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第4話 白い蛇との会話
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あの日から、朝の山は少しだけ違って見えるようになった。
空の青は深く、木々の影は濃く。
どこか目に映る景色が、以前よりも“生きている”ように感じられた。
一朗は、変わらず早朝にロッジを出る。
手に持つ籠と腰の鎌。
その姿は、雪の名残が点々と残る山道に自然と溶け込んでいた。
白い息を吐きながら登っていく。
鳥の声、沢の音、枝を踏む乾いた音。
すべてがいつもの朝のはずなのに、どこかに“もう一つの気配”が潜んでいるようだった。
岩の場所に着くと、一朗はまず目を向ける。
昨日置いたささみは、またきれいに消えていた。
けれど、その日、少し違った。
雪の上に、細い跡があった。
蛇の通ったような、うっすらとした曲線。
白い体が雪をかすめた、その痕。
「……また来たのか」
一朗は独り言のように言い、ポケットから弁当包みを取り出す。
おにぎりを頬張りながら、指先で小さく切ったささみを岩の上に置く。
そのとき、後ろの茂みがほんの少しだけ動いた。
一朗は振り返る。
木の根の影から、白いものがゆっくりと伸びてきた。
それはまるで、光そのものが形を持ったようだった。
白蛇だ。
以前よりも近い距離に、そこにいた。
陽の光を受けて、その鱗は薄い金を帯びる。
瞳は琥珀色にきらめき、一朗を真っ直ぐに見つめていた。
「……おまえ、ほんとに来たのか」
声に出しても、蛇は逃げなかった。
静かに、岩の上のささみに頭を近づける。
舌が小さく動き、肉の匂いを確かめるように空気を舐めた。
一朗はじっとその様子を見ていた。
怖さはなかった。
むしろ、不思議な懐かしさのようなものが胸の奥に広がっていった。
やがて白蛇は、ゆっくりとささみを咥え、そのまま岩の陰に身を隠した。
それだけのことだった。
けれど、一朗はしばらく動けなかった。
心臓の音だけが静かな山に響くようだった。
それから数日、白蛇はときどき姿を見せるようになった。
初めは遠くの岩陰、次は少し近くの木の根元、そしてある朝には、一朗の足もとまで来ていた。
彼が動かない限り、蛇も逃げない。
食べ物を置くと、静かに首をもたげ、その瞳を細めて一朗を見上げる。
不思議な目だった。
生き物の目というより、どこか“考えている”ような、理性的な光があった。
一朗はつぶやいた。
「おまえ、ほんとにただの蛇か?」
もちろん答えは返ってこない。
だが、その瞬間、白蛇の瞳がゆっくり瞬いた。
まるで、言葉の代わりに頷いたように——。
山を降りるころには、陽が高く昇っていた。
風はやわらかく、雪解けの水が沢に音を立てている。
一朗は背中の籠を軽く直しながら、ふと、後ろを振り返った。
誰もいない山道の奥、白い光が一瞬だけ揺れたように見えた。
それが、朝の霧なのか、あの白蛇の姿なのかは分からなかった。
ただ、一朗の胸の奥には、確かに何かが“動き始めた”感覚が残っていた。
長い間、静かだった心の中の雪が、ほんの少しだけ、溶け始めたような——そんな朝だった。
その日も、朝の山は冷たく澄んでいた。
沢の水音がいつもより少し高く響く。
雪解けが進み、土の匂いが濃くなっている。
一朗は、いつもの籠と鎌を手に、山を歩いていた。
風はまだ冷たいが、木々の枝先には若芽が顔を出している。
季節がゆっくりと動き出す、そのわずかな変化を肌で感じながら、彼は自然と笑みを浮かべた。
岩の上のささみは、またきれいに消えていた。
そのそばに、細い滑らかな跡がいくつも続いている。
蛇が通った形跡だ。
この数日のあいだに、山道のあちこちでその跡を見るようになっていた。
「……まさか、ついてきてるのか」
冗談めかして呟きながら、空を見上げる。
山を降りる途中、ふとした拍子に足もとで何かが動いた。
細い白い影が、道の端をすべるように進む。
「……おまえ」
一朗が立ち止まると、白蛇はすぐには逃げず、道の真ん中で身体をくるりと巻いた。
朝の光が鱗に反射して、柔らかな銀のように輝く。
まるで、「見ている」ようだった。
一朗は膝を折って目線を合わせる。
