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第2話 中学時代の思い出
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雪解けからの年月、雪山での事故から、季節は何度も巡った。
一朗の左手の指は、完全には動かなくなったままだった。
それでも彼は、器用に右手を使って道具を扱い、母のロッジの仕事を手伝いながら、少しずつ強くなっていった。
陽子は事故のあと、以前よりも一朗に優しくなった。
学校でも、一朗が重い荷物を持とうとすると「わたしがやる」と言って先に持ち、雪が降れば、無言で彼の手袋を直してくれた。
けれど、あの病室の夜から、どこか遠慮のようなものが二人のあいだに生まれていた。
——あのとき、自分のせいで。
陽子はそれを口にはしなかったが、一朗には伝わっていた。
だから彼も、何も言わず、ただ同じ道を歩くことにしていた。
小学校の卒業式では、同じ制服を着て笑い合った。
中学に上がると、クラスは別になったが、放課後にはよく雪の溶けた河原を歩いた。
陽子は明るくて、よく笑った。
けれど、一朗の前ではどこか抑えたように見えることもあった。
春になると、山の上のロッジも忙しくなる。
観光客が来る季節になると、一朗は学校が終わるとすぐ家に帰り、薪を割り、荷物を運び、時には厨房の手伝いもした。
それを知っていた陽子は、「手伝う!」と笑って押しかけてきては、母に褒められ、お菓子をもらって嬉しそうに帰っていった。
そんな穏やかな日々が、ずっと続くように思われた。
けれど、中学三年の冬のある日、その均衡は静かに崩れた。
ーーー冬の放課後
その日、授業が終わったあと、陽子が一朗を校舎の裏の桜の木の下に呼び出した。
雪はもうやんで、地面に茶色い土が顔を出している。
冷たい風が吹くたび、枝の先で氷がきらりと光った。
「一朗、話があるの」
陽子はマフラーをいじりながら、俯いた。
その仕草だけで、一朗には何か大切な話だとわかった。
「どうしたの?」
「……わたしね、春から東京に行くの」
一朗は思わず言葉を失った。
「……え?」
陽子はうなずいた。
「お父さんの仕事の都合で。転勤なんだって。だから……卒業したら、すぐ」
しばらく、風の音だけが二人の間を通り抜けた。
一朗は言葉を探したが、見つからなかった。
彼女が自分の目の前からいなくなることが、まだ現実として受け止められなかった。
陽子は無理に笑って見せた。
「東京って、テレビみたいにキラキラしてるんだって。わたし、行ってみたかったんだ。……でもね」
そこまで言って、声が小さくなった。
「……でも、本当は、行きたくない」
一朗は黙っていた。
陽子の肩に積もった雪の粉が、風でふわりと舞った。
その白い粒を見つめながら、彼はゆっくり口を開いた。
「……そっか。東京、遠いな」
陽子はうなずいた。
「でも、いつかまた帰ってくるよ。そのときは——」
彼女は少し顔を上げて言った。
「また、いっしょに雪だるま作ろう」
その言葉に、一朗は笑った。
懐かしい記憶が胸の奥で光った。
「うん。約束だ」
二人は笑い合ったが、その笑顔の奥には、もう二度と戻らない時間の気配があった。
ーーー中学卒業の日 — 別れの朝
その日の朝、山の空は透きとおるように晴れていた。
長い冬が終わりかけ、雪はところどころで薄く溶け、ロッジの裏の斜面からは、まだ冷たい水の音が細く流れていた。
一朗は制服の上から古びたダッフルコートを羽織り、玄関で母にネクタイを直してもらっていた。
「今日で中学も終わりだね」
母の言葉に、一朗は「うん」とだけ答えた。
どこか胸の奥が、きゅっと締めつけられるようだった。
校庭では、まだ雪がところどころに残っていた。
青空の下で、式が始まる。
風に乗って卒業証書を受け取る生徒の声が流れ、吹奏楽部の演奏が遠くで震えるように響いていた。
陽子は、列の少し前にいた。
金色の陽の光を受けて髪が柔らかく光り、背筋をぴんと伸ばして壇上のほうを見つめている。
一朗はその後ろ姿を見つめながら、——ああ、もうすぐ東京に行くんだ。
