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第三章:現代編
第三話:紫苑の離別
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「直哉、愛しているよ。」
今夜も声を殺して、静かに涙を流す最愛の人を抱きしめる。
小さなシングルベッドで彼を抱きしめて眠るのが好きだ。
こうして二人で布団に入ると、狭いけれど彼の体温を感じられて、安心する。
パジャマの襟元から覗く、細い首筋が艶っぽくて、思わず口付けた。
警戒心の強い小動物のように、びくりと身体が跳ねる。
「鶴華……。」
消え入りそうな細い声が弱々しくて、守ってやりたくなる。
「わかってる。……これ以上は、しないよ。」
好きだと言いながら、直哉は一線を越えることを酷く恐れる。
愛しているなら、確かめたくなるのが普通なのに。
今夜も、彼にキスの先を強請った。
けれど、頑なに許してくれない。
だから、別の方法で彼が本当に離れていかないか試してしまった。
拒絶された悲しみに任せて、気づけば拳を握っていた。
理性が追いつくより早く、拳が彼の肩口を打っていた。
驚いた顔の直哉を見た瞬間、息が止まる。
ごめん、と言いながら抱き寄せた腕の中で、彼は小さく震えていた。
それでも直哉は逃げないし、こうして腕の中にいる。
「出て行く」と脅せば、彼はきっと最後まで許すのだろう。
でも、今は直哉が決して逃げないと知っているから、焦りはなくなった。
ただ、彼の消耗が激しい。
食が細くなったし、眠れないのか目の下の隈が目立つようになった。
どこか虚ろな表情で、考え込むことが増えた気がする。
そんな姿を見るたび、もう彼に手を上げないと固く誓うのに、定期的に不安に襲われては繰り返す。
誰かこの循環を止めてくれと願いながら、止まることを一番恐れているのが自分だと、うすうす気づいていた。
年末に向かって、賑わいを増す街並みを見ながら、今夜の食材の買い出しをしていた。
料理は出来ないが、「買い物くらいなら」と申し出た俺に、彼は嬉しそうに微笑んでくれた。
やっぱり、直哉には笑っていて欲しい。
それでも、離れられない。
考え事に耽っていると、けたたましくクラクションが鳴らされた。
誰だよ、パーパーと非常識にも騒いでる野郎は。
ぎろりと音の方を振り向くと、歩道を歩く俺の後ろにぴたりと横付けされた黒のアルファード。
かなりカスタマイズされており、威圧感がすごい。
「よー、鶴華。じゃなくて、渡嘉敷瑛人くんだっけ?」
運転席から、煙草を咥えたまま話しかけて来たのは、シゲだった。
四年前と変わらない、スキンヘッドで全身真っ黒なスーツ。
「乗れよ。少しお前と話がしたい。」
お前のせいで、刑務所へぶち込まれたも同然の相手の誘いに乗る謂れはない。
「嫌だよ。二度と関わんな。」
「なぁ、まぁそう言わず。」
お道化て甘えるような口調だが、狡猾な奴だ。
相手にしてはいけない。
「ああ、そう。」
そう言うと、意地のようにクラクションを鳴らしまくった。
何事かと、周囲の視線が一斉に集まる。
しかも逃げてもぴたりと追ってくるのだ。
クソっと思いながら、警察に囲まれても嫌なので、仕方なくシゲの車の後部座席へ乗り込んだ。
シゲは、にやりと笑うと車を発進させた。
「四年ぶち込まれたって?俺は五年。秋に出て来たばかりだ。」
それでこの高級車を乗り回しているってことは、またヤバイ仕事でもしているのだろう。
「お前、今どうしてんの?」
バックミラー越しに、俺を観察して蔑むように笑った。
「当ててやろうか、ヒモだな。顔がいい奴は、得でいいなー。」
ヒモ……。
ふざけんな、と思ったが状況としては、直哉に囲われているヒモなのかもしれない。
「たまたま駅裏を流してみれば、お前を見つけたんだ。ツイてるな。」
偶然会うなんて、最悪過ぎだ。
「……あー、もし良かったら、もう一度俺と組まないか?」
