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第一章 女王とその奴隷
46.メリッサ
しおりを挟む翌日、ミュンヘンの屋敷に出勤してすぐに私は違和感に気付きました。
普段は静まり返った厨房から、なぜか今日は物音が聞こえて来るのです。慌ただしく歩き回る足音を不審に思いながら、私は扉を引きました。
「あら?貴女はメイド?」
そこにはプラチナブロンドの髪を腰まで伸ばした美しい女が立っていました。片手には泡立て器を持ち、持参したのかフリフリの白いエプロンを付けています。
新しく採用されたメイドかと一瞬思いましたが、その優雅な動きやゆったりとした喋り方は、私の見てきた使用人とは異なるものでした。
「……はい、メイドのアンナです。あの…」
どちら様ですか?という質問はあまりに直接的なので、そこで言葉に詰まりました。すると、女はそれを察したように口元を緩めて私に笑い掛けました。
「メリッサ・グスコよ。今日からここで暮らすからどうぞよろしくね。朝ごはんを用意したくて厨房を覗いたんだけど、サラダしか見当たらなくて…良かったら作ってくれる?」
「え……?あ、分かりました」
「ロカルドにはトーストと焼いたベーコンを、私には甘いパンケーキをお願い」
「あの、旦那様は……?」
「まだ寝てると思うわ。ねぇ、お腹空いてるの…分かる?」
「すみません、すぐに用意いたします」
詳しいことは分かりません。
私が理解したのは、この屋敷に新しく女主人が現れたということだけでした。
パンケーキを焼くために小麦粉と卵を混ぜる私に、メリッサは色々なことを質問してきました。そのほとんどはロカルドに関することでしたが、私に聞くよりも本人に聞いた方が良さそうな内容ばかりでした。
頭の中で以前客に聞いた話が浮かびます。
ロカルドに王都の侯爵家が縁談を持ち掛けているという話は本当だったのです。ということは、昨日、彼が慌てて会いに行った相手は彼女なのでしょうか?
「おはよー………あれ?」
バタンッと勢いよく扉が開いて、イザベラとオデットが厨房に入って来ました。二人もまた、見知らぬ女を見て驚いた顔をします。
私は彼女がメリッサという名前で、今日からミュンヘン邸に住まうらしいと紹介しました。すぐに挨拶を返すイザベラの隣で、オデットは不満そうな顔をしています。
「そんな話は旦那様から聞いていないよ。本当かい?」
「オデット!」
私が注意しようと振り向いたとき、再び開いた扉からロカルドが姿を現しました。
青い瞳が私を見て、隣に立つメリッサへと移ります。
私はロカルドが昨日と同じシャツを着ていることに気付きました。緩められているけれどその紺色のネクタイは、私がプレゼントしたものです。
心臓がギュッと縮まるのを感じました。
「メリッサ、こんなところに居たのか」
「おはよう。ロカルド、私のことを伝えていなかったの?」
「まだその話は終わってないだろう。とにかく部屋に戻ってくれ、君の父も交えて話をする必要がある」
「そんなこと言って……昨日だって泊めてくれたじゃない。それが答えでしょう?」
イザベラがハッとしたように顔色を変えるのが見えます。
私は自分がどんな顔をしているか心配になりました。
感情が表に出ないように気は付けていますが、正直色々な気持ちが浮かび上がってその処理に追われています。メリッサは昨日この屋敷に泊まったそうです。それがどういう意味なのか、いくら鈍い私でも理解出来ました。
「メリッサ、それは君が泊まる場所が無いと言ったから…!」
「ねぇ!今日は街を案内してくれない?昨日は夜に着いたから店がすぐ閉まっちゃって。朝食は外で食べましょうよ」
「あ、パンケーキは……」
「要らないわ。ごめんなさいね」
私の問い掛けに軽やかにそう答えると、メリッサはロカルドの腕を引っ張って部屋を出て行きました。
私は泡立て器を持ったままでしばらく呆然としていましたが、イザベラが「嫌な感じ」と毒突くのを聞いて我に帰りました。中途半端に混ざった小麦粉と卵を捨てて、食器用洗剤をスポンジに掛けます。
頭では理解していても、心はまだ止まったままで。
私はただ冷えた水が手の上を流れ落ちるのを見ていました。
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