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第一章 女王とその奴隷
14.常備薬
しおりを挟む「え、旦那様が風邪を?」
私たちの不思議な関係が始まって二週間ほどが経った頃、出勤早々に帰宅する途中のオデットと鉢合わせました。まだ仕事は始まったばかりだというのに、マフラーを巻いて屋敷を出て行こうとする彼女を見て私が尋ねると、なんとロカルドが風邪を引いたと言うのです。
「そうだよ。移ったらいけないからと今日は帰ってくれだってさ!まったく、来る前に連絡をくれたら良いものを…」
ブツブツと不満を溢しながらオデットはもう門の方へと歩き出しています。
私は、自分が同じように帰るべきか、それとも念のため出勤して来たことをロカルドに伝えるべきか悩みました。おそらく伝えに行ったところで同じことを言われるだけなのですが、このまま顔も見せずに帰宅すると私が無断で欠勤したと思われる可能性もあります。
メモ書きでも残そうかとも考えましたが、ここまで来たのですからとりあえず挨拶だけでもしておこうかと考え、ひとまず屋敷の主人が眠る寝室まで向かいました。
二度のノックのあと、やや掠れた病人の声で「どうぞ」と返答がありました。恐る恐る扉を開けてみると、おでこに氷嚢を乗せたロカルドがベッドに横たわっています。
熱が高いのかトロッとした双眼が私を捉えると、すぐになんとか上体を起こそうとするので、私は「動かないで」と伝えて急いでベッドへ歩み寄りました。
「オデットから、風邪を引いたと聞きました」
「ああ……だから今日は悪いが休みにしてくれ、給料は払うから家に帰ってほしい。君たち二人が寝込んだら家のことが回らなくなる」
「症状は?」
「昨日の夜から熱と咳がある。アンナ、帰ってくれ」
そう言ってゲホゲホと口元を押さえて咳き込むロカルドは確かに苦しそうです。夜間も眠れていないのか、目の周りの隈はよりいっそうひどくなったような気がしました。
「何か食事は摂りましたか?」
「いや……喉が痛くて」
「厨房を借りても良いですか?」
「……? 俺は帰れと、」
「貴方が弱って死んだら給料が支払われないので困ります。なにか食べてください。そして十分に休んで」
ロカルドの目が大きく見開かれるのが見えましたが、私はそのまま踵を返して部屋を出て行きました。
静まり返った厨房は、人の気配がないためかいつもより寒く感じます。冷蔵庫を開けると卵が数個とチーズ、牛乳があったので、いつの日か使った米の残りを探し出して、私は調理台の上に並べます。
(………何をやっているのかしら)
言われるがままに帰ってしまえば良いのに。
私が風邪を引いたら、それこそ目も当てられません。昼の仕事のみでなく、夜の仕事にも影響が及びます。復帰した後もオデットの不満をきっと一週間は聞き続けることになるでしょう。
それなのに、どうして屋敷に留まるのか。
動き続ける手足にその答えを聞きたいものです。
寝室に戻ると、ロカルドは少し眠っていたのか、まだ夢の中のような両目をこちらに向けます。
「お口に合うか分かりませんが……」
私は盆の上に載った白い皿を、主人の眠る枕元から見えるように傾けました。ホカホカと湯気を上げるミルク粥にはとろけたチーズが掛かっています。
弟が幼い頃に作っていたこの病人用の食事が、はたして貴族のロカルドの舌に合うのかは分かりません。やっとのことで上体を起こした我が主人は、しかしながら、なかなか両手を差し出しません。
黙って見守っていたら、消えそうな声で「食べさせてほしい」と言うので、私は思わず吹き出しそうになりました。夜の私であれば何を甘えたことを、と一蹴するのですが、今はまだ太陽が出ている昼の時間です。私は銀の小さなスプーンで粥を掬って、小鳥のように餌を待つロカルドの口元まで持っていきました。
火傷するのではないかと少し心配しながら与えた食事でしたが、なんとかそれは大丈夫だったようで、半分ほど食べたところでロカルドは水を飲んでまた眠ってしまいました。
部屋を出て後片付けなどを済ませて再び寝室に戻ったら、氷嚢の氷がすっかり溶けて、主人は苦しげに顔を顰めています。慌てて駆け寄って体温を測ると、かなり熱が上がっていることが分かりました。
勝手ながら電話帳を引っ張り出して、行ける範囲の医者を調べましたが、この小さな港町の医者はどういうわけか木曜日を休診日にしているようで、緊急時に頼れそうな医者を私は知りませんでした。
(困ったわ……どうしよう)
死んでしまっては大変です。
とにかく、何か薬をと必死で戸棚を漁っていたら常備薬の箱を見つけました。おそらく引っ越してくる前に住んでいた屋敷のメイドがまとめておいてくれたのでしょう。
幸いその箱の中には、風邪薬も入っていたので、私は粉薬を水で溶いてロカルドに飲ませました。苦そうに顔を歪めながらもなんとか飲み干したのを見て、安堵します。
氷を取り替えたり、水を飲ませたり、主人が眠っている間は他の部屋の換気や掃除をしている間に時間はどんどん進み、夕食にと作った優しい味のスープを飲む頃には病人の熱も少し落ち着いてきました。
本日何度目かの浅い眠りにロカルドが落ちたのを見届けて、自分も少しだけ休息を取ろうと私は椅子の上で目を閉じました。今日は夜の仕事はお休みなので、ゆっくり洗い物を済ませてから屋敷を去るつもりだったのです。
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