「やるわけねーだろ。」
即答だった。
考える余地なんかない。
「五年前失敗したのは、お前の他にもう一人引き込んだ売人が、裏切って垂れ込みやがったからだ。警察へ組織の情報まで漏らしやがった。」
苛ついているのか、運転が荒くなる。
「まぁ、とうの昔に金城ふ頭辺りに沈められているんだろうけど。」
軽い冗談のように、ドキッとする話が流れていく。
「五年経って帰ってきてみれば、扱う薬の種類が笑うしかないほど増えてんの。国際化とかいって、仕入れルートもすごいんだぜ。マジぼろ儲け。そこの紙袋見てみろよ。」
確かに、シートの足元に無造作に放置された白い紙袋があった。
拾い上げてゆっくり覗くと、帯のついた札束がいっぱいに詰め込まれていた。
この袋だけで二千万はある。
触れた指先に、湿った紙幣の感触がべたりと貼りつく。
まるで金の匂いが、皮膚の奥に染みていくようだった。
だが、脳裏に浮かぶのは直哉の顔だけだった。
「悪いけど、俺はやらない。もう、話はいいだろ。元の場所に降ろしてくれ。」
「お前さ、どうせ前科持ちだから、まともな仕事にありつけないんだろ。ヒモなんて、そのうち飽きられてポイだぜ。まぁ、困ったら連絡しろよ。お前なら、いつでも大歓迎だからさ。」
投げるように、怪しげな名刺を渡される。
拍子抜けするほど勧誘はしつこくなく、あっさりと解放された。
シゲは知っていたのだ。
しつこく勧誘しなくとも、いずれ俺が落ちてくることを。
直哉の部屋を知られてしまうことを警戒して、シゲの車のテールランプが見えなくなるまで見送った。
……息を吐いた。
胸の奥がじんわりと重い。
純粋に大金は羨ましくあるが、もう直哉と離れたくない。
怯えて泣く彼を目の当たりにして、あの日の裏切りがどれだけ彼を傷つけたかを知った。
それにもう、彼の替わりになる人などいない。
手のなかの名刺をチラリと観察する。
厚みのある黒の上質な紙。
そこにはQRコードだけが印刷されていた。
読み込めば、何らかの連絡先へ繋がるのだろう。
へー、今時はこうなっているのかと、しげしげと眺めた。
もう用はないし、捨ててしまおうかと思ったが、一瞬ためらう。
俺には直哉以外頼れる人間はいない。
その現実を認識して、ざらりとした感覚が胸を撫でた。
絶対に連絡なんかしない。
そう思いながら、名刺を捨てられない俺がいた。
シゲに付き合っているうちに、すっかり日が沈んでしまっている。
頼まれていた食材を買って、急いで家へ帰った。
玄関に直哉の仕事用のスニーカーを見つけて、ちょっとだけバツが悪い。
「おかえり。……何か、あった?」
彼の勘の鋭さには、驚かされる。
口元は微笑んでいるのに、切実な不安が漏れ出ている。
彼は俺を信じている。
その信頼を裏切るようなことは何一つしていない。
なのに──背中に冷たいものが流れた。
買い物袋を握る手が妙に湿気る。
「いや、特には。」
心配性な彼には、シゲのことは話せなかった。
食材をダイニングテーブルへ並べて、肉や豆腐を素早く冷蔵庫へ片付ける。
納得させられる嘘も思いつかず、重い空気だけが残った。
時計の秒針の音だけが、やけに耳に刺さった。
いつだって終わりは突然であっけない。
「それじゃ、行ってくるよ。」
クリスマスも過ぎ去り、今年も残りわずか。
あと三日で、直哉は仕事納めだと言っていた。
笑ってくれているのに、その笑顔には陰りが見える。
仕事に向かう背中が、小さくなった。
それは決して、年末の忙しさからなんかじゃない。
俺の暴力が彼を削っていったからだ。
彼の変化に気づきながらも、その愛を試すことをやめられない。
苦い思いが込み上げるのに、何もできない俺がいた。
午後八時を過ぎても、直哉は帰らなかった。
何度電話しても、応答がない。
普段、残業なら必ずメッセージが来る。
着信履歴があれば、きちんと連絡してくる律儀な性格だ。
意味もなく部屋の中を歩きまわって、何度も時計を見るのに、時が引き伸ばされたように進まない。
