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第5話 白い蛇の正体
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その夜のロッジは、いつもよりも静かだった。
宿泊客はいない。
昼間に割った薪の香りが部屋の中に漂い、ストーブの火が赤く揺れていた。
一朗と母は、テーブルを挟んで夕食をとっていた。
味噌汁の湯気が立ちのぼり、煮物の湯気がほのかに灯りに霞んでいる。
「母さん、今日さ」
箸を置きながら、一朗がぽつりと言った。
「ロッジの裏に、白い蛇がいたんだ」
母は手を止めて顔を上げる。
年齢より少し若く見える穏やかな目が、一朗を見つめた。
「白い蛇?」
「ああ。前にも山で見たんだ。罠にかかってたのを逃がしたんだけど……最近、ロッジの近くにも出るようになってさ」
母はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「そう……白い蛇、ねぇ」
その声には驚きというより、どこか懐かしむような響きがあった。
「母さん、知ってるの?」
一朗の問いに、母は微笑んで答えた。
「私は見たことないよ。でもね、あんたの父さんが昔、よく言ってたの」
ストーブの火がぱち、と音を立てた。
母は、湯呑みを両手で包みながら語り始めた。
「この山には、昔から“白いもの”が棲んでるって。雪の精だとか、山の神の使いだとか言われてるけど……その姿を見た人は、だいたい“白い蛇”だったって言うんだよ」
一朗は黙って聞いていた。
母の声は静かで、まるで昔話を語るようだった。
「父さんね、若いころに一度だけ見たんだって。吹雪の夜、ロッジの裏の林の中で。真っ白な蛇が、雪の上をすべるように通り過ぎていったんだそうだ。それを見てから、不思議と山の天気が読めるようになったって言ってた」
「山の神様の使い……ってことか?」
「そう。“白い蛇は山の守り神の使い。人に災いをもたらさず、気に入った人のそばに寄る”ってね」
母は少し笑った。
「父さん、冗談半分で言ってたけど、“白い蛇が現れるときは、山が人を選んでる”って言ってたわ」
一朗は、少しのあいだ黙り込んだ。
味噌汁の湯気の向こうで、母の横顔が柔らかく揺れている。
「……山が、人を選ぶ」
その言葉を、口の中で静かに繰り返した。
ロッジの外では、風が木々を揺らす音が聞こえる。
母は少し笑みを浮かべて言った。
「だから、変に怖がらなくていいよ。その蛇があんたの近くに来るなら、それは悪いことじゃない」
「そうなの?」
「ええ。むしろ、守ってくれてるのかもね」
一朗は視線を落とし、茶碗を持つ左手の指先を無意識に見つめた。
幼いころの怪我の跡。
動かないその指が、なぜか今夜は温かく感じた。
「……守ってくれてる、か」
その言葉が、胸の奥に静かに沁みていく。
母はそれ以上何も言わなかった。
ただ、ストーブの火を見つめながら、小さく息をついた。
夜は深まり、山の風が窓を叩くたび、ロッジの灯りがかすかに揺れた。
一朗の心のどこかで、“白い蛇”という存在が、もう恐れでも偶然でもなく、ゆっくりと“縁”のようなものに変わり始めていた。
次の日。
昼過ぎから風が荒れはじめ、夕方には、山全体が白い幕に包まれていた。
台風が信州の山を直撃するのは珍しいことだった。
しかし、この季節の風は冷たく、やがて雨は雪へと変わった。
スキー場は閉鎖され、客もいない。
ロッジの外には、吹き荒れる風の音だけが響いている。
窓がガタガタと鳴り、木の枝が壁を叩く音がときおり響いた。
一朗は母とともに昼まで台風対策をして、外の板を打ちつけ、道具を片づけた。
夕方には停電に備えて灯油のランタンを出し、ロッジの中を点検して回る。
やることが終わると、外の嵐とは裏腹に、ロッジの中は静かだった。
母は早めに部屋へ入り、「明日の朝、様子を見てから屋根を見よう」と言い残して眠りについた。
夜更け。
一朗はひとり、居間でテレビを見ていた。
外では風がうなり、窓の隙間から雪が混じった風が吹き込んでいる。
ランタンの明かりが壁を照らし、その灯りの揺れがどこか心細さを誘った。
リモコンを置き、背伸びをしたときだった。ふと、視界の端に“何か白いもの”が映った。
天井の梁のあたり。
細い影が、静かに動いている。
「……え?」
一朗は立ち上がり、視線を上に向けた。
ランタンの明かりがその姿を照らした。
天井の木目の上を、滑るように動く白い身体。
白蛇だった。
あの、山で出会った白い蛇。
信じられない気持ちで、一朗はしばらくその場に立ち尽くした。