「この辺まで来るなんて、山の神様に怒られねぇか?」
言葉をかけても蛇は動かない。
ただ、舌を小さく伸ばし、空気を確かめるように揺らめかせていた。
その動作が、どこか人の仕草に似ているように思えた。
まるで、一朗の声の意味を理解しているかのように。
それから、白蛇は少しずつロッジの近くまで姿を現すようになった。
裏山の小道、薪小屋の陰、時には玄関脇の木の根元に、その白い影を見かける。
母の姿があるときは、決して近づかない。
けれど、一朗がひとりでいると、まるで空気のようにそっと現れた。
ある夕方、薪を割っていたときのことだった。
木を割る音に混じって、乾いた葉を踏むようなかすかな音がした。
一朗が振り返ると、夕陽の光の中に白いものがいた。
それは、ロッジの裏手の石垣の上で静かに身を丸めている。
「……また来たのか」
一朗は斧を置いて、ゆっくりと近づいた。
白蛇は逃げなかった。
その瞳が、夕暮れの光を映して黄金に輝いている。
一朗は笑って言った。
「山のほうが居心地いいだろうに。ロッジなんて退屈だぞ」
もちろん、蛇が答えることはない。
けれど、ほんの一瞬だけ、白蛇の首がかすかに傾いたように見えた。
まるで、「ここにいるのが当たり前」とでも言いたげに。
ーーー 夜
仕事を終えて、母と夕食を済ませたあと、一朗はふと外に出た。
満月が、雪解けの山肌を照らしている。
風が静かで、遠くの木々の影が月光の中で揺れていた。
そのとき、薪小屋のあたりで小さな音がした。
目を向けると、白い影が月明かりの中をすべるように動いている。
その姿は、不思議なほど美しかった。
冷たい光に包まれたように、まるで夢の中の生き物のようだった。
一朗はしばらく黙って見つめていた。
言葉をかけようとして、やめた。
なぜか、声を出すのがもったいないような気がした。
白蛇が静かに頭をもたげ、その瞳が一瞬だけ、一朗の方を見た。
——その視線に、なぜか温かさを感じた。
そして、白蛇は音もなく草むらの奥へと消えていった。
残されたのは、月光と、春の匂いだけだった。
一朗は深く息を吸い込んで、胸の奥に微かな鼓動を感じた。
「……なんだろうな」
自分でも理由の分からない気持ちが、静かに心の奥で揺れていた。
空の青は深く、木々の影は濃く。
どこか目に映る景色が、以前よりも“生きている”ように感じられた。
一朗は、変わらず早朝にロッジを出る。
手に持つ籠と腰の鎌。
その姿は、雪の名残が点々と残る山道に自然と溶け込んでいた。
白い息を吐きながら登っていく。
鳥の声、沢の音、枝を踏む乾いた音。
すべてがいつもの朝のはずなのに、どこかに“もう一つの気配”が潜んでいるようだった。
岩の場所に着くと、一朗はまず目を向ける。
昨日置いたささみは、またきれいに消えていた。
けれど、その日、少し違った。
雪の上に、細い跡があった。
蛇の通ったような、うっすらとした曲線。
白い体が雪をかすめた、その痕。
「……また来たのか」
一朗は独り言のように言い、ポケットから弁当包みを取り出す。
おにぎりを頬張りながら、指先で小さく切ったささみを岩の上に置く。
そのとき、後ろの茂みがほんの少しだけ動いた。
一朗は振り返る。
木の根の影から、白いものがゆっくりと伸びてきた。
それはまるで、光そのものが形を持ったようだった。
白蛇だ。
以前よりも近い距離に、そこにいた。
陽の光を受けて、その鱗は薄い金を帯びる。
瞳は琥珀色にきらめき、一朗を真っ直ぐに見つめていた。
「……おまえ、ほんとに来たのか」
声に出しても、蛇は逃げなかった。
静かに、岩の上のささみに頭を近づける。
舌が小さく動き、肉の匂いを確かめるように空気を舐めた。
一朗はじっとその様子を見ていた。
怖さはなかった。
むしろ、不思議な懐かしさのようなものが胸の奥に広がっていった。
やがて白蛇は、ゆっくりとささみを咥え、そのまま岩の陰に身を隠した。
それだけのことだった。
けれど、一朗はしばらく動けなかった。
心臓の音だけが静かな山に響くようだった。
それから数日、白蛇はときどき姿を見せるようになった。
初めは遠くの岩陰、次は少し近くの木の根元、そしてある朝には、一朗の足もとまで来ていた。
彼が動かない限り、蛇も逃げない。
