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第1話 幼い頃の出来事
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雪が降りはじめる前の山は、静かだった。
空は淡い鉛色で、どこか遠くからかすかな風の音が響いてくる。
一朗は毛糸の帽子を深くかぶり、手袋をした手で木の枝をどかしながら進んでいた。
その少し後ろで、陽子が転びそうになりながらも、明るい声をあげてついてくる。
「ねぇ、一朗。ウサギの足跡だよ!」
陽子が指差した先には、小さな丸い足跡が雪の上に続いていた。
白い息を弾ませながら笑う陽子の頬は、りんごみたいに赤い。
その笑顔を見て、一朗は思わず立ち止まり、
「ほんとだ。でも、追いかけたら逃げちゃうよ」
と、少し照れたように笑った。
陽子は頭に積もった雪を手で払うと、一朗の袖をつまんで言った。
「だいじょうぶ、捕まえないもん。ただ見たいだけ」
二人は並んで足跡をたどった。
風が吹くたびに木々の枝が揺れ、粉雪がふわりと舞い落ちる。
そのたびに陽子は歓声を上げ、口を開けて雪を受け止めようとする。
一朗はそんな陽子を見て、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
——ああ、陽子は、雪が好きなんだな。
彼にとって陽子は、いつも少しうるさくて、でも寂しがり屋な女の子だった。
学校の帰り道で泣いていた子猫を拾ってしまうような優しさがあって、転んでも笑って立ち上がる強さも持っていた。
一朗はそんな陽子を、なんとなく守らなきゃいけない気がしていた。
その日も、いつものように小さな冒険のつもりだった。
けれど、陽子が少し足を滑らせた瞬間、風向きが変わり、上の斜面から重たい雪の塊が崩れ落ちてきた。
「陽子!」
一朗は反射的に手を伸ばし、陽子の体を抱き寄せた。
そのとき、雪と一緒に転げ落ちた枝が、一朗の左手を強く打った。
冷たさと痛みが一瞬で混ざり合い、世界が真っ白に霞んだ。
気づけば、陽子が泣きながら彼の手を握っていた。
「やだよ、一朗……やだよ……」
小さな声が雪の中に吸い込まれていく。
その声を聞きながら、一朗は痛みに震える手を必死に動かそうとしたが、指先はもう、思うように動かなかった。
——大丈夫。泣くな、陽子。
心の中でそう言ったつもりだった。
けれど、声は出なかった。
空からは、静かに雪が降りはじめていた。
音もなく降り積もる白の中で、陽子の涙だけが、やけに温かく感じられた。
ーーーーー病院にて
カーテンの隙間から、薄い冬の光が差し込んでいた。
病院の部屋は暖かかったけれど、どこか冷たい匂いがした。
一朗は白い包帯に包まれた左手を胸の上に置き、じっと天井を見つめていた。
昨日から何度も目を覚ましては、また眠っていた。
指はまだ思うように動かない。
それでも、陽子をかばった瞬間の感触だけは、はっきりと残っていた。
扉が小さく軋む音がして、陽子がそっと入ってきた。
毛糸の帽子をかぶり、両手で何かを抱えている。
赤い鼻と、少し腫れた目。昨夜、ずっと泣いていたのだろう。
「……起きてた?」
小さな声で陽子が言った。
一朗は顔を向けて、少しだけ笑った。
「うん。今、起きたとこ」
陽子は安堵したように息をつき、ベッドのそばに腰を下ろした。
両手には、白い布に包まれた小さな包みがあった。
「これ……おばあちゃんが作ったおにぎり。一朗、おかゆばっかりじゃ、お腹すくでしょ」
包みを見て、一朗は小さくうなずいた。
「ありがとう。でも……おばあちゃん、怒ってない?」
陽子は首を横に振った。
「怒ってるの、わたしに。わたしが先にあの山行こうって言ったから」
声が震え、また目が赤くなった。
「わたし、こわくて逃げたの。なのに一朗が、守ってくれた……」
一朗は右手を伸ばして、陽子の手を握った。
包帯の音が、少しだけ擦れる。
「もういいよ。無事でよかったんだ。陽子が泣いてるほうが、やだよ」
陽子は顔を上げられず、ただ俯いたまま、ぽたぽたと涙を落とした。
しばらく、二人の間に言葉がなかった。
廊下の向こうで誰かが車椅子を押す音と、消毒液の匂いが漂ってくる。
窓の外では、雪がまた降り始めていた。
やがて陽子は、ぽつりとつぶやいた。
「ねぇ、一朗。もしまた雪が積もったら……いっしょに雪だるま作ろ?」
一朗は少しだけ考えてから、笑ってうなずいた。
「うん。片手でも、作れるかな」
その笑顔を見て、陽子は唇を噛んだ。
胸の奥が熱くて、痛かった。
この手を握り返すことが、どれだけ怖いことかを、幼いながらに感じていた。
——この子を、また傷つけたくない。
それが、陽子の小さな決意になった。
けれど同時に、それが“距離”の始まりでもあった。
白い雪が静かに降り続いていた。