蛇は、一朗の視線に気づいたのか、ゆっくりと首を上げて、こちらを見た。
金色の瞳が、淡い光を帯びて揺らめく。
その目に、野生の鋭さはなかった。
むしろ、人の心の奥を覗くような、静かな光。
「……おまえ、どうしてここに」
一朗は、低くつぶやいた。
恐怖よりも、驚きと戸惑いの方が強かった。
思わず母の言葉が頭をよぎる。
——白い蛇は、神の使い。
——気に入った人のそばに寄る。
「神の使い……か」
小さく笑って、一朗は蛇に向かって話しかけた。
「こんな夜に、腹でも減ったのか?」
その瞬間だった。
蛇の身体が、ふっと光を帯びた。
次の瞬間、その細い体がぐん、と伸び、白い光が部屋いっぱいに広がった。
「なっ……!」
一朗は声にならない声を上げて、思わず尻もちをついた。
白い蛇は天井から舞い降りるように床へと滑り、見る間に巨大な姿へと変わっていった。
その体は太く長く、鱗は淡い光を放ちながら、部屋の床をすべるたびに影を作った。
まるで雪嵐の光そのものが形を取ったかのようだった。
一朗は腰が抜けて、床に手をついたまま後ずさる。
喉がからからに乾き、声が出なかった。
「た……助け、」
その言葉の続きは出てこない。
白蛇の巨大な体が、ゆっくりと彼の前に降りてきた。
そして、その瞳が真正面から一朗を見つめた。
冷たいはずのその光の中に、どこか優しさのようなものがあった。
次の瞬間、蛇の体が淡い光を放ち始めた。
まるで霧のように、鱗が光に溶けていく。
その光の中で、形が変わっていった。
胴が細く、肩が生まれ、腕と脚の影が現れ、髪が流れる。
光が収まったとき、そこに立っていたのは、白いフィットしたスーツをまとったような少女だった。
雪明かりのような肌、長い髪が淡く揺れ、瞳はあの白蛇の金色をそのまま残していた。
「……怖くないよ」
澄んだ声が、静かに響いた。
その声は、どこか高校生くらいの少女のものだった。
一朗は息を呑んだまま、動けなかった。
少女は、少しだけ首をかしげて微笑んだ。
「あなたが、助けてくれたから……」
言葉は柔らかく、嵐の外の音がまるで遠くに消えていくようだった。
「わたし、あなたにお礼を言いたかったの」
金色の瞳がまっすぐに一朗を見つめた。
その瞳に映るのは、驚きと恐れと、そしてどこかで目を離せない、一朗自身の姿。
嵐の夜、世界の音が止まったような静寂の中で、人と異なるものが、初めて言葉を交わした。
宿泊客はいない。
昼間に割った薪の香りが部屋の中に漂い、ストーブの火が赤く揺れていた。
一朗と母は、テーブルを挟んで夕食をとっていた。
味噌汁の湯気が立ちのぼり、煮物の湯気がほのかに灯りに霞んでいる。
「母さん、今日さ」
箸を置きながら、一朗がぽつりと言った。
「ロッジの裏に、白い蛇がいたんだ」
母は手を止めて顔を上げる。
年齢より少し若く見える穏やかな目が、一朗を見つめた。
「白い蛇?」
「ああ。前にも山で見たんだ。罠にかかってたのを逃がしたんだけど……最近、ロッジの近くにも出るようになってさ」
母はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「そう……白い蛇、ねぇ」
その声には驚きというより、どこか懐かしむような響きがあった。
「母さん、知ってるの?」
一朗の問いに、母は微笑んで答えた。
「私は見たことないよ。でもね、あんたの父さんが昔、よく言ってたの」
ストーブの火がぱち、と音を立てた。
母は、湯呑みを両手で包みながら語り始めた。
「この山には、昔から“白いもの”が棲んでるって。雪の精だとか、山の神の使いだとか言われてるけど……その姿を見た人は、だいたい“白い蛇”だったって言うんだよ」
一朗は黙って聞いていた。
母の声は静かで、まるで昔話を語るようだった。
「父さんね、若いころに一度だけ見たんだって。吹雪の夜、ロッジの裏の林の中で。真っ白な蛇が、雪の上をすべるように通り過ぎていったんだそうだ。それを見てから、不思議と山の天気が読めるようになったって言ってた」
「山の神様の使い……ってことか?」
「そう。“白い蛇は山の守り神の使い。人に災いをもたらさず、気に入った人のそばに寄る”ってね」
母は少し笑った。
「父さん、冗談半分で言ってたけど、“白い蛇が現れるときは、山が人を選んでる”って言ってたわ」
一朗は、少しのあいだ黙り込んだ。
味噌汁の湯気の向こうで、母の横顔が柔らかく揺れている。
「……山が、人を選ぶ」
その言葉を、口の中で静かに繰り返した。
ロッジの外では、風が木々を揺らす音が聞こえる。
母は少し笑みを浮かべて言った。
