「真白」〜〜雪と蛇の女〜〜

まへまへ

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第3話 一朗の今

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ロッジの冬 — 現在の一朗

山の冬は、静かすぎるほど静かだった。

夜のあいだに降った雪が、朝には一面を覆い尽くし、世界の境界をすべて白く塗りつぶしてしまう。

一朗は玄関先に立ち、吐く息で白く曇る空気を見つめた。

スコップを握り直し、固く凍った雪を崩していく。

左手の指は思うように力が入らず、それでも身体は慣れていた。

右手一本でも、雪をどかす作業は毎朝の習慣になっていた。



ロッジは、古い木造の建物だ。

父が若い頃に建てたもので、今は母と二人で営んでいる。客は多くない。

冬のあいだだけスキー客が数組、春から秋にかけては、ほとんど人影もない。

——それでも、この山を離れる気にはなれなかった。

雪の匂い、薪の焦げる音、遠くで鳴る風の唸り。

それらが日常の音として身体に染みついている。

都会の賑わいを知らないまま、この山の四季とともに生きてきた。

雪かきを終えると、ロッジの窓から母が顔を出した。

 「お湯、沸いたよ。一休みしなさい」

 「うん、すぐ行く」

母の声は、どこか柔らかく、それでいて年月を感じさせる静かな響きをしていた。

室内に戻ると、ストーブの上で鉄瓶がかすかに鳴っていた。

テーブルには味噌汁と、漬物と、炊きたてのご飯。

山では贅沢な朝だ。

母は新聞をたたみながら言った。

 「来週、町から修学旅行の下見が来るって。お父さんの頃みたいに、少しでも賑やかになるといいね」

 「そうだな」

 一朗は淡々と頷き、味噌汁をすすった。

温かさが喉を通っていく感覚が心地よい。

話すことは少ないが、それが不自然ではなかった。

母子ふたりの暮らしは、もう何年もこうして続いている。

たまに都会から来る客が、「こんなところで退屈しませんか?」と笑うことがある。

一朗はそのたびに、「慣れました」と答える。

退屈という言葉の意味が、自分にはもうよくわからなかった。

かつて、誰かと笑い合った記憶はある。

けれど、それは雪解けの水のように、いつのまにか形を失っていた。

思い出そうとしても、顔も声も霧の中に消えていく。

この山で生きていくこと。

それがすべてであり、ほかに何も望まなかった。

昼近くになって、雪はやみ、空気がいくらか明るくなってきた。

ロッジの裏手に回ると、獣よけの柵のほうで、何かが光って見えた。

小さくきらりと反射する白。

陽の光を受けて、雪の中でひときわ目立っていた。

一朗はゆっくり近づき、その正体を確かめようとして、思わず足を止めた。

——罠の中に、一匹の蛇がいた。

雪よりも白い体。

目を細めると、かすかに金色の光が揺れて見えた。

 「……なんだ、これは」

息をのむほど美しい、白い蛇だった。

罠にかかっていた白い蛇は、一朗が手袋を外して罠の金具をゆっくり外すと、少しのあいだ動かずにいた。

雪の上に、細く長い身体を横たえ、まるで何かを確かめるようにこちらを見ていた。

そして、静かに山の奥へと滑るように去っていった。

雪を割くように、白い線が木々の影の中へ消えていく。

その光景が妙に心に残った。

ただの蛇のはずなのに、どこか“人の目”のようなものを感じたのだ。

——それでも、一朗は深く考えなかった。

山には不思議なことが多い。
 
吹雪の夜に人の声が聞こえたり、霧の中で獣の影が通り過ぎたりする。

それもすべて、山の暮らしでは日常のひとつだった。

ーーー 一週間が過ぎた。

朝の山は静かだった。

空は青く、冷たい空気の中に鳥の声が響いていた。

一朗はいつものように、籠を背負って山道を登っていた。

このあたりは“自分の庭”のようなものだ。
 
どの木の根元に蕨が出るか、どの沢沿いに山葵が顔を出すか、身体で覚えている。

朝日が射すころになると、山菜を詰めた籠が半分ほど埋まり、いつもの「休み場所」にたどり着く。

そこは、大きな岩がひとつだけぽつんとある開けた場所だった。

眼下には白い霧がゆらめき、遠くの尾根が金色の光に包まれている。

風が弱く、朝食にはちょうどいい場所だ。

一朗は岩に腰を下ろし、リュックから弁当包みを取り出した。

中には母が作ったおにぎりと、自分で焼いた卵焼き、そして少しの鶏のささみ。

手を合わせて一口目のおにぎりを食べようとしたとき——ふと、視界の端に“白いもの”が動いた。

最初は雪が風で舞ったのかと思った。

けれど、それは確かに生きていた。

岩の向こうから、細長い白い身体が静かに現れたのだ。

一朗は息を止めた。

白い蛇——。

あの日、罠から逃がしたあの蛇だった。

陽の光に照らされて、その体は淡く光を返していた。

鱗は雪のように透きとおり、首をわずかに傾けて、一朗のほうを見ていた。

山鳥の声も、風の音も、しんと止まったようだった。

ただ、蛇と一朗のあいだの距離に、かすかな緊張だけが漂っていた。

 「……肉食だったよな」

一朗は、独り言のようにつぶやいた。

母が詰めてくれた弁当の中に、ちょうど茹でたささみが二切れ入っていたのを思い出す。

彼はその一切れを箸でつまみ、そっと岩の上に置いた。

白蛇は動かない。

その瞳は金色にも見えるが、どこか穏やかな光を宿していた。

一朗はその場に少し立ち尽くしたあと、何も言わずに背を向けた。

 「じゃあな」

そう小さくつぶやいて、山道を下り始める。

振り返ることはしなかった。

ただ、背中に感じる気配が、なぜか長いあいだ消えずに残っていた。

ーーー

翌朝も、一朗はいつものように山へ登った。

天気は前日よりも少し曇っていたが、霧の奥の光はやわらかく、山全体が静かに息づいていた。

岩の場所に着くと、昨日置いたはずのささみは、跡形もなく消えていた。

まるで最初からそこになかったかのように、雪の上には小さな跡ひとつ残っていない。

一朗は少しだけ口元を緩めた。

 「……食ったのか」

独りごとのように呟きながら、新しいささみを弁当包みから取り出し、昨日と同じように岩の上に置いた。

その動作は、なぜか自然だった。誰に教わったわけでもなく、それが“今日やるべきこと”のように感じられた。

 風が吹き、木々がざわめく。

 遠くで鳥が鳴いた。

 山の時間は、いつもと同じように流れていた。

 けれど、その日から、一朗の“いつもの朝”には、小さな変化が忍び込み始めていた。
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