お兄様、闇堕ちしないって本当ですか!?

由原靜

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第一章 ロードライトの令嬢

61 わたしの帰る場所

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 深い、深い水の中を、どこまでも落ちていくような感覚だった。
 冷たくもなければ、苦しくもない。どちらかというと夏の日のプールのような、あの弾けるキラキラとした感じ。銀の細かな泡が、上に向かって舞い上がって行く。揺蕩う身体が心地よくて、わたしはそっと目を閉じると息を吐いた。

 ……気持ち良すぎて、寝ちゃいそう。

 ダメだ、ダメだ、眠っちゃダメだとは思うけど、なんで眠っちゃダメなのかは思い出せない。瞼がぐぐぐっと落ちるので、頑張って抗おうとするものの、眠気に思わず負けてしまう。

 ……ま、いっか。眠っちゃえ……。

「よくなーーーーい!!!!」

 その時、スパーーーッン!! とほっぺを思いっきり叩かれた。眠気が一瞬でパチンッと消えて、「ひゃぁんっ!?」と慌てて身を起こす。

「なに、何、だれっ!?」

「私よ、わ・た・し!」

「……なぁんだ、雪の女王か……」

 雪の女王なら、いいや。わたしは眠たいのだ。今すぐコテンと寝入ってしまいたい。

「何が『なぁんだ』よ、もうっ! よくも、この私を怒らせてくれたわねっ!」

「いっ!? いひぁいっ、いひゃい!」

 むぅっと頬を膨らませた雪の女王は、わたしの鼻をぐいっと強く摘んだ。わたしは思わず悲鳴を上げてのたうち回る。……遠慮のカケラもない摘み方だったよ。わたしの鼻、ちゃんと真ん中に付いてる? なんだか心配になってきた。

 涙目になって鼻を覆ったところで、ふと「ここ、どこ?」と辺りを見渡した。
 見慣れない場所だ。ロードライト本家城に少し似ているけれど、雰囲気が少し違う気がする。ただっ広い空間に、真っ白の石が壁にも柱にも使われている様子から、一番イメージにしっくりくるのは……神殿、だろうか? 
 どこもかしこもピカピカで、上からは暖かな陽射しがさんさんと降り注いでいる。床に敷かれた絨毯の上に、わたしはちょこんと座っていた。
 ……さっきまでの水はどこに行ったんだろう? 夢? 何が、どれが夢??

「……わたし、どうしてこんなところに……?」

 最後に何してたっけ、と、思った瞬間思い出した。
 ……そうだ。手術道具にわたしの許可を宿すための魔法を掛けて、それから――

「でもそれが、どうしてこんな綺麗なところにいることになるの!? もしかして、ここって死後の世界っ!?」

 なんと、うっかり旅立っちゃった!?

「死んでないわよ」と雪の女王は、わたしのほっぺをむいんとつねりながら言う。痛い痛い、分かったってば。

「リッカの場合は『まだ』って感じだけどね」

「……ここは、どこ?」

「生と死の狭間にある世界、かな。普通はね、誰もがこの場所を素通りして行くのよ」

「素通り?」

幽霊ゴーストだけが、ここに留まるの。……どちらにも行けずにね」

 立ち上がった雪の女王が先を指し示してくれたが、ぼんやり霞んでいてよく見えない。ふぅんと相槌だけ打って、それよりも、と身を乗り出した。

「まずい、まずいよっ! わたし、前の世界にちゃんと帰れます? それともダメだった?」

「もうちょっとのーんびり寝てたらダメだったと思うわよ? 起こしてあげた私に感謝なさい! ……そう言えば、あなた、私がせっかくあげたネックレスを使ったわね!?」

「ひゃうっ、ごめんなさいっ!!」

 雪の女王がキッと眉を吊り上げたので、わたしは慌てて謝罪した。しかし雪の女王は、すぐに「冗談よぉ。怒ってないわ」と言って笑う。

「あなたのお兄様が、あなたに生命力を分け与えるときに、私のネックレスを使ったでしょう? その縁で、私も、ここへあなたを起こしに来ることが出来たのよ」

「おぉぅ……」

 ただの思いつきだったのだけど、あのネックレス、めちゃくちゃいい働きしてくれてる。絶対幸運値EXだったよ。装備しといて良かったぁ。

「……起こしてくれて、ありがとうございます。でも、どうやって帰ればいいんですか?」

 そう尋ねると、雪の女王は「帰り道は向こうにあるわ」と視線を向けた。そこには何段も続く階段があって、わたしは思わず泣きそうになる。
 ……ここを、上っていけと。無理無理、絶対途中で倒れるよ。

 恨みがましい目で見つめていると、雪の女王が軽く指を鳴らした。その途端、階段は、エスカレーターのようにいきなり勝手に動き始める。ぎょっと目を瞠って雪の女王を見上げたわたしに、雪の女王は片目を瞑ってみせた。

「さぁさ、早く帰りなさい。大事な人たちが、あなたの帰りを待っているんでしょ?」

「……うん」

 雪の女王が、わたしの背中をそっと押す。ちょっとよろけたけど、転びはしなかった。階段までの道を、歩いていく。

「……本当に、行っちゃうの?」

 小さな、小さな、声だった。
 聞き逃してしまいそうな、空耳かと思ってしまうような小さな声に、それでもわたしは振り返る。

「ずっとここにいても、いいのよ」

 雪の女王は、少し、寂しそうな顔をしていた。

「これから先、生きていても、いいことなんてあんまりないよ」

 ――なんで、そんなことを、そんな顔で言うんだろう。

 すっごい美人で、魔法が上手で、死後も『建国の英雄』として讃えられていて、五百年経った今も尚、その子孫であるロードライトは国内随一の家系として君臨していて――それなのに。

(……どうして、雪の女王は幽霊になって現世に留まっているんだろう)

 雪の女王にとっての大事な人、会いたい人は、みんなあの世にいるんじゃないの?

