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第4話
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「鬼島さん、昨日はすみませんでした」
通勤途中、義文のスマートフォンが震える。他者に見られることがないハヤトからのダイレクトメッセージだ。
「ボク、昔から悪ノリする癖があって」
義文はすぐに返事を打とうとするが、揺れる車内で思うようにいかない。
「ボク、いや、俺は学生時代うまくやっていたんですよ。それが今の会社に入ってボロボロに言われて、自信をなくして。せめてネットでは目立とうと思っちゃって」
「ハヤトさん」
義文は次々に流れてくる文字列に相手を呼ぶことしかできない。
「Kさんとスイさんには完全に嫌われてしまっただろうし、グループのほうは抜けます。最後に、あなたを貶すつもりは少しもありませんでした。ごめんなさい」
「ハヤトさ——」
義文は再び相手を呼ぼうとしたが、それは届くことなく、虚構へと吸い込まれていく。そして「このユーザーにはメッセージを送ることができません」と画面が無慈悲に告げていた。
水谷 隼人は駅近くの施設で柱を背に黄昏ていた。
「俺、最高にダセエよな……」
自らの行いを悔いる隼人。
あの場所は荒れた現代のオアシスだったはずだ。多少ふざけても許してくれる友人たち。だが、昨夜の彼は甘えるがあまり、無作法に一線を越えてしまった。
彼としては身を引くことでけじめはつけたつもりだが、後悔だけが降り積もっていく。
「仕事も辞めちまおうかな。なんて」
隼人は俯いてついそのようなことを口走る。
「あの、すみません」
次の瞬間、隼人の背後から忘れかけていた初春の風が吹き抜ける。柔らかさの中にひやりとした風を孕む懐かしい声色。
彼がはっとして顔を上げると、そこには一人の少女が憮然とした表情で立っていた。いや、背丈こそ低いが、その表情はもう一人の女性として扱うよう物語っている。
だが、痩躯でカジュアルな出で立ちとその顔立ちからか、隼人に動揺をもたらす。
「道路使用許可証です。そこ、わたしの場所なので動いてもらってもいいです?」
「あ、ああ」
その少女は隼人が自分に見惚れているとは露知らず、書状と大きな黒のハードケースで彼を押しのけた。
そうして少女のような女性はふう、と息を押し出す。
「……何を見てるんです?」
ジロジロと、無遠慮な視線を送る隼人を女性は訝しんだ。
「あ、いや。この辺りでは見ない顔だなって」
彼は咄嗟に嘘をつく。
ここ東京は個性が際立ち、また埋没する日本の都。どこを見渡しても人、ヒト、ひと。一人一人を記憶している余裕など持っている人間のほうが稀である。
「普段は上野のほうに通っていますので。ここへは高校の時以来でしょうか」
女性はケースから鈍く光るアコースティックギターを優しい手付きで取り出した。そして思い出に浸るかのようにボディを二、三度撫でる。
そしてストラップを身体に通し、ピンと張られた弦を滑るように弾いた。それは雑踏の中でもかなり響くほどの音量ではあったが、それで歩みを止める者は誰一人とていない。
女性はそれでも快調な相棒に満足そうに微笑み「お兄さんも良かったら聞いていってください」と淡桜色のピックを手にギターを弾いていく。
音楽は聞くのが専門だった隼人に彼女がどれほどの技量かは計り知れない。ただ、巧かった。
次に小さな身体からは想像のできないほどの声量に圧倒され、隼人と話していた時とは違う、温かみに溢れる声色が荒れていた彼の心に広く染み渡った。
それは通勤路を急ぐ人々にも伝わったのか、立ち止まる者は存在しなかったが、皆が皆、春が訪れたあの日を思い出した。
「君は――」
隼人が演奏を終えた女性に声をかけようとした瞬間。
「おおい、水谷―!」
遠くから腹を震わせる低い声が響いた。
「あ、木島さん。いけね、こんな時間だ」
スマートフォンで時間を確認した隼人が弾き語りの女性に軽く頭を下げると木島の元に駆け寄った。
どこか楽しそうに立ち去る二人を見、女性は柔らかい笑みを浮かべて「そっか、あなたも居場所を見つけたんだね」と呟いた。
