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第16話 母親(美佐子)との朝
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朝の空気はまだ少し冷たく、ロッジの廊下には木の温い匂いが残っていた。
窓の外では、薄い霧が森の上にゆっくりと立ちこめている。
鳥の声はまだまばらで、世界が目を覚ます手前の静けさがあった。
真白は、その静けさの中で目を覚ました。
胸の奥に、昨夜のぬくもりがふわりと残っていて、もう一度布団に潜りこみたくなるような幸福感があったけれど、どうしてもじっとしていられなかった。
そっと部屋を出ると、廊下にぬるく暖房の残り香が漂っている。
足音をできるだけ立てないように、リビングへ向かった。
リビングには、先に起きていた美佐子がいた。
湯気の立つポットと、湯呑みを前にして座っている。
優しいけれど、強さを含んだ横顔。
母親らしい落ち着きがあった。
真白に気づくと、美佐子は穏やかに微笑んだ。
「早いわね、真白ちゃん。眠れなかった?」
「いえ……起きちゃって。」
真白はおそるおそる椅子に座り、両手を膝の上で重ねた。
美佐子は湯呑みを一つ真白の前にそっと置く。
「冷えるでしょう、飲みなさい。」
「……ありがとうございます。」
湯呑みはあたたかかった。
手のひらに伝わるその温度が、心の奥にゆっくり染みていく。
しばらく、言葉のない時間が続いた。
薪ストーブの中の火が、ぱち、と小さくはぜる。
そして——
美佐子はふっと息を吐いて、優しい声で問いかけた。
「真白ちゃん。」
「はい。」
「一朗のこと、好きなんでしょう?」
その声には探るような厳しさはなく、ただ確かめるような、母親の温度があった。
真白は、すぐに答えられなかった。
胸の奥でなにかがあたたかくゆっくり膨らんでいく。
昨日の笑顔、手のぬくもり、そっと寄り添った夜。
それらがひとつひとつ思い起こされ、言葉になる。
真白は湯呑みを両手で握りしめたまま、ゆっくりと顔を上げた。
「……大好き、です。」
震えはなかった。
ためらいもなかった。
ただまっすぐで、透き通るような声だった。
美佐子は目を細め、頬が少しだけ緩む。
「そう。」
たったそれだけなのに、心から嬉しそうだった。
「わかるわよ。あの子、昔から不器用でね。何でも一人で抱えこもうとするの。人を頼れない子だったの。」
真白は静かに頷いた。
「……だから、一緒にいたいんです。一朗さんが、ひとりじゃないように。」
美佐子はその言葉を聞いて、ほんの少しだけ目を潤ませた。
そしてゆっくり、真白の手を包みこむ。
「ありがとう。あの子を大切にしてくれて。」
真白はその手のあたたかさに、胸の奥がぎゅっとなって、微笑んだ。
「私も大切にしてもらってます。」
美佐子は優しく笑う。
まるで、長い冬が少しずつほどけていくような柔らかい笑みだった。
「……そうね。」
その瞬間、もう真白はこの家の外の存在ではなかった。
ロッジの朝は静かに、けれど確かに、新しい家族の形へとはっきり動き始めていた。
美佐子は湯呑みをテーブルに戻し、ふっと明るい声で言った。
「さて、そろそろ朝ごはんの準備しなくちゃね。」
そして、真白の方へ顔を向ける。
「ねえ、真白ちゃん。よかったら、一緒に手伝ってくれる?」
真白はぱっと顔を明るくした。
「はい!やります!やりたいです!」
その反応の速さに、美佐子は思わず笑ってしまった。
「ふふ、元気ね。じゃあ、エプロン取ってちょうだい。壁にかかってるの。」
真白は立ち上がり、壁にかかったエプロンの中から、淡いクリーム色の物を手に取る。
それを頭からかぶり、結び目を何度も確認するように指先で触った。
美佐子は台所に立ちながら、横目で真白を見て、小さく頷く。
「よく似合ってる。」
「ほんとですか?」
「ええ、ほんとよ。」
真白は嬉しそうに胸を弾ませた。
美佐子がまな板を出しながら言った。
「今日はね、野菜スープと、パンと……それから、ベーコンを少し焼こうか。」
「スープ、作るのお手伝いします!」
「じゃあ、にんじんを洗ってくれる?」
真白はすぐに水道のところへ行き、にんじんを両手で優しく包むように持って水を流した。
その動きは、どこか慎重で、丁寧だった。
「真白ちゃん、包丁は持ったことある?」
「……ないです。でも、できると思います。」
「うん、できるできる。ゆっくりでいいからね。」
美佐子は真白の手をそっと包んで、にんじんの切り方をひとつひとつ教える。
「力は入れなくていいの。包丁の重さに任せるの。」
真白は一度頷いて、慎重に刃を下ろした。
とん、とん、とん……
均一ではないが、真剣で、優しいリズムが生まれる。
「上手よ。」
褒められた真白は、顔を少し赤くした。
「ありがとうございます……すごく楽しいです。」
「料理はね、誰かのために作るともっと楽しくなるのよ。」
真白は少しだけ考えて、そして笑った。
「じゃあ、私は……一朗さんのために作ってます。」
美佐子は手を止めて、真白の横顔を見た。
その笑顔は、まだ少し不器用だけれど、真っ直ぐで迷いがなかった。
「そうね。それでいいのよ。」
ふたりの作業は、穏やかに、あたたかく続いた。
ベーコンの香ばしい匂いが広がり、スープはやさしい色に煮えていく。