窓の向こうの世界は、音もなく沈み、陽子の涙だけが、そこに生きていた。
空は淡い鉛色で、どこか遠くからかすかな風の音が響いてくる。
一朗は毛糸の帽子を深くかぶり、手袋をした手で木の枝をどかしながら進んでいた。
その少し後ろで、陽子が転びそうになりながらも、明るい声をあげてついてくる。
「ねぇ、一朗。ウサギの足跡だよ!」
陽子が指差した先には、小さな丸い足跡が雪の上に続いていた。
白い息を弾ませながら笑う陽子の頬は、りんごみたいに赤い。
その笑顔を見て、一朗は思わず立ち止まり、
「ほんとだ。でも、追いかけたら逃げちゃうよ」
と、少し照れたように笑った。
陽子は頭に積もった雪を手で払うと、一朗の袖をつまんで言った。
「だいじょうぶ、捕まえないもん。ただ見たいだけ」
二人は並んで足跡をたどった。
風が吹くたびに木々の枝が揺れ、粉雪がふわりと舞い落ちる。
そのたびに陽子は歓声を上げ、口を開けて雪を受け止めようとする。
一朗はそんな陽子を見て、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
——ああ、陽子は、雪が好きなんだな。
彼にとって陽子は、いつも少しうるさくて、でも寂しがり屋な女の子だった。
学校の帰り道で泣いていた子猫を拾ってしまうような優しさがあって、転んでも笑って立ち上がる強さも持っていた。
一朗はそんな陽子を、なんとなく守らなきゃいけない気がしていた。
その日も、いつものように小さな冒険のつもりだった。
けれど、陽子が少し足を滑らせた瞬間、風向きが変わり、上の斜面から重たい雪の塊が崩れ落ちてきた。
「陽子!」
一朗は反射的に手を伸ばし、陽子の体を抱き寄せた。
そのとき、雪と一緒に転げ落ちた枝が、一朗の左手を強く打った。
冷たさと痛みが一瞬で混ざり合い、世界が真っ白に霞んだ。
気づけば、陽子が泣きながら彼の手を握っていた。
「やだよ、一朗……やだよ……」
小さな声が雪の中に吸い込まれていく。
その声を聞きながら、一朗は痛みに震える手を必死に動かそうとしたが、指先はもう、思うように動かなかった。
——大丈夫。泣くな、陽子。
心の中でそう言ったつもりだった。
けれど、声は出なかった。
空からは、静かに雪が降りはじめていた。
音もなく降り積もる白の中で、陽子の涙だけが、やけに温かく感じられた。
ーーーーー病院にて
カーテンの隙間から、薄い冬の光が差し込んでいた。
病院の部屋は暖かかったけれど、どこか冷たい匂いがした。
一朗は白い包帯に包まれた左手を胸の上に置き、じっと天井を見つめていた。
昨日から何度も目を覚ましては、また眠っていた。
指はまだ思うように動かない。
それでも、陽子をかばった瞬間の感触だけは、はっきりと残っていた。
扉が小さく軋む音がして、陽子がそっと入ってきた。
毛糸の帽子をかぶり、両手で何かを抱えている。
赤い鼻と、少し腫れた目。昨夜、ずっと泣いていたのだろう。
「……起きてた?」
小さな声で陽子が言った。
一朗は顔を向けて、少しだけ笑った。
「うん。今、起きたとこ」
陽子は安堵したように息をつき、ベッドのそばに腰を下ろした。
両手には、白い布に包まれた小さな包みがあった。
「これ……おばあちゃんが作ったおにぎり。一朗、おかゆばっかりじゃ、お腹すくでしょ」
包みを見て、一朗は小さくうなずいた。
「ありがとう。でも……おばあちゃん、怒ってない?」
陽子は首を横に振った。
「怒ってるの、わたしに。わたしが先にあの山行こうって言ったから」
声が震え、また目が赤くなった。
「わたし、こわくて逃げたの。なのに一朗が、守ってくれた……」
一朗は右手を伸ばして、陽子の手を握った。
包帯の音が、少しだけ擦れる。
「もういいよ。無事でよかったんだ。陽子が泣いてるほうが、やだよ」
陽子は顔を上げられず、ただ俯いたまま、ぽたぽたと涙を落とした。
しばらく、二人の間に言葉がなかった。
廊下の向こうで誰かが車椅子を押す音と、消毒液の匂いが漂ってくる。
窓の外では、雪がまた降り始めていた。
やがて陽子は、ぽつりとつぶやいた。
「ねぇ、一朗。もしまた雪が積もったら……いっしょに雪だるま作ろ?」
一朗は少しだけ考えてから、笑ってうなずいた。
「うん。片手でも、作れるかな」
その笑顔を見て、陽子は唇を噛んだ。
胸の奥が熱くて、痛かった。
この手を握り返すことが、どれだけ怖いことかを、幼いながらに感じていた。
——この子を、また傷つけたくない。
それが、陽子の小さな決意になった。
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窓の向こうの世界は、音もなく沈み、陽子の涙だけが、そこに生きていた。
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