そして慌ただしさの片隅で彼女は歌い続ける。
色彩豊かな希望に溢れる歌を。
いのりと瑞季は食事が美味いと評判の居酒屋で吞んでいた。
「この前のアレさ、スイはどう思う?」
酔っているのか、胸元を大きくはだけたいのりが問う。彼女は皿が乱雑に並べられた机からロックグラスを摘まみ取り、カランカランと小気味の良い音を奏でている。
「ハヤトさんの件ですか。あれはどう考えても彼が悪いと思います」
瑞希は憮然とした様子で炭酸の抜けた「とりあえず生」をグイッと飲み干し、顔を赤くして返す。
「そうよねえ。ま、同じ考えで口に出さなかっただけのあたしも同類だけど」
「いのりさんは悪くないです!」
いのりは煌びやかな時代を氷の中に夢想し「そうは言ってくれるけどね」と高濃度アルコールで喉を焼いて口を開く。
「あれ以来、空気が気まずくなって鬼島さんの発言を最後にチャットは止まってる。まあ、何か言えた雰囲気じゃないしね。このまま解散かな」
言葉とは裏腹に、いのりの表情には影一つ見えない。
「でも、折角仲良くなれたのに……」
「もうどうこう言えないでしょアレは」
空のジョッキを手にしたまま消沈する瑞季。彼女の狭い肩を平手でポンポンと叩き「ま、もう忘れてさぁ」と笑ってみせるいのり。
「二人で新しい出会いでも探そうよ。かわりの人なんて沢山居るわけだし」
悪びれない様子のいのりを瑞季は目を細めて見つめる。
「……いのりさんは、一度うまくいかなかったからと鬼島さんやハヤトさんを見捨てるんですか」
感情を押し殺した瑞季の声。
「他人なんてさ」
それを察してか、察せずにいたのか。いのりは自らの内に溜まったものを撒き散らすかのように口早に語る。
「この日本で一億以上。ここ東京だけでも一千万も居るんだよ。少しでも合わなかったらサヨナラ。それでいいじゃない」
「ちょっといのりさんのこと、見損ないました。そんなことを言う人だったなんて」
瑞希は視線を落とし、手をぎゅっと握りしめる。その顔には明らかに落胆の色が見えた。
いのりはそんな彼女を前にしても冷静なままアルコールで喉を洗い「怒った? でもね」と言葉を続ける。
「今言ったことは本心よ。いい、スイ。あんたはまだ若いから分からないと思うけど、人生ってのは取捨選択の連続なの。何を残し、何を捨てるのか――」
いのりは怒れる瑞季のなかに、かつての自分を見ていた。
夢を追って上京した彼女。
長かった下積み時代。
栄光と挫折、裏切り……そして人間不信。
信じたから傷付いた。
信じていたから裏切られた。
いのりは瑞季にそういう思いをしてほしくはない。その一心で鈍る声帯に酒を絡ませ、老婆心に任せて発言をする。
「……だったら」
俯いていた瑞季が熱にうなされているような顔でいのりを静かに睨みつけた。
「私がいのりさんを『切る』と言ったら、どうしますか」
「スイはそんなことは言わない。いいえ、言えない。だって、あたしたちはお互いに必要としているじゃない?」
瑞希の目の前には歳を積み重ねて擦れた大人が座っていた。青々しい彼女からすれば魔女ともいえる様相で。
「……」
瑞希は押し黙るほかなかった。
会社に居場所はない。
高校・専門学校時代の友人たちはそれぞれ多忙そうで禄に連絡が取れない。
そんな飯野 瑞希の居場所はインターネットだけだった。文字と、声だけのやり取りだけがそこに居る理由だった。
その中でもいのりの存在は大きい。
年上で余裕があって、何でも相談に乗ってくれる頼れる姉貴分。
「ね? あたしたちは繋がってしまった。一旦繋がった縁は中々解けないのよ」
いのりは薄まったロックグラスの中身を飲み干し、結露したそれを机へ静かに置く。
「二人は。他の二人は……」
「何度も言わせないで。男なんて消耗品。放っておいても次から次に湧いて出てくるから」
いのりは静かに、だが極めて強い言葉で言い放つ。
暫しの静寂。
他の客たちの楽しそうな笑い声の中、いのりは瑞季を見つめ、瑞季はその視線から逃れるように俯いていた。
「……しばらく時間をください。いのりさんが私の友人として相応しいか」
「あなたは戻ってくる。絶対にね」
いのりは伏せられた伝票を取り、立ち上がると瑞季に振り返ることなく、店から去って行った。
