理想の夫婦

まへまへ

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第1話 理想の女になって3年後

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さらにその三年後から、一平と麗子の物語は静かに再び始まる。

同じ屋根の下で暮らす時間は、日常という名前にすっかり馴染んでいた。

朝の光、食器の音、洗濯機の回転。どれも穏やかで、疑いようのない幸福だった。

それでも、第一土曜日の夜だけは、最初から少し違っていた。

それは結婚前から二人で決めていた約束で、カレンダーに書き込む必要もないほど身体に染み込んだ習慣だった。

仕事や世間や名前や役割を、いったん玄関に置いておく夜。二人が「好きな形」で、互いを見つめ直す時間。

その夜になると、一平はゆっくりと別の輪郭をまとう。

シリコンの皮膚は体温を受け取ると、ほんのわずかに柔らかさを増す。

鏡の前で整えたフィメールマスクの表情は、相変わらず静かで、過剰な感情を持たない。

だがその無表情こそが、一平にとっては安心だった。

麗子は、その姿を「アキ」と呼ぶ。

アキ、と声に出すとき、そこに説明や演技はない。ただ、名を与えるという行為だけがある。

一平がアキになるのではなく、アキがそこに現れる。

その違いを、麗子はずっと前から正確に理解していた。



一方の麗子も、同じように変わる。

ラバースーツは、彼女にとって仕事着とは真逆のものだった。

体を覆い隠し、しかし同時に、体の存在を最も強く意識させる装い。

光を吸い、反射し、呼吸のたびにわずかに音を立てる素材。

二人は、その姿で向かい合う。

触れる前に、まず見つめる。

見られること、見ること。

それだけで成立する沈黙が、確かにそこにあった。



だが、その静けさの裏側で、麗子の心は少しずつ擦れていた。

三年前、彼女は泌尿器科に転属した。

理由は単純で、人員配置の都合だった。

看護師としては珍しい話ではない。

内科、外科、回復期、そして泌尿器科。

異動はキャリアの一部で、選択というより流れに近い。

けれど、泌尿器科は、彼女にとって予想以上に負荷の大きい場所だった。

仕事として理解している。

排尿、前立腺、カテーテル、術後管理。

すべては身体の一部で、病として扱われるべきものだ。

看護師としての知識も、手技も、彼女は十分に備えている。

それでも、他人の男性の陰部を見るたび、胸の奥で小さな抵抗が起こる。

嫌悪というほど強いものではない。

恐怖でもない。

ただ、どうしても慣れきれない、薄い違和感。

患者の前では顔に出さない。

声も手つきも、いつも通りだ。

けれど夜、帰宅して手を洗うとき、指先に残る感覚が、ふいに蘇ることがある。

「早く異動にならないかな」

独り言のように、何度も口にした。

それは誰かを責める言葉ではなく、自分をなだめるための呪文に近かった。

皮肉なことに、麗子は「身体を肯定する人」だった。

ラバーを愛し、アキを美しいと思い、変わることを祝福してきた。

それなのに、仕事として向き合う男性の身体だけが、どうしても距離を要求してくる。



ーーーー第一土曜日の夜。

ラバーに包まれた麗子は、アキの肩に手を置く。

その触感は、仕事のどの瞬間とも違う。

そこには義務も評価もなく、ただ「選ばれた触れ方」だけがある。

麗子は、その違いをはっきりと自覚していた。

泌尿器科で見る身体と、ここにある身体。

同じ解剖学のはずなのに、意味がまるで違う。

アキの静かな横顔を見つめながら、麗子は思う。

自分は、身体そのものが苦手なのではない。

文脈を失った身体が、苦手なのだ、と。

その気づきが、まだ物語になる前の、小さな、しかし確かな種として、胸の奥に沈んでいた。

この夜は、まだ何も起こらない。

ただ、今後の世界が、ゆっくりと呼吸を始めるきっかけになることをまだ誰も知らない。
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