もう、待っていられなくて上着を掴む。
その時、インターホンが鳴った。
嫌な予感に、背筋がぞわりと撫でられる。
モニターの冷たい光が、暗い部屋の壁を白く照らした。
画面には同年代の恰幅のいいスーツの男。
その後ろには、細面の神経質そうな男が立っていた。
誰だ。
心臓が一拍、止まった。
……そうして気が付く。
俺は直哉の交友関係を何も知らない。
「誰かいますか?いてもいなくても、これから行きまーす。」
一方的に話すと、男はシンプルなキャメル色の牛皮のキーケースをカメラの前でひらひらと振ってみせた。
あのキーケースは間違いなく直哉のものだ。
ここに直哉が本人がいないのに、見知らぬ男が彼のキーケースを持って現れる理由など、答えは限られる。
まさか、直哉に何かあったのか。
線の細くなった背中が、脳裏に焼き付いて離れない。
足元から崩れ落ちていくような不安が影を落とす。
急いで玄関の扉を開けると、先程の男達が丁度廊下に見えた。
「こんばんは。高瀬直哉くんの同僚の国枝です。」
国枝はにこやかに笑っているが、その目には怒りが宿っていた。
「こちらは、直哉くんのお兄さん。」
話にしか聞いていなかった親族が、急に目の前に現れたことで、後ろ暗い部分を突かれたようにぎくりとする。
軽く頭を下げた男は、確かに目元の辺りが直哉と似ていた。
「今日、職場で倒れて救急搬送された。入院になるから、保険証と着替えを取りに来た。」
事実を淡々と話しているのに、その口調は暗に『お前に詳しい事情を話す気はない。そこをどけ。』と言っているように聞こえた。
直哉の同僚なのか知らないが、横柄に映る態度に苛立つ。
「直哉は、どうしたんですか?」
同居しているのだから事情を聴く権利はあるはずだ、と口にした質問が、国枝の怒りに火を着けた。
「どうした、だ?あいつ殴ってんのは、お前だろうが。」
声は低く、抑えられているのに、言葉の端々が刃のようだった。
目は充血しており、痛いほど真剣な眼差しだった。
突如として第三者に責められて、重い罪悪感に襲われる。
何度も震えながら泣いていた。
直哉の逃げ道を塞いで、絶対に許してくれると信じて、殴った。
「……。」
言い訳など、出来なかった。
国枝の後ろに控える、直哉の兄も刺すような冷たい視線で俺のことを見ている。
「ストレス性の急性胃潰瘍で倒れたよ。服の下には、いくつも痣があった。」
国枝のキーケースを握りしめていた手が、怒りで震えている。
本当は殴りつけてしまいたいのを、必死にこらえているのだろう。
「……俺、お前のこと知ってるわ。お前、公園で直哉に掴みかかったホームレスだろ。」
確かに記憶を探れば、あの日直哉の他に体格のいい男が、もう一人いた。
「個人的に関わるなって言ったのに。……あいつは……。」
深い溜息と共に、国枝は俺を押しのけて玄関のドアを全開まで開いた。
「お前さ、もう直哉に関わるな。出ていけ。明日、役所に来たら自立支援施設ぐらい案内してやる。」
最後に道を示す辺り、直哉のお友達らしくて、皮肉な笑いが漏れそうだった。
潮時なのだろう。
離れなければ、直哉が壊れてしまう。
結局、俺には幸せに出来ない相手だった。
それでも最後に一目だけでも会いたいと思う俺がいて、そっとその気持ちに蓋をする。
「言われなくとも、出て行くよ。」
丁度いい機会だったのだと、自分に何度も言い聞かせた。
当てもなく名駅裏をプラプラと歩く。
年末を目前にして、既にお正月飾りが至る所に置かれていた。
凍えるような北風に、白いものが混じる。
直哉に会えないのなら、もう生きている意味なんてないのにな。
ホームレスの時、最後に一目だけ彼を見て野垂れ死んでしまいたかった俺を思い出す。
この寒さだ、公園で眠れば死ねるだろうか。
ふとズボンのポケットを探れば、そこにあるのはスマホと黒い一枚の名刺。
やめておけと叫ぶ自分がいる。
でも、もう彼と会えないのなら、どうでもいい。