と、何度も心の中で繰り返していた。
式が終わると、あちらこちらで泣き声と笑い声が混ざり合った。
みんなが写真を撮り、握手を交わし、教室の黒板には「ありがとう」「さようなら」と色チョークの文字。
陽子はクラスの友達に囲まれていたが、ふと一朗を見つけると、手を振って駆け寄ってきた。
「一朗、卒業おめでとう!」
息を弾ませながら笑う陽子の頬は少し赤い。
その笑顔がまぶしくて、一朗はうまく声が出なかった。
「……ありがとう。陽子も」
「ねぇ、一朗。東京、遊びにおいでよ。今度の家、すっごく広いんだって!」
陽子は明るく言った。
けれどその声の奥には、少しだけ寂しさが混じっていた。
一朗は、うつむいて足元の雪を軽く蹴った。
「たぶん、無理だよ。ロッジの手伝いもあるし」
「そっか……」
陽子の声が小さくなる。
風が吹いて、二人の間を雪解け水の匂いが通り抜けた。
しばらく沈黙が流れたあと、陽子が制服のポケットから小さな包みを取り出した。
「はい、これ。お守り」
開くと、古びた赤い紐で結ばれた小さな鈴が入っていた。
「おばあちゃんがくれたやつ。……でもね、わたしより一朗くんに似合うと思って」
一朗は手のひらの上の鈴を見つめた。
風に揺れて、ちりん、と小さな音が鳴る。
胸の奥が不思議に痛くなった。
「ありがとう。……大事にする」
陽子はうれしそうに笑ったが、その目の端はうっすら赤かった。
「ねぇ、一朗。東京行っても、忘れないでね。わたし、ちゃんと覚えてるから」
一朗は少しだけ微笑んで言った。
「忘れないよ。陽子の声、雪より大きいから」
陽子は一瞬きょとんとして、それから吹き出した。
「なにそれ。キャハハ」
笑いながら、彼女は小さく息を吸い込み、「……じゃあ、またね」と囁いた。
その声は、春の光の中に溶けていった。
陽子は友達に呼ばれ、走り去っていく。
背中に揺れる黒い髪が、光を反射してきらきらと輝いていた。
一朗は手の中の鈴を握りしめ、もう一度だけ「またね」と、心の中でつぶやいた。
校庭の雪は、午後の日差しにゆっくりと溶けていた。
小さな鈴の音だけが、春の風の中にいつまでも残っていた。
一朗の左手の指は、完全には動かなくなったままだった。
それでも彼は、器用に右手を使って道具を扱い、母のロッジの仕事を手伝いながら、少しずつ強くなっていった。
陽子は事故のあと、以前よりも一朗に優しくなった。
学校でも、一朗が重い荷物を持とうとすると「わたしがやる」と言って先に持ち、雪が降れば、無言で彼の手袋を直してくれた。
けれど、あの病室の夜から、どこか遠慮のようなものが二人のあいだに生まれていた。
——あのとき、自分のせいで。
陽子はそれを口にはしなかったが、一朗には伝わっていた。
だから彼も、何も言わず、ただ同じ道を歩くことにしていた。
小学校の卒業式では、同じ制服を着て笑い合った。
中学に上がると、クラスは別になったが、放課後にはよく雪の溶けた河原を歩いた。
陽子は明るくて、よく笑った。
けれど、一朗の前ではどこか抑えたように見えることもあった。
春になると、山の上のロッジも忙しくなる。
観光客が来る季節になると、一朗は学校が終わるとすぐ家に帰り、薪を割り、荷物を運び、時には厨房の手伝いもした。
それを知っていた陽子は、「手伝う!」と笑って押しかけてきては、母に褒められ、お菓子をもらって嬉しそうに帰っていった。
そんな穏やかな日々が、ずっと続くように思われた。
けれど、中学三年の冬のある日、その均衡は静かに崩れた。
ーーー冬の放課後
その日、授業が終わったあと、陽子が一朗を校舎の裏の桜の木の下に呼び出した。
雪はもうやんで、地面に茶色い土が顔を出している。
冷たい風が吹くたび、枝の先で氷がきらりと光った。
「一朗、話があるの」
陽子はマフラーをいじりながら、俯いた。
その仕草だけで、一朗には何か大切な話だとわかった。
「どうしたの?」
「……わたしね、春から東京に行くの」
一朗は思わず言葉を失った。
「……え?」
陽子はうなずいた。
「お父さんの仕事の都合で。転勤なんだって。だから……卒業したら、すぐ」