「私は……」
活気溢れる店内で、瑞季だけが下を向いていた。
通勤途中、義文のスマートフォンが震える。他者に見られることがないハヤトからのダイレクトメッセージだ。
「ボク、昔から悪ノリする癖があって」
義文はすぐに返事を打とうとするが、揺れる車内で思うようにいかない。
「ボク、いや、俺は学生時代うまくやっていたんですよ。それが今の会社に入ってボロボロに言われて、自信をなくして。せめてネットでは目立とうと思っちゃって」
「ハヤトさん」
義文は次々に流れてくる文字列に相手を呼ぶことしかできない。
「Kさんとスイさんには完全に嫌われてしまっただろうし、グループのほうは抜けます。最後に、あなたを貶すつもりは少しもありませんでした。ごめんなさい」
「ハヤトさ——」
義文は再び相手を呼ぼうとしたが、それは届くことなく、虚構へと吸い込まれていく。そして「このユーザーにはメッセージを送ることができません」と画面が無慈悲に告げていた。
水谷 隼人は駅近くの施設で柱を背に黄昏ていた。
「俺、最高にダセエよな……」
自らの行いを悔いる隼人。
あの場所は荒れた現代のオアシスだったはずだ。多少ふざけても許してくれる友人たち。だが、昨夜の彼は甘えるがあまり、無作法に一線を越えてしまった。
彼としては身を引くことでけじめはつけたつもりだが、後悔だけが降り積もっていく。
「仕事も辞めちまおうかな。なんて」
隼人は俯いてついそのようなことを口走る。
「あの、すみません」
次の瞬間、隼人の背後から忘れかけていた初春の風が吹き抜ける。柔らかさの中にひやりとした風を孕む懐かしい声色。
彼がはっとして顔を上げると、そこには一人の少女が憮然とした表情で立っていた。いや、背丈こそ低いが、その表情はもう一人の女性として扱うよう物語っている。
だが、痩躯でカジュアルな出で立ちとその顔立ちからか、隼人に動揺をもたらす。
「道路使用許可証です。そこ、わたしの場所なので動いてもらってもいいです?」
「あ、ああ」
その少女は隼人が自分に見惚れているとは露知らず、書状と大きな黒のハードケースで彼を押しのけた。
そうして少女のような女性はふう、と息を押し出す。
「……何を見てるんです?」
ジロジロと、無遠慮な視線を送る隼人を女性は訝しんだ。
「あ、いや。この辺りでは見ない顔だなって」
彼は咄嗟に嘘をつく。
ここ東京は個性が際立ち、また埋没する日本の都。どこを見渡しても人、ヒト、ひと。一人一人を記憶している余裕など持っている人間のほうが稀である。
「普段は上野のほうに通っていますので。ここへは高校の時以来でしょうか」
女性はケースから鈍く光るアコースティックギターを優しい手付きで取り出した。そして思い出に浸るかのようにボディを二、三度撫でる。
そしてストラップを身体に通し、ピンと張られた弦を滑るように弾いた。それは雑踏の中でもかなり響くほどの音量ではあったが、それで歩みを止める者は誰一人とていない。
女性はそれでも快調な相棒に満足そうに微笑み「お兄さんも良かったら聞いていってください」と淡桜色のピックを手にギターを弾いていく。
音楽は聞くのが専門だった隼人に彼女がどれほどの技量かは計り知れない。ただ、巧かった。
次に小さな身体からは想像のできないほどの声量に圧倒され、隼人と話していた時とは違う、温かみに溢れる声色が荒れていた彼の心に広く染み渡った。
それは通勤路を急ぐ人々にも伝わったのか、立ち止まる者は存在しなかったが、皆が皆、春が訪れたあの日を思い出した。
「君は――」
隼人が演奏を終えた女性に声をかけようとした瞬間。
「おおい、水谷―!」
遠くから腹を震わせる低い声が響いた。
「あ、木島さん。いけね、こんな時間だ」
スマートフォンで時間を確認した隼人が弾き語りの女性に軽く頭を下げると木島の元に駆け寄った。
どこか楽しそうに立ち去る二人を見、女性は柔らかい笑みを浮かべて「そっか、あなたも居場所を見つけたんだね」と呟いた。
そして慌ただしさの片隅で彼女は歌い続ける。
色彩豊かな希望に溢れる歌を。
いのりと瑞季は食事が美味いと評判の居酒屋で吞んでいた。
「この前のアレさ、スイはどう思う?」