生きた屍となろうとも、全てがどうでもいいことのように思えた。
風が冷たいのか、涙が冷たいのかもわからなかった。
今夜も声を殺して、静かに涙を流す最愛の人を抱きしめる。
小さなシングルベッドで彼を抱きしめて眠るのが好きだ。
こうして二人で布団に入ると、狭いけれど彼の体温を感じられて、安心する。
パジャマの襟元から覗く、細い首筋が艶っぽくて、思わず口付けた。
警戒心の強い小動物のように、びくりと身体が跳ねる。
「鶴華……。」
消え入りそうな細い声が弱々しくて、守ってやりたくなる。
「わかってる。……これ以上は、しないよ。」
好きだと言いながら、直哉は一線を越えることを酷く恐れる。
愛しているなら、確かめたくなるのが普通なのに。
今夜も、彼にキスの先を強請った。
けれど、頑なに許してくれない。
だから、別の方法で彼が本当に離れていかないか試してしまった。
拒絶された悲しみに任せて、気づけば拳を握っていた。
理性が追いつくより早く、拳が彼の肩口を打っていた。
驚いた顔の直哉を見た瞬間、息が止まる。
ごめん、と言いながら抱き寄せた腕の中で、彼は小さく震えていた。
それでも直哉は逃げないし、こうして腕の中にいる。
「出て行く」と脅せば、彼はきっと最後まで許すのだろう。
でも、今は直哉が決して逃げないと知っているから、焦りはなくなった。
ただ、彼の消耗が激しい。
食が細くなったし、眠れないのか目の下の隈が目立つようになった。
どこか虚ろな表情で、考え込むことが増えた気がする。
そんな姿を見るたび、もう彼に手を上げないと固く誓うのに、定期的に不安に襲われては繰り返す。
誰かこの循環を止めてくれと願いながら、止まることを一番恐れているのが自分だと、うすうす気づいていた。
年末に向かって、賑わいを増す街並みを見ながら、今夜の食材の買い出しをしていた。
料理は出来ないが、「買い物くらいなら」と申し出た俺に、彼は嬉しそうに微笑んでくれた。
やっぱり、直哉には笑っていて欲しい。
それでも、離れられない。
考え事に耽っていると、けたたましくクラクションが鳴らされた。
誰だよ、パーパーと非常識にも騒いでる野郎は。
ぎろりと音の方を振り向くと、歩道を歩く俺の後ろにぴたりと横付けされた黒のアルファード。
かなりカスタマイズされており、威圧感がすごい。
「よー、鶴華。じゃなくて、渡嘉敷瑛人くんだっけ?」
運転席から、煙草を咥えたまま話しかけて来たのは、シゲだった。
四年前と変わらない、スキンヘッドで全身真っ黒なスーツ。
「乗れよ。少しお前と話がしたい。」
お前のせいで、刑務所へぶち込まれたも同然の相手の誘いに乗る謂れはない。
「嫌だよ。二度と関わんな。」
「なぁ、まぁそう言わず。」
お道化て甘えるような口調だが、狡猾な奴だ。
相手にしてはいけない。
「ああ、そう。」
そう言うと、意地のようにクラクションを鳴らしまくった。
何事かと、周囲の視線が一斉に集まる。
しかも逃げてもぴたりと追ってくるのだ。
クソっと思いながら、警察に囲まれても嫌なので、仕方なくシゲの車の後部座席へ乗り込んだ。
シゲは、にやりと笑うと車を発進させた。
「四年ぶち込まれたって?俺は五年。秋に出て来たばかりだ。」
それでこの高級車を乗り回しているってことは、またヤバイ仕事でもしているのだろう。
「お前、今どうしてんの?」
バックミラー越しに、俺を観察して蔑むように笑った。
「当ててやろうか、ヒモだな。顔がいい奴は、得でいいなー。」
ヒモ……。
ふざけんな、と思ったが状況としては、直哉に囲われているヒモなのかもしれない。
「たまたま駅裏を流してみれば、お前を見つけたんだ。ツイてるな。」
偶然会うなんて、最悪過ぎだ。
「……あー、もし良かったら、もう一度俺と組まないか?」
「やるわけねーだろ。」
即答だった。
考える余地なんかない。
「五年前失敗したのは、お前の他にもう一人引き込んだ売人が、裏切って垂れ込みやがったからだ。警察へ組織の情報まで漏らしやがった。」