しばらく、風の音だけが二人の間を通り抜けた。
一朗は言葉を探したが、見つからなかった。
彼女が自分の目の前からいなくなることが、まだ現実として受け止められなかった。
陽子は無理に笑って見せた。
「東京って、テレビみたいにキラキラしてるんだって。わたし、行ってみたかったんだ。……でもね」
そこまで言って、声が小さくなった。
「……でも、本当は、行きたくない」
一朗は黙っていた。
陽子の肩に積もった雪の粉が、風でふわりと舞った。
その白い粒を見つめながら、彼はゆっくり口を開いた。
「……そっか。東京、遠いな」
陽子はうなずいた。
「でも、いつかまた帰ってくるよ。そのときは——」
彼女は少し顔を上げて言った。
「また、いっしょに雪だるま作ろう」
その言葉に、一朗は笑った。
懐かしい記憶が胸の奥で光った。
「うん。約束だ」
二人は笑い合ったが、その笑顔の奥には、もう二度と戻らない時間の気配があった。
ーーー中学卒業の日 — 別れの朝
その日の朝、山の空は透きとおるように晴れていた。
長い冬が終わりかけ、雪はところどころで薄く溶け、ロッジの裏の斜面からは、まだ冷たい水の音が細く流れていた。
一朗は制服の上から古びたダッフルコートを羽織り、玄関で母にネクタイを直してもらっていた。
「今日で中学も終わりだね」
母の言葉に、一朗は「うん」とだけ答えた。
どこか胸の奥が、きゅっと締めつけられるようだった。
校庭では、まだ雪がところどころに残っていた。
青空の下で、式が始まる。
風に乗って卒業証書を受け取る生徒の声が流れ、吹奏楽部の演奏が遠くで震えるように響いていた。
陽子は、列の少し前にいた。
金色の陽の光を受けて髪が柔らかく光り、背筋をぴんと伸ばして壇上のほうを見つめている。
一朗はその後ろ姿を見つめながら、——ああ、もうすぐ東京に行くんだ。
と、何度も心の中で繰り返していた。
式が終わると、あちらこちらで泣き声と笑い声が混ざり合った。
みんなが写真を撮り、握手を交わし、教室の黒板には「ありがとう」「さようなら」と色チョークの文字。
陽子はクラスの友達に囲まれていたが、ふと一朗を見つけると、手を振って駆け寄ってきた。
「一朗、卒業おめでとう!」
息を弾ませながら笑う陽子の頬は少し赤い。
その笑顔がまぶしくて、一朗はうまく声が出なかった。
「……ありがとう。陽子も」
「ねぇ、一朗。東京、遊びにおいでよ。今度の家、すっごく広いんだって!」
陽子は明るく言った。
けれどその声の奥には、少しだけ寂しさが混じっていた。
一朗は、うつむいて足元の雪を軽く蹴った。
「たぶん、無理だよ。ロッジの手伝いもあるし」
「そっか……」
陽子の声が小さくなる。
風が吹いて、二人の間を雪解け水の匂いが通り抜けた。
しばらく沈黙が流れたあと、陽子が制服のポケットから小さな包みを取り出した。
「はい、これ。お守り」
開くと、古びた赤い紐で結ばれた小さな鈴が入っていた。
「おばあちゃんがくれたやつ。……でもね、わたしより一朗くんに似合うと思って」
一朗は手のひらの上の鈴を見つめた。
風に揺れて、ちりん、と小さな音が鳴る。
胸の奥が不思議に痛くなった。
「ありがとう。……大事にする」
陽子はうれしそうに笑ったが、その目の端はうっすら赤かった。
「ねぇ、一朗。東京行っても、忘れないでね。わたし、ちゃんと覚えてるから」
一朗は少しだけ微笑んで言った。
「忘れないよ。陽子の声、雪より大きいから」
陽子は一瞬きょとんとして、それから吹き出した。
「なにそれ。キャハハ」
笑いながら、彼女は小さく息を吸い込み、「……じゃあ、またね」と囁いた。
その声は、春の光の中に溶けていった。
陽子は友達に呼ばれ、走り去っていく。
背中に揺れる黒い髪が、光を反射してきらきらと輝いていた。
一朗は手の中の鈴を握りしめ、もう一度だけ「またね」と、心の中でつぶやいた。
校庭の雪は、午後の日差しにゆっくりと溶けていた。
小さな鈴の音だけが、春の風の中にいつまでも残っていた。
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