食べ物を置くと、静かに首をもたげ、その瞳を細めて一朗を見上げる。
不思議な目だった。
生き物の目というより、どこか“考えている”ような、理性的な光があった。
一朗はつぶやいた。
「おまえ、ほんとにただの蛇か?」
もちろん答えは返ってこない。
だが、その瞬間、白蛇の瞳がゆっくり瞬いた。
まるで、言葉の代わりに頷いたように——。
山を降りるころには、陽が高く昇っていた。
風はやわらかく、雪解けの水が沢に音を立てている。
一朗は背中の籠を軽く直しながら、ふと、後ろを振り返った。
誰もいない山道の奥、白い光が一瞬だけ揺れたように見えた。
それが、朝の霧なのか、あの白蛇の姿なのかは分からなかった。
ただ、一朗の胸の奥には、確かに何かが“動き始めた”感覚が残っていた。
長い間、静かだった心の中の雪が、ほんの少しだけ、溶け始めたような——そんな朝だった。
その日も、朝の山は冷たく澄んでいた。
沢の水音がいつもより少し高く響く。
雪解けが進み、土の匂いが濃くなっている。
一朗は、いつもの籠と鎌を手に、山を歩いていた。
風はまだ冷たいが、木々の枝先には若芽が顔を出している。
季節がゆっくりと動き出す、そのわずかな変化を肌で感じながら、彼は自然と笑みを浮かべた。
岩の上のささみは、またきれいに消えていた。
そのそばに、細い滑らかな跡がいくつも続いている。
蛇が通った形跡だ。
この数日のあいだに、山道のあちこちでその跡を見るようになっていた。
「……まさか、ついてきてるのか」
冗談めかして呟きながら、空を見上げる。
山を降りる途中、ふとした拍子に足もとで何かが動いた。
細い白い影が、道の端をすべるように進む。
「……おまえ」
一朗が立ち止まると、白蛇はすぐには逃げず、道の真ん中で身体をくるりと巻いた。
朝の光が鱗に反射して、柔らかな銀のように輝く。
まるで、「見ている」ようだった。
一朗は膝を折って目線を合わせる。
「この辺まで来るなんて、山の神様に怒られねぇか?」
言葉をかけても蛇は動かない。
ただ、舌を小さく伸ばし、空気を確かめるように揺らめかせていた。
その動作が、どこか人の仕草に似ているように思えた。
まるで、一朗の声の意味を理解しているかのように。
それから、白蛇は少しずつロッジの近くまで姿を現すようになった。
裏山の小道、薪小屋の陰、時には玄関脇の木の根元に、その白い影を見かける。
母の姿があるときは、決して近づかない。
けれど、一朗がひとりでいると、まるで空気のようにそっと現れた。
ある夕方、薪を割っていたときのことだった。
木を割る音に混じって、乾いた葉を踏むようなかすかな音がした。
一朗が振り返ると、夕陽の光の中に白いものがいた。
それは、ロッジの裏手の石垣の上で静かに身を丸めている。
「……また来たのか」
一朗は斧を置いて、ゆっくりと近づいた。
白蛇は逃げなかった。
その瞳が、夕暮れの光を映して黄金に輝いている。
一朗は笑って言った。
「山のほうが居心地いいだろうに。ロッジなんて退屈だぞ」
もちろん、蛇が答えることはない。
けれど、ほんの一瞬だけ、白蛇の首がかすかに傾いたように見えた。
まるで、「ここにいるのが当たり前」とでも言いたげに。
ーーー 夜
仕事を終えて、母と夕食を済ませたあと、一朗はふと外に出た。
満月が、雪解けの山肌を照らしている。
風が静かで、遠くの木々の影が月光の中で揺れていた。
そのとき、薪小屋のあたりで小さな音がした。
目を向けると、白い影が月明かりの中をすべるように動いている。
その姿は、不思議なほど美しかった。
冷たい光に包まれたように、まるで夢の中の生き物のようだった。
一朗はしばらく黙って見つめていた。
言葉をかけようとして、やめた。
なぜか、声を出すのがもったいないような気がした。
白蛇が静かに頭をもたげ、その瞳が一瞬だけ、一朗の方を見た。
——その視線に、なぜか温かさを感じた。
そして、白蛇は音もなく草むらの奥へと消えていった。
残されたのは、月光と、春の匂いだけだった。
一朗は深く息を吸い込んで、胸の奥に微かな鼓動を感じた。
「……なんだろうな」
自分でも理由の分からない気持ちが、静かに心の奥で揺れていた。
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