苛ついているのか、運転が荒くなる。
「まぁ、とうの昔に金城ふ頭辺りに沈められているんだろうけど。」
軽い冗談のように、ドキッとする話が流れていく。
「五年経って帰ってきてみれば、扱う薬の種類が笑うしかないほど増えてんの。国際化とかいって、仕入れルートもすごいんだぜ。マジぼろ儲け。そこの紙袋見てみろよ。」
確かに、シートの足元に無造作に放置された白い紙袋があった。
拾い上げてゆっくり覗くと、帯のついた札束がいっぱいに詰め込まれていた。
この袋だけで二千万はある。
触れた指先に、湿った紙幣の感触がべたりと貼りつく。
まるで金の匂いが、皮膚の奥に染みていくようだった。
だが、脳裏に浮かぶのは直哉の顔だけだった。
「悪いけど、俺はやらない。もう、話はいいだろ。元の場所に降ろしてくれ。」
「お前さ、どうせ前科持ちだから、まともな仕事にありつけないんだろ。ヒモなんて、そのうち飽きられてポイだぜ。まぁ、困ったら連絡しろよ。お前なら、いつでも大歓迎だからさ。」
投げるように、怪しげな名刺を渡される。
拍子抜けするほど勧誘はしつこくなく、あっさりと解放された。
シゲは知っていたのだ。
しつこく勧誘しなくとも、いずれ俺が落ちてくることを。
直哉の部屋を知られてしまうことを警戒して、シゲの車のテールランプが見えなくなるまで見送った。
……息を吐いた。
胸の奥がじんわりと重い。
純粋に大金は羨ましくあるが、もう直哉と離れたくない。
怯えて泣く彼を目の当たりにして、あの日の裏切りがどれだけ彼を傷つけたかを知った。
それにもう、彼の替わりになる人などいない。
手のなかの名刺をチラリと観察する。
厚みのある黒の上質な紙。
そこにはQRコードだけが印刷されていた。
読み込めば、何らかの連絡先へ繋がるのだろう。
へー、今時はこうなっているのかと、しげしげと眺めた。
もう用はないし、捨ててしまおうかと思ったが、一瞬ためらう。
俺には直哉以外頼れる人間はいない。
その現実を認識して、ざらりとした感覚が胸を撫でた。
絶対に連絡なんかしない。
そう思いながら、名刺を捨てられない俺がいた。
シゲに付き合っているうちに、すっかり日が沈んでしまっている。
頼まれていた食材を買って、急いで家へ帰った。
玄関に直哉の仕事用のスニーカーを見つけて、ちょっとだけバツが悪い。
「おかえり。……何か、あった?」
彼の勘の鋭さには、驚かされる。
口元は微笑んでいるのに、切実な不安が漏れ出ている。
彼は俺を信じている。
その信頼を裏切るようなことは何一つしていない。
なのに──背中に冷たいものが流れた。
買い物袋を握る手が妙に湿気る。
「いや、特には。」
心配性な彼には、シゲのことは話せなかった。
食材をダイニングテーブルへ並べて、肉や豆腐を素早く冷蔵庫へ片付ける。
納得させられる嘘も思いつかず、重い空気だけが残った。
時計の秒針の音だけが、やけに耳に刺さった。
いつだって終わりは突然であっけない。
「それじゃ、行ってくるよ。」
クリスマスも過ぎ去り、今年も残りわずか。
あと三日で、直哉は仕事納めだと言っていた。
笑ってくれているのに、その笑顔には陰りが見える。
仕事に向かう背中が、小さくなった。
それは決して、年末の忙しさからなんかじゃない。
俺の暴力が彼を削っていったからだ。
彼の変化に気づきながらも、その愛を試すことをやめられない。
苦い思いが込み上げるのに、何もできない俺がいた。
午後八時を過ぎても、直哉は帰らなかった。
何度電話しても、応答がない。
普段、残業なら必ずメッセージが来る。
着信履歴があれば、きちんと連絡してくる律儀な性格だ。
意味もなく部屋の中を歩きまわって、何度も時計を見るのに、時が引き伸ばされたように進まない。
もう、待っていられなくて上着を掴む。
その時、インターホンが鳴った。
嫌な予感に、背筋がぞわりと撫でられる。
モニターの冷たい光が、暗い部屋の壁を白く照らした。
画面には同年代の恰幅のいいスーツの男。
