
アリスは、自分が産まれた時のことをもっと知りたいと思った。実の父は、育った国の皇太子で、近々皇帝となる人である。アリスにとっては、雲の上の人であり、絵姿でしか見たことのない人だ。
アンネリーゼと父は、どのようにして恋をして、アリスを授かった時、どんな気持ちだったのか。自分の出生について聞かされた時から知りたくて、でも誰にも聞けなかったことだった。
「……お母様は、わたくしがお腹にいると分かった時、どんなお気持ちだったの?」
「それはもう、どれだけ嬉しかったか! この体に命が宿った知った時は、女人であることを誇りに思った。わたくしの腹で貴女はどんどん大きくなる。触れれば、中で動く貴女が生きていると教えてくれる。
もう何も要らないと思ったわ。貴女さえいたらそれでいい。
でも、わたくしは貴族の令嬢で、何一つ一人で出来ることなんてなかった。
だから、わたくしは決めたのよ。貴女を守るために、父の……
いや、違うわね。父を巻き込んで、あの方が作った計画に乗ることを」
「生涯愛する人は一人と決めているの」
細い指が持ち上げたカップから静かに湯気が立つ。その向こうで微笑むアンネリーゼはそういった。
彼女が髪を結わないのもその決意の表れ。
彼女の愛する人は、アリスの父親であるヴィリス帝国の皇太子その人だ。
「わたくしはね、器用ではないのよ。そして気が強いの。一度の二人の男を愛せはしないし、愛したいとも思わない。そして多くの愛を得ることも望んでいない。
貴女を産んだ後、修道女になるつもりだったの。わたくしの中でそれはもう決定事項で、あの方以外に縁を結ぶことも、体を許すことも考えてはいなかったわ。
でも、それは公爵である父が許さなかった」
父とはアリスも会ったことがあるベルトラム公爵のことだ。表向きは皇太子とのことを娘を傷つけたとして抗議したとされている。
高位の貴族家、それもイスブルグ王国で筆頭公爵家であるベルトラム家に於いて、娘の価値、アンネリーゼの価値は計り知れない。実際に、他国との縁を結び国に利を齎すはずだった娘である。
「父は、子供たちの中で一番自身に似ているわたくしの事を、正しく理解していらしたわ。生半可な相手ではわたくしが頷かないこともすでに分かっておられたの。だって、最初に心を奪われたのが大国の皇太子様なのよ? それこそわたくしのお兄様でも太刀打ちなんてできない相手よね。
で、そんなわたくしを分かっている父から齎された婚姻が、このグラーツ家とのお話だったのよ」
アンネリーゼが言葉を切った。エーミールが『難しいお話なら遊んできていい?』と聞いたからだ。
アンネリーゼが許可を出すと、小さな弟たちは、お菓子を急いで口に放り込み、四阿から元気に庭へ走り出ていった。
アリスはそんな二人の背中を見送って、改めてアンネリーゼと向き合った。二人きりだ。
「マックス様はね、わたくしが嫁ぐ頃にはすでにあのお姿だったわ。子を為すのは無理だと一目でわかるわね。
でも世間的にはあの姿を見せてはいないの。王都の貴族たちも、老齢で引退をしたと知ってはいても、あの姿を知っている者はほとんどいないのではないかしら。わたしくだって、お会いするまでは全く思ってもいなかったもの。
ダニエル様は早くに伯爵を継承したから、マックス様は悠々自適の隠居生活を送っているというのが世間の認識なのよ。
マックス様は、事故であのお姿になったの。そして同じ事故で、夫人を亡くしているわ」
アリスはひゅっと息を吞んだ。母が後妻として嫁いだことは聞いていたけれど、前夫人がこの場にいない理由については初めて聞いたことだった。
マックスは、車椅子に乗っている。足が不自由ということだ。屈強な武人であった彼が歩けなくなるほどの怪我だったということ。
「マックス様は夫人一筋の人よ。深く愛しておられる。
父に連れられて、マックス様にお会いしたとき、こう言われたの」
『妻はとても娘を欲しがっていた。そして私も娘がいたらと思ったことが何度もある。私たちには息子しかできなかったからね。
あれが私を残して逝ってしまったから叶わぬ夢になったと思ったが、もし君が私の元に来てくれるなら、妻の夢が叶う。君を全力で守ると誓おう。私の娘になってくれないか』
「それはそれは嬉しかったの。わたくしの境遇も理解して、そう言ってくださっているのがわかったから。
それは父がわたくしのために、マックス様に信頼して話をして、全てを託してくださったのだとわかったから。
だから、わたくしはここへ来たのよ。マックス様の養女として、ね。
対外的には、後妻になったと発表されたけれど、その実、戸籍は娘なの。そしてあろうことか、ダニエルはわたくしに息子を託してくれた。
それはエーミールを守るためでもあったし、わたくしのためでもあった。
この辺境は、疵物のわたくしにとても優しくて、家族として愛してくれる掛け替えのない場所になった」
アンネリーゼの手が、アリスの髪を撫でた。その細くてしなやかな手はとても暖かい。母の尊厳はこの地で守られ、今こうしてアリスに触れている。
アリスは、自分が産まれた時のことをもっと知りたいと思った。実の父は、育った国の皇太子で、近々皇帝となる人である。アリスにとっては、雲の上の人であり、絵姿でしか見たことのない人だ。
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「……お母様は、わたくしがお腹にいると分かった時、どんなお気持ちだったの?」
「それはもう、どれだけ嬉しかったか! この体に命が宿った知った時は、女人であることを誇りに思った。わたくしの腹で貴女はどんどん大きくなる。触れれば、中で動く貴女が生きていると教えてくれる。
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でも、わたくしは貴族の令嬢で、何一つ一人で出来ることなんてなかった。
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