「だから、変に怖がらなくていいよ。その蛇があんたの近くに来るなら、それは悪いことじゃない」
「そうなの?」
「ええ。むしろ、守ってくれてるのかもね」
一朗は視線を落とし、茶碗を持つ左手の指先を無意識に見つめた。
幼いころの怪我の跡。
動かないその指が、なぜか今夜は温かく感じた。
「……守ってくれてる、か」
その言葉が、胸の奥に静かに沁みていく。
母はそれ以上何も言わなかった。
ただ、ストーブの火を見つめながら、小さく息をついた。
夜は深まり、山の風が窓を叩くたび、ロッジの灯りがかすかに揺れた。
一朗の心のどこかで、“白い蛇”という存在が、もう恐れでも偶然でもなく、ゆっくりと“縁”のようなものに変わり始めていた。
次の日。
昼過ぎから風が荒れはじめ、夕方には、山全体が白い幕に包まれていた。
台風が信州の山を直撃するのは珍しいことだった。
しかし、この季節の風は冷たく、やがて雨は雪へと変わった。
スキー場は閉鎖され、客もいない。
ロッジの外には、吹き荒れる風の音だけが響いている。
窓がガタガタと鳴り、木の枝が壁を叩く音がときおり響いた。
一朗は母とともに昼まで台風対策をして、外の板を打ちつけ、道具を片づけた。
夕方には停電に備えて灯油のランタンを出し、ロッジの中を点検して回る。
やることが終わると、外の嵐とは裏腹に、ロッジの中は静かだった。
母は早めに部屋へ入り、「明日の朝、様子を見てから屋根を見よう」と言い残して眠りについた。
夜更け。
一朗はひとり、居間でテレビを見ていた。
外では風がうなり、窓の隙間から雪が混じった風が吹き込んでいる。
ランタンの明かりが壁を照らし、その灯りの揺れがどこか心細さを誘った。
リモコンを置き、背伸びをしたときだった。ふと、視界の端に“何か白いもの”が映った。
天井の梁のあたり。
細い影が、静かに動いている。
「……え?」
一朗は立ち上がり、視線を上に向けた。
ランタンの明かりがその姿を照らした。
天井の木目の上を、滑るように動く白い身体。
白蛇だった。
あの、山で出会った白い蛇。
信じられない気持ちで、一朗はしばらくその場に立ち尽くした。
蛇は、一朗の視線に気づいたのか、ゆっくりと首を上げて、こちらを見た。
金色の瞳が、淡い光を帯びて揺らめく。
その目に、野生の鋭さはなかった。
むしろ、人の心の奥を覗くような、静かな光。
「……おまえ、どうしてここに」
一朗は、低くつぶやいた。
恐怖よりも、驚きと戸惑いの方が強かった。
思わず母の言葉が頭をよぎる。
——白い蛇は、神の使い。
——気に入った人のそばに寄る。
「神の使い……か」
小さく笑って、一朗は蛇に向かって話しかけた。
「こんな夜に、腹でも減ったのか?」
その瞬間だった。
蛇の身体が、ふっと光を帯びた。
次の瞬間、その細い体がぐん、と伸び、白い光が部屋いっぱいに広がった。
「なっ……!」
一朗は声にならない声を上げて、思わず尻もちをついた。
白い蛇は天井から舞い降りるように床へと滑り、見る間に巨大な姿へと変わっていった。
その体は太く長く、鱗は淡い光を放ちながら、部屋の床をすべるたびに影を作った。
まるで雪嵐の光そのものが形を取ったかのようだった。
一朗は腰が抜けて、床に手をついたまま後ずさる。
喉がからからに乾き、声が出なかった。
「た……助け、」
その言葉の続きは出てこない。
白蛇の巨大な体が、ゆっくりと彼の前に降りてきた。
そして、その瞳が真正面から一朗を見つめた。
冷たいはずのその光の中に、どこか優しさのようなものがあった。
次の瞬間、蛇の体が淡い光を放ち始めた。
まるで霧のように、鱗が光に溶けていく。
その光の中で、形が変わっていった。
胴が細く、肩が生まれ、腕と脚の影が現れ、髪が流れる。
光が収まったとき、そこに立っていたのは、白いフィットしたスーツをまとったような少女だった。
雪明かりのような肌、長い髪が淡く揺れ、瞳はあの白蛇の金色をそのまま残していた。
「……怖くないよ」
澄んだ声が、静かに響いた。
その声は、どこか高校生くらいの少女のものだった。
一朗は息を呑んだまま、動けなかった。
少女は、少しだけ首をかしげて微笑んだ。
「あなたが、助けてくれたから……」
言葉は柔らかく、嵐の外の音がまるで遠くに消えていくようだった。
「わたし、あなたにお礼を言いたかったの」
金色の瞳がまっすぐに一朗を見つめた。
その瞳に映るのは、驚きと恐れと、そしてどこかで目を離せない、一朗自身の姿。
嵐の夜、世界の音が止まったような静寂の中で、人と異なるものが、初めて言葉を交わした。
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