(会いたい人に会えないのは、どれだけ辛く、苦しいんだろう――)

 拳を、ぎゅっと握りしめた。

「……いいことがなくても、それでもわたしは、みんなといたいよ」

 ……ごめんね、雪の女王。
 それでも、わたしの大事な人たちは、今のこの世で生きている。

「幽霊になって、お兄様を見守るっていうのも、素敵で捨て難い案だけど……でも、幽霊になっちゃったら、お兄様と一緒にピクニックが出来なくなっちゃうから」

「……えぇ、そうね」

 雪の女王は、にっこりと笑った。
 涙のひとひらさえも伺えない、とても綺麗で、完璧な笑顔だった。

「ほぅら、リッカ! 早く行かないと、本当に幽霊になっちゃうわよ? もう、次は迎えに来てあげないんだからね! 勝手に迷子におなりなさい!」

「行くよ、行くって……あ、あの、雪の女王! 一つ、お願いがあるんです!」

 身を翻そうとした雪の女王に、慌てて声を掛けた。「なぁに?」ときょとんと目を瞬かせる雪の女王に、わたしは言う。

「良かったら、でいいんだけど……でも、お願いします。……わたしが元気になったら、その時に――」


 ◇ ◆ ◇


 ぼんやりとした意識が、辺りの物音でゆらり、ゆらりと覚醒する。
 まぶたを開けようと頑張るものの、思考はうまくまとまらない。なんでまぶたを開けたかったのかも分からなくなって、諦めて、ふっと意識がまた落ちる。
 耳元で、一定間隔で鳴り続けている機械音は、普段なら眠りを妨げられてだいぶ不快になりそうなものなのに、何故か今だけは、その音を聞いていると安心できた。

 ……なんだか、長い夢を見ていたみたい。

「リッカさん、リッカさん、聞こえますか?」

 それから数度、ふわふわと意識の合間を彷徨った頃には、頭の中もだいぶすっきりとしていた。誰かの呼び声に、わたしはゆっくりとまぶたを開ける。

 わたしの顔を覗き込んでいた看護師さんは、わたしと目が合うとニコッと笑った。

「手術は無事終わりましたよ」

「…………」

 ありがとうございます、と言おうとしたものの、口には酸素吸入のチューブのようなものが取り付けられていて、上手く話せない。恐らくは顔自体もがっちり固定されているのだろう、そんな感覚がある。
 まぶたをパチパチとさせることで意思表示をすると、看護師さんは優しくわたしの頭を撫でた。

「よく頑張りましたね」

 ……まぁ、わたしは寝てただけだけどね。
 頑張ったのはお医者さんたちだ。「無事終わった」ってことは、わたしの魔力が暴れ出すことは無かったってこと、かな。ひとまず、ほっと一安心。

 術後の経過は順調ということで、わたしは翌朝、ICUを出ことが許された。戻ってきた病室で、やっと会うことができた兄たちと再会の挨拶を交わす。

 兄たちの元にも『わたしの手術が無事終わった』という一報は届いていたようなのだが、それでもわたしの顔を見るまでは、不安でたまらないと言った表情をしていた。わたしを見て一瞬晴れたその顔は、やがてわたしが乗せられているストレッチャーと、わたしに繋がれている大量の器具を見てすぐさま曇る。

「大丈夫ですよ、お兄様」

「……今度の『大丈夫』は、本当に信じていいんだろうな?」

 未だ疑わしげの兄に、思わず苦笑した。相変わらず信用されていないようだ。わたしと共に病室へとやって来たアルファルドさんが、取りなすように口を開く。

「経過もすこぶる順調です。早速今日から起き上がる訓練も始めますよ」

「手術を終えた翌日なのに!?」

 ぎょっと目を向く皆に「だから、言ったでしょう? 大丈夫ですって」と胸を張った。途端、兄から軽くほっぺをつねられる。いひゃいいひゃい。

「様子を見ながらになりますが、合併症なども起きてはいないようですし、何よりリッカ嬢自身に意欲がある。こういう子は、早く元気になりますよ」

「ええ! わたし、元気になりたいですから!」

 手首には点滴の針が刺さって動かないものの、なんとかその場でぐっと手を握りしめて意欲を示す。
 せっかく問題が取り除かれたのだから、後は体力と筋肉を付けるだけだ。いい加減、この薄っぺらでへにゃへにゃな身体には飽きてきた。せめて声くらいはまともに出せるようになりたい。この腹筋じゃ、歌おうにも間違いなく息が続かないのだから。

「……それよりも」

 と、わたしはずずいっと周囲を見渡した。兄、セラ、シリウス様、それぞれとしっかり目を合わせると、あからさまにため息をついてみせる。

「皆さま方、帰ってきたわたしに、何か言うことはないんですか? 寂しいなぁ」

 三人は軽く目を瞠ると、それぞれクスッと微笑んだ。

「おかえり、リッカ。よく頑張ったな」
「おかえりなさい、お嬢様。心配しておりましたよ」
「おかえり! 早く元気になろうな、リッカ!」

「うふふっ! ただいま、みんな!」
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