酔っているのか、胸元を大きくはだけたいのりが問う。彼女は皿が乱雑に並べられた机からロックグラスを摘まみ取り、カランカランと小気味の良い音を奏でている。
「ハヤトさんの件ですか。あれはどう考えても彼が悪いと思います」
瑞希は憮然とした様子で炭酸の抜けた「とりあえず生」をグイッと飲み干し、顔を赤くして返す。
「そうよねえ。ま、同じ考えで口に出さなかっただけのあたしも同類だけど」
「いのりさんは悪くないです!」
いのりは煌びやかな時代を氷の中に夢想し「そうは言ってくれるけどね」と高濃度アルコールで喉を焼いて口を開く。
「あれ以来、空気が気まずくなって鬼島さんの発言を最後にチャットは止まってる。まあ、何か言えた雰囲気じゃないしね。このまま解散かな」
言葉とは裏腹に、いのりの表情には影一つ見えない。
「でも、折角仲良くなれたのに……」
「もうどうこう言えないでしょアレは」
空のジョッキを手にしたまま消沈する瑞季。彼女の狭い肩を平手でポンポンと叩き「ま、もう忘れてさぁ」と笑ってみせるいのり。
「二人で新しい出会いでも探そうよ。かわりの人なんて沢山居るわけだし」
悪びれない様子のいのりを瑞季は目を細めて見つめる。
「……いのりさんは、一度うまくいかなかったからと鬼島さんやハヤトさんを見捨てるんですか」
感情を押し殺した瑞季の声。
「他人なんてさ」
それを察してか、察せずにいたのか。いのりは自らの内に溜まったものを撒き散らすかのように口早に語る。
「この日本で一億以上。ここ東京だけでも一千万も居るんだよ。少しでも合わなかったらサヨナラ。それでいいじゃない」
「ちょっといのりさんのこと、見損ないました。そんなことを言う人だったなんて」
瑞希は視線を落とし、手をぎゅっと握りしめる。その顔には明らかに落胆の色が見えた。
いのりはそんな彼女を前にしても冷静なままアルコールで喉を洗い「怒った? でもね」と言葉を続ける。
「今言ったことは本心よ。いい、スイ。あんたはまだ若いから分からないと思うけど、人生ってのは取捨選択の連続なの。何を残し、何を捨てるのか――」
いのりは怒れる瑞季のなかに、かつての自分を見ていた。
夢を追って上京した彼女。
長かった下積み時代。
栄光と挫折、裏切り……そして人間不信。
信じたから傷付いた。
信じていたから裏切られた。
いのりは瑞季にそういう思いをしてほしくはない。その一心で鈍る声帯に酒を絡ませ、老婆心に任せて発言をする。
「……だったら」
俯いていた瑞季が熱にうなされているような顔でいのりを静かに睨みつけた。
「私がいのりさんを『切る』と言ったら、どうしますか」
「スイはそんなことは言わない。いいえ、言えない。だって、あたしたちはお互いに必要としているじゃない?」
瑞希の目の前には歳を積み重ねて擦れた大人が座っていた。青々しい彼女からすれば魔女ともいえる様相で。
「……」
瑞希は押し黙るほかなかった。
会社に居場所はない。
高校・専門学校時代の友人たちはそれぞれ多忙そうで禄に連絡が取れない。
そんな飯野 瑞希の居場所はインターネットだけだった。文字と、声だけのやり取りだけがそこに居る理由だった。
その中でもいのりの存在は大きい。
年上で余裕があって、何でも相談に乗ってくれる頼れる姉貴分。
「ね? あたしたちは繋がってしまった。一旦繋がった縁は中々解けないのよ」
いのりは薄まったロックグラスの中身を飲み干し、結露したそれを机へ静かに置く。
「二人は。他の二人は……」
「何度も言わせないで。男なんて消耗品。放っておいても次から次に湧いて出てくるから」
いのりは静かに、だが極めて強い言葉で言い放つ。
暫しの静寂。
他の客たちの楽しそうな笑い声の中、いのりは瑞季を見つめ、瑞季はその視線から逃れるように俯いていた。
「……しばらく時間をください。いのりさんが私の友人として相応しいか」
「あなたは戻ってくる。絶対にね」
いのりは伏せられた伝票を取り、立ち上がると瑞季に振り返ることなく、店から去って行った。
「私は……」
活気溢れる店内で、瑞季だけが下を向いていた。
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