そしてその匂いに誘われるように、奥の部屋で眠っていた一朗が、まだ寝ぼけた足取りでリビングへと現れる。
新しい朝が、ゆっくりと始まろうとしていた。
窓の外では、薄い霧が森の上にゆっくりと立ちこめている。
鳥の声はまだまばらで、世界が目を覚ます手前の静けさがあった。
真白は、その静けさの中で目を覚ました。
胸の奥に、昨夜のぬくもりがふわりと残っていて、もう一度布団に潜りこみたくなるような幸福感があったけれど、どうしてもじっとしていられなかった。
そっと部屋を出ると、廊下にぬるく暖房の残り香が漂っている。
足音をできるだけ立てないように、リビングへ向かった。
リビングには、先に起きていた美佐子がいた。
湯気の立つポットと、湯呑みを前にして座っている。
優しいけれど、強さを含んだ横顔。
母親らしい落ち着きがあった。
真白に気づくと、美佐子は穏やかに微笑んだ。
「早いわね、真白ちゃん。眠れなかった?」
「いえ……起きちゃって。」
真白はおそるおそる椅子に座り、両手を膝の上で重ねた。
美佐子は湯呑みを一つ真白の前にそっと置く。
「冷えるでしょう、飲みなさい。」
「……ありがとうございます。」
湯呑みはあたたかかった。
手のひらに伝わるその温度が、心の奥にゆっくり染みていく。
しばらく、言葉のない時間が続いた。
薪ストーブの中の火が、ぱち、と小さくはぜる。
そして——
美佐子はふっと息を吐いて、優しい声で問いかけた。
「真白ちゃん。」
「はい。」
「一朗のこと、好きなんでしょう?」
その声には探るような厳しさはなく、ただ確かめるような、母親の温度があった。
真白は、すぐに答えられなかった。
胸の奥でなにかがあたたかくゆっくり膨らんでいく。
昨日の笑顔、手のぬくもり、そっと寄り添った夜。
それらがひとつひとつ思い起こされ、言葉になる。
真白は湯呑みを両手で握りしめたまま、ゆっくりと顔を上げた。
「……大好き、です。」
震えはなかった。
ためらいもなかった。
ただまっすぐで、透き通るような声だった。
美佐子は目を細め、頬が少しだけ緩む。
「そう。」
たったそれだけなのに、心から嬉しそうだった。
「わかるわよ。あの子、昔から不器用でね。何でも一人で抱えこもうとするの。人を頼れない子だったの。」
真白は静かに頷いた。
「……だから、一緒にいたいんです。一朗さんが、ひとりじゃないように。」
美佐子はその言葉を聞いて、ほんの少しだけ目を潤ませた。
そしてゆっくり、真白の手を包みこむ。
「ありがとう。あの子を大切にしてくれて。」
真白はその手のあたたかさに、胸の奥がぎゅっとなって、微笑んだ。
「私も大切にしてもらってます。」
美佐子は優しく笑う。
まるで、長い冬が少しずつほどけていくような柔らかい笑みだった。
「……そうね。」
その瞬間、もう真白はこの家の外の存在ではなかった。
ロッジの朝は静かに、けれど確かに、新しい家族の形へとはっきり動き始めていた。
美佐子は湯呑みをテーブルに戻し、ふっと明るい声で言った。
「さて、そろそろ朝ごはんの準備しなくちゃね。」
そして、真白の方へ顔を向ける。
「ねえ、真白ちゃん。よかったら、一緒に手伝ってくれる?」
真白はぱっと顔を明るくした。
「はい!やります!やりたいです!」
その反応の速さに、美佐子は思わず笑ってしまった。
「ふふ、元気ね。じゃあ、エプロン取ってちょうだい。壁にかかってるの。」
真白は立ち上がり、壁にかかったエプロンの中から、淡いクリーム色の物を手に取る。
それを頭からかぶり、結び目を何度も確認するように指先で触った。
美佐子は台所に立ちながら、横目で真白を見て、小さく頷く。
「よく似合ってる。」
「ほんとですか?」
「ええ、ほんとよ。」
真白は嬉しそうに胸を弾ませた。
美佐子がまな板を出しながら言った。
「今日はね、野菜スープと、パンと……それから、ベーコンを少し焼こうか。」
「スープ、作るのお手伝いします!」
「じゃあ、にんじんを洗ってくれる?」
真白はすぐに水道のところへ行き、にんじんを両手で優しく包むように持って水を流した。
その動きは、どこか慎重で、丁寧だった。
「真白ちゃん、包丁は持ったことある?」
「……ないです。でも、できると思います。」
「うん、できるできる。ゆっくりでいいからね。」
美佐子は真白の手をそっと包んで、にんじんの切り方をひとつひとつ教える。
「力は入れなくていいの。包丁の重さに任せるの。」
真白は一度頷いて、慎重に刃を下ろした。
とん、とん、とん……
均一ではないが、真剣で、優しいリズムが生まれる。
「上手よ。」
褒められた真白は、顔を少し赤くした。
「ありがとうございます……すごく楽しいです。」
「料理はね、誰かのために作るともっと楽しくなるのよ。」
真白は少しだけ考えて、そして笑った。
「じゃあ、私は……一朗さんのために作ってます。」
美佐子は手を止めて、真白の横顔を見た。
その笑顔は、まだ少し不器用だけれど、真っ直ぐで迷いがなかった。
「そうね。それでいいのよ。」
ふたりの作業は、穏やかに、あたたかく続いた。
ベーコンの香ばしい匂いが広がり、スープはやさしい色に煮えていく。
そしてその匂いに誘われるように、奥の部屋で眠っていた一朗が、まだ寝ぼけた足取りでリビングへと現れる。
新しい朝が、ゆっくりと始まろうとしていた。
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