その後ろには、細面の神経質そうな男が立っていた。
誰だ。
心臓が一拍、止まった。
……そうして気が付く。
俺は直哉の交友関係を何も知らない。
「誰かいますか?いてもいなくても、これから行きまーす。」
一方的に話すと、男はシンプルなキャメル色の牛皮のキーケースをカメラの前でひらひらと振ってみせた。
あのキーケースは間違いなく直哉のものだ。
ここに直哉が本人がいないのに、見知らぬ男が彼のキーケースを持って現れる理由など、答えは限られる。
まさか、直哉に何かあったのか。
線の細くなった背中が、脳裏に焼き付いて離れない。
足元から崩れ落ちていくような不安が影を落とす。
急いで玄関の扉を開けると、先程の男達が丁度廊下に見えた。
「こんばんは。高瀬直哉くんの同僚の国枝です。」
国枝はにこやかに笑っているが、その目には怒りが宿っていた。
「こちらは、直哉くんのお兄さん。」
話にしか聞いていなかった親族が、急に目の前に現れたことで、後ろ暗い部分を突かれたようにぎくりとする。
軽く頭を下げた男は、確かに目元の辺りが直哉と似ていた。
「今日、職場で倒れて救急搬送された。入院になるから、保険証と着替えを取りに来た。」
事実を淡々と話しているのに、その口調は暗に『お前に詳しい事情を話す気はない。そこをどけ。』と言っているように聞こえた。
直哉の同僚なのか知らないが、横柄に映る態度に苛立つ。
「直哉は、どうしたんですか?」
同居しているのだから事情を聴く権利はあるはずだ、と口にした質問が、国枝の怒りに火を着けた。
「どうした、だ?あいつ殴ってんのは、お前だろうが。」
声は低く、抑えられているのに、言葉の端々が刃のようだった。
目は充血しており、痛いほど真剣な眼差しだった。
突如として第三者に責められて、重い罪悪感に襲われる。
何度も震えながら泣いていた。
直哉の逃げ道を塞いで、絶対に許してくれると信じて、殴った。
「……。」
言い訳など、出来なかった。
国枝の後ろに控える、直哉の兄も刺すような冷たい視線で俺のことを見ている。
「ストレス性の急性胃潰瘍で倒れたよ。服の下には、いくつも痣があった。」
国枝のキーケースを握りしめていた手が、怒りで震えている。
本当は殴りつけてしまいたいのを、必死にこらえているのだろう。
「……俺、お前のこと知ってるわ。お前、公園で直哉に掴みかかったホームレスだろ。」
確かに記憶を探れば、あの日直哉の他に体格のいい男が、もう一人いた。
「個人的に関わるなって言ったのに。……あいつは……。」
深い溜息と共に、国枝は俺を押しのけて玄関のドアを全開まで開いた。
「お前さ、もう直哉に関わるな。出ていけ。明日、役所に来たら自立支援施設ぐらい案内してやる。」
最後に道を示す辺り、直哉のお友達らしくて、皮肉な笑いが漏れそうだった。
潮時なのだろう。
離れなければ、直哉が壊れてしまう。
結局、俺には幸せに出来ない相手だった。
それでも最後に一目だけでも会いたいと思う俺がいて、そっとその気持ちに蓋をする。
「言われなくとも、出て行くよ。」
丁度いい機会だったのだと、自分に何度も言い聞かせた。
当てもなく名駅裏をプラプラと歩く。
年末を目前にして、既にお正月飾りが至る所に置かれていた。
凍えるような北風に、白いものが混じる。
直哉に会えないのなら、もう生きている意味なんてないのにな。
ホームレスの時、最後に一目だけ彼を見て野垂れ死んでしまいたかった俺を思い出す。
この寒さだ、公園で眠れば死ねるだろうか。
ふとズボンのポケットを探れば、そこにあるのはスマホと黒い一枚の名刺。
やめておけと叫ぶ自分がいる。
でも、もう彼と会えないのなら、どうでもいい。
生きた屍となろうとも、全てがどうでもいいことのように思えた。
風が冷たいのか、涙が冷たいのかもわからなかった。
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